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歴史から学ぶ「百済滅亡と日本」

朝鮮に攻め入ったのは、 
  秀吉が最初ではなかった・・


1592年、秀吉が朝鮮出兵を決断した年の

930年も前・・664年飛鳥時代に、当時の

ヤマト朝廷が3万7千人もの大軍を朝鮮に

送り込み、唐と新羅の連合軍と戦った・・


このような記録が日本書紀に残されている。
この時代の3万7千人は大きい・・何故?
それほどの大軍を朝鮮に送り込んだのか。


ヤマト朝廷と親密な関係にあった百済が、
わずかの間に、唐の朝鮮南下政策で滅ぼ

されてしまった。

「次ぎは日本が標的になる」との危機意識が

あった。  明治初期、ロシアの南下政策に、
日本が危機意識を抱いたのに似ている。



1305 【吉村外喜雄のなんだかんだ】

歴史から学ぶ「百済滅亡と日本」


7世紀、ヤマト朝廷が飛鳥に拠点を置く飛鳥時代、
朝鮮半島では、高句麗、新羅、百済の三国がしのぎを削

ていた・・

随は、高句麗に三度遠征・出兵するが、失敗に終わった。
四度目の出兵を計画している最中に内乱が起き滅亡した。

次に誕生した唐も、高句麗に三度出兵したが成功せず、

ならばと、新羅と組んで百済を滅ぼす戦略に出た。

660年唐は、水・陸13万の大軍で百済に攻め込んだ・・
新羅軍も呼応して、5万の兵で百済を攻めた。

百済の守城は次々打ち破られ、百済王は皇太子と共に

降伏・・700年続いた百済は滅亡した。


663年、ヤマトの国に亡命した王子と王族・国民は、
国の再興を願い、3万7千人のヤマト軍の支援を仰ぎ、

錦江河口で15日間・4度に渡って、唐・新羅連合軍と
戦った・・が大敗

400隻の船が燃やされ、炎と煙が天を覆ったと日本
書紀にある。

多くの百済人が海を渡り、日本に亡命した。
大和朝廷は彼らを優遇した・・百済からは鋳鉄、土木、

馬具、金属加工など、様々な先進技術がもたらされ、

寺や城の建築技法もこの時伝わった。


百済人は日本に漢字を伝えている。また日本が律令国家

なる過程で大きな役割を果たし、日本文化の発展 向上

に貢献した。
                                百済 

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