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2011年02月 アーカイブ

2011年02月03日

死をみつめる

■呼吸法                                               
 
ヨガで大切な呼吸法。ところで、「吐く」と「吸う」とは、どちら
捉えればよいのでしょうか。普通に「呼吸してください」と言うと、
多くの人はスーッと息を吸って、その後にハーッと吐きます。
まず酸素を充分に吸って、炭酸ガスを吐き出すのです。
 
呼吸の「呼」は「吐く」の意で、「吸」は「吸う」の意です。
文字通りに呼吸とは、「吸って吐く」の繰り返しなのです。
しっかりと息を吸うことによって、自然に息を吐くことができます。
 
この呼吸のリズム…私たちの生き方にも当てはまります。
ヨガの呼吸法は、すーうッと3秒吸って、ゆっくり7秒吐き出します。
「吸う」は人から与えられることで、「吐く」 は人に施すことに通じす。

人は、一人では生きられません。人から三つ与えられたら、
それに倍する七つ、お返ししなければなりません
見返りを期待する行為は、良い生きとはいえん。
人に奉仕し、人の喜ぶ姿を見て、 自分の喜びとしたいものです。
 
 
837  【心と体の健康情報】
「死をみつめる」
 
以下、同朋大・大学院教授・三重県行順寺住職/田代俊孝
「ビハーラ往生のすすめ」 からの抜粋です。
人間は欲深い生き物です。思い通りにならないのに、思い通りにしようとし、 思い通りにならないことに悩み苦しむのです。
 
大腸ガンで亡くなった阿部幸子さんは、著書「生死をみつめる… 進行ガンの患者として」で、患う前は自分の力で生きていると、自信過剰な私であった。
人生の困難に直面した時も、 自らの力で活路を見出してきたし、様々な状況に柔に対応す能力があるっていた。
そうした自信にあふれた人生…ガンを患って、 立ち止まざるをえなくなったのです。
 
まず、第一に浮かんだ疑問は…
これまでの人生、「本当に自分だけの力で生きてきたのか? 」ということであった。
「他力によって生かされてきた」… 何故今までこんな単純な心理に気づかなかったのか。気づくのが遅すぎたと思うと同時に、 気づかぬまま死んでいくよりよかった」と語っている。
 
”煩悩”に囚われている間は、どんなに長生きしても、 「こんなはずではなかった…もっと長生きしたい」と、我が身の不幸を嘆く。
老いたくない…病気になりたくない…死にたくない…という虚妄が、 死すべき状態さらされたとき、 思い通りに生きてきた自我が、打ち砕かれてしまうのです。
 
そこに、老いてあたりまえ、死んであたりまえ…と、 「あるがままを、あるがままに」け入れる境地が開かれてくる。
まさに”我”が破れた”無我”の世界である…
これを親鸞は自然法爾(じねんほうに) と言った。
 
ここで誤解してはならないのは、 何でも思い通りに自然体でいればよいということではない。それは「あるがまま」ではなく、「我がまま、気まま」なのであって…無我ではないのです。
 
仏教の”救い”とは、ガンが治ることではない…死なない体になることでもない。 ガンをガンのままに、あるがままに「これでよし」と受け入れられるよう、 こちらから”転じて”いことである。
 
ガンを患った人は誰もが、「ガンは、今まで気づかなかったことを、 沢山気づかせくれた… 生かされている自分、家族の愛、朝目覚める喜び…様々な気づきをえてくれた」、「ガンは宝です」 と言って逝ったいる。
ガンを患ったことで、それまでの価値観が変わり、 事実をあるがままに受け止めることできるようになったのです。                                                                        (鈴木章子著「癌告知のあとで」)
 
良寛の言葉に…
老いるときは老いるがよかろう、死ぬるときは死ぬるがよかろう がある。
これが、災難を安らかに逃れる妙法である。「老・病・死」に逆らい、 そこから逃れようとし、 うち克とうとすれするほど、 苦しみの刃は鋭く我が身に突き刺さってくる…。
 
生まれたからには、いずれは死ぬ。死を迎える時に 「こんなはずではなかった」と、不平不満を言って死ぬのか? 
「いい人生だった」と”満足”して死ぬのか?
死を目前にして、死を受け入れざるを得なくなった時…心の持ちようで、楽になれば、苦にもなるのです。

2011年02月07日

イスラムにとって聖戦とは(2)

■南伊の歴史の町アマルフィと、城下町金沢の共通点
 
南イタリアからローマに向うと、高い崖の上にへばりつく修道院や、
4~5百メートルの丘の頂きに、軒を寄せ合って建つ集落が遠望できる。
歴史を知らないと、何故あのような不便な所に人が住むのか?
不思議に思う。
世界遺産、南伊の町アマルフィ…荷車も通れない細い坂道が町中迷路
のよう…何故このような町をつくったのだろう? 町の歴史を知ったとき、
初めて納得するのです。
 
前田利家が拓いた城下町金沢…街路はやたら狭く、曲がりくねっている。
所々に「広み(広場)」や、行き止まりの「袋小路」がある。
城下に攻め込んできた敵を、広みや袋小路に誘い込んで討ち取る…
そんな戦術的意図でつくられた町。
今もそのなごりが、市内あちこちに残っている。
 
 
838 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~
「イスラムにとって聖戦とは(2)」
 
8世紀、アラブから発したイスラム勢力は、シリア、エジプトを「イスラムの家」し、北アフリカの異民族リビア、チェニジア、アルジェリア、 モロッコ、 そして海峡を渡って、 イベリア半島 (スペイン)をイスラム圏に取り込んでいった。
 
9世紀、北アフリカの港から、 順風なら1日~2日の距離のシチリアや南伊へ押し渡るサラセンの”賊”…南伊に住むキリスト教住民を、恐怖絶望陥れた。
 
神出鬼没の小型ガレー船は、キリスト教国の旗を掲げて人々の眼を欺き…上陸。 町に侵入して金品を略奪・破壊し、住民を拉致…獲物を手にするや、素早く海の方に消えていく…
繰り返される海賊・テロ行為は、 イスラムにとっては”聖戦”… イスラムの敵、 異教徒の力をそぐ行なのです。
 
帰港した彼らは英雄である…犯罪者ではない… コーランの教え、「聖戦」を行したのである。神の教えを誤って信じる、 キリスト教徒とユダヤ教徒拉致して、財産を奪うのは、 イスラム教徒にとっては正当な行為なのです
 
略奪してきた財宝や穀物、住民を奴隷市場で売り、その5分の1をお上に上納する。 海賊業は、地域社会を支える重要な産業になった。
拉致した奴隷は、海賊行為にかせないガレー船の漕ぎ手や、 船大工の職人、下働きの労働力として、 イス社会の雇用創出に重要な役割を果たした。
 
対岸のキリスト教国の大規模な修道院や教会には、信徒が奉納した財宝・ お宝がっている。上陸後、 狙いを定めて、そうした獲物を効率よく略奪し、持ち帰った。
イタリア半島からフランスの地中海に面した海岸の町は、 九世紀から十世紀にけて、 サラセ海賊の襲撃に震えおののいたのです
 
大規模な修道院は、たび重なるサラセンの略奪にそなえ、城塞のようなつくりにた。 人々は海に近い土地を捨て、 安住の求めて切り立っ崖の上や、 間部深くに移り住んだ。
中には、生活に不自由な山岳に逃れたりせず、 海ぎわの地に留まる住民もいた。
 
その象徴が、地中海貿易でベネチュアに匹敵する繁栄をった、海洋都市アマルフィ。 急斜面に家が建てられ、快適犠牲に、曲がりくねった迷路ように町中に張
肩幅しかない細い坂道先に、 突然広場が開ける… 賊がまぎ込むと、小路鉄のさいで、 ネズミにした。  
 
アマルフィ
   (シチリア島の対岸、南伊・アマルフィの町)
                         
いつ襲ってくるかわからない海賊… いち早く発見し、 被害を最小限に食いめようと、海を眺望きる岬や崖の上に、 「サラセンの塔」と呼ばれる監視塔を、キロごとに建てた。
そして、サラセン来襲を迎え撃つ軍船隊が組織された。
 
前期中世は暗黒の時代だった。地中海の波が洗うすべての地域が、サラセンの餌食になり、数世紀の間、海賊の被害に泣いた。
 
すべての地が、略奪と殺戮と焼打ちに合い、剣から逃れられても、 炎から逃れられず、炎から逃れられても、 待っているのは鉄鎖につながれ、連行され、異教徒の地送られ、その地で奴隷として酷使され…死を迎える。
この時代、地中海沿岸に住むキリスト教徒は、絶望に生きるしかない運命にあった。
            塩野七生著「ローマ亡き後の地中海世界」より

2011年02月09日

禅僧・関 大徹「病は死ねば治る」

■極楽浄土までの距離は?
 
仏教でいう「あちらの岸」とは…「彼岸」のことをいう。
そして、真宗門徒にとっての彼岸とは…「浄土」になる。
ところで、極楽浄土はどこにあるのだろうか?
浄土へ行きたいと思っても、浄土までどれくらいの距離なのか?
さっぱり分からない。
 
経典には、浄土は「西方十万億土の彼方」にあると説いている。
一体どれくらいの距離なのか? 
1億光年の1億倍が1京光年…その十倍の10京光年になります。
現実の宇宙の広さは、約150億光年と言われているが、
浄土は、宇宙の広さの数百万倍の彼方になる。
 
つまり、どんなにもがこうと、行くことのできない距離なのです。
日々信心して、来世のことは、仏さまにおまかせするしかない…
極楽への道は、心の持ちようで、近くにも遠くにもなるのです。
 
                三条教区勝覚寺住職・草間法照
 
 
839 【心と体の健康情報】 
~禅僧・関 大徹~ 「病は死ねば治る」
 
今年七十になる。十年前還暦を迎えたとき、祝う気にはなれなかった…六十歳とはいえまだまだ元気で、 第一線から退く年齢には「早すぎる」と思った。 
七十歳の節目の今、ようやく還暦を受け入れ、喜び・祝う気になった。
以下、人生の書/禅僧・関 大徹「食えなんだら食うな」からの抜粋です。
 
二十数年前大徹は…五十代の初めに癌を患い、 医師から死の宣告を受けたことがあった。
「ははあ、死ぬときが来たか」と思った…ところが良医を得、 手術のおかげで命をりとめた。日頃は 「死ぬときは、死ぬるがよろしく候」という覚悟でいる。
いつ死に直面しても動じぬ心得で生きてきた… それが本物であるかどうか、私は知りたかった。
 
あるいは、発狂しそうになるかもしれないし、 人か゜変わったように塞ぎ込んでしかもしれぬ…そうなれば、それでもよいと思った。 現実、医師から引導を渡されとき、発狂も、 塞ぎ込みもしなかった…普段と同じだった。
 
お釈迦さまが説かれた「」の四つの”苦”は、 つまるところ生死の問題あり、「苦は… 生を受けたときに始まり、死を迎えたとき完結する」
「人間、何のために生まれてきたのか」という問いに対して、 万人共通の答えを求めるなら、それは「死ぬまでに何を為したか」であり、”老”も”病” も、死への手続きにすぎないのです
 
私はあの時…癌が進行していたら、癌の苦痛に耐えるだけでよかった… いずれねば治るのである。 当然の帰結に安心していられた。病に伴う死への恐怖かったのである。
 
自分は、自分一人で生きているのではなく、多くの人たちに支えられて” 生かされている”ことを、病を得て感じた。病になれば、 多くの人が我がごとのように心痛し、快癒すればまた、我がごとのように喜んでくれた。
 
人生…何が苦であるといって、”病”に勝る苦はあるまい。
人の世に病というもなければ、 どれほど幸福であろうかと思う。
病苦を…健康な人は、病による”生理的苦痛”と安易に思いがちだが、 一度患っみれば、 そうではないということが、 分かるであろう。
 
仏教には「転禍招福」の教えがある…禍を”除いて” ではなく、 ”転じて”といところが面白い。
禍が降りかかって、免れることができないのであれば…その禍を”禍のままに”、あるがままへとひっくり返してしまえ…というのが、 仏教わいのあるところである。
何事も「モノは取りよう…思いよう」である。

2011年02月14日

第一次十字軍遠征

■エジプトの危機
 
昨年、チュニジアへは観光で… エジプトへはスキューバーダイビング
訪れ 平穏で治安が良く、観光でにぎわう両国が今、 政情不安に
陥っている。
エジプトでは、警察官の麻薬密売を告発した青年が虐殺された。
これが発端となり、 若者たちがネットでデモを訴え、ついにはムバラク
政権を崩壊させた。
イスラム国では唯一、イスラエルと和平条約を結んでいるエジプト。
ムバラク政権に代わる野党組織は、非合法組織のイスラム原理主義
「ムスリム同胞団」だけ…他は組織をなしていない。
 
オバマ政権が恐れるのは、狂信的反米政権が誕生すること…
そして、米国と親密なサウジなど、アラブ近隣諸国に影響が及ぶこと。
イラン革命の時は、宗教界の権威・ホメイニ氏が大衆を鼓舞したが、
エジプトには、百万人の大衆デモを統括する指導者が存在しない。
 
ムスリム同胞団は、穏健な政策で、国民の支持を得ようとしているが、
欧米の観光客で潤い、欧米と繋がりの深いエジプト…今後、キリスト教
国を排除する、イスラム原理主義組織が急速に拡大し、イランのような
反米国家になることはないだろう。
 
 
 
840 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~ 「第一次十字軍遠征」
 
辞任か否か…世界が去就を見守っていた、エジプトのムバラク大統領…
10日夜、意外な人物に電話をしていた。
「私が退陣したら、エジプトだけでなく全アラブが崩壊し、イスラム過激派国家になってしまう… それでもいいか!」
会話の相手は、イスラエルの元国防相…。 (2/ 13読売新聞)
 
ローマ衰退後の7世紀から8世紀にかけて、イスラムの勢力が拡大し、 中東、北アフリカ、 イベリア半島がイスラムの勢力圏に取り込まれた。
キリスト教徒の巡礼地イェルサレムは、イスラム圏の中にある。
当時、ヨーロッパからの巡礼者が旅の途中で、 イスラムから迫害を受けることはなかった。
 
発端は1095年、ビサンチン帝国(東ローマ帝国) がイスラムの侵略にしみ、 ローマ教皇に援軍を要請したことに始まる。
要請を受けた教皇…「これは”聖戦”である!  この戦いで命を落とした者は殉教者となり、この世の”罪” すべてを許され、天国に召されるであろう」と…
 
この呼びかけに参集した西欧の聖職者・王侯・ 騎士、市民・農民に至るまで、十字を胸に聖地回復の遠征に加わったのです。
扇動され、東に向った十字軍の総数は十万を超えた。 キリストの戦士なった気分で参戦したが、軍備も食糧も不十分のうえ、 軍隊としての組織をなさず、規律なき烏合の衆だった。
 
数ヶ月後に、ビサンチン帝国の都・コンスタンティノーブルにたどり着くも、 首都のされ、城外に野営する破目に… 。
ここからは小アジア… イスラム圏に入る。勇猛なトルの迎撃を受け、 攻防は熾烈を極めた。
 
道中、イスラムの住民に襲われて命を落とす者、餓え・さ迷い歩いた末、 命つき者、 小アジアを横断したとき、兵士は二万人足らずになっていた。同胞の亡踏み越えて、 ひたすら聖地エルサレムを目指したのです。
 
十字軍が通った後の、虐殺されたイスラム住民の数は、すさまじいばかり。
イスラム教徒を殺し、聖地を奪還することを使命とした、十字軍の兵士たち…
イスラム教を何人殺そうと、罪の意識は皆無…殺しまくったのです。
 
聖地に近づくにつれ、十字軍兵士は水不足に悩まされた。
第一次十字軍の犠牲者は、戦いで死んだ者よりも、 餓えと渇きで命を落とした者の方が多かった。苦難を乗り越え、 三年の歳月を要してようやくたどり着いたイェルサレム 兵士たちは皆、 感涙した。
 
聖地イェルサレムを巡る攻防は、キリスト教徒にも、 イスラム教徒にも、絶対に負けられない” 聖戦”…8ケ月に及ぶ激闘の末、聖地奪還に成功した十字軍
イスラムの老若男女を、残酷なまでに殺戮しまくった。
1099年、キリスト教徒の国・イェルサレム王国建国。
 
イスラムの聖地をキリスト教徒に奪われたことは、イスラム世界にとって大衝撃…
イスラム住民は、生活の基盤を十字軍に踏みにじられ、絶望の淵にい込まれたのです。
 
その後、イスラム指導者のジハード(聖戦)呼びかけで、勢力を盛り返えす。
1187年、イスラムは聖地を奪還。
対抗して、ローマ教皇は第二次十字を召集。
十字軍の遠征は、1270年の第十回遠征まで、百年近く続くのです。
 
歴史は巡り、15世紀初頭、一千年栄えたビサンチン帝国の首都コンスンテノーブルが、オスマン・トルコの攻撃にさらされた… ローマ教皇に十字軍派遣要請したが、 ヨーロッパの諸候は動かず…攻防戦の末、1453年ついに陥落…
城内のキリスト教徒は虐殺され、生残った者は奴隷に…ビサンチン帝国は滅亡した。
 
十字軍は、一時期奪還に成功したが、 二十世紀初頭イギリス軍が占領すまで、エルサレムはイスラム圏の中にあった。
十字軍の遠征は、当初の目的を達成することなく、失敗にったのです。
                    塩野七生著「絵で見る十字軍物語」より
 
イスラム教徒とキリスト教徒…千数百年受継がれてきた怨念が、歴史の地下深くにマグマとって出…衝突を繰返しているのです
 

2011年02月17日

死生観を養う

■私と死生観
 
高校2年の秋…先生と大学の進路を話し合った矢先、定期健診で
”結核”を告知された。進学も就職も諦め、療養に専念した。
四年間薬を飲んで快癒したと思い、東京の商社に就職した。
 
学歴で劣り、同級生より十年遅れの社会人…私が選んだ”志”は、
商人の道で自立すること…。
東京へ旅立つ二日前の3月29日…念のためと、病院で検診を受けた。
一時間後、先生「ベッドを用意したから、午後入院してください…」
 
結核は伝染病です…世間から隔離された重症患者ばかりの病棟に、
6年間お世話になった。一室2人、廊下をはさんで10室、20代から
60代の患者20名…当時、良薬はなく、ただ静かに寝ているだけ。 
 
人生の基礎を育む大切な二十代に、いつ治るとも知れず、肉体的にも
精神的にも、耐え難い闘病の日々。
夜遅く、廊下を慌しく人が行き交う…翌朝、空になったベッド…シーツが
取り替えられ、何事もなかったように、新しい患者が入室してくる。
 
五年十年・闘病の末…何の楽しみもなく死んでいく患者を見て…
自分はあと何年生きられるだろう? 
”人生”を考え”死生観”を育むことで、苦しみを和らげようとした。
 
 
841 「心と体の健康情報」
「死生観を養う」
 
私たちは日々、生きているのが当たり前のように暮らしている。 そのられた命… 大切にしているだろうか? どのように生きようとしているのか
以下、末期ガンと闘って健康を取り戻した、O医師の談です。
 
今から13年前…O医師は、背中の痛みがひどく、 眠れない日が続くようになった。仕事が休めず、休日診療のある病院で検査を受けた… 「ガンの恐れがある」と言われ、ショックを受け混乱した。
ガン専門病院に入院して精密検査…末期の進行性胃ガンで、余命1年弱… 治療は、 抗がん剤に頼るしかない状況だった。
 
動揺は、当人より家族がひどかった…そんな家族のことを思うと「何とかせねば…」 と焦りがつのってくる。
その頃妻は、S医師の自然癒法の著書を読み、 「今の医療技術で根治できないのなら…」と、S先生を訪ねた。
 
当時、最先端の西洋医学治療を受けながら、S医師のところで、 人間が本来持っいる回復力… 自然治癒力を引き出す治療…”気功” や生薬療法に取り組んだ。
西洋医学と、自然治癒療法とがマッチして、末期ガンを克服… 健康が回復したです。
(なんだかんだNo279~283「癒す心 治る力」が参考になります)
 
「生きながら死を考える。それが病の意味なんでしょうね」 とO医師。快方に向っている患者と話すと、 「病気になってよかった」と言う。
O医師自身も、この病気にならなかったら、わがままで、 勝手気ままな生き方をしていただろう
病を通して、自分を見つめることや、 命のことを深く考えるようになった。すると、生きることが一瞬一瞬、輝いて見える…周りへの感謝の気持が涌いてく今までより深みのある人生が見えてくるようになった。
 
職場に復帰してから、誰にでも自然に「ありがとう」と、 感謝の言葉が言えるようった…腹が立たなくなった… 相手の立場になって考える視座が持てようなった。                  
                               ~つづく~

2011年02月22日

自らを有利に導く情報戦略

■金沢市長選挙に「ツイッター」登場
 
昨年秋の金沢市長選挙で、インターネットを活用した新人候補が当選した。
この選挙で、初めてツイッターが登場したのです…
「投票まだ行っていない人~彼に託してみましょうよ!」…11月28日の投票日、
ツイッターに流れた文章です…ツイッターが勝敗に影響したのです。
 
書き込んだのは、私の友人のIT社長。期間中…インターネットの簡易投稿
サイトに、「ツイート(つぶやき)」と呼ばれる短文を投稿…時系列に表示された。
市長選は、六選を目指す現職のY氏に、多選を批判する新人候補が挑んだ。
 
IT社長は、投票日の投票終了間際まで…
「市長選速報…今500票差です…逆転させてください!あなたの一票で!」
「あと40分あります…まだの方はすぐ投票場へ!」などと”つぶやき”続けた。
 
事前の下馬評では、現職のY氏絶対優勢…市会議員・財界・団体の多くが
現職市長を支持した。フタを開けてみたら、新人候補が1、364票の僅差で
当選した。
選挙運動での「ツイッター」は違法か? 警察はこの社長に対し、公職選挙法
に基づく改善警告を出さなかった。これが前例となって、春の統一地方選挙
では、ツイッターが”解禁”になるだろう(…つぶやく)。
                                  1/31 中日新聞
 
 
842 【吉村外喜雄のなんだかんだ】  
~歴史から学ぶ~ 
「自らを有利に導く情報戦略」
 
チュニジアやエジプトの政変では、民衆蜂起に”ネット”が重要な役割を果たした。
新聞報道によれば、リビアやイエメンでも、交流サイト「フェイスブック」が、 反体制派デモの呼びかけや、 政権腐敗の糾弾に利用されている
 
十年くらい前になるが、国際テロ組織「アルカイダ」を率いるウサマ・ビンラディンが、 反米・聖戦の成果を、インターネットと、中東の衛星テレビ局 「アルジャジーラ」 使って、 世界に知らせようとしていた
 
アルカイダには”メディア部隊”があって、 ビデオカメラやパソコンを自在にあやつり、様々な映像をインターネットを通して世界に流した。
「バーミヤンの大石仏破壊」の映像や、「自爆テロが、 自決する車から自分で収録した最後のメッセージ」など、衝撃的映像がお茶の間に送られてきた。
 
そうした行為は、テロの正当性を宣伝するだけでなく、 刺激を受けたイスラム教が、 武器を取って立ち上がるなど、自軍を有利に導くための戦略手段になった
 
パソコンの普及がまだ低かった当時…映像という圧倒的説得力を持ち、 世論操作するのに最も友好な” テレビ” を、 活用しない手はない…。
ベトナム戦争以来、 戦争遂行を有利導くための”道具” として、重視されてきのです。
 
ある真実の一部を切り取り、拡大したものを繰り返し映像に流し、 意識的に世を操作する。時には” でっち上げ”や”嘘”の映像を流して、国民や世論を欺こうとする。
 
その代表事例が、バクダッドの広場に立っていたフセイン大統領の銅像…2003年4月… 自然発生的に集まったバクダッド市民が、銅像の首にロープをかけ、引き倒した。子供がサンダルで銅像の頭を叩き引き回すと、 歓声が上った。
 
「自由の力だ」と、ブッシュ大統領は歓喜の声を上げた。
しかし、これは米軍が掛けた”やらせ”だった。
後日、米国民間調査機関によって、 明らかにす。
その後、バクダッド郊外の刑務所での、 イラク人虐待事件が発覚している
おぞましい虐待シーンが、お茶の間れてきたのです。
 
人権問題として国際非難を浴びた米国政府…虐待行為に手を染めた憲兵を、軍法会議で処罰した。 正しく報道するなら、収容者を裸にし、ずきんをかぶせ行為は、自供を得るための” 拷問テクニック”として、それまで、米政府が承認してきた行為だったす。
 
あふれかえる情報…私たちは茶の間に流れる映像を見て、 いとも簡単に情報操作されてしまう。 一般庶民を意のままに操る情報戦略…今後益々巧妙になていくだろう。
アメリカやロシア、中でも中国からもたらされる映像は、そのまま鵜呑にできいのです。

2011年02月24日

死生観を養う(2)

■一千回の登頂
 
静岡県のアマチュア登山家・実川欣伸さん…昨年67歳の時に、
富士山登頂1千回を達成した…足かけ26年の記録です。
実川さんは大学時代、山岳部に所属していた。
 
その後、登山から遠ざかっていたが、1985年、 家族と富士山に
ったこときっかけで、 昔の情熱が甦った。
登頂回数を重ねるうち、人がやらない記録に挑戦しようと決意した
 
一千回目の登山には仲間六人も同行した。田子の浦を出発し、
約21時間かけて登頂を果たし、皆で喜びを分かち合った。

富士山に一度登るだけでも大変です。 一千回登頂は驚異的
数字です。登山に耐えうる体力が求められるが、 それに増して、
強固な精神力があったからこそ、 この偉業が達成できたのです

 
843 [心と体の健康情報]
「死生観を養う(2)」
 
私たちは日々、生きているのが当たり前のように暮らしている。 そのられた命… 大切にしているだろうか? どのように生きているのだろう
以下、末期ガンと闘って健康を取り戻したO医師の体験談…
前号の続きです。
 
[よく生ききることは、よく死ぬことなり]
太極拳で著名な”楊先生が大病を患い、自然治癒の名医S先生の病院に入院した。ある時楊先生…
「S先生は私の主治医だから…言っとくけど… 生きるも死ぬもあるがままだからねと言った。それは、 医学的処置は一切不要、という意味になる。
本当に…何も対処しないで亡くなったら、家族やお弟子さんに恨まれてしまう。
 
それでも楊先生「何もしなくていい」と言う…胸水が溜まっていても取らない… 食べられなくても点滴しない。
S医師、病室を覗いて「何か辛いことがございますか?」と尋ねた…
「いや…何もない。それより… よその患者さんを見てあげなさい」と言う。
何もないわけがない…胸水が溜まっているし、呼吸だって浅い。
 
S医師が退出した後、楊先生の奥さんが「本当にあなた…つらくはないの?」… すると「つらいことは山ほどある。でも、S先生が心配するといけないから…」
 
ある朝、S医師が講演に出かけようとしていた時、病院から「楊さんが…」 と電話…講演を断り、急遽病院に向った。病室に入ったら、楊先生の意識はんどない状態だった。S医師が呼んだら目が開いて、手を握り絞めてきた…死を直にした人とはとても思えないすごい力だった。
 
そこへ、ご家族が駆けつけてきた。楊先生は、一人ひとりに何かを話しかけている… ろれつが回らず、何を言っているか分からない。でも、とにかく全員と手を握った後、 十分ほどで亡くなった。 その様子を見ていたS医師…本当にすこい!
 
ヘルマン・ヘッセのことばに「喜んで朽ち果て、 万有の中に崩壊していく」がある。楊先生は… 「生きるも死ぬも あるがままに」…人生を生ききったのです。
                           ~つづく~

2011年02月28日

私たちの歴史・文化認識

「三国志」 「坂の上の雲」など、戦いをテーマにした、 日本や世界の
歴史小説を読み漁る私…
数年前、塩野七生著「ローマ人の物語」を読破してからは、地中海を
取り巻く国々の栄枯盛衰に、ひときわ興味を持つようになった。
 
・以下は塩野七生の著書です…大変面白いのでお薦めします。
○「コンスタンティノーブルの陥落」  
 約1千年栄えた、東ローマ帝国の首都コンスタンティノーブルが、
 ついに最後を迎える時がきた。
○「ロードス島攻防記 
 コンスタンティノーブルを陥落させたオスマン・トルコは、喉元のトゲ
 の存在、キリスト教世界の最前線「ロードス島」攻略を開始する
○「レパントンの戦い  
 1571年、スペイン王率いる西欧キリスト教連合艦隊は、当時無敵
 と言われたトルコ艦隊を破った。
○「海の都の物語 
 他国の侵略に耐え、自由と独立を守り抜いた、ヴェネツィア共和国
 1千年の物語
ローマ亡き後の地中海世界 上・下」
 
 
844 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「私たちの歴史・文化認識」
 
古都ローマの下町を、ビテオ片手に歩き回ったことがある。
街並は美しく、歴史の遺構が大切に保存れている。
ローマの旧市街には、高層ビルやマンション、電柱・ 電線などの、都会によく見られる風景がない。商業看板も、サイズや色が統一されて、 控えめだ
 
観光客のいない裏町を歩いていたら、住宅の一角にポッカリ穴いたた。立ち止まって覗き込むと、 建物の屋根が見える…ローマ時代の遺跡です…一部掘り出され、 大切に保存されている。ローマの遺跡の上に、現代の住居乗っかり、 人や車が行き交っている… 歴史の奥深さを感じるのです
 
昨年観光したチュニジアもすごかった…紀元前9世紀頃から、 地中海の覇権を欲しいままにしたカルタゴ…紀元前二世紀、新興国ローマに滅れた。
破壊しつくした都の上に、 新しいローマの町が築かれた。
ローマ遺跡の下にカルタゴ遺跡があり、その下に、 原住民ベルベル人、ヌミディア王国の遺跡が隠れているのです。
 
ローマが衰退した後、チュニジアはイスラムの支配が1千年続いた。そして、フラ時代へ… 異なる文明・ 宗教がない交ぜに歴史を重ね、 今に受継がれているのです
 
ローマ旧市街の古い住居…外観は数百年前のまま… 一歩建物の中に入ると、 現代のモダンな居住空間広がっている。
フェレンツェ大聖堂前の広場では、 不似合いな巨大広告看板が目に入った
見上げたら、日本の家電メーカーの看板だった。
 
日本や東洋人の住居は、絵や生け花、置物で飾られ、文化の香り漂う。
ところが、一歩家の外に出ると、 何でこんなにゴチャゴチャ汚らしいのだろう。古いものと新しいもの、東西の文化がごちゃ混ぜになって、まとまりがない。
 
町を歩けば、ネオンや看板が溢れ、電柱が林立し、電線が垂れる。自転車が歩道に放置され、信号脇の植え込みは、空き缶だらけ…。
団地に目をやれば…どこの国? 狭い敷地に庇をくっ付け、緑や黄の外壁の国籍不明風建築が建ち並ぶ。
 
東南アジアへ旅して…飛行機の窓から見下ろす団地は、 外壁は白、屋根はオレンジや青に統一され、美しい。マレーシアやシンガポール、チュニジアなど、 西欧の植民地を経た国は、 整然と美しく、 ヨーロッパ香りが漂う
 
卯辰山を借景に、兼六園から見下ろす金沢市街…昔は、 黒光りの屋根瓦がった。 今はマンションが林立し、赤や青屋根瓦が金沢の景観を破壊
美しい金沢が失われていく…美意識は家の中だけ?
 
子供の頃通った小学校は、市中心部の少子化で廃校になった。
学校跡は、 観光名所”武家屋敷”の一角に取り込まれて、江戸時代の薬問屋が移築され、それらしい塀もれた。
平成につくられた”偽物” が混じった武家屋敷へ、古都金沢の情緒を求めて、観光客がやってくる。
 
以前、遺跡発掘現場に、他所から持ってきた埋蔵品を埋め、 学会を欺いた者がいた… 五十歩百歩に思える(疑問に思うのはだけでしょうか)…
ローマやチュニジアで遺跡のあり方を見ると、白けてくるのです。

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