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韓国・全羅南道訪問(3) 「百済・王仁博士の渡来」

韓国にも「前方後円墳」が・・

三日目の朝、光州広域市の”長鼓墳”を見学した。

朝鮮半島南部には、古代日本を象徴する前方
後円形の古墳が十数基分布している。


何れも、五世紀後半から六世紀前半にかけての
築造とされ、日本から朝鮮へ文化移入があった
ことを表すものとして注目されている。

埋葬物には、日本の古墳と同じ、埴輪や木製品
が出土しているが、当時の史料が乏しく不明まま
である。

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1300 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

韓国・全羅南道訪問(3)

「百済・王仁博士の渡来」


2日目、王仁(ワニ)博士遺跡地を訪れ、師の功績を学ん
だ。
百済の学者”王仁博士”は、日本の応神天皇に招かれ、
日本に渡来した。太子
の師となり、政治顧問となって、
また漢字や儒教を伝えた人物として、日本文化の発展に
寄与し、飛鳥文化の基礎を築いた。

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博士の子孫もまた、代々学問にかかわる役職に携わって
朝廷に仕え、日本文化の発展に大きく貢献した。


大阪・枚方市に王仁博士の墓があり、大阪府指定史跡に

なり、以下のように紹介している。
「古事記によると、王仁博士は古墳時代前期の四世紀末
に朝鮮半島の百済から渡来し、「論語」10巻、「千字文」
一巻をもたらし、学問の祖として崇敬されてきました」


「千字文」は、中国で古くから子どもが文字を学ぶときの
初歩の教科書として広く利用され、日本では習字の見本
として親しまれてきた。

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ところで韓国の教科書には「百済の文化を日本に
伝えて
あげた
人物で、今も日本人は王仁を日本文化の先生とし
て崇めている」 と書かれている。

しかし、朝鮮の歴史を記録した古書には”王仁”なる
人物は存在せず、遺跡は日本の史料「日本書紀」などの

記述を基に、韓国政府肝いりで1970年以降に創作さ

れたものだという。

世界の多くの国の教科書は、「五世紀には大和政権が
朝鮮の南部地域を統治していた」と記述。
発掘調査などで明らかになっているが、韓国
政府の抗議
で削除されつつ
ある。

                                                 Wikipediaより

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