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二代将軍・徳川秀忠

■二代将軍秀忠にまつわるエピソード

武将としては評価が低かった家康の三男"秀忠"。大坂の陣の後のある日、弟"義直"と共に能を観劇している最中、地震が起きた。 場内がパニックになりかけた時…
「揺れは激しいが、壁や屋根が崩れる兆候はない。下手に動かないほうがよい…」
と、素早い対応を示し、混乱を回避した。
イザという時、いち早く状況を把握し、統率力を発揮するという、人には見えない才能があったのです。

その一方、妻で信長の姪"お江の方"には、頭が上らなかった。
生涯側室を持たず、一度だけ手を付けた女中に、男児(後の保科正之)が生まれた。
正室からの追求を恐れて、会うこともなく保科家へ養子に出してしまった。

頭が上らないと言っても、信長も家康も生きてはいない。"お江の方"と不仲になったところで、将軍の地位が揺らぐわけではない。 側室を持つことに何の問題もなかった…
恐妻家だったことは事実だが、秀忠は律儀さゆえ、愛妻家を押し通したのであろう。

なお、息子の"保科正之"に会ったのは、妻"お江の方"が亡くなって後である。
その保科正之…後に、兄にあたる三代将軍家光をしっかり支え、幕政に多大なる貢献をしている。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 631】
~歴史から学ぶ~  「二代将軍・徳川秀忠」

歴史上の出来事をあれこれ探っていくと、思わぬ事実にたどり着くことがある。
それは結構楽しいものです。
家康から265年、15代続いた徳川幕府…家光や吉宗は、よく知られる将軍です。が、その他の将軍についてはよく分からない? そこで、 歴代将軍にまつわるエピソードを取り上げながら、人と為りを見ていくことにします。
今回は「二代将軍・秀忠」です。

秀忠は家康の三男。「秀忠は律儀すぎる。人は律儀一点張りではいかぬものだ」と、家康を嘆かせた。これに対し秀忠は、 「父のウソを買うものはいくらでもいる…しかし、私のウソを買うものはいないだろう」と、己を分析している。

兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に優れた"将"と評価されていた。
一方の秀忠、性格は温和で、戦は苦手。しかし、政務には抜群の才能を発揮した。
そんな性格故、関が原の戦いに遅参するという失態を招いている。にもかかわらず、兄・秀康を差し置いて、家康の後継者となり、 将軍の座に就いている。

家康亡き後、期待に違わず、幕藩体制を揺るぎないものにし、徳川265年の礎を築き上げたのです。鎌倉・ 室町両幕府が短命に終わったのは、二代目後継者に、それだけの能力がなかったことを示唆している。

政権を担うに当たり、酒井忠世、土井利勝、安藤重信を重臣に取り立て、他方、自分に従わない六男の松平忠輝、娘婿の松平忠直、 譜代の重鎮・本多正純を改易した。
更に、外様有力大名の福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲生忠郷 (会津若松60万石)を改易。

最終的に、外様23家、親藩・譜代16家を改易した。また"転封"も忠輝の時がピーク。
こうして、親藩だろうが大大名だろうが、遠慮無しに改易・転封する姿勢を示し、幕府に刃向かう芽をことごとく潰していった。

弟たちの処遇については、9男義直は尾張家、10男頼宣は紀州家、11男頼房は水戸家と、御三家を発足させた。
全国の諸大名に対しては、参勤交代を強いたり、築城・治水工事を命じ、藩財政に多大の負担を負わせるなどで弱体化を図り、 幕府に武力反抗するエネルギーを削いでいった。
在職中、「公家諸法度・武家諸法度」などの法を整備・定着させ、鎖国政策を推し進め、外国船の寄航を、平戸・長崎に限定した。

秀忠に将軍職を譲ったあとの家康がそうしたように、家光に将軍職を譲った秀忠は、"大御所"となり、 引き続き政務ににらみを利かせた。
海音寺潮五郎は著書の中で、「家康は全て自分で決めた。秀忠は半分自分で決めた。家光は全て重臣に任せた」と、 まつりごとに対する三人の違いを評している。

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