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2006年03月 アーカイブ

2006年03月03日

いざなぎを超えるか?今回の景気

■「ことば遊び」 今日は漢字遊び"春夏秋冬"のある漢字。  

「春はつばき 夏はえのきで 秋ひさぎ 冬はひいらぎ 同じくは桐」
という歌があります。椿、榎、楸、柊、桐を覚えるのにいい。

・狂歌には、こんなのがあります。
「春うわき 夏はげんきで 秋ふさぎ 冬はいんきで 暮れまごつき」
人べんに、 春夏秋冬を付けたもので、人べんに春、秋、冬という漢字はあるが、
人べんに夏と、暮は存在しない。 

・次は私のオリジナル。お魚に春夏秋冬を付けたら…
「春さわら 夏はしいらで 秋かじか 冬はこのしろ 雪はタラ」
「鰆、鰍、鮗」 は辞書にある。夏のしいらは、魚へんに"暑"が正しい。

【吉村外喜雄のなんだかんだ -114】
~歴史から学ぶ~
「いざなぎを超えるか? 今回の好景気」

ようやく景気が上向き、長かった冬から、春の兆しが見えてきた…。
と、思っていたら、何と4年も前既に、右肩上がりの好景気に転じていたとい
う。なのに、景気が良くなったという実感が伝わってこない。

しかも今回の好景気、四十年も前、日本が絶頂期の頃の好景気「いざなぎ景気」
を超え、有史以来最長の景気になりそうだという…。 02年2月から景気は
プラスに転じ、今年の11月には、「いざなぎ景気」の57ケ月を超えるのです。

戦後最初にやってきた好景気は、朝鮮戦争特需による1955(昭30)~57年
「神武景気」 。初代天皇、神武天皇以来例を見ない好景気ということで、 名づ
けられた。耐久消費財ブームが起き、三種の神器(冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ)
が出現した。

神武景気の二年後、1959(昭34)~61年初頭の2年半、高度成長の波に
乗って「岩戸景気」 がやってきた。神武景気を上回る好景気から、神武天皇
よりさらに遡って「天照大神が、天の岩戸に隠れて以来の好景気」ということ
で名づけられた。所得が急増し、国民の「中流意識」が広がっていった。

当時は小売業全盛期。香林坊商店街はどの店も大繁盛。国道拡張に伴う再
開発ビルラッシュに湧いた。我が家も63年(昭37)、四階建店舗付ビルを、
私の間取り設計で、清水建設が施工して完成している。

岩戸景気から4年後の、1965年(昭40)11月~70年7月、消費主導型の
岩戸景気を更に上回る大型好景気がやってきた。岩戸を上回るというので、
更に歴史を遡り、国造りの神話から「いざなぎ景気」と名づけられた。

その後、団塊の世代が消費景気を引っ張った。私は、住宅ブームに湧いた、
昭和44~54年の10年間、時流に乗って急成長した積水ハウスに勤め、
大いに活躍。住宅建築ブームが一段落した、昭和54年2月に独立。化粧品の
商売を始めた。

いざなぎから16年後の、1986年12月~91年2月、「いざなぎ」に次ぐ、
戦後二番目に長い 「バブル景気」がやってきた。 この好景気で多くの国民が
酔いしれ、札びらが舞った。
実勢価格とはかけ離れた価格で、土地や株式、ゴルフ会員権などが急騰。
泡が膨らんでいくのに似ていたことから、「バブル景気」と名づけられた。

当時、化粧品の他、二つの事業に手を出し、精を出していた。バブルがはじけ
た後、それまで右肩上がりだった私の会社も、大波をかぶることになった。
ところで今回の好景気、「いざなぎ」を超えたら、どんな名前を付けるだろうか?

振り返えれば、長い人類の歴史で、世の中が大きく変化したのは、江戸から明
治にかけてと、太平洋戦争以降であろう。科学・文化・生活、すべての面で、今
ほど世の中が大きく変化し、庶民の暮らしが豊かになった時代はない。

文明が頂点に達した今の時代に生を受けた幸運を、喜ばずにはいられない。
また、過去60年、戦争に巻き込まれることもなく、平和に暮らしてこれたことも、
父親が生きた激動の時代を思うと、不足に思うことなど、あってはならないの
です。


2006年03月07日

ダメなものはダメ!

「みんな持っている…」
子供がゲーム器など、モノを欲しがるとき、「みんな持っている…」と言う。
親はこの言葉に弱い。一番気をつけなければならない言葉でしょう。
その時、お父さんはどう対応する? 「よそは良くても、うちはダメ!」と
言い切って、子どもを承服させることができるでしょうか?

お母さんは、そう言うお父さんに従って、子どもをなだめ、我慢させることが
できるでしょうか? 家庭内に、それだけの力を持たない父親が多いのです。

日ごろ、両親の"言行"が一致しない家庭の子どもは、いくらお父さんが
「ダメ!」と言っても、おとなしく言うことを聞きません。
子供をしつけるには、親がまず率先垂範、模範を示さなければなりません。
口先だけで道徳を説き、従わせようとしても、躾にはならないのです。

【心と体の健康情報 - 235】
~子育て心理学~
「駄目なものはダメ!」

ライブトアの堀江社長、民主党永田議員のお騒がせ騒動を見ていて、
今の日本人、何か大切なものが欠けているようです…

■会津藩の教え
会津藩には「日新館」という藩校がありました。ここで、あの白虎隊も教えを
受けた。藩校には「什の掟」というのがあり、七つの掟が定められている。
その中の五つです…
一つ. 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二つ. 年長者にお辞儀をしなければなりませぬ
三つ. 虚言を言うことはなりませぬ
四つ. 卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
五つ. 弱いものをいじめてはなりませぬ

この掟の最後には、「ならぬことはならぬものです」と、結ばれている。

いわゆる"問答無用"、「駄目なものはダメ!」、理屈ぬきなのです。
守らなければならない大切なことは、親や先生が幼いうちから、頭ごなしに
押し付けてでも、強制してでも、身に付けさせなければならないのです。

子どもは反発するかもしれません。それはそれでいいのです。初めに何か善
悪の基準を与えないと、子どもの内面から、正しい価値観が育ってこないので
す。
いじめを本当に減らしたいのなら、「大勢で一人をやっつけるのは、理屈ぬき
に卑怯である」ということを、幼いうちに叩き込んでおくことです。人の道の
精神にのっとって、「卑怯な行い」はダメと、教えなければならないのです。

たとえ、いじめている側の子ども達が、清く正しくて、いじめられている側が
性格のひん曲がった、大嘘つきだったとしても…です。
「そんな奴ならみんなで制裁すればいいじゃないか」というのは理屈、卑怯!
理屈抜きで「駄目なものはダメ!」「いじめをするような卑怯者は、人間の屑」
と、叩き込んでおくことです。

例えば「人を殺してはいけない」ということだって、理屈では片付けられない。
日教組の研修会で、傍聴していた高校生が、「先生、なんで人を殺しちゃいけ
ないんですか?」と質問した。そこにいた先生たち、誰一人それを論理的に
説明出来なかったという。

びっくりした文部省。人を殺してはいけない理由をパンフレツトにして、配布
することにしたという。そのようなバンフレット、何の役に立つのでしょう?
人を殺してはいけない理由を理論的に…なんて? 何一つないはず…。
反対に「人を殺しても良い理由」も、探せばいくらでもある…。
「駄目なものはダメ!」、ただそのことに尽きる。

数学者 藤原正彦著「国家の品格」より

韓国ドラマで、子が親を敬うシーンがある。韓国の若者にとって、子が親を敬
うのは理屈ぬき。当たり前のこと…。良し悪しの理屈などあるはずがない。
ライブドアの堀江社長や、民主党の永田議員。会津藩の「日新館」の教えを
叩き込まれていたら…、世間を騒がせ、迷惑をかけるようなことはなかった
でしょう。

2006年03月10日

大坂大空襲

■終戦当時の思い出
終戦当時5歳。香林坊に進駐軍がジープでやってきて、チューインガムやチョコ
レートを配った。甘味が無かった時代だけに貴重…。一日、ガムを噛んだり出し
たり、夜寝るときは秘密の場所に隠し、翌日もゴムのように硬くなったガムを、
クチャクチャ噛んだ。
終戦の翌年、聖霊病院付属幼稚園に入園した。ライザというドイツ人の若い先生
がいた。鼻が高くて美しく、優しい先生だった。今お元気なら85歳くらいだろう。
お昼のお弁当は、アルマイトの弁当箱に、配給の小麦粉に膨らし粉を入れ、パン
のように焼いて膨らませたものを、母が持たせてくれた。
 
直径20センチもある、進駐軍支給のピナツバターの大缶が配給された。口の中
で香ばしくとろけ、なんとも美味だった。鼻血が出るからと、少ししかなめさせて
もらえなかった。親の目を盗んでは、こっそりなめた…。

【吉村外喜雄のなんだかんだ  - 115】
~歴史から学ぶ~
「大阪大空襲」

今日3月10日は、東京が大空襲を受けた日。B-29爆撃機が三百数十機
来襲し、38万個(これは殺りくだ!)の焼夷弾を投下した。東京の3分の1、
28万戸が焼失し、一晩で9万2千人が犠牲になった。

東京空襲の三日後の3月13日。今度は大阪上空に、274機のB29爆撃機
が現れた。
以下、大阪遺族の会会長、伊賀孝子さんの「語り続ける空襲体験」より…

当時私は13歳でした。警報を聞き、家族揃って家を出、逃れようとした途端、 耳をつんざくような爆音とともに、私たちは吹き飛ばされてしまった。
死んだ…… 一瞬そう思いました。直後、足の甲に焼け付くような熱さを感じて我に返り、 燃え盛る炎の間をぬって、近くの防火水槽に飛び込みました。

肩までつかって熱さをこらえ、立ち上がった瞬間、防火水槽に女の子を浸そうとする、 隣の家のおばさん。体に火がついて「熱い!」と叫びながらに駆けてくる男の子、 全身火だるまで転がりまわる人、地獄絵さながらの光景が一斉に、目の中に飛び込んできました。

「お母ちゃん、お母ちゃん…」泣き叫ぶ私を、父が見つけ出し、 弟のいるところまで連れて行ってくれました。父は頭、顔、両手に大やけどを負っていました。
弟は、かぶっていた防空頭巾が焼け落ち、顔全体が大きく膨らんでいました。「水、水……」 そう繰り返しながら、三日後に亡くなりました。
母は、焼夷弾に胸を直撃されて、防空壕の中まで10メートル近く吹き飛ばされ、即死してしまいました。

大阪は、その後7回にわたって大空襲に遭いました。最も多い時で458機、 空はB29の機体で真っ黒に覆われるほどでした。ザザザザッと焼夷弾の雨が降ると、 轟音を発して爆弾が落ちてくる。「怖いッ!」と思わず身を縮めた瞬間、「ドカーン!」 と耳の奥がしびれるような爆発音が響きわたり、地面が揺れる。
13日の大空襲で、防空壕の多くが火事になったため、私たちは爆撃の最中、次々と立ち上がる火柱をぬって、 街の中を逃げ回りました。そこを機銃掃射で狙い撃ちされ、次々と人が倒れていきました。 環状線の中はまさに火の海、生き地獄でした。
8月14日の大空襲では、京橋駅のホームに千人近くの人が逃げ込んだ。
そこに1トン爆弾が直撃し、大惨事となった。 顔も分からないほど損傷した遺体が600体近くあったといいます。

その翌日、玉音放送が流れ、ようやく終戦を迎えました。最初に思ったことは、 あァ今夜からゆっくり寝られる…。ただそれだけでした。国が勝とうが負けようが、そんなことはもう、 どうでもよかったのです。

当時を知る人はもう数少なくなりました。いろいろなところで「空襲のお話」 をさせていただいていますが、今の平和と豊かな暮らしが、過去の多大な犠牲の上に成り立っていることを、 伝えていくことの難しさを痛感しています。

今の子どもたち。昭和20年、日本全国の主要地方都市60ケ所が空襲にさら
され、延べ45万人もの民間人が犠牲になったことを知らない。日本がアメリカ
と戦い、広島や長崎に原爆落とされたことは、学校で学び知ってはいても、
それは、歴史上の出来事であって、実感として受け止めることはない。

その原因は大人たちにある。太平洋戦争の教訓など、忘れてしまったかのよう
な今の世の中。過去の歴史を振り返り、今の生活に感謝することをしない…。
せめて年に1日、終戦当時を振り返り、質素な食事をみんなで食べて、贅沢を
慎み、感謝する日があってもいいのではないでしょうか… 

2006年03月14日

フランシスコザビエルが見た日本

【伊達政宗家訓】
一. 仁に過ぐれば 弱くなる
一. 義に過ぐれば 固くなる
一. 礼に過ぐれば へつらいとなる
一. 智に過ぐれば 嘘をつく
一. 信に過ぐれば 損をする
一. 気長く心穏やかにして よろずに倹約を用いて金銭を備うべし
一. 倹約の仕方は 不自由を忍ぶにあり
一. この世に客に来たと思えば 何の苦もなし
一. 朝夕の食事うまからずとも ほめて食うべし
一. 元来 客の身なれば 好き嫌いは申されまじ
一. 今日の行をおくり 子孫兄弟によく挨拶をして 
    しゃばのお暇申すがよし

伊達政宗は、フランシスコ・ザビエルが布教にやって来てから、18年後の1567年、日本の歴史に登場した人物。この家訓から、 論語や孟子の教えをまつりごとに取り入れ、国を治めたことが伺える。

【心と体の健康情報 - 236】
~歴史から学ぶ~
「フランシスコ・ザビエルが見た日本人/貧すれど貪せず」

1549年8月、フランシスコ・ザビエルが鹿児島の地にやって来た。地元の人に
心から歓迎された。鹿児島に居を構えて3ケ月後、本国宛て、日本の印象を書
き送った。

■1549年11月5日 鹿児島からゴアのイエズス会員にあてた書簡「第90」 
ー前文略ー 
日本についてこの地で知りえたことを、あなたにお知らせします。

まず第一に、この国の人々は、私の知る過去のいかなる国の人々より優れて
いることです。彼らは親しみやすく、善良で、悪意がありません。他の何もの
よりも"名誉"を重んじます。大部分の人々は貧しいのですが、武士も庶民も、
貧しいことを不名誉とは思っていません。

他人との交際は大変礼儀正しい。しかし、侮辱されたり、軽蔑されたりした
ときは、黙って我慢をする人々ではありません。人々は、武士が大変貧しい
暮らしをしていても尊敬するし、武士は、その地の領主によく仕え、よく臣従
しています。

この国の人達の食事は少量ですが、飲酒の節度はいくぶん穏やかです。
(こんな昔から、酒飲みには甘かった)
この地方にはブドウ畑がなく、米から取った酒を飲んでいる。
人々は賭博を一切しません。賭博をすれば、他人の物を欲しがるようになり、
そのあげく盗人になると考え、大変不名誉なことだと思っているからです。

大部分の人は読み書きができます。彼らは一人の妻しか持ちません。
盗人は少なく、盗みの悪習を大変憎みます。盗人は非常に厳しく罰し、死刑に
します。盗みについて、これほどまでに節操のある人々を、見たことがありませ
ん。
人々は大変善良で、社交性があり、知識欲はきわめて旺盛です。
彼らは獣(けだもの)の偶像を拝んだりはしません。その昔、哲学者のように
生活した人々を信仰(釈迦や阿弥陀)し、多くは太陽を拝んでいる(神道)。

この国は土地が肥えていないので、豊かな暮らしはできません。しかし、家畜
を殺したり、食べたりせず、時々魚を食べ、少量の米と麦を食べています。
彼らが食べる野菜は豊富で、幾種類かの果物もあります。

この地の人々は不思議なほど健康で、老人も沢山います。たとえ満足ではない
としても、自然のままに、わずかな食物でも生きていけるということが、日本人
の生活を見ていると、よく分かります。
日本にはボンズ(坊さん)が大勢いて、彼らはその土地の人達から、大変尊敬さ
れています。彼らボンズは、厳しい禁欲生活をし、決して肉や魚を食べず、野菜
と米だけを食べ、一日一度の食事はきわめて規律正しく、酒は飲みません。

           平凡社 河野純徳著「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」より

いかがでしょうか。これが450年前、山之内一豊が生まれる少し前の時代の、
私たち日本人の姿なのです。
これを、私が生まれ育った昭和30年代に当てはめると、ザビエルが見た当時
と変わらない暮らしをしていたことに気づきます…。3月上旬、日本アカデミー
受賞10部門の内、9部門を総なめにした映画、「三丁目の夕日」の時代です。

今からわずか四・五十年の間に、こうした"日本人の心"が色あせていき、
荒んだ世の中になっていったのです。
民主党の永田議員、目上を敬うことを知らず、礼を失した無礼な振る舞いに気
づかない。それはそのまま、私や私たちの世代を写し出す"鏡"なのでしょう…。

2006年03月17日

落語・クイ違い

私の若い頃、悪さをして、喜んでいる人がいたものです…。
金沢では、女性を隠語で「○○○」と言いますが、全国にはいろんな方言・
呼び方があるようで、関西では、この金沢言葉を知る人は少ない。

その昔、会社勤めをしていた頃、慰安旅行で白浜へ行った。
その時、悪さをする社員がいて、
「"さようなら"のことを、金沢では"○○○"と言うがや」と、ガイドさんに教えた
んです。
最後のお別れのとき、ガイドさんが、バスから降りてくるお客様一人ひとりに
手を振りながら、「○○○、○○○」と言って、頭を下げた。
してやったりと、男性社員はクスクス笑い。
ガイドさん気づいて、「何、これ!?」って、慌てて言うのを止めた…。

【吉村外喜雄のなんだかんだ  - 116】
~ことば遊び~
「落語・クイ違い」

今日は息抜きに、久方ぶりの落語の下ネタ話。

「酒を飲んで上がるものは血圧。ところで、飲めば下がるものナーニ」と、
なぞなぞ? 飲めば下がるものとは、言わずと知れた酒席の話題。
飲むにつれ、出るとはなしに、アッチの話が飛び出してくる。

このたぐいの下ネタ話を、落語では「艶笑落語」と称している。
寄席では聞けない、おなじみさんだけに語って聞かせる小噺です。

♪えー、落語家の仲間にも、いろいろと、この…、隠語がございます。
女のことを「タレ」と申しますナ。芸者を「シャダレ」なんて言ってみたり、
年増(としま)の女を「マダレ」と言ったりします。
おばアさんを「バーダレ」なんてェのは、ちょっと、申し訳ない言い方ですが…。

反対に、このォ~、男の持っている道具のことを、「ロセン」と申します。
舟を動かすのに、櫓を押す、あの櫓をひっかけてささえるところが、
舟からこう、グッと突き出しております…。
あれを櫓栓、櫓の栓というんだそうで、船頭仲間じゃ、別の名前で「櫓マラ」
なんて、言うそうですナ…。

あたしどもの仲間に、ちょいと小粋な顔だちの男がおりまして…、
若いころから女の子に人気があったんですが、
そいつが仲間と日暮れ方、寄席の裏かなんかで集まっておりましたが…、

男「おう、俺は、ちょいと、今日はこれで帰らしてもらうぜ…」
立ち上がったもんですから、悪いやつらばかりで、さっそくヤイヤイ言い出します。
甲「おうおう、まだ、宵の口だぜ。ええ若いもんが、こんなに早く家へひっこ
  もると、ロセンが夜泣きするぜ、エ!」
乙「夜中に、ひとりで淋しく、ロセンをなぜたり、サスったりしてるなァ、
  ほんとにヨ、みっともいいもんじゃねえぜ」。 

ワァワァ言って送り出したあとで、そばに落語ファンの、いいとこのお嬢さん
がひとり…おりましたんですがな…。

娘「あのォ~、ロセンってなンですか?」 
いや、モノがモノだけに、みんなギョッとしたんですが…、
中で気ィきかせたヤツが、
『 あア、あのネ、ロセンてのは、犬のことなんですよ…』 
娘「アラ、犬ですか」
『ええ、今、帰ったあいつはね、うちに、犬を一匹かわいがっていましてネ、
  だからまァ、あァ言ってからかったんです、ええ…』 
ゴマかしちゃったんですが…。

ところが、二、三日して、そのお嬢さんが、喫茶店でデートをしたんですナ。
いろいろと話題がはずんでいるうち…、
「ねえ、あなたのロセン、一度見せてくださらない?」
『えーッ、ぼ、ぼくのロッ、ロセンを??』
「ええ、見たいわァ! きっと、かわいらしいんでしょうねえ、そのロセン…」

『イッ、イヤ、カ、かわいいってもんじゃないんですけども…、
  あンた、そんなモノ見たいんですか?』 
「ええ、とっても! あたし、ロセン、だァい好き!」

『あ、あ、あ、あの…そ、そんなことを言っていいんですか?』
「どうして? あたし、毎晩、ロセンを抱いて寝るくらいなのヨ!」
『ロ、ロセンを抱いて…?  そ、そんなバカな、ま、まさか、そんな…』
「ほんとよ、あなた、知らないの? 私だってロセンを持ってるのよ!」

『ぎやァー…』ってんで、野郎は逃げ出しちゃったてんですが…、
まァ、ひどいことをしたもんでございます。

2006年03月24日

地球がうめいている(2)

■正月、紀伊大島にて…


元旦、朝七時と十時2本潜り、
お雑煮で新年を祝った後、もう1本潜った

海中でバーディを組んだ仲間

【吉村外喜雄のなんだかんだ  - 117】
「地球がうめいている(2)」

2/28中日新聞。沖縄・石垣島にある日本最大規模のサンゴ礁が、海水温の
上昇と、オニヒトデの大量発生で、危機にさらされていると大きく報じていた。

紀伊半島の南端、和歌山県串本沖。「この一帯はもう半分以上やられた」と、
串本水族館の館長は嘆く。大量発生したオニヒトデが、サンゴを食べてしまっ
たのです。
すぐ沖合いを黒潮が流れる。この海域の水温は、真冬でも18度はある。
北緯33度は、サンゴにとっては高緯度。その串本の海に、テーブルサンゴや、
枝状のサンゴが、120種も群生するようになった。
今では、日本を代表するスキューバースポットに…。ダイバーが集まってくる。

この紀伊の海に"オニヒトデ"が大量発生したのは、一昨年から…。
地元では、サンゴを守ろうと、この一年間で3万匹あまりを駆除した。
この1月も、わずか1時間で、30センチ前後のオニヒトデを、500匹捕獲した
という。
海水温の上昇、オニヒトデを食べるホラ貝の乱獲、河川汚染による海水の富栄
養化などが原因で、世界の海で大量発生するオニヒトデ。
日本では、70年代に開発が活発になった沖縄全域で大量発生。一時沈静化し
たが、再び被害が広がっている。

紀伊沖の海水温は、冬になると15度以下に下がり、オニヒトデは死滅して、
増えることはなかった。ところが、十年くらい前から、南方系のサンゴが見ら
れるようになり、オニヒトデも13度の水温にも耐える耐寒性を身につけ、
繁殖するようになった。

気象庁によると、20世紀百年で0.8度、平均気温が上がったという。
そのせいだろう、桜の開花は5日早まり、紅葉は一ケ月遅くなった。
一昨年から毎月京都を訪れ、四季折々季節の移り変わりを楽しんでいるが、
秋、紅葉の季節が12月上旬にずれ込んだだけでなく、赤く美しく色づく前に
枯れてしまい、美しいはずの庭園が、茶っぽく汚い景色になってしまった。

この後100年で、日本の平均気温が更に2~3度上昇するという…。温暖化
の影響は、そのまま自然界と、そこに生息する動植物に現れてくる。九州・四
国が北限だったナガサキ・アゲハは、最近、関東でも見られるようになった。

3/8 中日新聞

56豪雪の頃の北陸は、毎年大雪に悩まされた。今年は新潟・中越が、測候所
間設以来の記録的豪雪に悩まされている。豪雪地帯が北上していった。
このまま温暖化が進めば、一千万種を超える陸生動植物が絶滅すると、
英国の研究者が警告する。
折に触れ、海や山に出かける私。地球環境の悪化を、肌で感じるようになった。
2月のNHKスペシャルで警告していたように、このままでは人類が住めない
地球になってしまう…。

2006年03月28日

大和魂

3月19日、川人正臣氏の招きで「日本を変えた、すごい人サミット」に出席した。
"小野晋也"氏のコーディネートで、「全国先覚者顕彰サミット」の第一回が京都で開催されたのです。
今回、日本の先覚者に選ばれたのは、空海・中江藤樹・坂本竜馬・山田方谷・吉田松陰・伊庭貞剛の6名。サミットのテーマは…

(1)先覚者が残した功績          
(2)現在、日本が抱える問題は何か?
(3)これからの日本、どう改めていくか…
   ※坂本竜馬が姉にあてた手紙、「日本を今こそ洗濯いたすべく候」
(4)「すごい人」とは、どんな人か?

選ばれた6人の識者が、その時代の先覚者となり自論を述べ、会場の人たちを交え、議論を戦わせた。いろんな意見が出たが、私にとって"すごい人"とは、「誰もが出来る簡単なことを、いつまでもやり続ける人」 でしょう。
この会の提唱者、鍵山秀三郎氏が、そのすごい人なのです。

 

  ・十年   偉大なり
・三十年  歴史になる
・二十年  恐るべし
・五十年  神のごとし

 


【心と体の健康情報  - 237】
~日本人のアイデンティティー~
「大和魂」

ワールド・ベースボールで優勝した日本。「あれぞ大和魂!」と、世界に賞賛され、日本中が歓喜した。

日本に初めてやってきた外国人に、日本の感想を聞くと、「日本人は優しい、親切だ」と、口を揃えて言う。そして、欧米人が日本人に抱いているイメージで、肝心の日本人が忘れてしまっているものに「大和魂」 がある。
大和魂は「武士の心」。それは古き良き時代の、日本人を象徴するアイデンティティである。
つい少し前の時代、私の父親が生きた時代の精神には、
一つ、命にかけて、事に対処する覚悟」があった。
一つ、自分の利益よりも、周囲の利益を優先する、自己犠牲の精神があった。

「てんびんの詩」に見られるように、昔の人は偉かった。私の父親もそうだったが、家長として凛としたものを家族に示し、少々のことでモノに動じることはなかった。また、女々しさを嫌い、滅多なことで人前で泣いたり、弱みを見せたりしなかった。
イメージ的には、俳優の三船敏郎、笠智衆、山村聡などが浮かんでくる。
身近には、東京ストアの故箕田会長、シマダ時計店の故島田会長、92歳でかくしゃくとして、今年も商業界全国ゼミに参加した、芝寿しの梶谷会長など。

今の時代に生きる日本人、平和で豊かな暮らしが長く続く中、"心"が貧しく、 ひ弱になった。ちょっと何かあると、女々しく騒ぎ立てる。そんな男が多くなってきた(私もそう…)。誇り高き日本人の精神、大和魂を持つ者は、極めて少なくなった。

1860年徳川幕府は、使節団80名を米国に派遣した。

一行はワシントンで大統領にえっ見した後、ニューヨークのブロードウェイで、市民が手を振る中を行進した。
見物に集まった群衆の中に、詩人の"ホイットマン"がいた。
見ているうちに、こみ上げる興奮を抑えかね、後に一編の詩を書き綴っている。

「(前文略)…頬が日焼けし、刀を二本手挟んだ、礼儀正しい使節たち。
  無蓋の馬車に身をゆだね、無帽のまま、動ずることなく、今日 マンハッタンの街頭をゆく…」

キリッと背筋を伸ばした日本の使節団。傍目にもその凛々しさが伝わってくる。
立ち居振る舞いを見ているだけで、詩人ホイットマンの心を、感動に揺さぶった。き然とした威厳・気品が、当時の日本人にあったのである。
映画ラストサムライの、渡辺 謙の立ち振る舞いにそれが伺える…。

同じ人間でありながら、同じ日本人でありながら、何がそんなに立派なのだろう? 当時にあって、今にないものを問えば、それは「仁義礼知信」だろうか…。
つまり、幼少の頃に"四書五経"を修め、人としての生き方、在りようを身に付けたからであろうか…。
もう一つ昔にあって、今にないもの…。それは、もの事に「耐える」辛抱強さ、
我慢強さでしょうか…。昔の人は、貧しい暮らしの中で、もの事に耐える辛抱強さや、我慢強さを身につけていった。今の豊かな時代に、それを求めるのは無理というものでしょう…。

 

2006年03月31日

「てんびんの詩」から学ぶ

■ユダヤ商法に学ぶ
ユダヤ人は「倹約するほうが、金儲けより難しい」 と、私たちに教える。
「せっかく稼いでも、倹約して、無駄使いを止めなければ、財産を築き上げる
ことはできない」と…。

・20世紀の初頭、東欧の迫害から逃れるため、着の身着のままアメリカに移住。
  必死に働き、お金を蓄えたユダヤの人たち。ただ蓄え・倹約するのではなく、
  将来いざという時にそなえ、より重要な目的のために貯金したのです。

・そういった歴史的背景から、ユダヤ人は倹約家。金銭にこだわる。財布の紐を
  解く前に、その品物に値する価値と目的が、果たしてあるかどうかを仔細に検
  討し、見極める。熟考の末、支払う段になっても、値引きやサービスの余地が
  ないか交渉し、少しでも倹約しようと努力する。

・倹約はケチと混同されがち。が、ユダヤ人は一旦事態に直面したら、思い切っ
  て惜しげもなく大金を投ずるのです。                    
                                    「理念と経営2月号」

【吉村外喜雄のなんだかんだ  - 118】
「てんびんの詩から学ぶ」

毎年四月になると、新入社員の「飛び込み研修」を行なう。
研修は2~3ケ月続き、目標に到達した社員から順に修了していく。

最近はこらえ性がなく、折角難関突破して入社した会社を、辞めていく人が多
くなった。苦労の経験がないから、耐えられないのでしょう…。一番の問題は、
行き詰って悩んで親に相談したら、「嫌なら辞めてもいい…」と言う、子どもを
甘やかす親の存在です。

3月、商業界の一泊研修で、久しぶりに近江商人の物語、「てんびんの詩」を
鑑賞した。私の会社も研修で使ったが、鍋ぶたが売れた瞬間は、何度見ても
涙がこみ上げてくる。

この映画は、故"竹本幸之祐"監督(石川県羽咋市出身)が、鍵山秀三郎氏の
資金援助を得て、二十数年前に作られた名作です。
物語の中で、私たちの教訓となり、心にしみることばが随所に出できます。

母「働く人の喜びや、しんどさがわからんようでは、人の上に立てやしまへんえ
   …。人に出会うて、ご挨拶も出けんで、商人(あきんど)になれますか!」
  「商人は、自分を恥ずかしめるようなことをしてはいけません。 頼みます、
   お願いします…て、頭下げて、売れるもんやおまへんえ…」
(飛び込み研修の目的の一つに、きちんと挨拶のできる人間になることがある)

祖母「代々、分をわきまえることを大事にしてきました…。儲けの少ないときは
   始末をして、極力、出を抑えることや。ご先祖が、梅干や塩をなめてしのい
   できたさかいに、今日があるのです」
   
  「日頃商人(あきんど)は、質素でなければいけません。 しかし、商いのため
  やったら、惜しみなくお金を使う。 楽をするためや、贅沢のためにお金を使
  こうてはなりませぬ。自分が始末してでも、お客にちょっとでも有利な商いを
  する…。そのために、お金を使うことや」
(私の父親の時代の商人の基本的な考え方でした。ユダヤの商法と相通じると
  ころがあります)

百姓「百姓はなんぼ頑張って精を出し、きばっても、入ってくるもんには限り
   がある。食うだけで苦労して、一生終わるのが百姓や…。
  それに引き換え商人はいい。己の才覚と努力で、いくらでも発展するやな
  いか…」
祖母「子は今、親離れするための行をしとるとこや…。母親だけが辛いんでは
   ない、子の修行は親の修行でもある。大作も、それくらいの苦しさを乗り
   越えれんようでは、跡取りにはなれしません。 苦しさを乗り越えんと、
   一人前の人間にはようならん…」

母「あせったらあかん!一度決めたら最後までやり通すことや…。
   途中で投げたら、後悔することになるえ…」
父「商いは、天秤棒といっしょや…、どっちが重とうてもうまく担がれん…
  お客と売り手の心が一つになったとき、初めて商いが成り立つんや…」

母「うまいこと売ろう思うたかて、あきしまへん! 一生懸命生きている姿を
  知ってもらうしかあらしまへん…正直な子やな…、優しい子やな…、信頼
  できる人間やな…、役に立つ人やな…と思わはるさかい、商いがでけるん
  や…」

叔母「親戚に頼ったり、家柄でモノを売ろうとするさかい、売れしまへんのや。
   自分の商いをせなあきません。
   誰の力も頼らんと、自分の知恵と努力と人柄で商いをすることや…」
  「お前は自分のために鍋ぶた売ろうとしとるやろ。自分の都合ばかり考えと
  らんと、人のために商いをすることや…」
 
  「商いとは、お客様のお役に立つためにするもんや…。人の役に立ってみな
   はれ…、そんな人、誰からでも好かれ、モノが売れるようになるんや…」
   「家業を継ぐとは、自分をころして、お客様やお店のみんなのために奉公す
   ることや…」
  「商人に一番大事なのは、買うてくれるお客様の気持ちになって商いをする
   ことや…」

大作「人の道に外れたことをしては、商いはない…」(ふと、鍋ぶたを川に投げ
   れば、売れるのではと頭をよぎった時…)
   「親戚やからと、甘えとった…。叔母さんは鍋ぶた買うてくれるより、もっと
   大事なものをくれはった。商人になるための一番大事なものや…。
   それまで私は、ただ鍋ぶたが売れればいい、それだけしか考えなんだ…。
   買うてくれる人の気持ちなんぞ、考えもせんかった…」

ようやく売れた。物が売れた喜びと、見ず知らずのお客様が、私を抱きしめて
泣いてくれた感動が一緒になって…、商人ほど素晴らしもんはないと思うた。
「売るもんと、 買うもんの心が通わなんだら、モノが売れんのや」 ということを
…痛いほど身にしみました。
始める時に父親が、「売れたら分かる」と言うた意味…、売れてみて初めて、
「これが言いたかったんや…」と分かりました。

…このように、てんびんの詩は観るたびに、いろんな気づきを与えてくれます。
古き良き時代の商人の物語「てんびんの詩」。そこから、商人の心を学ぶ…。
どんなに時代が変わろうとも、"人と人との心の結びつき"は永遠です。

ところで、「てんびんの詩」の続編を知らない人が多い。
第二巻は、奉公先から中学へ通い、韓国で飛び込み行商を実習する。風俗習慣
の違い、言葉の壁、そういった苦難を乗り越え、「客とは何か」「売るとはどんな
ことか」を学ぶ。第一巻に劣らず、涙なしには見られない、感動の作品です。

三巻は、太平洋戦争という時代の流れに翻ろうされる。大作は召集され戦地へ。
敗戦でイギリス軍の捕虜収容所を経て帰国。戦後の財産税や農地解放で裸同然
に…。度重なる苦難を乗り越え、新たなる希望が…。感動の大作です。

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