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2005年04月 アーカイブ

2005年04月01日

落語・ここにも一合残ってら

■ことば遊び。
韓国に行って、二言か三言しか韓国語が話せなくても、「はんぐんまる ちゃるはしねよ」(韓国語お上手ですね)と言われます。

「はんぐんまる ちゃるはしねよ」
「はんぐんまる」は日本語で”ハングル語”。
「ちゃるはしねよ」は”お上手ですね”。 ”韓国語お上手ですね”となる。
「ちゃるはしねよ」は、”上手に入れが、箸ね”と覚える。
「うりまる ちゃるはしねよ」も同じ言い方。
「うり」は”我(われ)”、「まる」は”言葉、○○語”。
「うりまる」”我々の言葉”となる。

頭に「より」”料理”をくっ付けて、「より ちゃるはしねよ」” 料理がお上手ですね”。
「のれ」”歌”が付くと、「のれ ちゃるはしねよ」” 歌がお上手ですね”など、
いろいろ使える。 尚、韓国で”日本語お上手ですね”と韓国人に言うときは、
いるぽんまる ちゃるはしねよ」。”居るよ、日本丸”と覚える。

韓国には、日本語の上手な人が沢山います。ところが、日本で韓国語を話せる人
は少ない。それで、珍しがられるだけでなく、声をかけた途端に親切になって、
仲良くなってくれます。同じ文化圏なのに、これほど言葉が通じない隣国同士も、
世界では珍しい。

吉村外喜雄のなんだかんだ 第73号
~ことば遊び~
「ここにも一合残ってら!」

今日はちょっと息抜きに、落語の下ネタ話を一つ…

「酒を飲んで上がるものは血圧。ところで、飲めば下がるものナーニ」と、なぞなぞ? 飲めば下がるものとは、 言わずと知れた酒席の話題。飲むにつれ、出るとはなしに、アッチの話が飛び出してくる。
このたぐいの下ネタを、落語では「艶笑落語」と称している。
寄席では聞けない、おなじみさんだけに語って聞かせる、艶話である。

私が日立に勤めていた頃、日立チェーンストールのお客様招待会で、東京から演劇一座がやってきた。 受け入れ側スタッフとして、一ケ月ほど一座に同行したことがある。鶴来の体育館、根上の公民館と、県内をドサ廻り。 マン幕を張ったり、ゴザを敷いたりするのが私の仕事でした。

その一座に、真打になったばかりの「三遊亭歌奴(三遊亭園歌)」がいた。ご存知「山の穴々」 の出し物が大受けしていた。高座が引けて楽屋でくつろいでいるとき、お手伝いしている私達へのサービスだと、 下ネタ艶笑落語を披露してくれた。

「風呂の中でオナラをしたら、鼻のまん前にブクブクパッチン…。男のオナラは…、女は…」と、 顔を見ているだけでフキ出しそうな歌奴の熱演に、腹を抱えて笑ったものです。 
で、とって置きの「艶笑落語」の小話を一席。「こんな下ネタを流すなんて不謹慎」と思われる向きには、 これから先は読まないほうがよろしいようで…。

「おい、酒を出せ」
『おまえさんねえ、酒なんかありゃしないよ』
「買ってこいよ!」
『お金がないんだよォ』
「金がなきゃ、何か質に入れてこさえろやい」
『質に入れるったって、タンスはからっぽだよ』
「からっぽだっていったって、そこを何とかするのが世話女房じゃねぇか。何とかしろ!」
『しょうがないねえ、おまえさんは、言い出すと後へ引かないんだから…。
  じゃ、ちょっと待ってておくれ』
てんで、おかみさん、裏口から出て行くと、一升ぶらさげてアネさんかぶりをして帰ってきた。
「それみやがれ、何とかすりゃ、何とかなるじゃねえか」
『おまえさんねえ、この一升飲んだら、あしたっから仕事をしておくれよ。
もう何にも売るもんはないんだから』
「ないんだからって、おめえ…、なにを売ってきた?」
『おまえさん、これだよ』と、アネさんかぶりを取るとザンギリ頭。
「なんだい、おめえ、その頭は…。すまねえ、おめえの髪の毛まで売らせちゃって…。よし!おれは、あしたっから働くから…」

なァんてんで、すっかり仲よくなっちまって、二人で床に入って、亭主の手がスーッとすべっていったかと思うと、 「おッ!おめえ、ここにも一合残ってら!」
『 …… 』

2005年04月05日

過去は変えられる(4)

幸せな人生は、ひたすら目標を叶えようと努力した人だけに与えられる。
1940年から1980年の40年間に渡って、ハーバード大学において、
1940年当時、同じ生活環境の人達を対象に、その後の人生を追跡した。

40年後の調査では、やっと生活している人が約80%、
普通に生活している人約20%、豊かな人生を送っている人は3%でした。
そして何とその3%の人は、残り97%の人の収入のすべてを合計しても、
更に三倍を上回る収入を得ていたという。

やっと食べている人は、40年間漫然と日々を過ごした。
普通に生活している人は、一応目標はあった。
豊かな生活をしている人は、「目標を見えるところに貼って、やり続けた」

これを学んだのは、私がノエビアを始めた頃。当時、ノエビアの社長が
全国の代理店育成に飛び回っていた。その時の研修から学んだものです。
その後しばらく、自社の研修でも使われていた。

【心と体の健康情報 - 188】
~幸せな人生を歩むために~
「過去は変えられる(4)」

土屋ホームの創業社長であり、土屋経営の土屋公三社長は、自社の社員教育で実践してきた 「3KM」「千分の一の向上運動」を、広く経営する人たちに提唱して、中小企業の育成・指導を行ってきた。

「小さな持続が人生にとっていかに大きな力となり、人生を変えていくか…」。昨日の自分より今日の自分を、 千分の一だけ向上させようという、自己啓発運動です。

「昨日の自分より、千分の一、ほんのちょっとだけつま先を上げて、背伸びする。たったそれだけの努力を毎日続ける。 それを三年、五年と続けたら、びっくりするほど成長しますよ!」と教えられた。それがメルマガを始める動機にもなっている。

■千分の一の向上運動
(1) 昨日の自分より、 今日の自分を千分の一だけ向上させます。

(2) 一年365日のうち、三日坊主で二割のロスを見て、
   300日だけ向上したと します。
(3) 一年間で 「千分の一 × 300日」=三割アップ
   十年で三割のロスを見ても       10倍
   二十年で                 100倍
   三十年で               1,000倍
   四十年で              10,000倍

せっかく目標を立ててやり始めても、三日坊主に終わってしまうという経験は誰にでもあります。 「やっぱり自分には無理だ」とあきらめたりせず、「三日坊主もOK」と、気持ちを楽に持って、また続けるようにします。
そんなことを何度も繰り返して、一年で三割、十年続ければ十倍、二十年で百倍、三十年で三千倍、四十年続けると、 何と一万倍にもなるのです。

以下、小野晋也「日本人の使命」からの抜粋です。

一日1%の成長を、もし複利で数学的計算をしたら、1.01の三百六十五乗。 もし、今日が100だとしたら、一年後には、三十七倍の3,700くらいになります。 二年経つと千倍以上になるのです。
これは、1%成長するということが、具体的に何かということではありません。
「人間的に成長する。人格的に成長する」、こういうことは数字で表せるものではありません。
しかし、毎日1%の成長を心掛けていれば、人間というものは、どこまでも大きく成長していくものです。

■トイレ掃除三十年の、 イエローハット鍵山秀三郎氏が好んで使う中国の教え。
  誰もが、やれば出来る簡単なことであっても、やり続けることによって…

  十年 偉大なり
 二十年 恐るべし
 三十年 歴史になる
 五十年 神のごとし

毎日ほんのわずか、千分の一だけ背伸びをする。これは、誰でも簡単に出来ることです。毎日千分の一という、 ほんの少しの自己啓発の継続が、人生を大きく変えていくのです。
■宮本武蔵は剣の修行で…
「千日の訓練を” 鍛”といい、万日の訓練を”練”という」と語っている。
万日とは三十年、生涯修行ということでしょう。このように、絶え間のない持続によって目標が達成されるようになり、 幸せな人生を手にすることができるのです

2005年04月08日

調和を尊重する社会

春闘の季節。といっても今から四十年も前のお話。毎年四月に決まったように賃上げ闘争のストライキがあり、国鉄や私鉄が止まった。
地元の企業に労働組合が出来ると、上部組織からオルグが送り込まれ、経営者と対峙。赤旗を振ってストライキを敢行した。

当時、金沢で一番の呉服店。毎年の賃上げ闘争に何とかしようと、東京から経営コンサルタントを招いて、 当時はまだ珍しかった衣料品の大型量販店を、福井市、敦賀市などに積極展開した。
ところが、コンサルタントの言うがままの拡大方針が災いして、数年も持たずに倒産してしまった。責任はすべて方針を誤った経営者にある。が、 その引き金になったのは、毎年賃上げを迫った過激な労働組合。

闘争に加担した上部組織、経営危機に陥った会社を救うわけでなく、組合幹部は、自分達の権利を要求するばかり。倒産によって、 生活基盤を奪われた社員さんは可哀そう。組合幹部の使命・役割は、社員の幸せのための組合活動のはず…。
会社がなくなってしまえばそれまでである。

 



【吉村外喜雄のなんだかんだ 第74号】
~日本人のアイデンティティ~
「調和を尊重する社会」

この六月の法律制定で、ブラックバスの輸入と飼育が禁止されることになった。
今回の規制に猛反対なのが、釣り人口三百万人、市場規模一千億円の釣具メーカーや小売店。一方の規制推進派は、湖沼などで漁業を営む全国の漁民。

双方に国会議員が後ろ盾となって、反対、賛成運動を展開。環境省内では、今回の規制対象からブラックバスを外し、決定を半年間先送りするという妥協案を国会に提出し、双方の顔を立てようとした。
ところが小池環境相は、このような官僚主導のやり方に異を唱え、「ブラックバスを規制に加えるように!」 との政治的判断を下した。省内は大騒ぎとなった。
昨年の十二月の話である。

十年ほど前、「ファジー」という言葉が流行った。結論が出せず困っているとき、とことん争って、白黒を決したりするようなことはせず、右でも左でもない、ほどよい「中間」のところで丸く治めようとする。
日本人の知恵である。

今、竹島の領有権が騒がれている。韓国は西欧的。たとえ日本との関係が悪化しようとも、はっきり自国の利益を優先し、主張すべきところははっきり主張する。外交とは、本来そういうものであろう…。
日本政府はといえば、「波風を立てないように…」と,日本の権利主張はあいまいのまま。あくまで調和を優先し、相手国へ気配りを優先する。きわめて日本的で、外交下手に見える…。

以下は、小野晋也「日本人の使命」からの抜粋です。

戦後になって、西欧社会の考え方、哲学がいろいろ日本に持ち込まれたが、その弊害の一つに、「勝敗」をはっきりさせようとすることがある。東洋社会の哲学は、相対するものの是非・善悪を、 高い次元で見定めて、事を丸く収めることを由とする。

例を挙げれば、資本家と労働者の対立がある。この二つの立場は、 全く合い反する立場として日本に入ってきた。戦後の歴史において、両者は常に闘争の対象となり、 激しく争ってきた。
日本の社会が成熟してくるにつれ、お互い対立し、相手を打ち負かして勝利を勝ち取ろうとするよりも、 お互いに調和しながら、双方育み合う関係にした方が、良い結果が得られることに気づいたのです。

対立してストライキをして、力ずくでどちらかをねじ伏せるようなことをやり続け、 対立の上に互いが血を流し合ってきた歴史から、お互いが譲り合い、認め合いながら、 話し合いを続ける中から調和し、前進していこうとする、日本人に古来から受け継がれてきた、 和の精神が戻ってきたのです。

このことを学んだのは十年前のある研修。相手を打ち負かすことによって勝ちを手に入れるのではなく、相手も勝つ、 そして自分も勝つ。「共に勝つ」ためには、一歩引くことが大事。そうやって、 双方争わずして互いに目的を達成する道が拓けることを知った。
私が所属する経営者団体が掲げる理念に、「共に栄える」がある。
お客様、仕入先、社員さん、いずれも”三方良し”の共存共栄の精神を旨とする。
それ以前の私の商いに対する考え方は、「勝者か敗者のいずれか」という見方が多分にあった。目から鱗だった。

2005年04月12日

日本人として知らなければならないこと

ユダヤ人を百五十万人もガス室へ送り込んだナチス・ドイツ。この一月下旬、
ポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所解放六十年を記念して、イスラエル
の首相、フランスのシュラク、ロシアのプーチン大統領ら、約四十カ国の首脳と
関係者が集まって、記念式典が行われた。

その数ヶ月前、あの忌まわしい戦争とナチズムの狂気が風化しつつある事件が
起った。英国のヘンリー王子が、ナチスの制服姿で仮装パーティーに出て、問題
になったのです。
つい最近再婚した、父のチャールズ皇太子は怒り心頭。息子にアウシュビッツ
訪問を命じたという。ところが、英国の世論調査では、「アウシュビッツ」を知ら
ないと答えた若者が半数に及ぶという。

【心と体の健康情報 - 190】
~幸せな人生を歩むために~
「日本人として知らねばならないこと」

先週の土曜日、「3KM研修」の二回目があった。 「三歳の頃の思い出を隣同士
で語り合ってください」と、講師の先生…。私の三歳は昭和19年、太平洋戦争
の真っ只中。その頃のことが、走馬灯のようによみがえってくる。

元、松下政経塾副塾長、現「志ネットワーク」の”上甲 晃”氏は、戦前生まれ
の人達に比べ、今に生きる人たちは「三つのことを知らない」と言っている。

第一に 「貧乏を知らない」
私(吉村)は、 戦後の何もかもが貧しかった時代、兄弟、祖母、満州から引き
揚げてきた叔父家族、合わせて13人が一つ屋根の下で生活した。 生活は
貧しく、昭和29年、十三歳の頃まで、朝ご飯は芋がゆ、おやつも芋だった。

兄のお下がりを着て育った私は、モノを捨てることができない。古くなくなった
上下のスーツ、大事にしまってある。お魚などは、身一つ残さずきれいに食べ
る。JRでお弁当を買って食べるとき、端から米粒を一粒ひと粒、きれいに掃除
しながら食べる。貧しかった頃の習慣がしみ付いている。
「勿体ない世代」である。

今に生きる若者たち、貧乏を知らない。生まれながらに豊かで、豊かな暮しが
当たり前。にもかかわらず自殺者が多いのは、何故だろう。

第二に 「戦争を知らない」
私(吉村)は昭和十六年生まれ。 あの戦時中の、映画のシーンなどに出てくる
生活を、詳細に記憶している。
隣の家の軒先には、いつも数人の兵隊さんが村田銃を抱えて座っていた。
ガラス窓は目張りし、茶の間の電灯を風呂敷で覆い、店の中に防空壕を掘っ
たことなど、沢山記憶している。

夜、空襲警報が鳴り、B29が不気味な音を響かせ飛んでいった。疎開先で見
た富山の空襲。焼夷弾が落とされるたびに、医王山の彼方がボコン、ボコンと
真っ赤に燃えた。まだ四歳、打ち上げ花火のようだったことを覚えている。

今に生きる私達は戦争を知らない。日本がアメリカと戦争したことも、長崎に
原爆が落とされたことも知らない。そんな若者が増えてきている。日本の歴史
を振り返って、今ほど豊かで平和な時代はない。なのに、嘆いて暮らしている
人がいるのは何故なんだろう。

第三に 「神仏を知らない」
私(吉村)が子供の頃は、 お年寄りと同居するのが当たり前。仏壇の前で手を
合わせ、お参りする姿を見て育った。
「ご先祖に申し訳がない」「バチが当たる」「閻魔様に舌を抜かれる」など、
知らないうちに、私の心の中で一種の宗教的役割を果たしている。

今の人は神仏に手を合わさない。食事どきにきちんと両手を合わせ、神仏に
感謝してご飯をいただく人は稀である。

進駐軍が推し進めた戦後の教育改革の目的の一つに、日本人から大和魂を
抜き取ることがあったと、京都の研修講師、伊與田先生(安岡正篤の高弟)が
語っていた。
戦後の貧しい暮しの中、両親は子どもにかまっている余裕はなく、学校で倫理・
道徳を教わることはなかった。善悪をしつけられたのは、幼稚園のときだけ…。
そういった戦後世代が今、日本の政治・経済の中核にいる。政治家や、事業
経営者の倫理が問われ、モラルが問われる…、その原因はこんなところに
あるような気がする。

2005年04月15日

いらく紛争・歴史は語る

【吉村外喜雄のなんだかんだ 第75号】
~歴史から学ぶ~
「イラク紛争、歴史は語る」

アメリカで、太平洋戦争の激戦地硫黄島を映画にする話が持ち上がっている。
(硫黄島/米国の死傷者…約二万七千名。日本軍の戦死者…二万名)

太平洋戦争。日本と戦ったアメリカは、サイパン、硫黄島、沖縄と攻め上ってくるとき、徹底抗戦! 降伏しない日本人にほとほと弱り果てた。
このまま背水の陣で待ち受ける本土決戦に臨んだら、あと一年半は戦いが続き、連合軍の死者は新たに百万人覚悟しなければならない。 そのように米英軍部は、ルーズベルト大統領に報告した。

日本民族は、欧米文明の尺度をもってしては測れない、異質の心性の持ち主で
あるとの思いが大統領をさいなむ。そこで日本の都市を焼夷弾で焼き尽くし、
原爆を落とす作戦に出た。
三月に放映されたNHKの特集によれば、東京大空襲で10万人死んだ。
全国四十数か所を焼き尽くして、更に30万人が死んだ。そして原爆を二個落と
した。
ようやく終戦を迎え、日本を統治することになった米国。あれほどこわもての
日本人が、ゲリラなどで抵抗するでなく、猫のように従順で、おとなしくなって
しまった。
そうした過去の経験を生かし、アメリカはイラク問題に取り組んだ。当初の計画
通り、フセイン政権を瓦解させ、新しい国づくりに取りかかった。ところが、ゲリラ
が荒れ狂って国が治まらない。困惑の極みである。日本人もイラク人も、爆弾を
抱えて敵陣で自爆することをいとわない民族。この違いは何だろう?

二月中旬、NHK・BS2で、久しぶりにアカデミー賞大作「アラビアのロレンス」
を見た。ロレンスは、敵(トルコ軍)の裏をかき、不可能と思われていた砂漠を
横断し、敵の背面を突く作戦に出た。
必死の思いでようやく死の砂漠を脱出し、井戸に取り付いて渇ききった喉を癒し
た。そこへやってきた土着民(井戸の所有者)に、案内役のアラブ人が、やにわ
に射殺されてしまった。他部族の土地で、他人が所有する井戸水を、無断で飲
むのは泥棒と同じ。殺されても文句が言えない。

ロレンスが抱いた理想は、イギリスやトルコ、フランスの植民地から独立して、
アラブ人による、アラブ人の民主国家を創ること。単身、アラブ部族を率いい
て、ダマスカスに攻め入り、陥落させたまでは良かった。
今のイラクと同様、どの部族の長を大統領にし、どの部族から首相を出すか…。
議場内は、部族間の利害から罵声が飛び交うばかり。収拾がつかなくなった。
どうにもならない。各部族は大同団結をあきらめ、散っていった。

ロレンスがいくら説いても、自分の部族の利益を優先するばかり。アラブの大儀
などカケラもなく、「アラブ人の国家を創るんだ!」と説いても、言っていることが
空しい。ロレンスが命をかけて戦い、描いてきた夢は、はかなくも崩れ去った。

アフリカからイラン、イラク、中東一帯は、小部族が群雄割拠する土地柄。
紀元前753年、現在のローマ市の七つの丘を中心に、周囲わずか10キロの
新生ローマが誕生した。そしてその後一千年、あの偉大な帝国を創りあげた。
そのローマが、イタリア半島の七割を支配するようになるまで、四百年の歳月を
要している。半島に点在する他部族と戦い、コテンパにやっつけて、二度と反乱
を起すことのない、強靭な中央集権国家を創りあげるのに要した年月なのです。

イラクも部族国家。よほどの英雄傑物が排出されない限り、割拠する部族をまと
めていくのは至難の業。部族の長から見れば、国王や大統領の存在は邪魔に
こそなれ、無用な存在。その上宗教・宗派が違う。
フセインは、まれに見る偉大な政治家。が、国内のクルド族や、他宗派の部族を
弾圧することで、国家の統一を維持してきた。

どの部族も、先祖伝来の土地を大切に守り、受け継いできた。同じアラブ人で
ありながら、互いに争ってきた長い歴史がある。故に国家意識は極めて薄い。
何が嫌かといえば、他の部族に大きな顔をされ、政治的支配を受けることです。
他の部族の支配に甘んじて、言いなりなるなど、絶対に許せないのです。

あの偉大なチトー大統領亡き後に、長年抑え込まれていた怨念が、民族間の
争いとなって表面化し、国家が幾つにも分裂したユーゴスラビアなどは、その
良い例でしょう。
こうした部族に、日本人が持つ譲り合いの精神、「共に勝つ」「共に栄える」の
精神で臨めば、これほど国が混迷することはないと思うのですが…。

2005年04月19日

日本人として知らねばならないこと

ユダヤ人を百五十万人もガス室へ送り込んだナチス・ドイツ。この一月下旬、
ポーランド南部のアウシュビッツ強制収容所解放六十年を記念して、イスラエル
の首相、フランスのシュラク、ロシアのプーチン大統領ら、約四十カ国の首脳と
関係者が集まって、記念式典が行われた。

その数ヶ月前、あの忌まわしい戦争とナチズムの狂気が風化しつつある事件が
起った。英国のヘンリー王子が、ナチスの制服姿で仮装パーティーに出て、問題
になったのです。
つい最近再婚した、父のチャールズ皇太子は怒り心頭。息子にアウシュビッツ
訪問を命じたという。ところが、英国の世論調査では、「アウシュビッツ」を知ら
ないと答えた若者が半数に及ぶという。

【心と体の健康情報 - 190】
~幸せな人生を歩むために~
「日本人として知らねばならないこと」

先週の土曜日、「3KM研修」の二回目があった。 「三歳の頃の思い出を隣同士
で語り合ってください」と、講師の先生…。私の三歳は昭和19年、太平洋戦争
の真っ只中。その頃のことが、走馬灯のようによみがえってくる。

元、松下政経塾副塾長、現「志ネットワーク」の”上甲 晃”氏は、戦前生まれ
の人達に比べ、今に生きる人たちは「三つのことを知らない」と言っている。

第一に 「貧乏を知らない」
私(吉村)は、 戦後の何もかもが貧しかった時代、兄弟、祖母、満州から引き
揚げてきた叔父家族、合わせて13人が一つ屋根の下で生活した。 生活は
貧しく、昭和29年、十三歳の頃まで、朝ご飯は芋がゆ、おやつも芋だった。

兄のお下がりを着て育った私は、モノを捨てることができない。古くなくなった
上下のスーツ、大事にしまってある。お魚などは、身一つ残さずきれいに食べ
る。JRでお弁当を買って食べるとき、端から米粒を一粒ひと粒、きれいに掃除
しながら食べる。貧しかった頃の習慣がしみ付いている。
「勿体ない世代」である。

今に生きる若者たち、貧乏を知らない。生まれながらに豊かで、豊かな暮しが
当たり前。にもかかわらず自殺者が多いのは、何故だろう。

第二に 「戦争を知らない」
私(吉村)は昭和十六年生まれ。 あの戦時中の、映画のシーンなどに出てくる
生活を、詳細に記憶している。
隣の家の軒先には、いつも数人の兵隊さんが村田銃を抱えて座っていた。
ガラス窓は目張りし、茶の間の電灯を風呂敷で覆い、店の中に防空壕を掘っ
たことなど、沢山記憶している。

夜、空襲警報が鳴り、B29が不気味な音を響かせ飛んでいった。疎開先で見
た富山の空襲。焼夷弾が落とされるたびに、医王山の彼方がボコン、ボコンと
真っ赤に燃えた。まだ四歳、打ち上げ花火のようだったことを覚えている。

今に生きる私達は戦争を知らない。日本がアメリカと戦争したことも、長崎に
原爆が落とされたことも知らない。そんな若者が増えてきている。日本の歴史
を振り返って、今ほど豊かで平和な時代はない。なのに、嘆いて暮らしている
人がいるのは何故なんだろう。

第三に 「神仏を知らない」
私(吉村)が子供の頃は、 お年寄りと同居するのが当たり前。仏壇の前で手を
合わせ、お参りする姿を見て育った。
「ご先祖に申し訳がない」「バチが当たる」「閻魔様に舌を抜かれる」など、
知らないうちに、私の心の中で一種の宗教的役割を果たしている。

今の人は神仏に手を合わさない。食事どきにきちんと両手を合わせ、神仏に
感謝してご飯をいただく人は稀である。

進駐軍が推し進めた戦後の教育改革の目的の一つに、日本人から大和魂を
抜き取ることがあったと、京都の研修講師、伊與田先生(安岡正篤の高弟)が
語っていた。
戦後の貧しい暮しの中、両親は子どもにかまっている余裕はなく、学校で倫理・
道徳を教わることはなかった。善悪をしつけられたのは、幼稚園のときだけ…。
そういった戦後世代が今、日本の政治・経済の中核にいる。政治家や、事業
経営者の倫理が問われ、モラルが問われる…、その原因はこんなところに
あるような気がする。

2005年04月22日

遊びがまじめを活性化する

連休はどのように過ごされますか? 私は四国高知でスキューバーダイビング。
私の趣味はその他、ゴルフ、スキー、水泳、旅行、山歩きetc 四季折々、自然
を満喫できるものが大好きである。

”静”の趣味は、囲碁(日曜)、映画・演劇・音楽鑑賞 (土曜)。土曜日NHK総合
韓国ドラマ「オールイン・運命の愛」が逃せない。暇があれば読書。中でも戦国
ものが面白い。教養講座を受けたり、美術館巡りをするのも楽しい。

昨日は京都で論語を学んだ。先月の京都は、高島屋画廊で日本画壇創設の
巨匠、下村観山、横山大観などを鑑賞した。「よくそんな暇があるね」って言わ
れるが、その気になったら、時間って作れるものです…。

[吉村外喜雄のなんだかんだ 第76号]
~幸せな人生を歩むために~
「遊びがまじめを活性化する」

私の趣味に囲碁がある。囲碁は宇宙の世界。思考力を高め、モノ事を大局的に
見る目、先を読む目を養い、変化に即対応する力を養ってくれる。逆境にあって
もあきらめることなく、チャンスがくるのを待つ。
十年くらい前まではマージャンもよくやった。勝負勘を養い、相手の微妙な心の変化が分かってくる。いずれも、 営業力の奥行きを深めてくれる趣味でしょう。

私の好きな棋士”加藤正夫”名誉王座が突然亡くなった。これからの活躍が期待されていただけに、残念に思う。 加藤棋士の全盛期は、昭和50年から65年にかけての頃。
その加藤棋士、何度もタイトルが手に届くところまで行きながら、優勝決定戦で
負けてしまう。七度もいろんなタイトルに挑戦しながら、七度すべて負けてしまい、実力ナンバーワンと言われていながら、 一個のタイトルも取れない時期があった。

悩んだ末、当時三羽がらすの一人で、数々のタイトルを保持していた石田芳夫
九段に、「どうしたら壁を破れるか? どうしたら勝てるようになるか?」と尋ねた。
最大のライバルからの相談に、一瞬戸惑った石田九段、次のように答えたという。
「加藤君は真面目すぎるよ。少しは遊ばないとダメだよ…」。

生真面目で通っていた加藤棋士。その忠告に従い、遊び歩くようになった。
その後、勝負勘が鋭くさえわたり、十四年連続タイトル保持の新記録を打ちたて、全盛期を迎えた。

八起会の野口会長は講演の中で、「私のように飲む・打つ・買うと、遊び呆けて
会社をつぶす社長は、一割くらいのものだろう。 八割強の社長は、超真面目人間。真っ黒になって、働いて、働いて、 そのあげく倒産夜逃げ…。
真面目だけでは、経営者としての”バランス”が悪い。おまけに、ノイローゼ
になったり、自殺するのは、真面目で通っている社長ばかり」と語っている。

毎年何か一つ教養講座に顔を出すのも、私の趣味のうち。昨年から続けている
月に一回の「論語を学ぶ会」で、ユニ・チャームの創業者、高橋慶一朗会長の講演を聴いた。 以下、その講演から…

「遊びは仕事の邪魔になる」といった、仕事と遊びを、対立関係でとらえるのはやめよう。 遊びの活力を仕事にも 生かし、遊びでもするように働くのが理想である。遊びがまじめを活性化してくれる。

人間は、働く動物であると同時に、遊ぶ動物でもある。 遊びを仕事の対極に置く考え方はもう古いと思う。遊びか、仕事か、という選択はしないようにしたい…。
仕事が充実するから遊びの時間が楽しく、遊びの時間が生きているから、仕事が活性化する。この二つは、 対立関係にあるのではなく、補完関係にある。

実際、優れた人は、仕事を遊びみたいに楽しくこなしているものです。
遊び心いっぱいで、楽しみながら仕事をしている。むろん仕事には、苦しいことも沢山あるが、 遊びのときに発揮される活力を、仕事に生かすことはとても大切ですし、 仕事に必要とされる創造性や想像力は、遊びによって大いに養われるものなのです。
ですから私たちは、うんと働き、うんと遊ぶようにしなければいけない。まじめが遊びを生かし、 遊びがまじめを活性化するのです。

「仕事が楽しくてしようがない」という人は、仕事そのものが趣味になっている。
他のどんな楽しいことにも、興味がそそがれることはない。仕事を通して世の中のお役立ちを実感し、 更に懸命に打ち込んでいく。いつしか人の真似のできない”匠”の域に到達する。

だが、人には相性というものがある。いくら頑張って仕事をしても、身が入らず、仕事が好きになれない人もいる。もし、 そうなら、未練など残さず、さっさと転職してしてしまうことです。

2005年04月26日

遊びが子どもを育てる

今、ゆとり教育の見直しが叫ばれている。
東京での話。華僑や中国人の子どもたちが通う小学校に、日本人の親が、我が子
を日本の学校ではなく、中国人の学校で学ばせたいとやって来る。

華僑が自国の子弟のために、お金を出して建てた学校。日本の子どもたちの学校
ではない。ところが入学を希望する親が引きもきらない。そこで、クラスの一割程度
を枠に入学試験を実施し、受け入れている。その人気の秘密は、学校の教育指導
にあった。

(1)得意科目を更に伸ばしてやることで、一人ひとりの能力を引き出し、
   子どもたちの学習意欲を高めていく。
(2)毎日たっぷり宿題を出す。ついて来れない生徒には、放課後の補習など、
   徹底した詰め込み型の反復学習。小学生だからと甘やかさない。
   しっかり教えるので、塾へ通わせる必要がない。
(3)教科書も、教室での会話もすべて中国語。自然と二ヶ国語の読み書きが
   出来るようになる。
   卒業後は語学力を生かし、中国に関係した会社に就職する人が多いという。

日本の教育の在り方に疑問を持つ親が、我が子を華僑の学校に入れたがるのです。

【心と体の健康情報 - 191】
~子育て心理学~
「遊びが子どもを育てる」

最近雑誌などによく登場する、イー・ウーマンの佐々木かおり社長が、
「子どもの教育」について語っている。

子どもたちは誰もが皆、褒められたいと思っている。愛されたいと思っている。知りたいと思っている。 応えたいと思っている。
その子ども達が最近おかしくなってきている。落ち着かない、怒りっぽい、学習意欲が低い。そうなったのは、 家庭や学校や社会全体が、子どもたちをそんなふうに育ててしまったからだろう。

学力の低下が問題視されている。子どもたちの学力は本当に下がっているのだろうか?  私はそうは思わない。学びに興味を引き出し、広げていく大人たちが、周りにいないからでしょう。
年齢に関係なく、彼らを「褒めて」「認めながら」 「発言させる」「提案させる」「考える機会を沢山与える」 、そんな教育の機会を与えることが大事でしょう。
子どもたちは悪くない。子どもたちに罪はない。

私の子どもの頃の思い出は、野山と太陽と腕白仲間である。学校から帰ると
ランドセルを放り出して、泥だらけになって暗くなるまで外で遊んだ。
戸外でよその子どもたちと遊ぶうちに、将来社会人となるための、何物にも
代え難い経験を積んでいく。川で遊んでいて、溺れかかったり、塀から飛び降
りて五寸釘が刺さり、怪我をしたこともある。

親は、外で何をしていようが無頓着。怪我を隠して、父親の刻みタバコを失敬
し、止血しても、親には一切話さなかった。今なら、病院へ担ぎ込んで、何針も
縫って大騒ぎするだろう。生傷が絶えなかったが、大きな怪我はしなかった。
何度か痛さを体験しているうちに、それを避けるすべを、知らず知らず身につ
けていった。

佐々木かおり社長は続けて…

親が子どもを気遣えば気遣うほど、過保護になる。過保護は、子どもが幸せになること、 そして様々な経験を積むことを、子どもたちが自立する機会を、奪い取ることになる。
過保護の子に限って、目を離したスキに大怪我をするのは、 その子が危険に対処する身のこなしができないからであろう。

昔もいじめはあった。しかし、それは子どもたちの中で解決してきた。だから、 今ほど大きな社会問題にはなることはなかった。
子どもの世界では、遊び仲間のルールに反することをすれば、すぐに制裁を受ける。しかし子どものこと、 その制裁は、制裁を受けたものが泣くまでである。泣けば驚いてやめるからである。

私の子供の頃は、どこまでやればいいか、喧嘩の仕方を知っていた。相手を
ひどく傷つけることもなく、痛いことも、辛いことも、その場限り。すぐ忘れて、
また皆と一緒に遊んだ。毎日路地裏で遊んでいるうちに、手加減する術を身
につけていった。
親もまた知らぬ振り。決して子どもの喧嘩に首を突っ込むようなことはしない。
なまじに、親が子どもをかばい立てするから、かえって子どもに依頼心を起こ
させ、子どもを弱い人間にしてしまう。昔の親は、そのことをよく知っていた…。

今は、近所で一緒に遊んでくれる子は一人か二人。我がままに育っているか
ら、友達は少ない。一人部屋にこもってゲームをして遊ぶか、塾通い。友達と
のコミュニケーションは、もっぱら携帯電話。

不幸にも、子育てを放棄した猿の赤ちゃん。飼育係りが親代わりに、ミルクを
与えて育てた。一人歩きするようになって、群れの中へ放した。喜んで群れに
入ったが、追い出されてしまった。集団生活の経験がない。群れのルール、
序列を無視して、餌に飛びついたからである。

これと同じことが人間社会で起きている。社会人になって、人間関係がうまく
いかず、閉じこもってしまう若者が増え、社会問題になっている。石川県には、
昨年不登校の小中学生が1,100人もいる。そういった子が成長するにつれ、
より深刻になるケースが目立つという。

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