« 2015年07月 | メイン | 2015年09月 »

2015年08月 アーカイブ

2015年08月05日

小野晋也先生と行く 「韓国・全羅南道訪問五日間」

日本と隣国韓国との関係が、いつまでも冷え切ったまま

では駄目と誰もが思っている。原因は両国の歴史認識の
ズレ。
「悪いのは相手国、相手国が間違っている」と、
いつまでも平行線のまま・・
それが「竹島問題」「教科書問題」「靖国神社参拝」など

に表われてくる。

ただ「仲良くしよう」と呼びかけても、わだかまりが抜け

ない限り、心を開いてはくれないだろう・・


今回の韓国訪問で、ジカにこの目で見、じっくり話を
聴くことができた。
韓国側から日本を見たとき、過去の歴史認識が全く

正反対であることを知った。

40年近く日本の統治下に置かれ、みじめな生き方を

強いられてきた祖父母の時代の悲しみや感情は、

薄っぺらな歴史認識しかない私が、どうのこうのモノを
言う資格はなさそうです・・

1298 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

小野晋也先生と行く
「韓国・全羅南道訪問五日間」


7月31日から、元衆議院議員・小野晋也先生を囲む

学びの会の皆さんに混じって、韓国の歴史を学ぶ旅に

行ってきました。

参加者は全国から、地方議員、国会議員秘書、大学関

係者、事業経営者、そして松下政経塾の塾生4名など、

総勢27名。

初日は、麗水・鎮南館(ヨス、チン・ナムグァン)を見学。

韓国の南、日本に最も近い全羅南道の麗水市内にあり、
秀吉の朝鮮出兵の時、韓国水軍の大本営が
置かれた所。


044

写真の石像は、本営まで迫ってきた日本軍に対し、本営

に兵士が沢山いるように見せかけるための疑人。
この時の戦いで本営は焼けてしまったが、戦後再建され
た。
2001年国宝に指定。

                                           046

二日目は、順天倭城(スンチョン・ワジョウ)を見学。

1599年に秀吉軍が三方海に囲まれた、天然の要害に

城を築いた。
080

築城の時、周辺の海が遠浅で、救援物質の搬入に不向き

と、候補地から外されそうになった時、秀吉のツルの

一声で決まったという。

実際、明・朝鮮水軍が攻め寄せたが、遠浅で攻めあぐね
た。

073

2015年08月07日

韓国・全羅南道訪問(2)

珍島(チンド)の海割れ


珍島は、毎年旧正月の2月末と6月中旬に
「海割れ」現象が起きる。

引き潮の時、長さ約3キロ、巾40メートルの
海底が現れ、道のようになる。


旧約聖書のモーゼの伝説に似ていることから

「モーゼの奇跡」とも呼ばれている。

 

1299 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

韓国・全羅南道訪問(2)
「文禄・慶長の役と李舜臣」


全羅南道最南端の珍島(チンド)にある、韓国の英雄

李舜臣(イ・スンシン)将軍と、文禄・慶長の役の詳細
を展示した、殉節基域を見学した。


日本を統一した秀吉は、1592年中国の明を攻める

決意をした。そこで、朝鮮に道案内をさせようと対馬
の宗氏を交渉に向かわせたが、拒絶された。

激怒した秀吉、加藤清正、小西行長を主力にした
15万
の軍勢を朝鮮に送り込んだ。
向え打つは、李舜臣率いる朝鮮水軍・・


1591年、文禄の役の一年前に、朝鮮南西部の水軍の

総帥になった李舜臣は、日本との戦いを予測し、日本水

軍の弱点を見つけ出し、対抗できる”亀甲船”を作らせた
         052
戦いの直前、王が李舜臣に出陣を命じたが、事前に情報

を入手していた李舜臣は、日本軍の罠に気づき出陣しな

かったため、政敵の諫言により失脚。
投獄・拷問の末、死罪を言い渡されたが、一平卒として
軍に留まることで許された。

1597年の慶長の戦いで、朝鮮水軍は惨敗・壊滅。
将軍の多くが戦死したため、復帰を許された。

その時残されたわずか12隻の軍船で、明・韓連合軍は
日本の水軍と戦った。
                        227
戦いは、地の利を知り尽くした、鳴門海峡のように潮の

流れの激しい海峡に日本の船団を誘い込み、全滅させ

大勝・・約400隻の日本の軍船と兵士は、海のもずく
となった。

                        229
秀吉の死去により、日本軍は明国と休戦を結び、朝鮮
半島
から撤退を開始。
和睦に反対する李舜臣は、順天城沖の海上を封鎖。
一足先に撤退していた日本水軍と海戦に及び、李舜臣の

水軍は敗れ、李舜臣は戦死したと伝えられる。


近年になって、韓国の国民的英雄として崇められるよう

になった。

2015年08月08日

韓国・全羅南道訪問(3) 「百済・王仁博士の渡来」

韓国にも「前方後円墳」が・・

三日目の朝、光州広域市の”長鼓墳”を見学した。

朝鮮半島南部には、古代日本を象徴する前方
後円形の古墳が十数基分布している。


何れも、五世紀後半から六世紀前半にかけての
築造とされ、日本から朝鮮へ文化移入があった
ことを表すものとして注目されている。

埋葬物には、日本の古墳と同じ、埴輪や木製品
が出土しているが、当時の史料が乏しく不明まま
である。

    150



1300 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

韓国・全羅南道訪問(3)

「百済・王仁博士の渡来」


2日目、王仁(ワニ)博士遺跡地を訪れ、師の功績を学ん
だ。
百済の学者”王仁博士”は、日本の応神天皇に招かれ、
日本に渡来した。太子
の師となり、政治顧問となって、
また漢字や儒教を伝えた人物として、日本文化の発展に
寄与し、飛鳥文化の基礎を築いた。

                                  133

博士の子孫もまた、代々学問にかかわる役職に携わって
朝廷に仕え、日本文化の発展に大きく貢献した。


大阪・枚方市に王仁博士の墓があり、大阪府指定史跡に

なり、以下のように紹介している。
「古事記によると、王仁博士は古墳時代前期の四世紀末
に朝鮮半島の百済から渡来し、「論語」10巻、「千字文」
一巻をもたらし、学問の祖として崇敬されてきました」


「千字文」は、中国で古くから子どもが文字を学ぶときの
初歩の教科書として広く利用され、日本では習字の見本
として親しまれてきた。

  126


ところで韓国の教科書には「百済の文化を日本に
伝えて
あげた
人物で、今も日本人は王仁を日本文化の先生とし
て崇めている」 と書かれている。

しかし、朝鮮の歴史を記録した古書には”王仁”なる
人物は存在せず、遺跡は日本の史料「日本書紀」などの

記述を基に、韓国政府肝いりで1970年以降に創作さ

れたものだという。

世界の多くの国の教科書は、「五世紀には大和政権が
朝鮮の南部地域を統治していた」と記述。
発掘調査などで明らかになっているが、韓国
政府の抗議
で削除されつつ
ある。

                                                 Wikipediaより

2015年08月09日

5.18光州民主化運動

韓国歴代大統領の悲劇
初~3代  李承晩(リ・ショウバン)

               選挙不正でハワイへ亡命

5~9代    朴正煕(パク・チョンヒ)

                夫人と共に暗殺される

11~12代   全斗愌(チョン・ドゥファン)

                    光州事件で無期懲役

13代   盧泰愚(ノテウ)

            収賄容疑で逮捕、懲役17年

14代   金泳三(キム・ヨンサム)

            次男が不正を働き逮捕

15代   金大中(キム・デジュン)

            息子2人が金銭授受容疑で逮捕
16代    盧武鉉(ノムヒョン)

             収賄容疑を受け、自殺
17代    李明博(イ・ミョンバク)
            兄が不正資金で逮捕。長男は脱税容疑

18代    朴槿恵(パク・クネ)

                 ?  ?  ?


朝鮮の歴史は、政敵を陥れる策謀と権力闘争の繰り返し
数千年の政治体質は、今も変わらないのだろうか?



1301 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

韓国・全羅南道訪問(4)
「5.18光州民主化運動」


全羅南道訪問3日目、国立5.18民主墓地を訪れた。

1980年の光州民主化運動に関わって亡くなった犠牲者

を追悼追悼し、事件の全容を後世に残すために造られた

施設です。

            170

事件は1979年10月、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領

が暗殺され、全国に民主化を求める運動が頻発する

中で起きた。
クーデターで軍を掌握した全斗煥(チョン・ドゥファン)は
民主化運動を抑えるため、事件勃発直前に”金大中”を
連行・・

1980年5月18日、全斗煥軍政下の光州で民主化を
求める学生・市民が、戒厳令の解除と金大中釈放を求
めた。大規模なデモ隊が市中を占拠した。

軍が投入され、武力弾圧開始。市内は一触即発の状態
に・・21日、軍による無差別銃撃で、多数の市民が射殺
され、連行されていった・・これを機に市民と軍の銃撃戦に

発展。

            163
27日、軍が市内に突入し、多数の犠牲者を出す中事態

を収拾・・韓国の歴史に大きな禍根を残す事件になった。

この事件による死者は約600名、負傷者は約2400名。

2015年08月10日

全羅南道訪問(5)「韓国孤児の母・木浦千鶴子」

1302 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

韓国・全羅南道訪問(5)
「韓国孤児の母・木浦千鶴子」


日韓両国の不仲が問われる中、韓国孤児の救済に生涯
捧げた日本人妻がいたことを、今回の韓国訪問で知った。


その人は”田内千鶴子”・・・高知市に生まれ、1938年

日本統治時代、全羅南道の小さな港町木浦(モッポ)で

牧師の尹致浩(ユン・チホ)と周囲の反対を押し切っての
結婚。

          199
孤児を救済する”共生園”で、
夫を助けて働いた。

統治時代は、貧しい施設と資金難に苦しんだ。
終戦後排日感情が高まり、1946年千鶴子は老いた母
と2児を連 れて、高知に引き揚げた。

が、木浦に残してきた夫と孤児たちへの想いが募り、
翌年母の説得を振り切って、再び子どもと韓国へ密入国
した。 母と2つの国に分かれて生きていかなければ
ならない運命
に、千鶴子は泣いた。 
          200              

朝鮮戦争で荒廃する中、夫は孤児たちの食糧を求めて

さまよい、行方不明になった・・
その後も千鶴子は日本に戻らず、見捨てられた
孤児を

てることに、人生の全てを捧げた・・その数3000人。 
              
1963年日本人初の”韓国文化勲章国民賞”を受賞。
1968年木浦市で、孤児たちに見守られ、56歳で死去。

死の直前、千鶴子は長男に「梅干しが食べたい」とつぶや

いた。 
               204
木浦市で市民葬が行われ、3万人が訪れて死を悼んだ。

民族を超えた人間愛は「木浦の母、韓国孤児の母」と敬わ

れ、今も市民に慕われている。

2015年08月11日

屈辱的歴史の象徴・朝鮮総督府庁舎

三人の独立運動家

293

左/ユン・ボンギル
上海で日本人要人に爆弾を投げ、死刑
中/アン・ジュングン
伊藤博文を銃撃殺害した韓国の英雄
右/キム・ジャジン

青山里戦闘などで日本軍に勝利した


1303 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

韓国・全羅南道訪問(6)
「屈辱的歴史の象徴・朝鮮総督府庁舎」


韓国訪問4日目、「国立天安独立記念館」を訪れた。

         275

1910年韓国併合後、朝鮮を統治するお役所
「朝鮮総
督府庁舎」が宮殿の前面に建てられた。
その際、宮殿正門の”光化門”や正殿を象徴する建物は

移築保存されたが、8割近くは破却されてしまった。


4階建ての巨大な庁舎が完成すると、街から宮殿が見え

なくなった。

          294

李氏朝鮮の時代、都や墓の場所を定める時、風水が大き
な役割を果した。
あろうことか、王宮の正面に風水をふさぐ形で、巨大な

建物を建てたことが、現在まで続く反日感情の一因にな
っている・・
独立後、旧植民地の遺構だとして撤去を求める意見と、

歴史を忘れないために保存すべきだという意見で、
論議が分かれた。
      
朝鮮民族にとって屈辱的歴史の象徴であり、しかも、

王宮をふさいで建てられた朝鮮総督府庁舎は、撤去す
べきとの意見が多数を占め、1995年に取り壊された。


その時、移築も検討されたが、膨大な費用がかかるため、

尖塔部分を残して全て解体された。
跡地には、庁舎建設で取り壊された王宮の一部が復元
され、現在は宮殿の正面入口になっている。


尖塔部分は、屈辱の植民地時代を象徴する記念碑として

「独立記念館」後方の丘の上に展示されている。

       295

この展示物を見学する時、この尖塔の下に、
あの忌わし
い日帝を象徴する建物が埋められている・・
「そう、空想して見るように・・」と、記念館の係員が

たちを見回して言った。

2015年08月15日

ことば遊び 「落語・抜け雀」

抜け雀を描いた屏風が知恩院に・・


京都・知恩院に、朝になると襖絵から雀が抜け

]出し、餌をついばむという、知恩院七不思議

の一つに数えられる襖絵が現存している。

描いたのは、京都狩野派・狩野信政。

紅白の菊の上に数羽の雀が描かれていたが、

あまり上手に描かれていたので飛び去ったと

言われている。

現存する襖絵は、雀が飛び去った跡しか

残っていない。



1304 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

~ことば遊び~ 「落語・抜け雀」

宿代代わりに屏風に描いた雀が・・
名工をたたえた不思議な噺です。


♪夫婦二人だけの小さな旅籠の泊まり客
七日の間、一日中大酒くらって寝ている。


かみさん文句を言いだした・・
「ここらで内金を入れてもらっておいで」

と、気弱な亭主の尻をたたく。


ところが男『金はない』

男の商売は絵師・・『抵当(かた)に絵を描いてやろう』と
亭主をアゴで使って墨をすらせ、衝立に一気に描きあげ

た。
『とうだ!』 「へえ、何です?」
『雀が五羽描いてある・・1羽1両だ。
  これを抵当に置いておく・・
  帰りに寄って金を払うから、売ってはならない』
と言い置きして男は出立した。

とんだ客を泊めたと、夫婦がぼやいていると、

二階で雀の鳴き声がする。

はて?変だとヒョイと見ると、例の衝立が真っ白・・


夕刻に雀か戻って来て、何と衝立の中に飛び込んだ。

これが宿場の評判になり、見物人がひっきりなし・・
ある日、六十過ぎの品のいい老人が泊まり、
絵を見ると

『描いたのは二十五・六の小太りの男であろう・・

この雀は死ぬぞ!』

亭主驚いてわけを聞くと・・

「止まり木が描いてないから、そのうち疲れて落ちる」

と言う。

『書き足してやろう』と硯を持ってこさせ、さっと描いた。
「あれは何です?」 『これは鳥かごだ』
なるほど・・

雀が戻ってくると、鳥かごの止まり木にとまった。

『世話になった・・』と老人は行ってしまった。

それから益々絵の評判が高まり・・

とうとう藩主の大久保加賀守までやってきて感嘆し、

この絵を二千両で買うとの仰せ・・亭主は腰を抜かした

が、律儀に「絵師が戻ってくるまで待ってくれ」と売ら

なかった。

それからしばらくして、仙台平の袴に黒羽二重という、

立派な身なりの侍が、

『あ~許せ、一晩厄介になるぞ』

見ると・・あの時の絵師・・亭主は慌てて、

下にも置かずにごちそう攻め・・

老人が鳥かごを描いていった次第を話すと・・

絵師は、屏風の前にひれ伏すと・・

『いつもながらにご壮健で、不幸の段お許しください』

聞いてみると、あの老人は絵師の父親・・

「へええッ、親子二代で名人てえなあ・・めでたい」

『何がめでたい・・あ~俺は親不孝をした』

「どうして?」
『衝立を見ろ! 親をかごかきにした・・』

2015年08月21日

歴史から学ぶ「百済滅亡と日本」

朝鮮に攻め入ったのは、 
  秀吉が最初ではなかった・・


1592年、秀吉が朝鮮出兵を決断した年の

930年も前・・664年飛鳥時代に、当時の

ヤマト朝廷が3万7千人もの大軍を朝鮮に

送り込み、唐と新羅の連合軍と戦った・・


このような記録が日本書紀に残されている。
この時代の3万7千人は大きい・・何故?
それほどの大軍を朝鮮に送り込んだのか。


ヤマト朝廷と親密な関係にあった百済が、
わずかの間に、唐の朝鮮南下政策で滅ぼ

されてしまった。

「次ぎは日本が標的になる」との危機意識が

あった。  明治初期、ロシアの南下政策に、
日本が危機意識を抱いたのに似ている。



1305 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

歴史から学ぶ「百済滅亡と日本」


7世紀、ヤマト朝廷が飛鳥に拠点を置く飛鳥時代、
朝鮮半島では、高句麗、新羅、百済の三国がしのぎを削

ていた・・

随は、高句麗に三度遠征・出兵するが、失敗に終わった。
四度目の出兵を計画している最中に内乱が起き滅亡した。

次に誕生した唐も、高句麗に三度出兵したが成功せず、

ならばと、新羅と組んで百済を滅ぼす戦略に出た。

660年唐は、水・陸13万の大軍で百済に攻め込んだ・・
新羅軍も呼応して、5万の兵で百済を攻めた。

百済の守城は次々打ち破られ、百済王は皇太子と共に

降伏・・700年続いた百済は滅亡した。


663年、ヤマトの国に亡命した王子と王族・国民は、
国の再興を願い、3万7千人のヤマト軍の支援を仰ぎ、

錦江河口で15日間・4度に渡って、唐・新羅連合軍と
戦った・・が大敗

400隻の船が燃やされ、炎と煙が天を覆ったと日本
書紀にある。

多くの百済人が海を渡り、日本に亡命した。
大和朝廷は彼らを優遇した・・百済からは鋳鉄、土木、

馬具、金属加工など、様々な先進技術がもたらされ、

寺や城の建築技法もこの時伝わった。


百済人は日本に漢字を伝えている。また日本が律令国家

なる過程で大きな役割を果たし、日本文化の発展 向上

に貢献した。
                                百済 

2015年08月24日

ペリーが見た日本と女性

ペリーが見た”おはぐろ”


穏やかに微笑した唇が開くと、ひどく腐食した

歯茎に一列の黒い歯が見えた。

日本の既婚夫人だけが、歯を染める特権を持っ

ている。染めるには”おはぐろ”という鉄の粉と、

酒とを含んだ汚い成分の混合物を用いる。

・・略・・
この習慣は、夫婦間の幸福を導くことには
何の
意味もないと、考えるべきだろう・・

この厭うべき習慣は、紅で唇を染めることで

一層明らかになる。赤く塗った唇は、黒い歯と

著しく対照をなすからである。

                                  ペリー日本遠征記

1306 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~
「ペリーが見た日本と女性」


ペリーは日米和親条約を調印し、下田と函館の開港をと
つけた後、帰路両港に立ち寄り、帰国後「日本遠征記」
を著わした。
日本の技術の優秀性、庶民の暮らし、衣食住、女性の
地位などが三巻に分けて記録されている。


帰路、ペリーは下田に数人の士官を従えて上陸した。
幕府役人の案内で街中を視察・・町長の自宅で酒と茶菓
の接待を受けた・・その時、妻と妹が給仕にあたった。


ペリ―は日本の女性に好感を持ったようで、そのことを
遠征記に書き記している。

『日本の社会には、他の東洋諸国にはない美点がある。
それは日本の女性の地位が高く、教養があることだ。

中国や韓国では、女性の地位が低く、家畜や奴隷の
ごとく扱われて いる。
日本では妻が伴侶として認められ、一夫多妻制が存在
しないことだ。
こうした恥ずべき習慣がないだけでなく、家庭が道徳的
であり、洗練されている。 女性の容姿はそこそこ美しく、
立ち振る舞いも活発で、自主的である。

それらは、彼女たちが比較的高い尊敬を受けていること
からくる品位に現れ、日常の友人・家族間の交際には
女性も加わっていて、互いの訪問、お茶の会は合衆国
同様、日本でも盛んに行われている。


教育は普及していて、日本の女性は東洋の他の国とは
異 なり、男性同様の知識があり、女性ならではの芸事
にも熟達していて、文字の読解力も優れている・・   』

ペリーが日本から受けた印象は・・
『日本は鎖国下にありながら、アジアの諸国とはかなり
違った文化的・社会的発展を遂げてきた国である。
欧米文化に適応する能力と文化水準を有し、いずれは
欧米先進国と肩を並べる国になる可能性を秘めている』

2015年08月27日

英国人女性が見た朝鮮の女性

ペリー来航の頃、隣の韓国は李斯朝鮮創建
から500年、26代高宗の時代です。

英国の女性旅行家イザベラ・バードは、4度

にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、当時の風俗、

社会、政治などを「朝鮮紀行」に記録した。

そこで、異常なまでに男性と隔離され、

家の中に閉じ込められている女たちを見た。

女性に与えられた権利はわずかで、 法より
も慣習が重んじられる社会だった。

妻から夫に離婚を切り出す権利は有せず、

夫が妻を放逐できる理由には・・

「不治の病、盗み、子なし、不貞、嫉妬、

  義父母との不仲、短気」の七つがある。



1307 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
~歴史から学ぶ~
「英国人女性が見た朝鮮の女性」


英国の女性旅行家イザベラ・バードの「朝鮮紀行」から・・

♪当時、朝鮮の下層階級の女性は粗野で礼儀知らず・・
同じ階層の日本の女性のしとやかさ、清国の節度ある

農夫の親切心などとは、比べようがない。


読み書きができず、着ているものは汚れ放題で、
夜遅くまで洗濯に明け暮れる毎日・・男が真っ白の

服を着て歩くために課せられた、重労働なのです。


この時代の朝鮮女性は、全て国のしきたりによって、
家の奥に隠された。この国の男性は、女は男より劣って

いるとする、一元的な哲学を持っていた。


当時の農家の女性は、料理、家事一切、重い杵と臼で
精米し、作物を頭に乗せて市場へ運び、水をくみ、田畑
で働き、朝は早く、夜は遅く寝て、糸をつむぎ機を織り、
その上子だくさん・・三歳になるまで乳離れしなかった。


何の楽しみもなく、家に嫁が来て家事の一部を肩代わり
しても らえる日が来るまで、働きづめの毎日。
30歳で50歳に見え、40歳の頃には大方歯がない。
おしゃれへの関心も、若いうちに消えてしまっている。


客が訪ねてきても、家の女たちについての言及は一切
許されなかった。息災かどうか尋ねるなどもってのほか
で、その家に女性がいないとするのが礼儀なのです。

上流階級の両班の妻でも、ぴたりと閉じた輿に乗って、

人を訪ねる のが唯一の外出・・下層階級の女性が外出

するのは、 もっぱら働くためである。


故意であれ偶然であれ、見ず知らずの男と手が触れただ
けでも、娘は父親に、妻は夫に殺され、自害する女性も
いたという。
法律は、奥に匿われる女性の住まいにまで及ばず、妻の
部屋にかくまわれた犯罪者を、捕えることができなかった。
また、屋根を修理するとき、隣家の女性が目に入らない
とも限らないので、事前に知らさなければならなかった。


7才になると男女別々にされ、女性は家の奥に閉じ込め
られ、結婚前は父親と兄弟以外、結婚後は実家と嫁ぎ先
の親族以外、男性と接することは許されなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

日本が韓国を併合した当時、まだ根強く残っていた悪しき習慣
を断つべく法律で禁じ、日本と同じ内容の学校教育に力を注ぎ、
ハングル語を学ばせ、近代国家への建設を急がせた。
戦後占領国アメリカが、日本の教育改革に力を注いだように・・

2015年08月29日

孫子の兵法or西郷隆盛

孫子「用兵の原則」

~ 故に兵を用いる法~

   十なれば   即ちこれを囲み
   倍すれば   即ちこれを分かち
   敵すれば   即ちよくこれと戦い
   少なければ   即ちよくこれを逃れ

   若(し)かざれば   即ちよくこれをし避く

   故に小敵の堅は  大敵の檎(きん)なり


戦いに勝つためには・・
まず、敵の十倍の兵があれば包囲するがよい。
もし五倍の兵力なら、敵を攻撃し、
二倍の兵なら、敵を分断する作戦をとる。
互角の時は全力で戦い、劣勢なら退却することだ。


この原則に従わず、味方の兵力が劣っているのに、
強気一点張りで戦いに臨めば、
強大な敵の餌食になることはいうまでもない。



1308 【心と体の健康】

~賢者・名言の智恵~

「孫子の兵法or西郷隆盛」

故に勝を知るに五つあり。

以って戦うべきと、以って戦うべからざうを知る者は
勝つ。

(まず第一は、戦うべきか否かを判断できる者は勝てる)

衆寡(しゅうか)の用を識る者は勝つ。

(第二は、兵力に応じた作戦がとれる者は勝つ)

上下欲を同じくする者は勝つ。


(第三は、君主と人民が心を一つにして戦えば勝つ)

虞(ぐ)を以って不虞を待つ者は勝つ。

(第四は、万全の態勢を整え、敵の不備につけこむ者は
勝つ)

将能にして君御(ぎょ)せざる者は勝つ。


(第五は、将軍が有能で、君主が将軍の指揮や作戦に

干渉しなければ勝つ)


この五者は、勝ちを知るの道なり。

故に曰く・・
彼を知り己を知れば、百戦して危うからず
彼を知らずして己を知れば,一勝一負す

彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず危し


「戦わずして勝つ」は孫子の兵法の戦いの基本である。

敵の戦力を知ることは、もちろん難しい・・
己の度量・器を知ることは、もっと難しい。


「人は 己に克つを以って成り

   己を愛するを以って敗るる」

                                          西郷隆盛

人は己に克つことによって成功し、己の度量を過信する

ことによって失敗する。

起業して、目標の七・八割までは順調に成長するのに、

残る二・三割を成し遂げられない・・

そんな経営者が多いのは・・初めはよく己を慎み、
事に 対しても慎重に行うから、成功もし、名も顕れてくる。

事業かうまくいって、運転資金に余裕が出てくると、

自分の能力を過信し、つまらない事業にあれこれ手を
して失敗してしまう。

これらはすべて自らが招いた、己の度量・器を知らない
が故の結果です。

「己に克つ」とは、しっかりとした理念・ビジョンを持って、

自らを強く戒め、周りからの誘惑や困難には屈せず、

自分を甘やかさず、前向きに立ち向っていく姿をいいま
す。

メルマガ購読受付

このブログの記事をメルマガで定期的にお届け致します。

メルマガ購読のお申し込みはこちら >>

About 2015年08月

2015年08月にブログ「吉村外喜雄のなんだかんだ」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2015年07月です。

次のアーカイブは2015年09月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.36