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2016年08月 アーカイブ

2016年08月02日

偉大なる事業家エジソン

■発明集団「メンロパーク・ギャング」
数々の成功の裏には、メンロパーク・
ギャングと呼ばれる40人のすご腕
発明集団がエジソンを支えた。

昼夜を問わず続く研究員たちの実験・・
あきらめを知らないエジソンの執念は、
とんでもない行動に走る。

疲れ切って居眠りをするスタッフには、
自ら発明した「電流椅子」で叩き起す・・
「眠ることは錆びつくことと同じだ!」と・・

更に、スタッフ全員を部屋に閉じ込め・・
「すべて完成するまで働け!家に帰るな」
エジソンの言動は常軌を逸していた。
しかし、それでも男たちはついていった。

国籍・学歴・職種はバラバラで、ほとんどが
エジソンより年上・・
いずれも自分の才能を信じて生きてきた
一匹狼たちである。

1411 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「偉大なる事業家エジソン」

日が落ちて街を明るく照らし出す・・
日常の暮らしに欠かせない”灯り”。
エジソンの生涯で最も偉大な功績「白熱電球」が、
人々の暮らしを一変させた。

「株式相場表示機」で得た大金を元手に、
数々の事業に成功したエジソン・・
ニュージャージー州
に研究所を設立。
ここで、世界初と
なる「蓄音機」の発明や「電話」の
改良に成功する。

その場に居ない人の声が器械から聞こえるという、
驚きに満ちた品々・・
不思議な発明、改良品を連発するエジソンを、
人々は「メンロパークの魔術師」と呼んだ。

当時「電球」は既に発明されていた。
光を発する
フイラメントは、高価なプラチナだった。
しかし発光時間が短いため、普及には至らなかった。

そこでエジソン、耐久性に優れたフイラメントの開発に
乗り出した。
世界中から様々な素材を集めて実験した・・
失敗に継ぐ失敗で、最適な素材はなかなか見つからない。
毎日16時間、寝る間を惜しんで研究に没頭するエジソ
ン・・
失敗は1万回にも及んだ。
「失敗なんかしていない。1万回うまくいかない方法を
見つけ出しただけだ・・あきらめることが失敗なんだ」
と・・
1883年9月、ニューヨーク・パール通りで大衆が
見守る中、106個の街燈に灯が灯った。
この時使われたフイラメントは、なんと京都石清水八幡
宮の
”竹”だったのです。

それまで40時間だった発光寿命を、1200時間に
延ばすことに成功したのです。
「結果を出すまであきらめない」
この執念、エジソンに従う発明集団が、それぞれ役割を
分担し、個々の能力を結集して、世紀の大発明をなし
遂げる原動力になった。

天才エジソンといえど、1人の力ではこの発明は為し得
なかった。
成功後、エジソンは全米で200以上の契約を結び、
電気事業を拡大するため、41歳の時、後の巨大企業
「エジソン・ゼネラル・エレクトリック社」を設立した。

2016年08月08日

発明は閃きから生まれる

■歴史に残る四人の発明家

〇 アルキメデス
古代ギリシャの数学家。
円周率を発明した他、多くの戦略兵器を考案

〇 二コラ・テスラ
エジソンが直流電流の優位性わ唱えたのに対し、 
交流電流の優位性を主張して、エジソンと対立。

ラジオ、蛍光灯など111件の特許を取得し、
後の第二次産業革命に大きく寄与した。

〇 トーマス・エジソン
1000件に及ぶ特許を取得し、20世紀初頭の
産業革命・近代化に大きく寄与した発明王。

〇 グラハム・ベル
電話機他、多くの発明・特許を取得



1412 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「発明は閃きから生まれる」

戦後間もなく、本田宗一郎は本格的オートバイの製造に
取り組んだが、エンジンの具合が悪く返品の山・・
会社の存亡をかけて、エンジンの改良に全身全霊で
取り組んだが、うまくいかなかった。

ある夜、夢の中でキャブレターを変えてみたら、
エンジンが勢いよく回り始めた・・その通りに改良した
ら成功した・・倒産の危機を脱することができたのです。

何か斬新なものが生まれるとき、コツコツと理論を
積み上げたからと至るものではない。
何か、インスピレーションのようなものが必要なのかも
しれません・・
そのインスピレーシヨンとは、問題意識を明確にして、
様々な知識で頭の中がいっぱいになり、夜昼なく考えて
考えて悩み、苦しみ、試行錯誤しているときに・・

ついには、考えていることさえも意識しなくなった放心
状態の中で、夢の中で突然ひらめいたり、森を散歩して
いて、森を抜けて美しい谷を眺めているときに・・

何らかの刺激を受けた瞬間、突然浮かび上がってくる
ものではないでしょうか。

                                  OAK・TREE4月号

2016年08月11日

手を合わせ祈る

■「手を合わせる」   坂村真民

手を合わせれば
憎む心もとけてゆき
離れた心も結ばれる

まるいおむすび まるいもち
両手合わせて作ったものは
人の心を丸くする

両手合わせて拝んでゆこう
手を合わせれば
重い心も軽くなり
濁った心も澄んでくる

活かされて生きて花かおる
楽しい世界にしてゆこう
二度とないこの人生を


1413 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「手を合わせ祈る」

お盆にお墓参りをします。
先祖の墓の前で、両手を胸や顔の前で両手を合わせて
合唱・・インドで生まれた礼拝の仕草です。

托鉢僧が、右手だけで合唱して頭を下げる・・
右手は仏の象徴・・清らかなものや知恵を表します。
左手は衆生・・つまり自分自身であり、不浄な面はある
が行動力の象徴です。

両手を合わせることで仏と一体になり、仏に帰依する。
また、相手に向かって合唱するのは、その人への深い
尊敬の念を表します。

日本人は、お参りの時だけでなく、お詫びをするときや
、お願いをするときにも手を合わせます。
また、相手を持ち上げるときの仕草に使われたりします。

食前に「頂きます」、食後に「ごちそうさま」と合掌
するのは、仏教由来の習慣です。
命を頂くことへの感謝の念を表し、日本人に普通に
見られる仕草です。

『 両手を合わせる  両手で握る  
  両手で支える  両手で受ける
  両手の愛 両手の情

  両手合わせたら 喧嘩もできまい 
  両手に持ったら 壊れもしまい
  一切衆生を両手に抱け       』
      坂村真民

2016年08月13日

閃きから生み出されたヒット商品

■事を成すに必要な三つの「カク」

孫正義は、今の日本人が忘れている
三つの”カク”があるという。
事を成すには「性格才覚人格」が必要
だと・・
人格があり、才覚にも長けている・・
しかし、性格が悪いと周りはついてこない。

突き抜けた才覚があって、性格が良くても
人格がなければ、大軍の将にはなれない。

人格があり、性格が良くても
才覚に欠けていては、人の上に立てない。

学校で子供たちに才覚ばかり教えている。
これでは事を成す人間は育たない。


1414 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「閃きから生み出されたヒット商品」

[アイスノン]
氷の代用品アイスノンは、夏にはなくてはならない保冷
剤です。冷蔵庫の脱臭剤「ノンスメル」で知られる白元
のロングセラー商品です。

創業者の鎌田泉さん・・あるとき、顔なじみの商社マン
から「米国では、魚の運搬に氷でもドライアイスでもな
い、新しい素材を使っている」という話を聞いた。

「氷のいらない水枕が作れないだろうか?」
早速保冷剤探しが始まった・・取扱いが楽で、簡単に
より長く冷やせ、柔らかく何度でも繰り返し使える・・
そんな保冷剤がないだろうか?

ヒントは葛湯にあった。冷めにくい・・直ぐに冷めない
のなら・・逆を狙ってはどうか。
葛湯のように、どろどろの液体がゾルで、その凝固した
ものがゲルだ・・ゲル状素材に絞って探したのが当った。

昭和40年7月商品化・・連日熱帯夜が続いたおかげで
飛ぶように売れた。以来、様々な目的のアイスノンを
開発して、今日に至っている。

常日頃からアイデアを探し求める強い思いが、ふとした
雑談を
耳にしたことがヒントになって、新商品開発に
つながったのです。

[ホカロン]
冬に欠かせない定番グッズといえば、携帯カイロ・・
そのパイオニアでトップブランドが、ロッテの「ホカロ
ン」
発売当初のうたい文句は「火気を使用しないので安全」
革新的商品となって大ヒットした。

菓子袋には、酸化防止剤の小袋が入っている。
袋の中の鉄粉や活性炭が酸素を吸着して、菓子の酸化を
防いでいる。
ロッテが、酸化防止剤を自社製造する過程で、酸素吸着
力を高めるほど、強い熱が発生する障害に直面した。

「もしかしたら、もっと熱くしたらカイロになるのでは」
障害を逆手に取った開発が始まった。
袋を大きくして酸化防止剤の量を増やす・・
更に食塩水で鉄粉を錆びさせ、熱の発生を早める。

このようにして昭和53年火を使わないカイロが誕生。
テレビCMで「ホカロン」は瞬く間に普及・・
ロングセラー商品になった。

2016年08月15日

一年の計は 穀を樹るに如くはなし

■ 二宮尊徳の教え

「遠くをはかる者は富み
  近くをはかるものは貧す
  それ遠くをはかる者は
  百年のために杉苗を植う

  まして春まきて秋実る物においてをや
  ゆえに富有なり
  近くをはかる者は
  春植えて秋実る物をも尚遠しとして植えず

  ただ眼前の利に迷うて蒔かずして取り
  植えずして刈り取ることのみ目につく
  故に貧窮す 」

※杉苗を植えう ⇒ 人材を育成する


1415 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
幸せな人生
「一年の計は 穀を樹るに如くはなし」

子曰く 速やかならんと欲することなかれ。
  小利を見ることなかれ。
  速やかならんと欲すれば即ち達せず。
  小利を見れば即ち大事成らず


論語
(子路第十三)の言葉です。
今何かやろうとしているとき、「速やかならん」と
欲するのは、自然な成り行きです。
しかし目先の利に囚われ、速く達成したいからと
無理をすれば、失敗してしまう。

春秋時代の「管子」という古い書物にも、
一年の計は  穀を樹(う)るに如(し)くはなく、
  十年の計は  穀を樹るに如くはなく、
  終身の計は  人を樹るに如くはなし

とある。
1年先を考えて穀物を植え育てることは大切です。
10年先を考えて木を植えるのは更に大切なことです。
ましてや、植えた木が育って利益を上げるのは、
50年も60年も先のことです。
苦労が伴っても、設備投資は怠らないことです。

更に、生涯の計を計るなら「人を育てる」ことです。
人生に成功しようと思うなら、自己研磨を怠らず
自らを育て、立派な人物になることです。

人の上に立つ者は、自己一身の栄誉のためではなく、
人材の育成し、後継者を養成することです。

2016年08月27日

文禄・慶長の役・西生浦倭城

■ 順天倭城

二度目の朝鮮出兵・慶長の役の1599年に
は、全羅南道順天の三方を海に囲まれた
天然の要害に、小西行長、浮田秀家などに
よって「順天倭城」が築かれた。

  080

城郭の規模・堅固さは「西生浦倭城」より
はるかに勝り、現在倭城遺跡として当時を
忍ぶことができる。

  076


1416 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「文禄・慶長の役・西生浦倭城」

今回の韓国訪問の目的の一つに、「文禄・慶長の役」に
ついて、韓国の人たちはどのように受け止め評価してい
るのか・・知ることがあった。

突然、朝鮮の軍隊が九州に攻め寄せ、住民を拉致して
城を築き、食料を強奪しながら、イナゴの大群のごとく
京から江戸へと攻め上ってきたとしたら・・

その道すがら、宝物や仏像、経典や医学書を持ち去り、
腕のいい職人を拉致し、朝鮮に連れ帰ったとしたら・・
数百年を経た今も、民族が受けた恥辱は忘れないだ
ろう。
文禄・慶長の役で秀吉軍が朝鮮に築いた城は、100を
越える。その内約20の城が現在遺跡となって残っている。

     270

今回訪れた「西生浦倭城(せいせいほわじょう)」は、
1953年加藤清正によって、釜山から北東へ車で
40分ほどの、海に面した小高い山の上に築かれた。

山城は入江に面して築かれ、城郭の広さは4万6千坪。
北側は川で、自然の擁壁になっている。周りを5~8
メートルの城壁で囲み、総延長は2.5キロになる。

     268

海は遠浅で、敵の軍船は近寄れず、山麓から城に攻め
上っても、城壁の外には二重、三重に堀が巡らされ、
三の丸、二の丸、山頂には本丸が配置され、天守も築か
れた。
城郭は安土桃山時代の面影を残す。日本にはこの時代の
実戦型遺跡は少なく、学問上価値の高い遺跡です。

現在は山頂と山腹に石垣を残すのみだが、三の丸門と
崩れた石垣などが復元修復中で、11月に完成するとい
う。
1594年、文禄の役の休戦和平交渉が、この西生浦
倭城で4回行われた。
明が提示した和平案に秀吉は激怒し、1597年の
慶長の役で、朝鮮に再度兵を進めたとき、西生浦倭城に
加藤清正軍が入り、ここから全羅道や忠清道に向けて
出撃した。
城は毛利軍、そして黒田長政へと受け継がれ、秀吉の
死去で撤収・放棄された後、1895年までの300年
間、朝鮮水軍の駐屯基地になった。

2016年08月29日

朝鮮の英雄・金忠善将軍は日本人?

1417 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「朝鮮の英雄・金忠善将軍は日本人?」

全羅道訪問の旅7日目、日韓友好交流「韓日有効館・
鹿洞書院(ノクトンソウォン)」を見学した。
ろ以下は、鹿洞書院のパンフレットに記載されている文章
す。
+++++++++++++++++++++++++++
1590年代から1600年代にかけて国を護り、
忠節の一生を送った”金忠善”将軍(日本名・沙也可)
の偉業を称え、鹿洞祀、崇義堂、向陽門、そして将軍の
経歴と功績が記された跡碑と位牌を祀った、鹿洞書院が
1794年、全国の儒学者の志によって建てられた。

      230

金忠善(キム・チュンソン)将軍は日本人です。
若い頃から人徳・倫理を重んじて、朝鮮の思想を敬い、
日本の朝鮮出兵に大義がない・・との思いから不満を
抱いていた。
文禄の役では、加藤清正の右翼先鋒将として朝鮮に出兵
するが、釜山に上陸して直ぐ、3千人の部下とともに投降。
礼儀の国として敬う朝鮮に帰化してしまった。

沙也加将軍は投降するや、大義のない戦いを止めさせ
ようと、火縄銃の制作技術を韓国に伝授し、慶州や蔚山
(うるさん)などの戦いに参戦して日本軍と戦い、功績
を挙げた。

               キム・チュンソン

※投降人数に誇張があるとの説も・・また当時の日本の
   歴史書には、そのような記述は何も残されていない。

   今回の訪問で、このような史実があることを初めて知っ
   た私ですが、韓国では名将と敬われ、歴史にその名が
   刻まれているのです。

その後も女真族による侵略を撃退するなど、大きな功績
を残し、朝鮮王から”金忠善”の姓を賜り、”三乱功臣”
とも言われた。
1617年には”正憲太夫”という、正二品の高い官位を
授かっている。

         231
 
大邸近郊に家屋敷が与えられ、現在子孫が暮らしている。
晩年、金忠善は家訓や郷約を定め、住民の教育に励んだ。

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