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李氏朝鮮五百年/第十代・燕山君

■李朝三大悪女(毒婦)
 
10代燕山君の側室…張緑樹(チャン・ノクス)
 側室として燕山君を意のままに従わせ、宮中の権力を欲しい
  ままにした。
 ”中宋”によるクーデターで燕山君が廃位された後、
  張緑樹は捕らえられ、 斬首の刑に処せられた。
  彼女の死骸に人々は石を投げ、罵声を浴びせたという。
 
11代中宋の后…鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)
 毎週月~金、TV「女人天下」で放映中!
 両班の娘に生まれながら、妾の娘とさげすまれる生活から
  抜け出そうと、キーセン(芸妓)になり、その美貌と聡明さで、
  チャングムが仕えた”中宋”王の后にのし上がっていく。
 
19代肅宗の側室…張禧嬪(チャン・ヒビン)
 家の没落から這い上がって女官になり、 君主の寵愛を受けて、
  宮中で権力を振るう。第20代景宋の母親となるも、
  その後没落… 波乱万丈の生涯を送った。
 
 
766 【吉村外喜雄のなんだかんだ】  
~歴史から学ぶ~ 
「李氏朝鮮五百年/第十代・燕山君
 
第9代”成宗王”は賢君だったが、女性問題で禍根を残した。
正妻が、後宮の妾たちへの嫉妬が激しいという理由で、王后の地位を廃し、常民地位に落とし、殺害してしまったのです
 
二人の妾の王后追い落とし陰謀に、重臣たちが加わり、 王をそそのかし顛末これが次の第十代王の世になって、王室を揺るがす大事件になるのです。
 
廃后された王后は、二人の男児を産んでいた。
迫害を加えた勢力は、二人を王宮から追い出そうとしたが、成宗王は幼い我が子をいとおしく思い、手を触れさせなかった。
 
二人の子は、母の死の真相を知らないまま育ち、1483年長男”燕山君” は跡継”世子”に冊封され、 1494年18歳で父王の崩御に伴い、第十代国王に即位した。
 
当時宮中には、争う二つの党派があった。一方の党派の総領は、国王の信任厚く、 若い国王を抱き込んで ・ 密告。
謀られた党派一族は、虐殺・流刑・ 罷免に処さて、一族は没落。戦いに勝利した奸悪な一派は、その後勢威を増して、 誰もそえなくた。
 
燕山君は、即位後しばらくして、母が妾たちの奸計によって廃位され、 更に毒殺れたことを知った。 母が毒杯を飲まされて苦しみ吐血した、血しょうが付着した服を見せられた王、全身を震わせ憤り…復讐を心に誓った。
 
1504年、まず父王の妾の王子二人、妾一族を撲殺。
父王の代の重臣二人は、処刑さらし首にした。 それでも治まらず、加担した重臣並びに高官一族を、皆殺しにした。
 
父王の重臣たちが健在だった、燕山君の治世の前半は、多くの治績を残したが、 復讐によって、これら重臣が一掃された後は、酒池肉林に溺れ、 政治を顧みようしなかった。
 
王宮内の学問所を廃し、成均館の学生を追い払って、遊宴の場所に変えてしまった。 燕山君の暴虐な振る舞いは日をもって増していった。
狩りに熱中するあまり、ソウル周辺三十里の民家を強制立ち退かせ、農地を廃し、 狩猟場にしてしまった。
全国から集めた美女千名…中でも歌や舞いに秀で、 容姿に優れた技芸を三百人選び出し、 王宮内に住まわせた。
 
このような暴政が長続きするわけがない。1506年9月、 国を憂える一派が王の異母弟”晋城大君”を擁立して…決起。
燕山王を、江華島の北にある小さな島幽閉した。 燕山君は翌年、この島で30歳で病死した。
後に、李朝王27人の中で「最もふさわしくない王」 の烙印を押されたのは、 燕山王と15代光海王の二人だった。
 
晋城大君は、第十一代”中宗王”になった。燕山君に、 先王の妾の陰謀をあばき、最高位に昇りつめた両班は、 父親と共にれた。
李朝の時代、政争に敗れた反対派勢力は、 一族もろとも処刑されるが通例だった…一族の女性は奴婢(ぬひ)に落とされて、哀れな末路を辿った。
 
                                                       崔 基鎬著「韓国堕落の2000年史」

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