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2012年08月 アーカイブ

2012年08月02日

逆境をバネに成功した早川徳次

早川徳次の「名言」


「逆境・困難で苦労を嘗め尽くしたことが成功のバネとなる。

  ・・”難”あり ”有難”し」

「五つの対策で考えよ。一つでうまくいかないと、駄目とあきらめず、

二つ、三つ、四つと考える。だいたい、三つ目ぐらいにはうまくいく」


「禍福はあざなえる縄のごとし」 「窮地に、至誠天に通ず」

「ピンチの後はチャンスが来る。つかむ準備を怠るな」


「常に新しいアイデアで、一歩先んじて新分野を開拓しなければ

成功はおぼつかない」


「人の行く裏に 道あり」 「好況下にこそ、不景気の波に備えよ」

「事業は不況の時に伸ばせ」 「人に真似をされる商品を作れ」



988 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「逆境をバネに成功した早川徳次」


幼少の頃から次々襲いかかる逆境や試練を克服し、成功を収めた人物といえば、作曲家の”遠藤実”や高橋是清の名前が浮かんでくる。

シャープ早川電器の創業者”早川徳次”もその一人です。


早川徳次と言えば、「シャープペンシル」を発明した人として知られるが、40年前の
家電全盛期の頃のシャープは、松下・東芝・日立・三洋、そして急成長のソニーの陰に隠れ、家電業界では目立たない存在だった。


「理念と経営5月号」の自伝を読むまで、早川電器の創業社長が、これ程壮絶な人生
を歩んでいたとは、まったく知らなかつた。

以下、「シャープ創業者、早川徳次」からの抜粋です。


明治26年、東京日本橋の家具職人の三兄弟の末っ子に生まれた。

二歳で母が病気になり、養子に出された。養家は極貧で、毎日の食事にも事欠き、可愛がってくれた養母も、翌々年亡くなった。


養父は19歳の女性と再婚・・徳次はこの継母から連日、ひどいいじめと虐待・折檻
を受けた。三度の食事もろくに食べさせてもらえず、夜中に戸外へ放り出されたり、共同便所の便壺に突き落とされ、泣き叫ぶ声で、近所の人に助け出されたこともあった。

継母に次々子どもが生まれた。徳次は栄養失調でやせ細り、見るに見かねた近所の人が、継母に説教すると、余計ひどい虐待を受けた。


家計を助けるため、小学校二年で退学させられ、連日深夜まで、マッチ箱を貼る内職を、
継母に怒鳴られながら続けた・・死ななかったのが不思議なくらい、絶望的環境の中で耐え忍ぶ生活が続いたのです。


そんな可哀そうな徳次を、見るに見かねた近所の目の不自由な女祈祷師が、徳次を
知り合いの金属細工店へ、住み込み小僧に紹介した・・
まだ8歳の子どもだった。

「一緒に手を引かれて行った時の手のぬくもりを、生涯忘れることはなかった」と後年回想している。


この店の親方は、昔かたぎの江戸っ子、人情に篤い人で、徳次を可愛がった。

心を閉ざしていた徳次は、徐々に元気を取り戻し、朝早くから深夜まで、真っ黒になって働いた。
奉公先で、わずかながら毎月貯めた小遣いも、継母が来てすべて取り上げて
いった。

15歳までの年季奉公を終え、引き続き住み込み職人になった。
苦労をなめ尽くす
過酷な幼・少年期を乗り越えたのです。

手先が器用で我慢強く、創意工夫する明るい性格の徳次・・丁稚奉公の厳しい修行の中で鍛え磨かれていった。「発明王」早川徳次の誕生である。                                                                      次号に続く

2012年08月05日

逆境をバネに成功した早川徳次(2)

         「 志 」                                        芳村思風


人間において生きるとは

ただ単に生きながらえることではない

人間において生きるとは 何のためにこの命を使うのか

この命を どう生かすかということである

命を生かすとは 何かに命を賭けるということである


だから 命の最高の喜びは

命を賭けても惜しくないほどの対象と出会うことにある

そのときこそ 命は最も充実した生の喜びを味わい

厳しくも美しく燃え上がるのである


君は何に命を賭けるか

君は何のためになら死ぬことができるか

この問いに応えることが 生きるということであり

この問いに応えることが 人生である



989 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「逆境をバネに成功した早川徳次(2)」


15歳までの年季奉公を終え、引き続き住み込み職人になった。

苦労をなめ尽くす過酷な幼・少年期を乗り越えたのです。

手先が器用で我慢強く、創意工夫する明るい性格の徳次・・

丁稚奉公の厳しい修行の中で、鍛え磨かれていった。

「発明王」早川徳次の誕生である。


大正元年18歳の時、ベルトに穴を開けずに使える「徳尾錠」を発明し、
特許をとって実兄と「早川兄弟社」を設立した。

四年後の大正4年に「早川式繰り出し鉛筆」、後のシャープペンシルの

開発に成功・・極貧の中で育ったので、「木の鉛筆は削るのがもったいない」が、動機だった。

早速、日本一の銀座の文具店に持ち込んだが、「こんなものは売れない」と断られた。

早川は、何度断られても、クレームのたびごとに改良し、毎月六種類ずつ六か月かかって、1ダースずつ3つの箱に違うものをいれて持っていくと、その熱意に打たれたのか、ついに主人が会ってくれて、言い値で買ってくれた。

次第に、シャープペンシルの評判が伝わって、白木屋、三越、松坂屋で販売され、海外からも大量の注文があった。

小さい町工場なのに、いち早くモーターを採用。大量生産のための外国製の旋盤機、シボリ機、コンベアーシステムを導入。アメリカで特許を取得して、事業の基礎を固めていった。


当時、第一次世界大戦の好景気の波に乗り、大正12年には従業員二百人、月商5万円という文具界の大手にのし上がった。

「禍福はあざなえる縄のごとし」と言うが、大正12年9月1日正午、関東大震災が発生。

徳次が20年の歳月をかけて必死で積み上げてきたものすべてを、一瞬にして奪い去った。妻と二人の息子が亡くなり、建てて数年の工場も自宅も壊滅した。早川は、絶望、窮状のどん底に投げ込まれた。

手持ちの資金は焼けてしまい、得意先からは借金返済を迫られた。
早川は、一からの出直しを決断した。

焼け残った機械、シャープペンシルの特許など約50件を、借金返済のために手離して、大阪の現在のシャープ本社の所在地に都落ちした。


                                                                                             次号につづく

2012年08月09日

逆境をバネに成功した早川徳次(3)

”澤 穂希”の名言

度重なる逆境・試練を乗り越え、いよいよ今晩世紀の大決戦へ!

なでしこジャパン・・大和魂で悲願の金メダルゲット!


「苦しくなった時は 私の背中を見なさい」
   ※北京五輪で 宮間あやへの励ましの言葉

「夢は見るものではなく 叶えるもの」
   ※なでしこが世界の頂点に立った日

「苦しい思いをすると 同時にもっとやれる自分が見えてくる」

「何をやるにしても壁はある 壁にぶつかるからこそ 人は頑張れる」


「有頂天になったら そこまでの選手ですよ」

「沢山の子どもたちに目標や夢を持ってもらえたらいい。

                  ”不可能はない”ということを証明できたから・・」



990 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「逆境をバネに成功した早川徳次(3)」


大正12年9月1日正午、関東大震災が発生。徳次が20年の歳月をかけて必死で積み上げてきたものすべてを、一瞬にして奪い去った。

妻と二人の息子が亡くなり、建てて数年の工場も自宅も壊滅した。


早川は絶望・・窮状のどん底に投げ込まれた。手持ちの資金は焼けてしまい、得意先からは借金返済を迫られた。
早川は、一からの出直しを決断した。

焼け残った機械、シャープペンシルの特許など約50件を、借金返済のために手離して、大阪の現在のシャープ本社の所在地に都落ちした。


2年後の大正14年春、早川に再びチャンスが巡ってきた。
米国から輸入されたばかりの、2台の鉱石ラジオセットの一台を手に入れた。
すでに欧米ではラジオが普及し始めていたが、日本でも三月からNHKラジオ放送局が開設されるのだ。


早川は、このラジオセットを徹底して分解し、研究した。

同年四月、日本初の鉱石ラジオ受信機一号を完成させた。

すぐに、鉱石ラジオの製造に着手・・シャープと命名した鉱石ラジオは引っ張りだこの大ヒット。昭和四年、交流式真空管ラジオを発売・・ラジオのシャープとして、業績を拡大。


その後第二次世界大戦、そして終戦を挟んで、徳次は幾度となく苦境に追い込まれた。その都度、持ち前の発明家精神で、苦境を脱する新製品を開発・・普及させていった。


昭和25年、国内は金融引き締めと、労働争議が吹き荒れ、シャープは倒産の危機に直面した。

人員整理を条件に、銀行の融資が受けられることになったが、早川は「社員を失業させてまで延命しようとは思わない」と、銀行の条件を拒否した。「社員588名、全員一蓮托生で会社を去ろう」と厳命した。


思いもかけぬことに・・労組から「我々の中から210人が希望退職します・・融資を受けて再建してください」との申し出。
至誠天に通ず!・・早川は感泣した。


以後労使一体となって、再建へ立ち上がった。直後、朝鮮戦争勃発・・戦争特需で、日本経済とシャープは一挙に回復軌道に乗った。
昭和30年以降の日本は、高度経済成長時代へ・・家電業界の黄金期を迎える。

「人にまねをされる商品を作れ!」をモットーに、昭和28年国産テレビ第一号を開発し、量産。昭和35年、カラーテレビの量産開始。
38年に太陽電池、39年世界初の電子卓上計算器発売。

48年、液晶を小型電卓のディスプレーとして実用化。
日本を代表する総合電機メーカーになっていった。


昭和55年、86歳でその偉大な生涯を閉じた。

現在、連結売上3兆219億円、グループ総人員6万5千人の、世界的企業に成長した。

                                                                             理念と経営五月号より

2012年08月13日

ダイエットを成功させるために・・

継続は”力” 鍵山秀三郎語録より

箸よく盤水をまわす
自分の力がどんなに小さくても、一生懸命心をこめて、あきら

めずにやり続けると、不可能と思われる大きなものも動きだす。

ひとたび動き出してしまえば、止めようとしても止まらない。


十年 偉大なり ・ 二十年 畏るべし

三十年 歴史になる ・ 五十年 神のごとし

トイレ掃除五十年から生まれた言葉で、中国の教えです。



991 【食と健康】
「ダイエットを成功させるために・・」


内臓脂肪の蓄積が要因となり、脂質異常、高血圧、高血糖などが重複した状態になることを「メタボリック・シンドローム」と言います。

メタボと診断され、今度こそはと食事の改善に取り組んでみても、思うような結果が得られず、あきらめたことが過去何度あったことか・・。


そこで、毎日食べた物を、ノートに記録しておくと、ダイエットに成功する確率が高くなるという・・記録ついでに、食事の時間も書き込んでおく。

記録しておけば、いつどんな食事をとったか一目瞭然・・「数日単位」で記録していくと、心にブレーキがかかり、減量に貢献するのです。


三日前の夕食・・何を食べたか? 記録を見れば一目瞭然です。

その効果は・・豪華な肉料理の翌日は、野菜中心の控えめの食事にしようと、心iブレーキがかかり、ダイエットにつながるのです。


毎日完璧に記録しなくても、”三日間を一単位”にして、帳尻を合わせるようにします。この三日坊主を365日繰り返せば、1年で約100日間実行したことになる。
こんな小さな心がけでも・・積み重ねれば、メタボ改善に大きな効果があるのです。


単身赴任や一人暮らしをしていると、どうしても外食や、コンビニ弁当に頼ってしまいます。
また、仕事が忙しいと、夕食をとる時間が遅くなって、食生活が不規則になります。


加えて夜遅くの食事は、体内脂肪を蓄え、脂肪組織を肥大させます。

食事の間隔が長いと、空腹感が増して「ドカ食い」の原因になります。

解決するには、夜の仕事の合間に”おにぎり”を一個食べるといい・・空腹が緩和され、仕事の後の夕食の量を、自然に減らすことができます。


コンビニで弁当を買う際も、野菜の少ない弁当が多いので、サラダを一品付け加えます。
少々量が増えても、「野菜2に対して肉が1」の比率を守ることが大切なのです。

食事の量は、減らすことだけでなく、加えることも、ニューを選ぶ際の工夫になります。

ダイエットに取り組む時、食事のみでやせようとするのは、リバウンドしやすい体になります。運動を組み合わせることではじめて、長続きするのです。

            金大付属病院「NPOチームダイエット」たかむら俊成准教授

2012年08月16日

ダイエットを成功させるために(2)

「ミカンの色素」に、生活習慣病の予防効果が・・


これまでの調査研究で、ミカンを沢山食べて、血中のミカンに含まれる

色素成分の濃度が高い人ほど、メタボリック症候群や動脈硬化、糖尿病

にかかる割合が低いことが、明らかになっている。


金沢大学の太田特任助教は、愛媛大などと共同で、医学的検証を行う

研究を開始したところ、脂肪肝を抑制する効果があるとのデーターを得た。
今後さらに実験を重ね、予防効果や仕組みに迫っていくという。


厚生労働省によれば、日本人一人当りの果物摂取量は、摂取目標の

200グラムには遠く及ばない117グラム。

太田助教は「果物は甘いので、血糖値を上げると誤解している人が多い」

と指摘。「生活習慣病予防のためには、ミカンを食べるといい・・」と奨励

している。


992 【食と健康】
「ダイエットを成功させるために(2)」


日常生活の小さな行い、行動を一つずつ変えていくことで、消費カロリーを増やすことが出来ます。

例えば、体重60キロの女性の場合、座ってテレビを見ていると、10分間で10キロカロリー消費します。      これが、立って会話しながらだと、15キロカロリー・・ 消費カロリーは1.5倍になります。


寝転んでテレビを見ているようでは、ダイエットになりません。
部屋を片付けたり、台所に立ったり。

バスを一つ手前で降りる・・エレベーターに乗らずに階段を使う・・椅子の背もたれに寄りかからない・・など。 こうした小さな積み重ねが、消費カロリーを増やすのです。


運動することが減量の目安になるのは、20分以上有酸素運動をしたときです。
夫婦で朝の散歩を楽しむ。近所の公営プールで泳ぐ、歩く。
趣味のテニスやゴルフで汗を流す。ヨガ、気功、エアロビなど、同好会に入って汗を流す。

スポーツジムで筋肉トレーニングをするのも減量につながります。

筋肉は、運動していなくてもカロリーを消費するので、筋肉を増やすトレーニングをすれば、その分痩せやすくなります。


自分の生活スタイルに合った運動を見つけ、同好仲間と楽しく運動することが、長続きするコツになります。

運動するとお腹が空きます・・消費したエネルギを補おうと、体内の脂肪が燃焼する時です。

1時間歩いても、消費するエネルギーは200~300キロカロリーです・・ショートケーキ1個でチャラです。我慢できずにお菓子をつまむ・・すると、ますますお腹が空いて我慢できなくなる・・せっかくのダイエットが無駄になってしまう。

          金大付属病院「NPOチームダイエット」たかむら俊成准教授

2012年08月20日

両親と同居することの是非

「つれあいにモノ申す」 中日新聞

買い物

妻と近くのスーパーに買い物に出かけた。

車の中で待てども、出てこない・・店内を探してもいない。

家に戻ると、一人で歩いて帰っていた。

私の顔を見るや開口一番、「あなた、どこへ行っていたの?」

『 ・・・・ 』

収  穫

自宅の庭に、夏ミカンがたくさん実った。
今年もやっぱり、木に登ってもぐのは私・・下でキャッチするのは夫。

「逆だと思わない?」と言ったら、「おまえはサル、僕は人間だから」

だと!

試  着

夫に、新素材の肌着を買ってきた。

いつものLサイズなのに、締め付けられるようで「気持ち悪い」と言う。

せっかく時間をかけて、比較検討して買ったのに・・

夫「着てみればわかるだろう」と逆ギレ!
男物の下着、私に試着しろというのか?



993 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

「両親と同居することの是非」


私は六人兄弟の三番目。家族会議で、父の商売を私が継ぐことになって、結婚後、両親と同居することになった。

毎年正月には、兄弟が実家に集まり、両親と正月を祝うのが習わしになっていた。実家の嫁になった私の妻は、大変である・・正月の二日と三日は、台所に立ちっぱなしになる。


妻の実家も金沢市内・・正月に兄弟が集まってくる・・妻は実家に帰れない・・ 新婚当初、里帰りしたかっただろうが、妻の泣き言・愚痴を聞いたことがない。

父が・・後に母が・・老いて病の床に伏した時・・妻は、完璧なまでに看病した。 嫁の役割を果したのです。


東京や神戸の兄弟が、家族を連れて見舞いにやって来た・・
私たちの存在を忘れて「おばあちゃん、おばあちゃん」である。

割り切れない妻・・実家を切り盛りし、病人を看病しているのは私たち夫婦・・ いや、妻である。

妻は、両親を看護するために嫁に来たのではない・・家政婦でもない。
家事一切を任されている主婦なのだ。実家の嫁というだけで、1人犠牲を強いられるのは、納得がいかない。


そうして葬式・・親族が集まるお通夜の席で、兄弟誰ひとり「大変だったね・・ご苦労かけたね・・ありがとう」の言葉がない・・葬式を済ませたあと、妻は悔しがった。

自分の息子の嫁にこんな苦労はさせたくない。それで、息子が結婚した時も・・今も・・同居の話しが持ち上がると、妻はきっぱり断るのです。


今の法律では、親の面倒をみるものが一番損をするようになっている。
両親が健在なときは、親戚付き合いが大変だった。春と秋のお祭りには、二段重ねのご馳走を作って、親戚に配って歩いた。
盆暮れの付け届けや、先祖の供養・法事・墓守りなどは、当然本家の役割。
盆や正月には、兄弟が子どもを連れて里帰りしてくるが、食事の世話をしたり、寝具を揃えたり、帰る時に持たせる土産の用意をしたり・・
すべて妻の役割。

親と同居する私たち夫婦・・食事の世話だけでなく、病人の介護、みとった後葬式を出すなど、経済的負担もばかにならない・・。


親が亡くなった後、遺産分配で兄弟が集まってくる・・親の面倒を看なかったものほど、法律に定められた通りの分配を主張する・・我が家がそうだった。父親が亡くなった時、兄から「お前は、まるで国鉄だな」と言われた。
母親・兄弟それぞれの相続分を振り分けた後、私の手元に残ったのは、換金できない父親の土地と建物だけ・・それも母親・兄弟との分筆登記である。その後、銀行から借金して、少しずつ兄弟の持ち分を買い取っていった。


長年、両親の世話と介護に明け暮れた妻には、親の遺産からの慰労金はない・・法律で定められているとはいえ、あまりにも不平等である。

だからこそ、私や妻を最後まで看病してくれる身内家族、そして死後、墓守りをしてくれる身内がいるなら、前もって遺言で相応の分配処置をしておこうと思っている。

2012年08月24日

教え過ぎてはいけない

「下らない」の由来


つまらなく価値がない話しを「下らない」と言って、聞くのを止めてしまう。

この言葉の語源は「下らない酒」からきている。

京都に都が置かれた頃、良い水が出る兵庫県・灘を中心に日本酒が

造られていた。江戸幕府が開かれると、関西の美味しいお酒が江戸に

送られるようになった。


当時、天皇がいる京都から、江戸へ行くことを「下る」と言った。

同様に、江戸に送られる酒は「下り酒」・・対して、関西以外の土地で

造られた日本酒は、「下らない酒」と呼ばれ、格も味も落ちる一段低い

酒に見られた。

そこから、「下らない」が生まれたのです。



994 【心と体の健康】 ~子育て~

「教え過ぎてはいけない」


プロ野球中日フアンで70歳以上の人なら、往年の名投手・権藤博を知らない人はいないだろう。

昭和36年に入団してすぐエースになり、その年は35勝、翌年には30勝という、現在では考えられない勝ち星を残した。

その後、連投に次ぐ連投で肩をこわし、30歳で現役を引退した。


引退後コーチ・監督として、指導者の道を歩むが、彼がコーチングの勉強で訪れたアメリカで、一生忘れることのない「指導者の基本的な考え方」を学んだ。

アメリカの教育リーグで打撃練習を見ていたら、ある若手選手が流し打ちができずに苦労していた。見るに見かねた権藤が、「こうやるんだ」とコツを教えたところ、その選手はみるみるうちに上達した。


しばらくして、その選手を見ていたコーチが戻ってきて、あまりの変わりように驚いた。
選手に「どうしたんだ」と訊ねたら、「ミスター権藤が教えてくれた」と・・。

コーチは権藤をつかまえて言った・・「教えてくれたことはありがたい・・
だが、教えられた技術は、直ぐに忘れてしまい、身につかないだろう。
反対に、自分で掴み取ったコツは忘れない。だから私たちコーチは、選手が自分でコツをつかむまで、見守ってやらなければいけないんだ」


アメリカの球界では「教え過ぎはいけない(Don’t over teach)」とされている。ロサンゼルス・ドジャースのコーチ用テキストには、この言葉が冒頭に記されているが、権藤はその意味を現場で知った。


私も、そのことを知識としては知ってはいたが、ピンときませんでした。

日本の現場では、「もっとていねいに教えろ」と言われることはあっても、「教え過ぎるな」と言われることはないからです。


手取り足取り教えてしまう上司は、どこにでもいます。
しかし、それでは依頼心の強い指示待ち人間になってしまう。
上司は歯がゆく感じても、じっと見守ってやる我慢が必要です。


新人は上司に頼らず、どれだけ時間がかかろうと、自ら体験して「これだ!」と思うものを、一つひとつ掴んでいく・・
「体で覚える」とは、そうやって身に付け会得した、知識と知恵なのです。


稲尾和久、中西太と共に西鉄ライオンズの黄金時代を築いた豊田泰光氏も、同様の説を説いている・・「手取り足取り教えてくれるような先輩ばかりだったら、今の私はなかったと思う」


大リーグの一郎選手も・・「伸びるやつは勝手に学び、ひとりでに育つものだ。教えられて伸びるやつはまずいない」と。

プロに『教える・育てる』はない・・『学ぶ・育つ』があるのみ。

何事も、自分で考え実践して身に付けたものでなければ、本物ではない。

ブロとして一歩踏み出す新人たちに、その覚悟がなければ大成しない。

プロとは野球選手に限らない。営業マンも職人も、総務も経理も、金を貰って働く人間はみんなプロだ。プロを自認するなら、自分の才覚で人生を乗り切っていかなければならない。


                                      理念と経営6月号「未来をひらく 小さなコンセプト」より

2012年08月27日

ことわざ「良薬は口に苦し」

「風が吹けば、桶屋が儲かる」

超大型台風が沖縄を直撃した。

ところで、風が吹けば何故桶屋が儲かるのか・・ことば遊びです。


『強風で土埃が目に入ると、目を悪くする人が増える。

目を悪くすると、角付けでもしようということになるから、

三味線が売れる。

三味線の胴は猫皮だから、猫が減ってネズミが増える。

ネズミが増えれば、桶をかじって穴を開ける。

すると桶屋が儲かる…』


この話が大嘘であることは、誰の目にも明らか。

江戸庶民の駄洒落(ユーモア)として”おかしみ”が伝わってくる。

狂言や落語をこよなく愛した江戸庶民。

「猫も杓子も」などの、洒落ッ気あふれた言葉文化の花が咲いた。

その遊び心は脈々と受け継がれ、今に生きている。



995 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

~歴史から学ぶ~ 「良薬は口に苦し」


「良薬は口に苦し」・・よく使われることわさですが、そのルーツは項羽と劉邦の時代に遡ります。

上司である劉邦が、部下の諫言を苦々しい思いで聞き入れたときの逸話(史記)から出た言葉です。

♪項羽と劉邦が、秦の始皇帝が没した後の秦帝国を倒さんとして、互いに激しく争っていた。
紀元前203年、両雄は秦の都にどちらが一番乗りするかを競っていた。

劉邦が一足早く都を落とした。宮殿にはおびただしい財宝と、美女千人・・劉邦はすっかり心を奪われ、宮殿に留まろうとした。
臣下の樊噌(はんかい)が、死を覚悟で劉邦を諌めた。


「まだ国は統一半ばです・・天下のために残賊を除こうとするなら、場外に野営して城を守り、次の戦いに備えなければなりません」

「臣下の分際で何を言うか! お前のような者は手打ちにしてくれる」とかんかんに怒った劉邦。


その時、参謀長の張良が進み出て・・
『殿、どうかお待ちください・・樊噌の言うことはもっともです・・忠言は耳に逆らえども 行いに利あり。
良薬は口に苦けれども 病に利あり
(忠言・諫言は聴きにくいが、身のためになります。良薬は口に苦いが、病にはよく効きます)』と、劉邦を諌めた。

「言われてみれば、その通りだ」と劉邦は鉾を収め、財宝は封印し、美女は放逐した。

その後、兵の数に勝る項羽によつて首都を占拠され、城は焼き払われてしまったが、一年後、劉邦は項羽を倒し、天下を統一して、前漢の初代皇帝になった。

この逸話が後世に語り継がれ、「良薬は口に苦し」と言われるようになった。

2012年08月30日

食事の手抜きが、子どもを駄目にする

食べ物・金沢弁


食べ物には、その土地独特の呼び名で呼ばれるものがある。

金沢では「たらこ」をもみじこと言い、「ひろず」をがんもどきと言う。

がんもどき…おかしな言い方だと思ったら、ポルトガル伝来の言葉

だそうです。

更に…はんぺん(かまぼこ)、なすび(茄子)、こけ(きのこ)、

こうばこ(雌ずわい蟹)、おつけ(味噌汁)、いものこ(とろろ芋)、

かきやま(かきもち、あられ)などがある。


山陰では、雄のズワイガニを松葉ガニと言う…雌はどう呼ぶのか?

土地の人に尋ねたら「親カニ」だという…子を産むから確かにそうだが、
味も素っ気もない。
金沢では”コウバコ”と言い、「香る箱」と書く。いかにも金沢らしく
奥ゆかしい。

こぞくらは「ぶり」の稚魚…「こぞくら→ふくらぎ→がんど→ぶり」と、

名前が変わっていく出世魚です。


寒天にダシと卵を混ぜ、冷やして固めたものを、金沢ではベロベロ

言う…おかしな名前です…春と秋のお祭りに欠かせない金沢のご馳走
です。甘くてスベスベして、子どもの頃お菓子のように味わって食べた。


996 【食と健康】

「食事の手抜きが、子どもを駄目にする」


私たち夫婦が両親と同居して最大のメリットは、妻が姑から、昔から受け継がれてきた四季折々の家庭料理の伝授を受けたことです・・。

今年も、梅を干して梅干しを漬け、ラッキョウも面倒がらず、ひとつ一つ皮をむいて漬け、食卓に並べられている。

料理のレパトリーは広く、何を調理しても味自慢できる美味しさです。

毎年正月、食卓に並ぶおせち料理は、全て妻の手づくりである・・
姑から教わった通りに、手間のかかるおせち料理を、手抜きせずに作ってくれる。
年の暮れに、家事と仕事を両立しながらだから、偉い!と言わざるを得ない。

厚生労働省の調査によれば、中学校1クラスに数人、腎臓の悪い子どもがいるという。この子たちは100%お母さんが働いていて、食事を手抜きしたことによる犠牲者なのです。

1日に2食は、スナック菓子やカップ麺で済ませることが原因です。
母親が1日家にいないので、お金を置いていきます。子どもはインスタント食品で簡単に済ませてしまう・・その積み重ねなんです。


こうした食品の多くは塩分が濃く、防腐剤が入っている。
そのせいで腎臓の血液をろ過するところがつまって、腎臓の働きを低下させる。

腎臓は一旦悪くなったら治しようがない・・これほど怖いことはない・・いずれは人工透析で血液を浄化しなければならなくなる。
一回に3~5時間かかるのです。


”愛情”には行為の裏づけがないとダメです。
母親が示す一番の愛は、毎日の食事を心を込めて作ることです。

お母さんが食事を手抜きすると、子どもも親になって手抜きするようになる。そのまた子ども(孫)も駄目になっていく・・怖いですよね。


子どもは、お父さんやお母さんを見て育ちます。
家の中での挨拶や食事など、両親がきちんとした生活をしていれば、取り立ててしつけをしなくても、それが「しつけ」になっているのです。


                                                           綱澤昌永「”つ”のつくうちに家庭教育」

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