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2009年08月 アーカイブ

2009年08月03日

野村克也の野球人生

■野村克也の少年時代
 
生家は食料品店。父親は、野村が3歳の時満州で戦死。丹後ちりめんの産地で、周囲は裕福な家庭が多かった。一方、 野村の家は貧しく、劣等感にさいなまれる。
母は看護婦だったが病弱で、小学1年から兄とともに新聞配達をして、何とか生活した。
貧乏暮らしから脱却したいと、見入りのいい歌手や俳優に、本気でなろうと思った。                                                               ダンス部に入ったり、 映画館通いをした。中学2年の時野球部に入り、次第に周囲から注目されるようになる。中学を出たら、家計を助けるため、 働くよう母に言われたが、兄が大学受験を断念して、京都府立峰山高等学校に進学させてくれた。
 
野球部入部がバレ、退部を母に厳命されたが、野球部顧問の計らいで許された。
貧しくてバットが買えないため、一升瓶に海水を入れて素振りの練習をした。
しかし野球部は弱く、選手としては無名のまま、高校時代を過ごした。
                           フリー百科事典「ウィキペディア」より
 
687【心と体の健康情報】 
~幸せな人生を歩むために~
「野村克也の野球人生」
 
今年の中日はすごい。7月30日、対巨人三連戦を2勝1敗で勝って、 最大9ゲム差を、 1.5ゲーム差にまで縮めた…今年は巨人の独走かと思っいたら…大型選手のに、 ここまでチーム力を高めた落合督の、選手育成手腕「すごい」一言きる。
さて、セ・パ両リーグ「現役監督で名監督は誰?」と問えば、
ほとんどの人が野村克也監督と答えるだろう。
 
<選手の引き際>
「惜しまれて引退する選手もいれば、私のように、 ボロボロになりながら最後までやりぬく選手もいる…自分はもっとやりたかった」  
1980年、プロ野球人生27目、45歳で引退。3017試合出場、2901安打、657本塁打の大記録をた。
引退後の6年間、解説者・野球評論家として活躍…独自の理論が評判を呼んだ。
野球は『確率・運・流れ』… この3つの要素で確立したスポーツだと思いる。
 
1990年、思いもかけず、ヤクルトからの監督要請。
当時、ヤクルトは9年連続Bクラス…弱小球団の監督が務まるか、 自信がなかった。野村は悩んだ… 愛想が悪く、お世辞もおべんちゃらも言えない…人間関係・処世術が下手な自分が、
監督を引き受けられるろうか?…
優勝した巨人とは28,5ゲーム差もある…そんなチームを、
Aクラスに引き上げことが出来るだろうか?
 
監督を引き受けたものの、選手の顔も名前も分からない…
不安でいっぱいだった。
当時、ヤクルトは「のびのび野球」が浸透…野村の目から見れば、ただ大ざっぱだけ…。
万年Bクラスの弱小チームを、何とか勝たせたい。
そこで野村は、徹底してデーター分析に取り組んだ…
「ID野球」の誕生である。
ピッチャーの配給や、バッターの打球をスコアラーが収集し、
分析する。選手1人ひとりの得意・不得意を割り出す… それを基に戦い方を考える。
 
ID野球を理解させるために、毎日ミーティングを開いた。選手達は、 新監督のやり方に戸惑いを隠せなかった。選手に「勝てそうだな、いけそうだな」 という優位感を持たせることだ。
 
高津投手…4番バッターばかり並ぶ巨人のメンバーを見て、
あかんは、 こんなんで勝てるのかよ~」と、つぶやく。
「確かに、巨人というチームはすごい。でも人間だから、王、長嶋、 どんな選手も欠点・弱点がある。1人づつ分断して戦えば、大丈夫だよ」
野村は、徹底してID野球を推し進め、選手の意識を変え、 自信を持たせた。
 
ID野球で要になるのはキャッチャー。野村はルーキーの古田敦也に目を付け、 ID野球を徹底して鍛えた。監督は古田に言った…
失敗とかけて何と解く… 成長と解く。意味のある失敗はなんぼやってもいい。しかし、説明の出来ないつまらない失敗は、絶対許さない…
 
                                                                       NHK「死に場所はグランド」から

2009年08月07日

かわいそうな ぞう

■初めてのこと
 
60歳に手の届く頃になって、初めて「べビスターラーメン」を知った。
その会社の社長さんと知り合い、親しくなったからである。
「試食してください」と、ダンボール箱に詰められた幾種類ものお菓子が送られてきた…ビールのつまみにポリポリ食べた。
 
私が小学三年の時、遠足で初めて汽車に乗った…お弁当を開くと、おにぎりと”ゆで卵”が入っていた。 ゆで卵を一個丸ごと食べるのは初めて…三十分くらいかけて、大事に大事に味わって食べた…今も忘れない。
 
当時、卵は高級食品…病気でもなければ食べられなかった。(昭和30年代半ば、”芋パン”一個5円の頃で、豆パンの豆の代わりに、 サイコロに刻んだ芋が入っていた)
当時年に数回、家族で「すき焼き」を囲むのが、何よりのご馳走だった。
その時、1人に一個”生卵”が付いた。
春と秋のお祭りには、親戚からお重に詰められたご馳走が届いた…”玉子焼き”はお菓子のように甘く、大好物だった。 ゆで卵が滅多に食べられなかった時代です。
 
688 【吉村外喜雄のなんだかんだ】 
「かわいそうな ぞう」
 
今年も終戦記念日、8月15日がやってくる。 年々薄らいでいく戦争劇。
次世代を担う子ども達に、日本が犯した戦争の過ちを、 伝え残していかい。
戦争の悲劇を童話にした「かわいそうな象」のお話は、 私の子どもの頃にはなかた。半月前、 車のラジオで朗読しているのを聞いて、初めて知ったです。
第二次世界大戦末期、上野動物園で猛獣が薬殺されたことは知っている。
それが、小学生低学年向けの童話になり、発行部数は220超え、 教科書にも採用されたのです。
 
♪今、上野動物園には、三頭の象がいます。ずっと前にも、 やはり三頭の象ました。名前をジョン、トンキー、ワンリーと言いました。
その頃、日本はアメリカと戦争をしていました。戦争がだんだん激しくなって、東京に爆弾が雨のように、沢山落とされました。
もしも、その爆弾が動物園に落ちたら、 どうなるでしょう。檻が壊されて、 恐ろしい動物たちが町へ暴れ出たら、大変なことになります。
それで、軍隊の命令でライオンも虎も、豹も熊も大蛇も、 毒薬を飲ませて殺すとにしたのです。
いよいよ三頭の象も殺されることになった。 まずジョンから始めることになりした。ジョンは、ジャガイモが大好きでした。
ですから、毒薬を入れたジャガイモを、 普通のジャガイモに混ぜて食べさせました。
けれども利口なジョンは、毒薬の入ったジャガイモを、 長い鼻で口まで持っていくのですが、 直ぐにポンポンと投げ返してしまうのです。
仕方なく、毒薬を注射することになりました。馬に使う、 とても大きな注射器が意されました。
ところが、象の体は皮が厚くて、太い針は、 どれもポキボキ折れてしまうのです。
仕方なく、食べる物を一つもやらずにいたら、可哀想にジョンは、 17日目に死ました。
 
続いて、トンキーとワンリーの番です。この二頭は、いつも可愛い目をした、 の優しい象たちです。
私たちは、この二頭を何とか助けようと、 遠い仙台の動物園に送ろうと考えまた。けれども、仙台に爆弾が落とされたら、町に象が暴れ出るかもしれません。
やはり、上野動物園で殺すことになりました。
 
毎日餌をやらない日が続きました。トンキーもワンリーもだんだん痩せ細って、 元気がなくなっていきました。そのうちに、顔はげっそりと痩せ、 あの小さな目がゴムまりのように飛び出してきました…耳ばかり大きく見える、 悲しい姿になったのです。
 
今日までどの象も、自分の子どものように可愛がってきた象係は、 「あぁ~可哀うに…可哀そうに…」と、檻の前行ったり来たり、 うろうろするばかりです。
ある日、トンキーとワンリーがひょろひょろと体を起こして、 象係の前に進み出てきました。互いにぐったりした体を、背中でもたれ合って、 芸当を始めたのです。
ヨロヨロッと後ろ足で立ち上がり、前足を上げて折り曲げました。 続いて、鼻をく持ち上げ、万歳の姿勢をしました。
 
衰えなえた体内の力を振り絞って、よろけながら、一生懸命です。 芸当をすれば餌が貰えると思ったのでしょう…。
象係はもう我慢できません…「あぁ~ワンリーや!トンキーや!」と、泣き声を上て、餌のある小屋へ飛び込みました。走って、水を運んできました。 餌を抱えきて、 象の足元にぶちまけました。
「さあ!食べろ!食べろ!飲んでくれ!飲んでおくれ!」と、 象の足に抱きつきました。私たちはみんな黙って、見ない振りをしていました。園長さんも唇を噛みしめて、じつと机の上ばかり見つめていました。
象に餌をやってはいけないのです。水をのませてはならないのです。 一日でも長く生きていてくれれば、戦争が終わって助かるのではないかと、 どの人も心の中で、神様に祈っていました。
 
とうとう、トンキーとワンキーは動けなくなってしまいました。 じっと体を横たえ、澄んだ美しい目で、 動物園の空に流れる雲を見つめている…それが、やっとでした。
こんな姿を見た象係は、もう胸が張り裂けるほど辛くなって、 象を見にいく気力ありません。 周りの人たちも苦しくなって、象の檻には近づこうとはしませんした。
 
遂に、二頭の象は死んでしまいました。どちらも鉄の檻にもたれ、 鼻を長く伸ばて、 万歳の芸当をしたまま死んでいました。
「象が死んだぁ~象が死んだ!」…象係が叫びながら、 事務所に飛び込んできまた… ゲンコツで机を叩いて泣き伏しました。
 
私たちは、象の檻に駆けつけました。檻の中に転がり込んで、 痩せた象の体にすがりつきました…頭を揺すりました…足や鼻を撫で回しました。
みんな、おいおい声を上げて泣き出しました。その上を、爆弾を積んだ敵機が、 ゴウゴウと東京の空に攻め寄せて来ました。
 
どの人も象に抱きついたまま、「戦争をやめろ!戦争をやめてくれ…やめてくれえ」 と叫んでいました。
後になって調べたところ、タライくらいもある大きな胃袋には、 一滴の水も入っいませんでした

2009年08月10日

野村克也の野球人生(2)

■プロ野球選手へ
 
1954年、どうしてもプロ野球選手になりたくて、南海に契約金ゼロのテスト生で入団…テストは不合格だった。が、 キャンプイン前に、合格者の1人が入団を辞退したことと、鶴岡監督が「カベ(ブルペンキャッチャー)にでもしておけや… 」の一言で、入団が決まった。
当時の南海は、鶴岡監督のもと、毎年優勝争いを繰り広げていた。初年度の野村は、9試合に出て11打数無安打… シーズー終了後、戦力外通告を受けた。
 
「もしここでクビになるようなら、生きていけません。南海電鉄に飛び込んで自殺します」と辛抱強く食い下がり、 「お前のようなやつは初めてだが、お前はダメだ…活躍は無理…今ならまだ人生やり直せる…俺の目は確かだ」と、 担当マネージャーに突き放されたが、あきらめなかった。
ところが、またも幸運なことに、秋季キャンプに入って、正捕手が交通事故、二番手捕手はトレード、 三番手捕手が怪我をして、捕手不足に陥り、残留することになった。
                            フリー百科事典「ウィキペディア」より
   
振り返えれば、中学卒業後就職していたら…野球部を退部していたら…南海への入団が不合格のまま終わっていたら…そして、 一年後の戦力外通告…と、何度も野球の道から外れそうになりながら、その都度、野村を野球人生へ引き戻していく、”強運” の持ち主なのです。
 
  
689 【心と体の健康情報】 
~幸せな人生を歩むために~
「野村克也の野球人生(2)」
 
監督就任2年目の1991年…愛弟子古田が大成長…首位打者に輝き、 ヤクルトは念願のAクラス入りを果たした。そして3年目…セ・リーグ優勝を果たしたのです。
 
1992年、開幕戦の相手は宿敵長嶋巨人。巨人のピッチャーは大エース斉藤雅樹。 野村が5番に抜擢したのは、広島を首になったばかりの小早川毅彦…ID野球…斉藤の配給を頭に、バッターボックスに立った。 広島時代は、斉藤投手にやられっぱなしだった。この試合、小早川は3打席連続ホームランの快挙をやってのけ、勝利した。野村は、 小早川選手を再生して、この年快進撃を続ける。
 
優勝争いを繰り広げていた、天王山の10月3日の中日戦…野村は、一世一代の賭けに出た。 荒木大輔を先発に起用した…エッ!誰もが耳を疑った。ヒジや腰を痛めて、過去4年間、ほとんどマウンドに立っていない。 「僕でいいんですか?」と大輔…その時野村監督は、辞表を胸にしていた。
 
荒木は甲子園の優勝投手…大事な試合になればなるほど、力を出すタイプと野村は読んだ… 荒木は7回を無失点で抑え、4年ぶりの白星…ヤクルトを勝利に導た。そして野村は賭けに勝った。
 
野村は語る…「適材適所」も大事。が、数字にばかり囚われていては勝てない。 投手の第一条件は「精神力」、次いで「コントロール」「駆け引き」。 荒木は一番目の「精神力」に長けている…監督の決断は正しかった。
 
そしてついに、悲願のセ・リーグ優勝、日本シリーズ優勝をやってのけ、日本一に輝いた。以降” 選手再生工場”の野村と言われるようになり、ヤクルトをAクラスに導いていく。
野村は言う…「野球は頭を使うスポーツだ。一球ごとに考える余裕と時間がある。 サッカーにはそんな余裕はない」
 
人を育てること=自信を育てること
優しくすると頭に乗り、厳しくすると落ち込む。燃えない選手、 ガッツのない選手をどう導けばいいのか?…どうしたら自信を持つようになるか? 低迷している選手に共通するのは、 「これ以上は無理」「これくらい出来れば満足です」といったマイナス思考…。
 
人づくりの原点は”愛情”
愛情をかけてやらないと、育つものも育たない。伸び悩んでいる選手へのさりげない一言…これが効く。 「自分のことを見てくれている…評価してくれている」
上司の不用意で無神経な言葉が、人を傷つけている…慎まなければならない。
野村がヤクルトの監督になって9年間に、4度リーグ優勝し、3度日本シリーズ日本一になっている。
 
<野村の人生哲学>
躍進の裏にある野村の人生哲学…「財を残すか?仕事を残すか?人を残すか?…何を残すかによって、 人間としての価値が見えてくる」
ミーティングで、「人はなぜ生まれてくるか?」を問いかけ、自らの人生を見つめさせる… そこから始めないと、本物の選手は育たない。
「人として生まれ、人として生きる、人として生かす。人はなぜ生まれてくるか?」
「生きるため、存在するために人は生きている」…そのために「どう生きるのか」を、 選手一人ひとりに考えさせる。
                                NHK「死に場所はグランド」から

2009年08月18日

モンゴル・スダディツアー

■北陸に雪が降らなくなった理由
 
豪雪地北陸…そんな代名詞が付いた北陸に、雪が降らなくなって久しい
40年前と、今年の平均気温を比べると、輪島・舳倉島が2.6度、金沢は1.6度
上昇したという。地球温暖化現象が身近に感じられるようになったのです。
 
車と冷房…ヒートアップ現象で、東京の平均気温が上昇した話は聞く…。
なのに何故、金沢から遠く離れた孤島、舳倉島の平均気温が高いのだろう?
温暖化で海水温が上昇したことが、舳倉島の気温を金沢より高くしているのです。
 
お盆休み、モンゴルへ旅した…モンゴル北部は青々とした草原が広がっている…
車も工場も少ない草原の国が、30年の間に最大4.4度も気温が上昇したという。
川や三日月湖が干上がり、草木が枯死し"砂丘"が出現して、緑が埋もれていく。
 
モンゴル北部は、日本の冬の気候に影響を及ぼす、シベリア寒気団の発生場所です。
温暖化が寒気団の発生を弱め、私たちが住む北陸に暖冬をもたらすのです。
「北国新聞」
 
 

【吉村外喜雄のなんだかんだ - 690】
「モンゴル・スダディツアー」

 
お盆休み、モンゴル・スタディツアーに参加…白鵬や朝青龍の故郷を見聞した。
モンゴルは、1990年ソビエトが崩壊した時、社会主義国から民主主義国に衣替え、独立した。 自由経済の国に生まれ変わってわずか18年の、発展途上国なのです。
 
90年代…社会は混乱し、失業者が溢れた。首都には社会の貧困で見捨てられた「マンホール・ チルドレン」と呼ばれる子ども達が八千人もいた。冬は氷点下30度にもなる極寒の地…子ども達は、温水管が通るマンホールの中で、 寒さと飢えをしのいだ。
汚水が漏れるマンホール…その環境は劣悪…子ども達は感染病や、皮膚病に悩まされた。衣服は盗まれるのを防ぐため、全て身につけ、 路上で歌を歌ったり、車拭き、ガム売りをして収入を得、仲間と分け合い、食料を買った。稼ぎが無い時は物乞いをし、 ゴミ箱から食べられるものを漁った。どうしようもない時は、万引きをして飢えをしのいだのです。
 
私と会社が長年お世話になっているN教育研究所は、 そうしたモンゴルの子ども達の窮状に手を差し延べ、八年前、モンゴルの首都ウランバートルの郊外に学校を建て、寄贈した。 「大地の家」と名付けられ、現在約20人の子ども達が暮らしている。
今回、その「大地の家」の子ども達と交流するため、モンゴルを訪れたのです。
二日目「大地の家」を訪問。子ども達とピクニックに出かけ、ゲル(パオ)に宿泊。
一晩寝起きを共にして、交流を深めた。
 
モンゴル・スタディツアー
 
モンゴルの人口は270万人。首都ウランバートルに100万人住んでいる。
国土は広く、日本の4倍…人口密度は世界一低い。バスに揺られ、1時間も走ると、そこは原野。集落はなく、 遠くにポツンとゲルが見えるだけ。
 
平原に牛や羊が群れている。町から2時間も走ると、家畜を囲う柵がなくなり、 半野生化した牛や馬が草を食んでいる。
隣人が遠く離れているため、「おはよう、今日は、今晩は」という日常挨拶語がない。「良い春(夏、秋、冬)を過ごしていますか」が、 挨拶ことばになる。
 
年間平均降雨量は300ミリ…8月日本は豪雨に見舞われ、わずか一日で300ミリ降った所もある… 日頃、雨男と言われる私…初日の夕方から帰る日まで、空一面雨雲が垂れ込め、期待していたお星さま(天の川)が見られず、 キャンプファイヤーも、冷たい霧雨で中止になった…ついていない。
 
モンゴル・スタディツアー
 
三日目、朝食後子ども達とウランバートルへ…ガンタン寺、国立自然博物館、 ボグドハーン宮殿などを観光。外国人観光客も多数訪れていたが、「観光シーズンは夏場の4ヶ月だけ…直ぐに寒い冬が訪れる」と、 アルバイト・ガイドの女子大生が言う…日本の大学に留学していて、日本語が上手だった。

2009年08月19日

野村克也の野球人生(3)

■現役時代
 
昭和30年代後半から60年代にかけて、セントラルリーグでは王・長島、
パシフィックリーグでは野村・張本が、 日本のプロ野球史上に、数々の伝説・記録を残し、 プロ野球を豊かに、楽しいものにしてくれた。
 
野村克也は現役時代、南海ホークス、ロッテオリオンズ、 西部ライオンズで活躍 愛称は「ノムさん」。妻はご存知沙知代さん。
通算の安打・本塁打・打点・塁打数は歴代2位…いずれもパ・リーグ記録で、 球史にそのを残した。
野村は、「俺は、王貞治さえいなければ、三冠王になれたのに…」 ぼやく。
捕手という負担の大きいポジションにありながら、 1980年45まで現役で活躍… 通算3,017試合出場は歴代1位。
 
この6月、監督通算3000試合も達成…選手と監督双方で三千試合達成は、 米大リーグにも無い。
                   フリー百科事典「ウィキペディア」より
 
691 【心と体の健康情報】 
~幸せな人生を歩むために~
「野村克也の野球人生(3)」
 
<阪神の監督を引き受ける>
ヤクルトで役目を終えて退いた野村に、休む間もなく、 阪神から監督要請が入った。当時阪神は、6年連続Bクラス…付いたあだ名は”だめ虎”。
野村は再びユニホームを着る決心をした…ところが、これが困難の始まりだった。
 
監督就任一年目(1999)最下位。二年目も最下位…だめ虎は変わらなかった… 野村野球を受け入れようとしなかった。
さすがの野村も困惑。 「もうこれ以上恥をかきたくない」と、弱音を吐くようになった。
 
三年目も最下位…野村は監督を辞任した。
その時野村は…「変えられるものと、 変えられないものがある…球団によって、合う合わないがある」 と言った…野村のID野球… 阪神の体質には合わなかったのです。 伝統・ 歴史のある球団、環境・ 社風を変えるのは、 並大抵でないことを知った
 
原因を突き詰めれば、原因は選手・球団にはなく、野村自身にあると反省した。 ヤクルトで大きな仕事を為し終え直後の”気の緩み” にあったと…「教え方に手抜があった」と野村省する。 「楽を求めたら、その後にあるのは苦しみだけ…」
 
任期途中で、自分では阪神再建は不可能と悟り、「今の阪神の再建を托せるのは、 西本さんか星野だ」と、後任に中日の監督だった星野を推薦している。
後任監督を受諾した星野は、オーナーに直談判した…
「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、 すべてあなたの責任ですよ!」と、 発言している。
 
野村辞任2年後の2003年と2005年に、阪神はリーグ優勝果たした。
その時躍した主力選手は、 野村が監督時代に積極的にスカウトし、育てた若手だった…赤星、 藤本、沖原、 濱中、上坂達だ。 矢野に捕手として大きな影響を与え、桧山をスランプから脱却させている。 また4番打者補強で、広島からFAで金本を獲得している。
2002年、野村が再出発の道として選んだのは、社会人野球、シダックスの監督。 フロ野球の監督が、社会人野球の監督を引き受けるのは、 過去に前例が無い。
引き受けた理由は簡単…野村には、 野球以外の人生など考えられなかったから…。
「私は野球を誰よりも好きで、愛してもいた。野球をやったり、考えたり、 話したりしている時が一番充実感があり、楽しかった」
                        野村克也著「無形の力」より

2009年08月25日

正義を貫く勇気

天才と変人は紙一重
 
大阪大学医学部(吹田市)の標本室に、「幽体離脱」や「幻覚」 を度々体験した人のが、ホルマリン漬けで保存されている。
”知の巨人”と言われた植物学者”南方熊楠” 脳だ。彼は、 自分に何故幻覚症状現れるのか? 「脳を調べてほしい」 と言い残し、1941年に亡くなった。
 
精神科医で元京大助教授の扇谷博士が脳を調べたところ、 右側頭葉の奥の海馬”萎縮”を発見…これが幻覚の原因と結論づけた。
天才画家ゴッホ、ロシアの作家ドフトエフスキー、「不思議の国アリス」 で奇妙な夢界を描いた、 英国の作家ルイス・キャロルなどにも、 同様の疾患があったと見られいる。
側頭部の深い所は感情をつかさどる…この部分に問題が生じると、理性を圧倒し、 恍惚感や神秘体験など、「超越的存在感」 を間近に感じるようになる。
光を見て卒倒し、キリスト教に改心した聖パウロや、 神の声を聞いて英仏百年戦争身を投じたジャンヌ・ダルクにも、 同様の疾患が疑われているのです。
 
692 【吉村外喜雄のなんだかんだ】  
~歴史から学ぶ~ 「正義を貫く勇気」
 
杉原幸子さんの著書「六千人の命のビザ」を読んで…
1940年夏、ナチスの迫害から逃れようと、 ユダヤ人難民がリトアニアの日本領事館に殺到した。生命の安全が守られる国、スイスやアメリカに行くために、日本を通できるビザを取得しようとして…。誰もが知っている史実です。
 
領事代理の杉原千畝(ちうね)氏は、何とか外務省の許可を得ようと、 本国にぐが、回答は「否」だった。
後の手記に「苦慮、煩悶(はんもん)の挙句、道、精神第一という結論を得…」 と書き残している。
 
苦渋の末、ビザの発給を決断した。救った命は6千人といわれる。
杉原氏はなぜ決断できたのか? ビザを発給すれば、自分と妻・ 家族の身が危うなる。 外務省の指示に背くだけでなく、ナチスに追求される恐れもあた。
妻の杉原幸子さんは、著書「六千人の命のビザ」で、 「夫も私も当たり前のことをただけ…」と回顧している。しかし、決断するまで、苦悶の日々が続いた。
 
戦後杉原さんは、勝手な行動をした責任を問われて、外務省を追われた。 しかし、決断したことに悔いはなかった。
「究極の決断」は、一度だけのことだったかもしれない。
が、日頃、人道上恥ずべ行為あった時やめさせる、「小さな決断」 をずっとしてきたからではないでしか。
良心に基づく小さな決断の集大成が、歴史に語り継がれる”命のビザ” なったす。
「六千人の命のビザ」を読んで思うのは、何か決断を迫られる時、 それが自分って損なことか、得なことか?」 で判断するのではなく、そのことが相手にも、 良いことか、 悪いことか で判断できる人間になりたいものです。
 
この美談とは反対に、日頃悪いこととは知りながら、 恥ずべき小さな行為をずっきた人が、たった一回とはいえ、 とんでもない大きな過ちを犯して、それま築いてきた、人生の全てを失ってしまう…そんな事例は枚挙に暇がない。
 
交通ルールを軽んじて、身勝手な運転を繰り返す人などは、その良い例でしょう。新聞紙上には、 そんな恥ずかしい記事が溢れている…。

2009年08月27日

野村克也の野球人生(4)

■野村語録
 
王や長嶋がヒマワリなら、俺はひっそりと日本海に咲く月見草
1975年、600号ホームランを達成した時の談話。
600号は、前年王貞治が達成していて、パ・リーグ南海の野村が世間から
騒がれることは少なかった。この言葉は、以後野村の代名詞になった。
 
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし
この言葉は、松浦静山の剣術書「剣談」から、野村監督が流用したものです。
 
戦いに勝つは易し、勝ちを守るは難し
1993年、セ・リーグ優勝を決めた直後の監督インタビューで…。
人生最大の敵、それは”鈍感”である… ヤクルト監督時代
 
先入観は罪、偏見は悪」「初めての勝ちは、 嘘の勝ち
西部との日本シリーズで
これが楽天野球です。安打多くして得点少なし
2008年4月オリックス戦の後
 
お前、クビになって悔しかったやろ…じゃあ見返してみろ…
  心が変われば、 人生変わるで!
他球団をクビになって、入団してくる選手に投げかけた言葉。
 
 
693 【心と体の健康情報】  
~幸せな人生を歩むために~
「野村克也の野球人生(4)」
 
2002年秋、野村は社会人野球シダックス監督に就任。
当時は弱小チームで、凡プレーの連続。野村は、持ち前の理論で、徹底的にチーム改革に臨んだ。 キューバ選手を補強し、就任数ヶ月で社会人野球全国制覇を達成…。 野村は、プロ、アマ両方で日本一という、史上初の監督になった。
 
その後、都市対抗野球で準優勝するなど、快進撃を続け、 またたく間に社会人を代表するチームを作り上げた。2003年の都市対抗では、 野村の采配を見ようと、社会人野球では異例の4万人のフアンが押しかけ、 東京ドームが満員止めになった。
2004年には、五輪金メダル・キューバとの練習試合で完勝。
それまで一度も勝てなかった日本…「シダックスこそ世界最強」と言わせた。
 
2005年秋、楽天の監督要請を受けて、 輝かしい成績を続けてきたシダックス監督を退任。5年ぶりにプロ野球界に復帰。故仰木・オリックス監督に次いで、二人目の70歳代監督が誕生1年後、仰木が持つ「最年長監督記録」を更た。
監督就任時、「このおじいちゃんに監督を要請すること自体、 プロ野球に後継育っていないことを意味している…」と、野村らしいコメントをしている。
 
野村の毒舌は相変わらずで、記者の質問に「マー君、神の子、不思議な子」 など、ジョークやユーモアを込めたコメントが、スポーツ紙等を通じて、フアを喜
監督就任の抱負として、「作る年、戦う年、勝つ年」と、 チーム作り3年計画を公にしたが、2006年、シーズン終了後のフアン感謝祭で、 来季の成績に自分の退を賭ける旨、決意を表明した。
2007年、新人・若手を積極的に起用…投手陣では、一場、岩隈、 田中を先発、ーテーションに、永井、小山をリリーフエースに起用…西部ライオンズを抜いて、 4位でシーズンを終えた。
契約最終年の2008年は、投手ではエース岩隈が21勝をあげ、 4番山崎の活躍などで、前半戦パリーグ単独首位になるなど、話題をさらったが、後半息切れ… 貯金使果たし、5位に終わった。
 
3年契約が終了して、去就が注目されたが、野村への球団評価が高く、 2009年、もう1年楽天の指揮を取ることになった。
が、開幕から投手陣や新人怪我人続出。野手では、昨年の選手会長高須と首位打者リック・ ショートが戦力離脱。
 
開幕から連勝を続けていたが、 交流戦で失速…シーズン前半は4位で通過…在プレーオフの権利、 3位の座を巡って西部と争ってる。
                                             NHK「死に場所はグランド」から

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