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禅僧・関 大徹 「体罰の是非(2)」

■幸せを感じる三つの種類
敬愛する故・梶谷忠司さんが、私たちに残された”人生訓”です。
 
(1)してもらう幸せ
   沢山の人から慕われる幸せ
(2)できる幸せ
   商いを通じてお客様に奉仕できる幸せ
(3)させてもらう幸せ
   縁ある人に自分の体験を語り、元気と勇気をさし上げる幸せ
 
私たちは、日頃「あれがない、これがほしい」と不平不満を募らせ、
”求め続ける”人生ではなかっただろうか? 
 
聖書のことばに「与えよ さらば与えられん」がある。
人のために、自ら率先して与えていく…
「無償・無条件の奉仕をすることによって、自己の内面や
 他者を通じて、神の祝福が与えられる」と説いている。
 
タイガー「伊達直人」を名乗る慈善行為は、全国300件に迫る
という。見返りを期待して何かをする、狭い了見ではなく、
見返りを求めない、精神面での無償の報酬を言うのです。
 
 
831 【心と体の健康情報 】
~禅僧・関 大徹~ 「体罰の是非(2)」
 
以下、人生の書、禅僧・関  大徹の「食えなんだら食うな」から…
 
子どもをしつけるとき、何がなんでも暴力はいけないという。
馬鹿をいっちゃいけない。人生の大事を、子供が成長する最も大切な時期にしつけるには、言葉で補いきれない場合もある。体罰は、大いに加えればいいのである…ただ、感情に走った報復はしていけない。
 
先生が生徒を殴ったという話なら…まだいい。この頃はどうであろう…逆に、 生徒が先生を殴ったという、とんでもない新聞記事におめにかかることが、 珍しいことではなくなった。
 
中には集団で教師をとり囲んで、 足腰が立たぬほど暴力をふるう事例もあるこれは生徒の「報復」である。生徒が教師に対して、 気にくわぬことがあるからと、 腕力に訴えてきたのである。
 
中学生ともなると、腕力だけなら、 ちょっとした大人も歯が立たぬほどに成長している。頭は子供のままなのに、 体力だけが伸びたのである。その体力のなんたるかを知らぬまま、大きくなったのである。
 
この子の幼児期の子育てが、よほどいい加減だったのであろう。 両親も先生も、 全身全霊で子供をたしなめなければならないときに、 見てみぬ振りをしたのであろう。 人間としての根幹を教えるしつけは、 子供より大人の体力が優っている時期にしか、通用しないのである。
 
この時期に、力の強いものが、弱いものに対する尊厳を教えておかなければ、体力を備わってからでは、遅すぎるのである。
 
まともな教育を受けた子なら、成長とともに人生… 体力の強さだけではないという道理に気づくであろう。初めは、 体力にまかせた行動をしていても、やがて”人格”を具えた大人に心服するようになる。
 
心服されるだけの人格を具えた教師でなければならない…生徒に媚びることなく、人格と誠意でもって、全身全霊で生徒と向合っていくことである。

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