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秀吉、朝鮮出兵の顛末(2)

■撤 退
 
1598年8月秀吉が死んだ。秀吉軍は戦意を消失し、我先にと撤退を
始めた。しかし、陸は明兵と朝鮮義兵が溢れ、海は”李舜臣”の軍に
抑えられて、撤退は困難を極めた。
 
その時大活躍したのが薩摩の島津義弘。わずか七千の兵で明軍20
万を包囲…完璧なまでに打ち破っている。
海戦でも一計を用いて、宿敵”李舜臣”将軍を戦死させている。
 
このような島津の活躍により、多大な被害を出しながら、なんとか撤退
を完了した。逃げ帰れずに朝鮮に留まり、帰化した人も多かったという。
 
終戦後、大名たちから、豊臣政権の石田三成など五奉行に非難が集
中…豊臣の権威は失墜し、政権を支えてきた大名が多数離反した。
そこにつけ込んだのが徳川家康…巧みな外交で天下を奪い取った。
 
 
772 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~ 「秀吉、朝鮮出兵の顛末(2)」
 
日本軍の朝鮮進撃によって、国土が廃墟と化した。が、王も重臣たちも、 反省するとがかった。ただひたすら、宗主国・明に救援を請願するだけだった。
明に防衛のすべてを委ねる 「属国根性」しか持ち合わせていなかったのです。
 
国難に際し、最大の功績者は、水軍総司令官の”李舜臣(イスンシン)”であった。 舜臣は、世界史上初の装甲軍船「亀甲船」を考案し、日本軍を撃破していった。
日本軍上陸3ケ月目には、制海権を手中に収め、 日本軍の補給路を絶ってしまった。
 
補給が途絶えて、日本軍の進撃の速度が落ちたところへ、 明から15万余の救援が到着。
翌年3月には平壌とソウルを奪還。4月末には、 日本軍を釜山のある慶尚道沿岸まで退却させた。日本軍は築城して篭り、戦況は膠着状態に陥った。
 
ところが、救国の英雄になるはずだった舜臣は、 その功績を嫉妬した一族の謀略によって罪人に仕立て上げられ、拷問の末死刑を宣告された(韓流時代劇そのもの)。
一部重臣の反対で何とか死刑は免れたが、 一平卒として従軍することを命じられた。
 
1597年、日本軍は再び朝鮮に侵入してきた。対戦した朝鮮軍は大敗、 朝鮮水軍も全滅した。
ろうばいした李王朝、再び舜臣を呼び戻し、水軍総司令官に任じた。
舜臣は、母親の喪の報せに接したが、喪に服すことを許されず、 残ったわずか12隻の軍船を率いて日本水軍に立ち向かい、勝利したが、舜臣は戦死した。
 
前回と異なり明軍が駐留し、朝鮮軍も戦備を整えていたため、 日本軍は苦戦をいられた。
翌年、秀吉が亡くなったため撤収… 7年に及んだ倭乱はようやく終焉した。
 
日本軍に国土を破壊されて、男子は老若を問わず徴兵され、 農地は荒れ果てて、食物は欠乏。
飢民がちまたに溢れ、庶民の暮らしは疲弊した… にもかかわらず王や力者は、国民に目を向けようとせず、以前にも増して党派争に明け暮れて争 自らの責任を省みようとはしなかったのです。
 
宣祖王は、倭乱の10年後の1608年に没した。
次の15代王になったのは”光海君” …宣祖の第二子である。
光海君は暴君となり、第十代王・ 燕山君と並ぶ「最もふさ
しくない王」 の烙印を後世に残した
                  崔 基鎬著 「韓国堕落の2000年史」

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