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2005年05月 アーカイブ

2005年05月06日

ジミー大西の新しい人生

4月23~24日、私たち夫婦は、息子夫婦と1歳と3ケ月の孫の手を引いて、
京都へ家族旅行した。京都駅に着くや、まず駅ビル伊勢丹デパートへ。
お目当ては、七階の子ども服とオモチャ売場。

用のない私?は、その間、同じ階にある伊勢丹美術館へ…。
前々から鑑賞したいと思っていた「ジミー大西作品展」です。     (^-^)/~
まばゆいばかりの作品100点。一点一点に魅了し、じっくり鑑賞した。


[吉村外喜雄のなんだかんだ 第77号]
~幸せな人生を歩むために~
「ジミー大西の新しい人生~キャンバスからはみだせ~」

「人は誰でも、一隅を照らすだけの力量を与えられてこの世に生まれてくる」
これは人間学の師、安岡雅篤のことばです。同じことを森信三先生も語っている。
「誰もが、一通の封筒を持って生まれてくる。その封筒には、その人の人生の使命が書き込まれている。封筒は、 四十の頃までには開くようにしなければならない。ところが封筒を開くことなく、一生を終えてしまう人のいかに多きことか…」 。
ジミー大西といえば、吉本興業のお笑いタレント。仲間の”アホの坂田”などと、
お茶の間に笑いを振りまいていた。最近TVで見かけないと思っていたら、タレントを廃業して、画家になっていた。
そのジミー大西さん、あの天才ピカソと見まがうような、すごい絵を描くのです。


「母とぞうきん」


「ゴール前」

彼のプロフィールを紹介しよう。94年に、ジミーがTV局の企画で描いた絵が入賞した。その天性の作風が注目された。

その後、芸能生活のかたわら個展を開いたり、巨大壁画やポスター、絵本などを制作するようになり、 あの岡本太郎に絶賛された。

自由奔放、まばゆいばかりの色彩。
キャンバスからはみ出んばかりのエネルギッシュで独創的な構図。

遊び心いっぱいの既成概念にとらわれない作風は、見るものを引き付けて放さない。知らず知らず口元がほころび、 童心へと導い込んでいく。

96年芸能界を引退。画家一筋の人生へ…。
あこがれのピカソの故郷、スペインに移住。ジミーを誰一人知らない異国の地で、 胸の内にあった芸術への想いを一気に爆発させ、本格的創作活動に入る。
そして、”大西秀明”のペンネームで、次々と作品を生み出していった。

ピカソは私の好きな画家の一人です。ピカソ展には何度か足を運んだ。
こうした作風の画家は、いずれも既成概念にとらわれず、自由奔放、天才肌。
そのデザインは”ミレーの落穂拾い”のような、キャンバスに細かく描写していく足し算型ではなく、どんどん引き算して、 いかにシンプルに描き、エレガントさを引き出すか…。そんな作風が魅力なのです。

菩薩美人の版画家、宗方志功。切り絵の放浪画家、山下清。何れも色彩鮮やかで、躍動感に溢れ、 シンプルでダイナミック。見る人を引きつけて放さない。 
芸能人では、墨彩画の片岡鶴太郎が異彩を放つ。

TVではアホ役をやらされていたジミー大西。あのタレントにこんな素晴らしい才能があるとは…。 人は分からないものです。今まさに天から与えられた使命を開花させようとしている。日本のピカソ、今後の活躍が楽しみです。

「ジミー大西作品展」は5月15日まで、京都伊勢丹美術館で見ることができる。
機会があれば、是非立ち寄ってみてください。

2005年05月10日

もったいない

この連休、北と南の生物が混在し、種類の多さではナンバーワンと言われる、
四国西南端のダイビンク゜メッカ”柏島”で、丸四日間ダイビングを楽しんだ。

コブダイ(体長1メートル)
熱帯魚の王様ナポレオンフイッシュに
負けない堂々とした風格


後ろに写っているダイバーで
その大きさがわかります…。

・コブダイがこちらに向かってくる
・カメラの前30センチまで近寄ってきて興味深げに私を観察している。
海のドラエモンかな

【心と体の健康情報 - 192】
~幸せな人生を歩むために~
「国連本部で”もったいない”が唱和される」

私たちの年代は「もったいない世代」 。貧しかった頃の習性が、体中にしみ付いている。

古くなったスーツ、捨てられずに仕舞ってある。お魚は、身一つ残さずきれいに食べるし、お弁当を買って食べるとき、 ふたにくっついた米粒をきれいに掃除してから食べる。連休の間、若い人たちと海に潜ったが、二十代の仲間たち、 ふたに付いたごはん粒には目もくれない。
私は、ごはん粒一粒でも粗末にすると”罰があたる”、と躾けられて育った世代。
一・二日前に賞味期限切れの食品。妻が捨てようとするのを押し止めて、「勿体ない、まだ大丈夫、私が食べる…」。

もう少し言わせてもらうと! 買って数年のまだ十分使えるカラープリンター。
紙が詰まって修理依頼したら、既に廃品、交換する部品が無いという。
「そんな馬鹿な! まだそんなに使っていないのに…」。メーカーに直接文句を言ったら、たまたま残り在庫があって、 交換してくれた。

技術革新の激しい昨今。デジカメなど、1年もしないうちに商品価値がなくなる。「もったいない…」。 ん…、 半値でも何でも、捨てるなら分けてほしい。
ところが部品のストック期限が切れたら修理不能、捨てるしかない。修理できたとしても、部品代に人件費、出張手間etc、 買うほどかかってしまう…。

日本の消費文化、壊れたら捨てる。食い散らかして、余ったら捨てる。
私の気持は複雑。まだ何ほども使っていないのに…。修理すれば十分使えるのに…。まだたっぷり残っているのに…。 「ああ勿体ない」が頭をもたげてくる。
こうした使い捨ての文化、無駄遣い、いずれ許されない時代が来るだろうに…。

三月八日付の北国と中日、両方の新聞に「勿体ない」がニュースになっていた。

2003年の留学生が集う「ジャパンテント」で、能登総持寺祖院の板橋興宗住職が、 世界80ケ国から集まった留学生に、日本語を象徴する言葉の一つ、
「もったいない」を説いた。

このとき住職は、「勿体ない」には経済的観念ばかりでなく、例えば一枚の紙に宿る”命” への思いが込められていることを話した。外国人には理解し難いだろうとの思い込みがあったが、多くの留学生が、 ほぼ正確にその意味を理解していた。

ニューヨーク国連本部でも、各国から集まってくる政府の代表が、声高らかに
「もったいない」を日本語で唱和したという。
音頭をとったのは、昨年アフリカの女性で、始めてノーベル平和賞を受賞した、
ケニアの環境副大臣”ワンガリ・マータイ”さん。
この二月に来日したとき、「勿体ない」に込められた深い意味を知って、感銘を
受けたのだという。

地球環境保護に欠かせない”言葉”。無駄な消費の削減、資源再利用、修理を言い尽くす言葉。
マイターさんは、「MOTTAINAI」のロゴ入りTシャツを作り、キャンペーンの先頭
に立つという…。「もったいない」が国際用語として認知される日も近いようです。

2005年05月13日

憎まれ口

福岡の補選の応援演説で、久方ぶりに田中まき子が吠えた。あの父親譲りの
迫力いっぱいの憎まれ口、よくもまあ~次から次と…、聴衆は大喜び拍手喝さい。
あれだけの憎まれ口に対抗できる男性は、島田伸介くらいだろう。

ここで ことば遊び。「おじん駄洒落」を一つ…
■まき子さんのご主人、田中直紀氏は参議院議員。
親しくしている友人が、「直ちゃん、おまえすごいよなァ」 『何で?』
「まき子さんを奥さんにしたんだもんなァ…。そいで、子供を二人も作った。
おまえは男の中の男だよ!」 
『いやァ~、皆さんが思っているほど楽じゃないですョ!』
『私は二宮金次郎ってとこかな…』 「 …? 」
『一生”マキ”を背負って歩かなければならないもの…』

■ ついでにもう一つ、我が故郷の元総理大臣”森 善朗”
内閣発足時、「森内閣は長続きするだろうか?」と、自民党の某代議士が
評論家に尋ねた。
評論家それに答えて、『そうねェ、蜃気楼のように短命でしょうかねェ…!』
「なんで?」   『だって、名前が”しん(森)きろう(善朗)”だもの…』

[吉村外喜雄のなんだかんだ 第78号]
~幸せな人生を歩むために~
「憎まれ口」

久しぶりにことば遊び…。今日のテーマは「憎まれ口」。

”憎まれ口”は、私たち夫婦の間では、無意識に、頻繁に交わされている。
遠慮も気兼ねもいらない間柄。しかも相手のいいところ、悪いところすべて知り尽くしているから、お互い、 憎まれ口をゲームのように楽しみ、ジョークとして聞き流す。
私「俺、これでも外では結構若い女性にもてるんだぞ…」
妻『あら、そうなの、いいわね、どうぞ、どうぞ… そんな物好きな女性いるのかしらァ…? 一度会ってみたいものだわァ…』

結婚して40年近く連れ添っている女房に、「どんなに旨いからといって、 40年も同じカレーライス食っていると飽きるよなァ」なんて言おうものなら、すかさず
『私の方こそ、死んだ後も狭いお墓の中で一緒に暮らすのは、どうもねェ…』

女性は力では男性に太刀打ちできない。その代わり”口”を武器に戦ったら、絶対男性には負けない。
会話を交わすとき、男性は理性をつかさどる”左脳”しか働かないが、女性は感性をつかさどる”右脳”が左脳と一緒に働く。 田中まき子ではないが、機関銃のように言葉がほとばしり出てくる。だから男性諸君、女性と”口”で言い争ったら、 絶対勝てっこないことを肝に銘ずるべきです。

以下、朝日新聞のコラム、天野祐吉氏の「CM天気図」から…
憎まれ口をきくのは楽しい。「死んでも君を放さないぞ」なんて、恋人がキザなことを言ったら、「死んだら離してよ、 怖いから…」と、すかさず憎まれ口をきけるような人が好きだ。

それは、たんなる憎まれ口ではない。相手のオーバーな表現への軽い”批評”や”ヒニク”になっている。 そんな批評が含まれているかどうか…。
そこに、憎まれ口をきく人の”センス”がかかっている。そういうセンスのある人は、憎まれ口を通して、 世間のおかしなところを浮き彫りにしてくれる。
で、それを聞いた周りの人たちが「クスクス」と苦笑する、微笑みを生む…。

私(吉村)が親しくしている、おやつカンパニーの松田好旦社長。つい最近も一緒にお酒を飲んだが、 ウイットにとんだ面白い社長である。
松田社長の会社の「ベビスターおとなのラーメン」のテレビCMを、人気お笑いタレント”青木さやか”がやっている。その” さやか”の憎まれ口が面白い。

■駅の待合室でぼやく二人のサラリーマン。
「俺たち、今の会社で一生終わっちゃうのかなあ…」。
  と、不意に前の席から振りむく青木さやか。『会社がそれを許さないかもね』

■もう一つ、二人のOLが嘆くシーン。
「そろそろ幸せになりたいなぁ~」「なりたいねえ…」。
そこへ顔を出す青木、『誰にお願いしているのよ…?』
どっちも、言わずもがなの憎まれ口である。が、何の努力もせずに、自分の運のなさをこぼしている連中を見ると、 彼女は憎まれ口を叩かずにはいられないだろう。

ホリエモン騒動の時、自民党のおえら方が、「すべてを金で動かそうというのは、いかがなものかねェ」 と言っているのを聞いて、『代議士の先生にだけは言われたくないよネェ…』と、憎まれ口を叩きたくなる。

4月下旬のTVニュース。郵政審議委員会、政府は自民党から一任を取り付けることがなかなか出来ず、深夜までもめた。 そこへ、憎まれ口では大先輩の”ハマコー”が委員会室に入っていった。
「お前ら! 総理にたて突くのなら、自民党を出ていけ!」と、大声でわめき散らす声が、ドアーの外にまで漏れてきた。
こんな暴言、他の代議士だったら唯では済まない。つかみ合いの喧嘩になってしまうだろう。 ハマコーだから通用する憎まれ口なのです。

女房ならともかく、人前での憎まれ口、のどまで出かかっても、ツバと一緒にゴクリと飲み込んでしまう。それを、 青木さやかは、なんの遠慮会釈もなく、スパッと言えて、笑いを誘う。視聴者は、そんな憎まれ口を楽しむのです。

今の日本、おかしなことだらけ。憎まれ口を叩くどころか、見て見ぬ振りをする人のほうが多い。 JR西日本の知って知らぬ振りはちょっとひどいが、そういう人たちに向かって、「どこ見てんのよォ!」って、 彼女は叫んでいるのかも…。

2005年05月17日

戦後教育かせ抹殺された二宮金次郎

■二宮尊徳の死生観がよく表れた「二宮翁夜話」の一節

「人は生まるれば必ず死すべきものなり。
死すべきものということを、前に決定すれば、
活きて居るだけ日々利益なり。これ予が道の悟りなり。

生まれ出ては、死のあることを忘るる事なかれ。
夜が明けなば、暮るるという事を忘るる事なかれ。」

物心つくころから常に、人のため、村のため、国のため、
懸命に働き続けてきた、尊徳翁の思想がここに表われている。

【心と体の健康情報 - 193】
~歴史から学ぶ~
「戦後教育から抹殺された二宮金次郎」

私の子供の頃、少し田舎の方へ行くと、小学校の校庭に薪を背負って本を読んでいる二宮金次郎の銅像が立っていた。 ところが、学校で教わることはなかったので、名前は知っていても、何で偉くなったのか知らないまま大人になった。数年前 「致知」に連載され、日創研がビデオを制作して広く啓蒙したりして、ようやく二宮金次郎の偉大な諸業を知ることとなった。

ほとんどの方はご存知でしょうが、改めて金次郎の生い立ちを書き表してみました。

金次郎は、1787年相模国、現在の小田原に生まれた。五才のとき付近の川が氾濫して、 二宮家の田畑はほとんど流出した。その窮乏の中で、金次郎が十四才と十六才のときに相次いで両親を失う。 二人の弟は母の実家に預けられ、金次郎は伯父の家に寄食し、働いた。

学問好きの金次郎は、洪水跡の荒地に菜種を蒔き、それを油屋に持っていって油と交換し、 夜なべ仕事が終わった後も、寝る間を惜しんで勉強した。
ところが、伯父から百姓に学問は無用と、灯明を点けて本を読むことを禁じられてしまった。その後も隠れて、 夜十二時に寝て朝三時に起き、月明かりで読書し、蒔を背負った道すがらも、寸暇を惜しんで勉学に励んだ。

上田三三生著「日本の系譜」より

薪を背負う道すがら読んでいる書物は「大学」である。儒学の「四書」、つまり「大学」「中庸」「論語」「孟子」 の四書を、幼少のころから学ぶのが、当時の習いであった。
私も縁があって、昨年から六十の手習いよろしく、「論語」「大学」「中庸」のさわりを習っている。
私が学生だった頃の教育は、古いものはすべて悪。戦前の教科書に載っていた日本の歴史上の偉人たちは、一掃されてしまった。
で、つい最近まで、二宮金次郎が教科書から削除されたのは、占領軍の命令によるものと思っていた。
ところが、占領軍は逆に「尊徳は日本におけるリンカーンである。新生日本は、二宮尊徳に学ばなければならない」と、 奨励していたという。意外でした。

2005年05月20日

二宮金次郎の偉業

■二宮尊徳翁の人生哲学

  人 生まれて学ばざれば 生まれざると同じ

  知って 行うこと能わざれば 知らざると同じ

  故に 人たるもの 必ず 学ばざるべからず

  学びを為すもの 必ず 道を知らざるべからず

  道を知るもの 必ず 行なわざるべからず

※「生き方理念」又は「座右の銘」にしておきたいような、重みのある言葉です…。

【吉村外喜雄のなんだかんだ - 第79号】
~歴史から学ぶ~
「二宮金次郎の偉業」

この27~28日の二日間、静岡県掛川で、経営研究会全国大会が開催される。
大会のメインテーマは二宮金次郎。そこで、予習のつもりで、尊徳がなした
偉業をまとめてみました。

金次郎が18才のとき伯父の家を出、名主の岡部家に寄宿した。ここでは休みがもらえたので、 洪水で流された二宮家の田畑を修復し、日雇いをして貯めたお金や米を、困っている村人に無利子で貸付したりした。 それはやがて、お礼となって戻ってきた。
20才のとき、荒れた我が家の田畑の修復を終え、父の借金で失った土地の一部を買い戻し、 米二十俵と若干の資金を持つ身となって、自立した。

その後も勤勉力行、十年後には田畑四町歩を所有し、小作米百俵を得るまでになった。自らは、 商家に奉公して商いの道を学び、武家に奉公して、たしなみや家風を学んだ。この時期に”尊徳哲学” の基礎が出来上がったのです。

「積小為大」…小さなことを積み重ねて、大きな事を為していく。
「物心相関」…物が関係した貸借も、お互いの心に感謝の交流を生む
「分度と推護」…分に従って度を立てる。
  • 将来や子孫のために、多少でも余禄を残すことができるように、生活に一つの限度を立てる。
  • 人の身を我が身と思って、人に譲る。他人へのいたわり。
  • 物も金も他から奪おうとすると、自分から離れていく。
  • 与えるようにすると、自然と自分に集まってくる。

この頃、観音経に出会う。その仏の教えも結局は、人の生きる道や百姓の道を説いている、ということを悟る。
金次郎が出入りしていた、小田原藩家老服部家は禄高1200石。ところが実収は400俵で、家計は火の車。悩んだ挙句、 尊徳にお家の建て直しを依頼する。

金次郎は引き受けるに当たり、向こう五年間言うことに従ってほしいと、条件を出した。主人夫婦以下、 屋敷内全員に厳しい生活規制を課し、守らせた。
五年の後にはすべての負債を弁済し、なお三百両の蓄えを残した。

頂いた礼金百両は、すべて服部家の下男下女に分け与えた。
そうしたことが小田原藩中に伝わり、神仏の再来、聖人と噂された。
一方、五年も家庭を顧みなかったため、妻は実家に帰ってしまい、離婚。
服部家は責任を感じて、後添えを世話した。これが、後に名夫人とうたわれる”波子”である。

その実績が買われ、小田原藩が持つ茨木県の所領の窮乏を復興させるべく、三年越しで金次郎に救済を仰いだ。今度は、 服部家のようなわけにいかない。
尊徳の超人的働きと人望によって、人心を一つにまとめることに成功。幾多の難題を乗り越え、苦労の末、復興を成しとげた。

所領立て直しの評判が関東一円に広がり、今度は、幕府からのたっての依頼。
断りきれずに、日光御神領の復興に当たる。金次郎は、小田原藩から頂いた謝金五千両に、 今のお金にして十億円有余を自費拠出。更に、日光近在の農民五千余人にも、お金を無利子で貸付けたりした。
高齢にして病を押しての復興事業。その三年後に中風が悪化。事業半ばにして、七十才の生涯を閉じた。                                 

尊徳が唱えた” 報徳思想”は、死後弟子たちに受け継がれ、全国各地の報徳社設立と、 活動へと連なっていく。尊徳の教えを受けて、家政を立て直した農民大衆は幾千万にのぼるという。
尊徳思想は、政府の自治行政にも取り入れられ、戦後の農業共同組合創設へとつながっていく。

上田三三生著「日本の系譜」 より

2005年05月24日

日本人に根ざす精神を見直そう

■橋本佐内の「啓発録」
橋本佐内は幕末福井藩の士。藩主松平慶永の側近として、藩校の学監をしたり、
藩政改革に当たったりした。積極的攘夷開国論者で、将軍継承で慶喜擁立に
活躍。反対派井伊大老のため、若年26歳にして吉田松陰と共に、安政の大獄で
処刑された。
左内十五才のとき、これから後の自らの生き方を明らかにする戒めとして、

「稚心を去る」
「辰気」
「立志」
「勉学」
「択交友」
子供じみた心を取り去り
気力を養い     
向上心を持ち
勉学を怠らず
自分を戎めてくれる友人を持つ

の、五項目を文章に書き記した。
これは「啓発録」として、 左内の思想や生き方の根幹を成す名文として、
後世に名を残すことになる。

 

それにしても、若干十五才にして、これほと格調高く、高貴な精神を書き記すとは、
他に例を見ない。西郷隆盛をして、「友として最も尊敬する」と言わしめた、
幕末福井藩の偉人です。 この「啓発録」、一度は読んでおきたいものです。

 

【心と体の健康情報 - 194】
~歴史から学ぶ~
「日本人に根ざす伝統的精神を見直そう」

以下、衆議院議員 小野晋也「日本人の使命」からの抜粋です。

江戸幕府を倒した政府が、天皇を中心とした新しい国家を立ち上げた。
それまで支配階級だった全国の諸藩、旧幕藩体制を、一滴の血も流さずに廃止することに成功し、 政権移譲が出来たのは、西欧諸国から見れば奇跡なのです。

その時の変革を”明治革命”ではなく”明治維新”と言った。江戸時代の伝統と文化を尊重し、 受け継ぎ、その上に新しい日本を創ろうとしたのです。
これがフランスであれば「フランス革命」、中国であれば「文化大革命」となり、旧政権の人たちは虐殺され、 市民を巻き添えにした流血戦争になるだろう。
それまでの支配体制のすべてが否定され、まつたく新しい体制が創られていく、歴史的事実があるのです。

明治になって日本が大きく飛躍することができたのは、過去の歴史に培われた伝統・ 文化を大切にしつつ、優れた外国の科学技術と文化を取り入れ、和魂洋才を積極推進したことにある。

学問からみれば、江戸時代、読み書き・算盤が国民の間に広く普及していたことが、 明治になって数多くの人材を輩出するに至り、飛躍の礎になったのです。
当時の先進国、英国や米国でも、読み書きがここまで国民に普及してはいなかった。
教育レベルの高さに加え、礼節を尊ぶ日本人に、欧米人は驚かされた。 日本人の歴史文化に培われた精神の中に、儒教思想が広く根付き、「心や魂に円熟した精神を持つ国民」 と言われた。
幾多の優れた人材を排出することによって、西欧の列強に並ぶ国家へと、導いていくことが出来たのです。

NHK来年の大河ドラマは、司馬遼太郎の「坂の上の雲」。日清・日露戦争の中、明治の日本に名を残していった人たち。 それぞれが与えられた分野で素晴らしい活躍をして、近代日本の礎を築いた。

日清・日露戦争に勝った日本、その後、自らの民族を神の国と慢心し、大陸へ侵攻。太平洋戦争へと突き進んだ。 そして敗戦。敗戦を機に、日本は新たなる”維新”に取り組んだ。そして、過去の歴史、文化、教育を否定することで、 平和国家を創りあげようとした。

誤りを認めることはやぶさかではない。しかし、過去長きに渡って築き上げ、
受け継がれてきた、日本人の根底にある伝統的精神を否定してしまうのは、
今となってみれば、大きな過ちであったように思うのです。

その典型が、一昔前、あちこちの小学校に見られた「二宮金次郎」の銅像。
今はどこにもない。私が学校で教わった偉人は、リンカーンやエジソン、ニュートン、ライト兄弟など、西欧人ばかり。
私たちの祖先には、西郷南洲、水戸光圀、本居宣長、山岡鉄舟、上杉鷹山など、 今日の日本の礎を築いた幾多の偉人たちがいることを、学ばなければならない。

我が郷土には、近代日本を代表する哲学者、西田幾太郎博士がいる。
隣の福井県には、幕末勤皇の志士、橋本佐内がいる。左内が15歳の時、自らの生き方と志を認めた「啓発録」 は、その崇高な文章内容に驚きと感動を覚える。

そういった近世の思想家たちが、どんな活動をし、偉業を成し遂げ、
日本のお役に立ったのか、今の私たちに知る人は少ない。
今の中高生に「尊敬する人は?」と尋ねたら、こういった偉人たちの名前が
挙がることはないだろう。

2005年05月27日

懐かしき四高

■明治初期の金沢
明治二年、加賀藩を朝廷に奉還。明治四年に廃藩置県となり、藩が消滅した。
それまで藩の禄を食んでいた武士、足軽、小者たちが一度に失職した。
さらに、御用商人、豪商たも没落し、しばらく混乱が続いた。
下級武士だった私の曾祖父も禄を失い、蓄えを利用して「金貸し業」を始めた。
ところが武家の商法、人が良すぎたのか、みるみる立ち行かなくなり、貧乏暮らしを強いられるようになった。

金沢の人口は、明治四年当時12万3千人だったが、藩の消滅により、翌年には9万4千人に激減してしまった。その後、 明治十一年頃になり、ようやくショックから立ち直り、人口10万7千人まで回復した。
明治十一年当時、東京69万、大阪29万、京都23万、名古屋11万人。次いで、全国五番目に大きな城下町だったのです。

[吉村外喜雄のなんだかんだ 第80号]
~歴史から学ぶ~
「懐かしき四高」

私が育った自宅の前の武蔵から片町へ抜ける道路は、当時国道8号線だった。
その一本向かいの裏道りに、第四高等学校(現在の中央公園)、通称”四高”があった。小学生の頃、 四高前を流れる七ケ用水の生垣の穴から、校庭にもぐり込み、よく遊んだものです。

四高の運動場の東の端に、高低二段の飛び込み板が付いた25mプールがあった。近所の悪ガキと、 一番高い飛び込み板の先端に、どこまで這っていけるか、度胸だめしをしたのが懐かしい。
また、晩ご飯のおかずに、運動場の草わらでイナゴを採ったり、校舎脇の銀杏の木の下で、 銀杏を拾い集めて焼いて食べたりもした。四高をテーマにすると、その頃のことがあれこれ思い起こされる。

四高は明治二十年創立。昭和二十四年金沢大学に包括されるまで、金沢が誇る勉学のシンボルでした。今でこそ、 人口四十五万の地方都市だが、明治の頃は、全国でも名だたる都会だったのです。

その金沢に、一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)に継いで、四番目の高等学校が開校したのですから、 金沢市民が誇りに思うのは当然。明治時代に設立した番号が付いた高等学校は、全国に八校あって、続く第五高が熊本、 六高が岡山、七高は鹿児島、八高、名古屋と続く。その頃の名古屋はまだ田舎だったのです。

大正から昭和にかけて、西田幾太郎博士(石川県宇ノ気町出身/近代日本の代表的哲学者)など、 日本を代表する逸材を多数輩出している。今はその面影もなく、赤レンガの校舎の一部が残るだけで、知る人も少ない。

私が子供の頃、四高に隣接した香林坊には、当時の文化人がたむろする喫茶店「オリヤンタル」、「ダンスホール三田」、 西洋料理の「仙宝閣」、和食料亭「魚半」、玉突き場、カフェなどがあり、にぎやかだった。
昭和24年、校舎が金沢城内に移転したあと、香林坊の繁華街は徐々に寂れていき、父親の店の商いも、先細りになっていった。

旧制高校の寮歌は、今も広く国民に愛唱されている。そのほとんどが、学生自らの手で作詞され、また、その多くが、 学生たちによって作曲されたものだという。
中でも、一高と三高の寮歌が有名である。
・一高  「嗚呼玉杯に花うけて、緑酒に月の影宿し…」
・三高  「紅もゆる丘の花、早緑匂う岸の色…」
・四高  「北の都に秋たけて、吾等二十の夢かぞう…」

寮歌は何度口ずさんでもいい。戦前から戦後にかけて、何かと暗いイメージが付きまとう中、 当時の四高の学生さんからは、人生のロマンを語り、青春を謳歌し、明るく自由闊達な気風が感じられたと、 町内の人が語っていた。

十年くらい前までは、毎年夏の八月、全国から四高卒業生が集まってきた。弊衣破帽に、 高下駄をつっかけたバンカラ姿で、(汚れたボロの詰えりの学生服に黒いマントを着て、破れた学帽をかぶっている) ファイヤーストームの炎が天を焦がす中、高らかに寮歌を歌い、太鼓を叩き、校旗をかついで、 香林坊界隈を肩を組んでねり歩いた。そんな久しく忘れていた光景が、懐かしく思い起されるのです。
ちなみに、私の小学時代は四高を遊び場に、小学校は武家屋敷の一角にある長町小学校。後に学校統合で廃校なり、 観光バスが停まる市営駐車場になった。
中学は、小立野台の紫錦台中学(旧制金沢二中)。行き帰りは、兼六園が通学路だった。現在、 校舎の一部が文化財として保存され、歴史博物館になっている。

高校は泉ケ丘高校(旧制金沢一中)。戦前であれば、二中から一中に転校したことになる。何れも階段教室があり、明治・ 大正・昭和初期の歴史と伝統が香りいっぱい残る学び舎で学ぶことができたのは、この上ない幸せです。
後に何れも取り壊され、平凡な鉄筋校舎に造り替えられたのは、寂しい限りです。

2005年05月31日

罪を憎んで人を憎まず

35年に及ぶ日本統治から解放されて、60年を迎える韓国。
島根県が竹島の領有権を議決したことに怒り、韓国は民族意識をあおっている。
両国にとって、領土問題は譲れぬ一線。領土権を得るには、武力を行使するか、金銭的和解ぐらいしかないだろう。主張し合っているだけなら、 百年の後でも解決しない問題です。

冷静に見れば、竹島は人も住めないちっぽけな岩山。そんな島と経済水域をめぐって、両国いがみ合っていても、 互いに得することは何もない。
韓国も日本も、自国の繁栄を願うのは同じ。「共に勝ち、共に栄える」の精神で、この問題を棚上げにして、お互い仲良くすればいいのですが…。

政治の世界は損得で推し量ることが多い。善悪だけでは通用しない。
自国のためなら、黒でも白と言いくるめるのが優れた政治。いつの時代も、どこの国も、時の政権の人気が落ち目になると、 国民の目を外に向けさせ、民族意識をあおろうとする。

[吉村外喜雄のなんだかんだ 第81号]
~歴史から学ぶ~
「罪をにくんで 人をにくまず」

以下、5/22中日新聞社説からの引用です。

「其の意をにくみて、其の人をにくまず」。これは孔子の言葉です。
この言葉、「罪をにくんで 人をにくまず」という教えとなって、今に伝えられている。
靖国参拝で小泉首相は、「戦没者の追悼の仕方に、他国が干渉すべきではない。 A級戦犯が合祀されている靖国参拝が、近隣諸国から問題にされるが、そもそも” 罪をにくんで 人をにくまず”というのは、孔子の言葉である」更に「戦後日本は、戦争を反省し、 国際社会の平和構築に努力して、戦争に行かず、一人の戦死者も出していない」と、中国に諫言している。

にくむべきは、罪そのものであって、それを犯した人ではないという意味。
この孔子の言葉の引用は、本来”被害者側”が口にする言葉である。
つまり、立ち直って正しく生きてほしいとの願いが込められている。
戦争の”加害者”が開き直って言うような言葉ではないのです。

そもそも、侵略をして、非戦闘員の一般市民や婦女子に暴虐を極めたのは
日本軍である。遺族は、八つ裂きにしても足りぬ恨みを抱き、世人も同感で、
戦後60年を経たとはいえ、日本が侵した罪を許したりはしないだろう。

戦後、敗戦国日本がアメリカに占領統治されたとはいえ、過去日本は、一度
たりとも他国の侵略を受け、婦女子が辱めを受けて、後世にまで恨みを残した
た事実はない。そういった歴史背景から国民感情を比べれば、あまり言い訳
めいたことは言えないのです。

罪人が、被害者の憎しみをわずかでも軽減したいと思うなら、罪を深く悔い、反省謝罪し、 全霊を込めて償う意思を示すことでしょう。

ドイツ政府は現在も尚、ナチ戦犯の時効を認めず、永久に追求し続けている。
そういった努力で、近隣諸国の信頼関係を回復し、中でもドイツと隣国フランス国民との交流は、 極めて親密で友好的だという。

それに引き換え、昨日の領海侵犯をした漁船のトラブルにもあるように、日本と韓国の関係は決して良好とはいえない。 最近の韓国の世論調査で、「最も嫌いな国は」との問いに、”日本”と答えた人が40%もいるのです。
なら、素直に謝ればいいのかというと、政治の世界はそうはいかない。自国の利益のためなら、 間違っていても正しいと言い張るのが外交戦略。解決済みの戦争賠償問題が、かま首を持ち上げてくるかもしれない…。

一ヶ月前に起きた反日デモの乱暴をわびようとしない、中国政府のかたくなさを見ても分かるように、そう簡単に 「悪うございました」と、頭を下げられない日本の立場も、理解しなければならない…。

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