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大乗仏教の教え(6)

■「色即是空」
人は、物や対象をあれこれイメージして、”色”を付けて見ている。
般若心経では、物は”空”であって、確固不変ではない。
物は人によって違って見えるし、違って見えるから、人によって違った
表現がなされるのです。
ニワトリの鳴き声…私たち日本人は「コケコッコー」と鳴くと誰もが思っている。
実際、そのように聞こえる。
ところが、イギリス人やアメリカ人が聞くと、「コッカドゥドルドゥー」になる。
ドイツ人は「キケリキ」、フランス人は「ココリコ」、インド人には「ククルククー」
と聞こえる。
世界中、ニワトリの泣き声は同じはず。ところが、国によって違って聞こえる
のです。どの国も、ニワトリの鳴き声は一つ…確固不変と思っている。
 
次に”太陽”を例に挙げると、日本人は太陽を描くとき赤く塗ります。
アメリカの子どもは黄色く塗ります。日本の子どもは、アメリカの子どもが
描いた太陽を、月と思ってしまう。アメリカやフランスでは、月の色は”白”
が普通です。
                                    ひろさちやの般若心経「22~23講」
 
 
901 【心と体の健康】
~般若心経~ 「大乗仏教の教え(6)」
 
般若心経の「空」なるものを、更に掘り下げてみることにします。
般若心経の「空」は、人によって見え方が違ってくる。
人は「空」なるものに”認識波”を送って、その跳ね返ってきたものを見ています。
 
認識波には個人差があるのです。
心のやさしい人が発する認識波はやさしいので、モノ事がやさしく見えます。冷たい人の心は、冷たい認識波を発するので、モノ事が冷たく見えます。
 
こちらがびくびくした認識波を送れば、”幽霊”が見えてきます。「幽霊なんていない、見えるはずがない」と言う人がいますが、見えている人には見えているし、見えない人には見えないのです。
 
一人が妄想にとらわれて、幽霊を見たと言えば、周りの人もその妄想にとらわれて、恐れおののく。何もないのに、何人もの人が見たと言えば、見えなくても幽霊存在を信じてしまうのです。
 
アンデルセンの「裸の王様」では、家来や見物する大衆には、「空」なるものが、王様の豪華な礼服に見えるのです…これが般若心経に言う「空不異色」です。みんなが「見える、見える」という…こちらからそういう認識波を送るから、見えてあたりまえなのです。
 
「霊のタタリがある」と信じきっている人は、そういう認識波を送っているから、霊のタタリが見えるのです。霊のタタリから逃れたければ、自分の認識波を変えるしかない…霊そのものを無くそうとしてもダメです。
霊に限らず一切のモノ事は、もともと「空」なのです。
 
ひろさちやの般若心経「第20~21講」



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