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禅僧・関 大徹「よく生きるとは…(2)」

■孤独な社会
 
死ぬ間際になって、人は何を思うのだろう…
その瞬間は一人なのか、それとも手を握る者がいてくれるのか…
いずれかで、人生のラストシーンは違ったものになる。        
                (仲代達矢主演「春との旅」から)
 
超高齢化社会になり、一人住まいの老人が増えている…
さぞや孤独なことだろう。人前では明るく楽しそうに振舞って
いても、独りになると寂しさがこみ上げてくる…
 
今の社会…老人だけでなく、若者も孤独に悩まされている。
原因を探っていくと…”愛”の欠如にあるようです。
親子の愛、夫婦の愛が希薄になり、両親との同居が嫌われ、
子供は部屋に閉じこもり、家族の会話は途絶えたまま…
 
NHK朝ドラ「てっぱん」のような、向三軒両隣の付き合いもない。
独り暮らしをしていると、社会から置き去りにされ、忘れ去られ、
姥捨て山に捨てられたような、そんな寂しさに苛まれるのです。
                                               
 
835 【心と体の健康情報】
~禅僧・関 大徹~
「よく生きるとは…(2)」
 
以下、人生の書、禅僧・関 大徹の「食えなんだら食うな」から…
 
禅宗の坊主は、常日頃「死を額に貼って生活せよ」と言われて、 修行をんできた。禅には生死一如という言葉がある…「よく生ききることは、 よく死ぬことなり」 と。
 
死を目前にして、死を恐れることなくゆったりと死んで逝く人と、 そうでないいる…その差はいったい何だろう?…それは、日々の心がけと、 平常の修練よるところが多い。
一日をよく生きるなら、多分、そうなるんじゃないかと思うのです。 よく生ききるとは、 よく死ぬための練習ようなものです。
 
私が先師から学んだことは、人間は生まれたからには、「何れ必ず死ぬ!」 ということです。 毎日朝、目覚めてから夜寝るまで、与えられたこと、ささいなことも、 何一つおろそかにければ、 いざという時になって、覚悟をする必要がないのです。
 
「与えられた命を、ひと時も無駄にせず、生への油断がなければ、いざとう時に覚悟の必要がない」 ということを先師は徹底された。ですから 「一日をよく生ききる生き方に徹す安楽に死ぬことが出来るのです。
 
私はその教えに従い、修行を積むうちに、一日一日が… 場合によっては死の勉強であると考えるようになった。
「一日一日をよく生ききることは、死を勉強することでり、よく死ねることになる」と…それを繰り返すこと五十有余年、 七十にしてようや身についてきた
 
初めの頃は、教えと自分の考え・行動というものが、なかなか一致しなかった。 「行解一致」…つまり”悟り”と”行い”が、なかなか一致しなかったのです。 七十の齢なってようやく、論語にあるところの 「己の欲するところに従い のりず」というふうになってきた。
 
五十・六十はまだ若い…六十前後の頃が一番迷ったかもしれない。その年になると、社会的にも評価されるようになり、物質的にも恵まれてくる。いつしか、 世間のなどというものを気にしなくなり、あつかましくなってくる。 だから、早くに開いても、 良いことはないということです。
 
この世に迷いや未練があったり、思い残すことがあるようだと、 死ぬときになうろたえる。明日に未練を残すことがないよう、一日一日を徹底して生き抜く…    「一日一生」である。
 
道元禅師の言う「生也禅機現、 死也禅機現」 生きるとは、 無駄なく生きる「生きるっきり」、死ぬとは、この世に未練なく「死ぬっきり」ということです。

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