« 2010年01月 | メイン | 2010年03月 »

2010年02月 アーカイブ

2010年02月01日

落語・河豚鍋

■河豚の毒
 
スキューバーダイビングが趣味の私…越前海岸に潜った時、時折手ヤスで
河豚を突いて持ち帰った。
カワハギのように、頭と背の間に包丁を入れ、親指を差し入れ、身ぐるみ
はがしていく…すると、皮と内臓が丸ごとくっついてはがれ、身だけが残る。
骨付きのままブツ切りにして味噌汁の具にする…これがたまらなく美味しい。
 
昨年11月、富山県のすし店で、フグの肝臓を客に出して二人が重体になった。
テトロドトキシンと呼ばれる猛毒で、その毒性は青酸カリの400倍にもなる。
卵巣に最も多く、次いで肝臓、表皮、腸の順…この毒、熱っしてもこわれません。
 
河豚を調理できるのは、「河豚取り扱い講習会」に二日間受講し、筆記と実技
の試験に合格した者に限る。ただ、一度合格すれば更新や再講習はない。
食中毒を出した寿司店主…免許を取得したのは23年前だった。  
                                       中日新聞                          
 
735 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~ことば遊び~ 「落語・河豚鍋」
                                      
鍋物が美味しい季節です。そこで河豚を題材にした落語「河豚鍋」のさわりを一席…。 原作は”十返舎一九”の小咄「河豚汁」。これをもとに、 二代目林家染丸が上方落語に仕立てたものです。
 
免許がないと、フグの調理ができない今の時代と異なり、 昔は素人が家庭で調理して、 中毒死することがたびたび起きた。
「あら何ともなや 昨日は過ぎて 河豚と汁」… 芭蕉の句にそれが伺える。
 
♪ある商家の旦那が、一杯やろうと支度をしていたところに、
知り合いの男が顔を出した。
旦那「ちょうど飲もうと思っていたところだ…相手になってくれ」と男を誘う。
愛想のいい男は、旦那、おかみさん、女中、はては飼い猫にまでヨイショして、 出された地酒や、塩辛の味も褒め上げる。
 
そうこうするうちに、かねて用意の鍋が、良い具合に煮立ってきた。
「これは何の鍋でしょう?」と客人…旦那『これはテツだ』
「テツと言いますと?」…『河豚だ』
 
答えを聞くと、男の様子は一変…当たるのが怖いから、一口も食べようとしない。
旦那も旦那で、先に食べるのは怖い
お互いに薦め合うが…どちらも先に食べるのはイヤで
箸は進まない。
 
ちょうどその時、勝手口に物貰いがやってきた。
『そんなら、あいつに食べさせて、具合を見てやれ』
旦那は、物貰いに河豚鍋を食べさせて、安全かどうか確認することを思いついた。
『そら…よろしいな』と、少し分け与える。
 
頃合い由と…様子を見にやると…何でもない…
まずは大丈夫と、二人で鍋を平らげた。と、そこへ物貰いがやってきて…
「旦那さん方…大丈夫ですか? …大丈夫な・よ・う・で…なら、ゆっくり頂きます」
 
                                フリー百科事典「ウィキペディア」

2010年02月02日

日本人と西欧人/文化・考え方の違い

■人間関係における意識のズレ
 
人間関係における意識の世界というものは、なかなか厄介です。
双方に”ズレ”が生じる。その”ズレ”が問題を複雑にし、トラブルに発展していく。
 
何か気に入らないことがあって、相手を怒らせたとき、自分はちょっと謝って、
そのことを直ぐに忘れてしまいます。ところが、相手はそう簡単に忘れたりしま
せん…いつまでも覚えているのです。
 
小額のお金を借りた人は、借りたことをうっかり忘れがちですが、貸した人は
何時までも忘れません。
自分が相手に親切にしたり、恩に着せたことは、いつまでも覚えています。
しかし、相手はそれを直ぐに忘れてしまいます。
 
講演テープや、書籍を借りた人は、返すことを忘れ、しまいには、誰から借
りたかも忘れてしまう…しかし貸した人は、いつまでも忘れません。
このように意識のズレから、人間関係がうまく行かなくなることが起きてくる。
本人は気づいていないだけに、始末が悪い。
 
人間関係に誤解が生じた時は、悩んだりせずに、率直に、率直に、相手の
誤解を解いていくようにしましょう。
 
736 【心と体の健康情報】
~幸せな人生~
「日本人と西欧人/文化・考え方の違い」
 
アメリカの交差点で、出会い頭に自動車事故を起こしたとき、 いち早く自分の正当性を主張し、相手の非を言及しなければ不利になる… と聞いた。
とりあえず、「ごめんなさい」と謝ろうものなら、 事故の責任のすべてを背負い込むことになる。
 
♪イタリアに留学した日本女性。部屋代が節約できるということで、アメリカ人の留学生と共同で、部屋を借りた。二人は最初に話し合って、共同生活のルールを決めた… 「夜の門限は11時」と…。
しばらくして、アメリカ人の女性が、この門限を破るようになった。
たぶん、デートなのでしょう。午前様になることもある。 日本人は何も言わず、黙っていました。
 
ある日、今度は日本の女性が門限に30分ほど遅れました。
この時日本人は、アメリカ人から散々文句を言われました。
彼女は「ごめんなさい」と謝って、穏便に済ませました。
 
それから数日後、日本の女性は再び遅刻しました。するとアメリカ人は、「あなたのようなわがままな人とは、もう一緒に住めない!」と、すごい剣幕で日本人をなじるのです。
 
そこまで言われて、日本人は反撃しました。
「あなたはこれまで、何度も門限を破ったでしょう。 その時わたしは文句を言わず、じっと我慢していた。それなのに、自分のことは棚に上げて、私ばかり責めるなんて…ひどい」と。
 
びっくりしたのはアメリカ人でした。アメリカ人にすれば、 「あなたは私が遅刻をしても、ちっとも苦にしない人だと思っていた」と、言うのです。「苦にしていたなら、どうしてその時言わなかったの?そうしたら私も、気をつけたと思う…」
この話…どう思われるでしょうか? 
日本とアメリカの文化・習慣の違いを、する話ではないでしょうか。
 
どうやらこの問題、アメリカ人のほうに分がありそうです。
私たち日本人は、を荒立てないよう、気配りします。
相手がルール違反をしたからと、 一々目らを立てたりせず、黙って許してあげる…そんな優しさを持っています。
 
でも、許したのであれば、後になって、その事を問題にしてはいけないのです。
ところが日本女性は、忘れてなどいません。
むしろ”貸し”を与えた気でいたのです。 何度も”貸し”を与えたのだから、自分の遅刻も許されて当然…と思ったのです。
 
アメリカ人にすれば、借りをつくった気はありません。
自分の遅刻に抗議してこなかったのだから、日本人はそれほど気にならず、許してくれたのだと思っています。 従ってアメリカ人には何も問題がないのです。
 
日本人は、遅刻した時抗議したら「ごめんなさい」って、自分の非を認めたではないか…なのに、同じことを繰り返したら、アメリカ人、怒って当たり前なのです。
 
ひろさちや 「般若心経・第42講」より

2010年02月09日

蒙古来襲が7年早かったら?

■「むごい」という言葉の語源
 
蒙古は他国へ侵略する時、まず国王に書簡を送り、国王自らの入朝をうながす。
世子を人質に要求し、馬二千頭など貢物の供出を強要。戸籍の調査、軍役の
負担などを要求してくる。要求に従えば、蒙古の属国として臣下の礼をとらせ、
更に過大な要求を突きつけてくる。
 
要求を拒否したら、軍事力でもって侵略・殺戮…力でもって屈服させる。
侵略の際、無抵抗で降伏すれば、貢物を献納させて生命を許す。
頑強に抵抗するようなら、徹底的に破壊して、住民を一人残らず殺戮する。
 
あまりの残虐性から、”蒙古”がなまって”ムゴコ”…「むごい」という言葉が
生まれた。
城市を攻める時、付近の住民を徴用して、攻城のための土木作業に使役し、
捕虜を最前線に押し立てて、逃げようとする者は容赦なく殺戮した。
攻城には投石機を使い、投げ槍・火矢を打ち込み、撞壁車(ドウへキシャ)で、
障壁を衝き砕いて突入した…
 
16世紀、オスマントルコが、東ローマ帝国の都、コンスタンテノーブルを攻略
する時も、同様の攻め方をしたが、当時ヨーロッパで開発された大砲が城壁
を破壊…守兵に精神的ダメージを与え、攻城に威力を発揮した。
 
737 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~
「蒙古来襲が7年早かったら?」
 
第5代世祖フビライ汗は、第2代太宗オゴタイ汗から、30年間に及んだ高麗侵攻を成功させ、1275年南宋を滅ぼすとともに、蒙古に屈服した高麗を、属国として巧みに懐柔…蒙古の野望達成に、高麗を最大限利用した。
 
二度の元寇の時も、日本遠征のための兵力と艦船の供出、食糧などの補給基地、東征の前進基地設置などの任務を、高麗に命じた。
 
1271年”元”が創建。第一次日本遠征(文永の役)は3年後の74年、元・高麗連合軍4万、戦艦9百隻をもって、南宋攻撃と同時並行で行われた…が失敗。
その後計画を変更し、高麗軍と共に南宋攻撃に全力を投入…南宋を滅亡させた。
 
第二次日本遠征(弘安の役)は、1281年東路軍(元・高麗軍)及び、江南軍(蛮軍・元に降伏した南宋の兵)の計14万2千名、戦艦4千4百隻をもって行われた。
元にとって…元寇は、世界制覇の通過点にすぎない…が、日本とっては、国家の存亡に係わる一大事となった。
 
当時、高麗軍の一部が、モンゴル侵略に徹底抗戦を唱え、王族の一人を王に推し立て、開京(ソウル)沖の江華島に篭って、モンゴルと高麗軍を相手に戦った。
モンゴルは、1266年日本遠征を企てるも、朝鮮海峡の制海権が、抵抗軍側に握られていて、動けなかった。
 
モンゴル・高麗連合軍は、抵抗軍を鎮圧し、日本遠征の弊害を取り除くのに7年を要した…日本遠征延期を余儀なくされたのです。
更にモンゴルは、日本遠征に準備した軍隊を、抵抗軍の鎮圧に差し向けたことで、多くの兵員、艦船を失い、膨大な損失をこうむった。
 
もしも、一回目の東征が7年前、当初の計画通り滞りなく行われ、更に神風が吹かなかったら…準備不足の日本は、圧倒的戦力に制圧され、婦女や働き盛りの男は、奴隷として中国に連れ去られ、寺社仏閣は焼き払われ、住民は服従を強いられて、虐げられた歴史を刻んだことだろう。
 
日本の歴史に、大きな屈辱・汚点を残したかもしれない元寇。
朝鮮で、モンゴル軍が足止めを食ったことで、日本に迎撃する時間的余裕が生まれ、救われたのです。
 

2010年02月12日

脳の栄養を考えた食事を…

■食生活と健康
 
食べ物は生命の源です。食べ物から、体に必要ないろいろな
成分が作られます。
私の両親の頃は、ご飯に味噌汁、煮魚、漬物といった和食中心の
食生活でした。私の世代は、そうした和食に、牛肉、ハム・ソーセージ、
卵、牛乳などの洋食が、食卓をにぎわすようになりました。
 
今の若い世代は、コンビニ弁当や出来合いのお惣菜、外食で済ませ
てしまいがちです…野菜が不足し、ビタミンの摂取が減って、栄養バ
ランスを崩してしまう。
 
今の私たちの健康は、30~40年前の食習慣が色濃く影響している。
日本人の平均寿命が世界一なのは、和食中心世代が長生きしている
からです。
戦後に生まれ、洋風の食事に慣れ親しんだ若い世代は、メタボなど、
何らかの生活習慣病に悩まされるようになった。生活習慣病の年代が、
小中学生にまで及んでいるのです。
 
昨年、日本人の平均寿命が初めて下降した。この先、今までのように
長寿国でいられなくなるかも…
 
738 【心と体の健康情報】 
~食と健康~ 「脳の栄養を考えた食事を…」
 
脳のエネルギーの元となるのは「ブドウ糖」…脳の栄養になるのはブドウ糖だけです。脳が活発に活動している時は、脳がブドウ糖を大量に取り込んでいる時です。
 
うつ病などで、気分が落ち込んでいる時は、ブドウ糖の取り込みが減り、脳の活動が低下します。逆に頭を使って何かをしている時は、脳は活発に働き、ブドウ糖をたくさん使います。
 
最近の日本人の糖分摂取量は、30年前の半分くらいに減っているという。
なのに、糖尿病患者は増えている。糖分が不足しても、脳はブドウ糖を必要とするので、体のほかの部分にブドウ糖が行き渡りません。
 
すると、体内でインスリンを出しても十分に働らかず、血中のブドウ糖が増えたままの状態になります。
これが糖尿病になる原因です。摂取カロリーを抑えようと食事を抑えると、かえって糖尿病になるのです。
 
うつ病の治療に使われる「セロトニン」…この薬の原料は、マグロやカツオ、豚の赤身などに多く含まれる、アミノ酸です。
ダイエットのためと、野菜や果物しか摂らないと「セロトニン」が不足して、うつ症状になる人が増えるのです。
 
健康に悪いと、やり玉に挙げられるものに「コレステロール」があります。しかし、「ガン」や「呼吸器疾患」「アルツハイマー病」は、血中コレステロールの多い人は、なりにくいのです。
脳は脂肪が多いので、ある程度の量のコレステロールがないと、脳は働きません。
 
いつまでもボケずに、健康でありたいと願うなら、脳の栄養を考えた食事をとるようにします。毎日「何を食べるか」ということは、「どう生きたいか」ということに深く関わってきます。体の健康だけでなく、その人の生き方と深くつながってくるのです。
浜松医科大学名誉教授 高田明和「食と健康」より
 

2010年02月16日

国盗りに成功した李成桂

■李朝時代の女性の地位
 
李朝鮮時代の女性は、一生を男性に奉仕する奴隷のごとく扱われ、人権は
無視された。
嫁いだ女性は、家系を継ぐ男児を産むことが最大の役割とされ、婚家から外へ
出ることは許されず、他の男性を見つめることも、話すことも固く禁じられた。
 
もし、妻の手が他の男に触れたりしたら、その男に非があっても、妻の腕を切断
され、婚家から追放された。言い分を聞くこともなく、死罪にされることもあった。
娘の不始末に、実家は名誉を守ろうと賜薬を与え、自殺を強要した。
 
夫が、妾を一つ屋根の下に住まわせても、嫉妬はならず、離縁されても生涯守
節を強いられた。夫に先立たれても自由の身にはなれず、一生を婚家に捧げ
ることを強要された。
男性は、科挙合格を目指し勉強したが、女性は、男に仕える道徳観を教え込ま
れる以外に、教育の機会が与えられることはなかった。
李朝時代の女性に人格はなく、夫が罪に問われると、子と共に囚われ、処刑さ
れた。韓国の時代劇にこのシーンが出てくると、哀れで正視できなくなる。
 
                       崔 基鎬著「韓国堕落の2000年史」
 
739 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~ 
「国盗りに成功した李成桂」
 
「龍の涙」「大王世宋」「イ・サン」など、李朝時代の韓流ドラマ…一度見たら止められなくなる。
ドラマをより深く楽しむには、韓国の時代背景・歴史を知っておくといい。
そこで休日、玉川図書館に出かけ、韓国歴史書を数冊借りて読んだ。
 
以下は、崔 基鎬著「韓国堕落の2000年史」から…李成桂が”李朝”創建に到る顛末を抜き出したものです。
元朝末期、「紅巾の乱(1351~66)」で知られる紅巾賊が、1359年と61年の二回”高麗”に攻め込んできた。
高麗軍は反撃して紅巾軍を壊滅、敗走させた。
この紅巾賊、その7年後の1368年、蒙古族の元朝を倒して、明朝を創建する。
 
紅巾賊が二度目に侵入してきた時、当時27歳の”李成桂”が、高麗軍の先鋒二千の兵を指揮して果敢に戦い、十万の紅巾軍を打ち破って、高麗の首都開京を奪還した。この軍功で李成桂は、その勇名を全国に轟かせた。
 
1388年高麗は、かっての韓国領・遼東半島を奪還しようと、中国が政変で混乱しているのに乗じて、出兵した。進軍の途中、李成桂は左軍の将軍チョ・ミンスと共謀して、にわかに高麗に反旗をひるがえし、回軍して首都へ戻った。(明智光秀の天王寺の変に似ている)
 
都に戻るや、李成桂は上官の将軍を逮捕・殺害、クーデターに成功した。権力を掌握すると、高麗朝32代の”?(う)王”に退位を強いて”昌王”を立てた。
まもなく昌王を廃位し、34代”恭譲王”に取り換える。
 
その後、共謀した左軍将軍を故郷へ配流し、忠臣たちを容赦なく殺してしまった。
(その顛末は、韓国ドラマ「龍の涙」で語られているが、ロシア革命のスターリンが浮かぶ)
1392年恭譲王を追放、自ら王位に就き、王氏一族を生きたまま海に葬り、みな殺しにして祖国高麗を滅亡させ…国を盗み取ることに成功したのです。
 
1393年、明国から「朝鮮」という国号を貰い…改称。かっての韓国領、遼東半島奪回の絶好の機会を失ったうえ、20世紀初頭、日本に併合されるまで、韓族は中国の属国になり下がり、萎縮の道を歩むことになった。
 
李朝を創建した李成桂は、国都を開京(現在の開城)から、漢陽(ソウル)に移し、同時に、旧高麗朝の官僚を大量に虐殺して粛清…没収した領地を、配下の功績者に分配した。
 
李朝創建を後押しした明を、宗主国と仰ぎ、それまでの国教”仏教”を廃して、中国に習い”儒教”を国教と定め、「崇儒排仏」を建国の理念とした…
民族の自立を放棄し、明に従属することで、李政権の安泰を図ったのです。
(国の安全保障をアメリカに委ね、米国52番目の州と揶揄される、現在の日本もそうかな?)
 

2010年02月18日

吉田松陰の”天命”

■坂本竜馬が残した人生訓
 
「善く問いを待つ者は、鐘を撞くが如し」
「善い教師とは、生徒にとっては、鐘のようなものである」
この言葉、西郷隆盛を評した言葉として伝えられている。
 
男児志をたてて郷関を出づ 学もし成らずんば 
  死すともかへらず
坂本竜馬、数えで19歳の時、剣術修行のため、藩からいとまごいを許され、 土佐から江戸へ旅立つ時に、詠んだものです。
この江戸行きが、 幕末の快男児の活躍の始まりになる。
 
「世の人は、我を何とも言わば言え。
  我が成すことは我のみぞ知る」
「世間の人は、言いたければ、自分の事を思う存分に言えば良い。
  だが、自分のやりたいことは、自分のみが知っている」
 
740 【心と体の健康情報】 
~幸せな人生~ 「吉田松陰の”天命”」
 
嘉永7年(1854)、下田の浜で海外渡航をこころみようと、
今まさに小船を漕ぎ出そうとしている吉田松陰…
 
松陰「坂本君…この海の向こうに何があるか…
         知りとうはないか…僕は知りたい。
         この目で見とうてたまらんのじや! 
         今、そこに黒船が来ちょるんぞ…
         黒船に乗りァ~ アメリカに行けるんじゃ…
         日本よりはるかに進んだ文明の国へ…
         そのような絶好の機会を目の前にして、
         指をくわえて見とれッちゅんか!
 
竜馬『密航が見つかれば、先生は死罪です…
         二度と日本には戻って来られません』
 
松陰「それがなんじゃ! いや…失敗するかもしれん…
     黒船に行く前に囚われるかもしれん…
    乗船を拒まれるかもしれん…それでえェんちゃ!
    なんもせんでおるより…
         その方が何千倍、何万倍も値打ちがある…
    僕は死など怖おうない! 
         そげェなことより、行きたいちゅう気持ちの方が、
         はるかに強いんじゃ…
     坂本君…君が本当に異国に興味があるんなら…
         きっと僕と同じことをするはずじゃ…
         じゃが、君はそれをせん…なぜじゃ? 殺されるからか?
     日本に帰れんからか? 別れが辛いからか?
    そんなものはなァ…すべて言い訳じゃァ! 
         見ろ! 僕には言い訳など何もない
         どんな運命が待っちょろうが…後悔せん! 
         僕が今やるべきことは、黒船に乗り込んで、
         アメリカに行くことじゃァ! アメリカへ行くぞ…」
 
竜馬『待ってつかわさい…待ってつかわさい…松陰先生…
     わしも、わしも…
         一緒に連れていってもらいませんでしょうか…』
松陰「なにィ!」
竜馬『今の先生の話を聞いて、わしは…
         自分がなんちゅう細んまいことで悩んじょったか…
         自分が恥ずかしゅうなりました。
    役に立つとか、立たんとか…
    そんなことはどうでもえェちャ…
    わしも、先生のような生き方がしてみたいがです」
 
松陰「バカたれ! 黒船に乗り込んでアメリカに行くんは、
         僕のやるべきことであって、君ではない!  
         君はなにものじゃ! 
    なんの為に、この天の元に生きておる!                 
         君がやるべきことは…なんなんじゃ! 考えるのじゃ! 
         己の心を見ろ!  そこにはもう…答えはあるはずじゃ!」
   「行くぞ!」
松陰は、沖に停泊する黒船に向かって、浜から小船を押し出し、漕いでいった…。   
ペリー艦隊の遠征記録には、 「こうした日本人の気質を見ると、この興味深い国の前途は、 なんと有望であることか…」と、松陰の情熱を書いている。
 
                        NHK大河ドラマ「龍馬伝」より

2010年02月22日

李氏朝鮮五百年・3代太宗まで

■「威興差使(ハムフンチャサ)
 
李朝を創建した李成桂、息子たちの醜い争いに嫌気をさし、威興に隠居してしまった。
抗争の末に太宗となった五男の芳遠(バンウォン)は、親孝行を国民に印象付けるため、父を都に戻そうとし、幾度も”差使(勅使)” 使わしたが、太祖は固く拒んだ。
使わされた差使は皆、太祖に殺されてしてしまった…五男・太宗への憎悪の念が、それほどに強かったのです。
それ以降韓国では、「家出して再び戻らない人」を指して、「威興差使」と言うようになった。この言葉、 今日でも日常用語に使われているのです。
 
李朝には、庶民の請願や上訴を受ける役所がある。解決困難な時は、王城の外に設置した内楼に太鼓が掛けてあって、 訴訟を訴える者がこの太鼓を鳴らすと、国王が直々その訴えを聞き、事を処理した…過去に汚点を抱える太宗の発案で設けられたのです。
後世の史家は、その事をもって名君と記しているが、兄弟を虐殺した史実には口をつぐんだままである。
                        崔 基鎬著「韓国堕落の2000年史」
 
741 【吉村外喜雄のなんだかんだ】 
~歴史から学ぶ~ 
「李氏朝鮮五百年・3代太宗まで」
 
韓国の歴史…血で血を洗うし烈な権力抗争を繰り返し、権力の手に入れると、 暴虐の限りを尽くし、 法は権力者によって好き勝手に用いられた。 権力の座を奪い合う韓国の歴史は、凄惨を極めた。 民衆搾取の対象でく、 韓国の歴史を知れば知るほど、 おぞましい過去が浮かび上がってくるです。
 
国盗りに成功した李成桂…中国の醜く腐敗した政治文化を模倣して、 国造ため、創建当初から、血で血を洗う骨肉の争いを繰り返すことになった。
 
李氏朝鮮は、現在の北朝鮮に驚くほど似ている。 旧ソ連や中国の社会主義権力者は、美しい建て前で権力を正当化してきた…その陰に隠れて、 一族一派が私利私欲に走り、勝手放題をやった。
 
現在の北朝鮮は、そのような体質を受継いだ、最もおぞましい国だろう。 鎖国・攘夷政策を徹底…多くの民衆が飢餓に苦しみ、 国境を越える危険を冒して食糧を求める。
逮捕されれば、大衆の前で処刑され、李朝時代の身分制度はそのまま、民衆に人権はなく、居住・ 転居の自由も、旅行を楽しむ自由もない。 社会主義の衣をまとった李氏朝鮮そのものなのです。
 
李朝を創建した李成桂には八人の王子がいた。最初、忠臣たちに諮って、 七番目の子バンボン世継に決めたが、 舌も乾かぬうちに、末子のバンソクを世子に改めた…この決定を巡って、王子たちの間でし烈な内紛が生じたのです。
 
不満が爆発した五番目の子バンウォンは、偽りのデマを流して、 政権の中枢にた建国の功労者たちを一挙に殺害。世子のバンソクを勝手に廃位・殺害してしまう。
太祖が、後継者に決めた最愛の末子を、その家族と共に実兄が惨殺したのです。
 
太祖・成桂は、こうした事態に嫌気をさし、 1398年王位を二番目の子バンクアにって、故郷に隠居してしまった。
バンクアは”定宗”と号し、二代目の王に即位した。
不満やるかたないバンウォンは、またも策略を講じ、定宗や他の王子をしりぞけて”太宗”と号し、 李朝三代王に即位した。
 
李成桂の長男”バンウ”は、兄弟の醜い権力抗争を逃れ、世俗を捨て、 山寺に隠匿。七番目のバンボンも殺害されたため、残る四人の王子達は、誰一人王位求めようとしなくなった。
 
今の北朝鮮も又、不可解なことだらけ…1994年の金日成の急死は、 金正日による暗殺説が今もって消えず、金正日の後継者も、当初は長男”正男”氏だったが、後継争いに敗れ、現在国外にいる。次いで、次男”正哲”氏が候補に上ったが、現在三男”正雲”氏が有力視されている。 3代にわたる世襲を正当化するための下地づくりに忙しいようです。
 
韓国歴史大河ドラマ「大王世宗」は、三代目”太宗”と、その世子”世宗”を巡るドラマだが、 王位と権力の座を巡る陰謀策略が、視聴者を引き付けて離さない。                                 
 
               崔 基鎬著「韓国堕落の2000年史」

2010年02月25日

天命(天職)を知る(2)

■繁栄する農業                  (職場の教養)
農業を営むTさんは、 妻と二人の息子と従業員で、楽しく仕事に取り組んでいる。 周辺の農家の多くは後継者が無く、やむえず廃業に追い込まれる中、 Tさんの農業は元気です…それにはわけがあります。          
                                                                                                                 Tさんは農業が大好き… 23歳で独立した時、「自分の好きな農業で起業し、多くの仲間と共に、生涯農業に関わりたい」と、 大きな希望を抱いて働き始めました。その後、「農業が好き」という妻にも出会いました。                              
                                                                                                                 二人の子供は成長し、 地元を離れて東京の大学へ行きました。                                                                          卒業後、 「両親と共に農業をやりたい」と、故郷に帰ってきたのです。                                                                         Tさんの農業への思いが、 子ども達に伝わったのです。

人は暗い所よりも、明るい所に集まるものです。心を明るくして、 希望を持って、明るく未来に向って働く両親の姿が、輝いて見えたのです。自分の仕事をこよなく愛し、 将来に大きな希望を抱いた時、周りに人が集まってくるのです。                                                                                                                                                                                                        

 

742 【心と体の健康情報】                                                                                       ~幸せな人生~  「天命(天職) を知る(2)」

大学は出たけれど…就職難の今の時代、どんな仕事が自分に向いているのか?
天職を見つけられないまま、好きでもない仕事に精を出す…
辞めても、再就職が難しい。10人中7人までが、今のに不満を持ち、 きっかけがあれば転職したいと思っている
 
「理念と経営・この人この言葉」で、日清食品創業者・ 安藤百福氏が天命” ついて、 以下分かりやすく語っている。
 
「明確な目標を定めたあとは、執念だ。 
  ヒラメキも執念から生まれる。
  その気になれば、一日で一ヶ月分の仕事ができる」
 
目標を定めてから、決意に到達するまでの間… 迷いをふっきるまでの行程が難しい。
人は誰でも多くの可能性を秘めている…それを、一つの方向に絞りきるまでは、 右往左往の思案投げ首を、 いかさまも経験しなかった人は少なくなかろう。
いかに謙虚な性格であっても、自分の将来を左右するであろう、 いくつもの灯火が心に思い浮かぶのを、避けることはできない。
 
あれもこれも「やってやれないことはない」と、 ふところ勘定したくなのは、人間である以上当然の成り行きであろう。
あれこれ勘案するうち、心を落ち着けて検討し、 自分には向いていない筋を数えあげることは、たやすいことだ。
 
しかし、多くの人はそこで立ち止まり、あれもこれも手を出そうと試みては、 多岐亡羊嘆に暮れる。しかしそこで、己にふさわしくないものは、 思いきて見切りをつけることだ。
 
自分に適しない仕事を、選択肢から勇断を以って削り去っていき、 最後に残ったものを、道標に即して一歩踏み出す時が、自分に与えられた天命(天職)なのである。
 
おぼろげに、漠然と夢見てはいけない。一旦目標を定めたら、 その後は脇見をないことである。自分にはこれしかないと思い定めたら、 方向を明確に限定しなければ、前途は開けない。
その時の”執念”は、人の秘める能力を、 何倍も規模に膨らませるのです。
 
目的が明確であればあるほど、工夫の手立てがおのずから浮かびあがってくる。
不可能を可能にするのは、灼熱に燃えた意欲である。
「成功者の多くは、 前途の難関を執念で打開していく
”根性者”である」
*****
とは言え、希望する職種はおろか、希望とは遠い職種に妥協しようにも、 就職門戸は狭く、 卒業を目前にして、 なお面接に走り回る学生たち天職を求めるなど、夢のまた夢… 人生のスタートラインつまづいている学生を見て… 「子ども手当て」より、「学生をなんとかしてほしい」と、 国に訴えたくなるのは、私だけだろうか?
 

メルマガ購読受付

このブログの記事をメルマガで定期的にお届け致します。

メルマガ購読のお申し込みはこちら >>

About 2010年02月

2010年02月にブログ「吉村外喜雄のなんだかんだ」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2010年01月です。

次のアーカイブは2010年03月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.36