« 2016年08月 | メイン | 2016年10月 »

2016年09月 アーカイブ

2016年09月01日

朝鮮通信使

■国交回復の条件

朝鮮王は、以下の二つを国交回復の条件
とした。
(1)正式文章で、侵略行為を謝罪すること
(2)王陵を掘り起こし持ち帰った財宝を
         返還すること
仲介役の対馬藩・宗氏は、幕府の謝罪はあり
えない と、家康の謝罪文を偽造して朝鮮に
渡した。
二つの条件の回答を兼ねて訪日した”刷還使”
の目的に、日本に拉致された技術職人を探し
出し、 連れ戻すことがあった。
 
儒家のほとんどは帰国したが、陶工など職人の
多くは日本に留まった。
理由は、朝鮮での職人の身分は最下層の賤民。
帰国すれば、奴隷同様の過酷な身分と差別が
待っている。
対する日本は、身分の差別は無に等しく、
師匠と慕われ、尊敬される環境にあった。



1418 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ  「朝鮮通信使」

韓国全羅道訪問の旅四日目、対馬からフェリーで釜山へ
・・釜山の歴史が展示されている「臨時首都記念館」
「釜山近代歴史館」「釜山博物館」を順に見て回り、
「朝鮮通信使歴史館」へ・・

以下、通信使歴史館・展示室入口の日本語の説明文です。
+++++++++++++++++++++++++++++++
文禄・慶長の役により、朝鮮は日本と国交を断絶した。
その後徳川の世になり、江戸幕府は国内政治の安定と、
先進文明受け入れのために、対馬藩主を通して朝鮮に
国交の再開を要請してきた。

朝鮮王は、その真偽を察するために、大師を日本に派遣
し、1607年回答を兼ねた”刷還使”を派遣した。

翌年1608年約定を結び、国交を正常化し、再び
巫山浦に倭館を設置して、制限された範囲での交渉を
許容し た。
これに朝鮮国王は、延べ12回通信使を日本に派遣した。

通信使一行は三使(正使、副使、従事官)を中心に、
通訳、画家、書家、医者、僧侶、楽隊など三百から五百
人で編成され、受け入れる日本も多くの人員と莫大な
費用を負担して、通信使を手厚くもてなした。

漢城(ソウル)を出発してから対馬、壱岐を通り、
江戸
に着くまで、約半年を要する長旅になった。

          075
          展示室のレプリカ

朝鮮通信使は、当初は政治的・外交的使節の性格が
強 かったが、徐々に文化使節へと変化し、朝鮮から
先進 文明を伝える役目を果たした。

一方、通信使を通して日本の文物が伝えられ、それまで
朝鮮の知識人が持っていた日本と社会を再認識する
契機
になった。
+++++++++++++++++++++++++++++
案内役は対馬藩が勤め、約八百人が随行した。

通信使が通過する道沿いの諸藩は、道路や橋を整備し、
宿泊施設の世話、警護、送迎、接待と、大きな財政負担
を強いられた。
通信使は、将軍が代るときに祝賀に訪れるので、幕府は
接待費に百万両(約500億円)の膨大な出費をした。

尚、徳川三百年、正式に国交を交わした国は朝鮮一国
です。

2016年09月03日

日中韓は一つになれない

1419 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ  「日中韓は一つになれない」

以下は、小倉紀蔵著「日中韓はひとつになれない」から
の抜粋です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
日本は東アジアの隣国、中国、朝鮮とはかなり異質で
ある。日本は中国や韓国を理解できないし、理解しよう
としていない。
中国という国家は、巨大な不確定要素の塊であり、
この先どのような方向に向かっていくのか?未知数である。
しかし多くの予想では、今後世界の中におけるプレゼン
スを拡大してゆくのは間違いないとされる。

日本の世論は、中国や韓国に対して懐疑的な姿勢をくず
していない。
その一方で隣国との関係を改善し、相互に分かり合え、
良好な関係を築くことが大切と考えている。

だが残念ながら、それは思った以上に困難なことである。
国境を接する三国が「たがいに理解し合う」という取り
組みには、三国とも極めて不真面目である。

1例を挙げれば、日本の韓国植民地支配を問題にすると
き、日韓の知識人の一部は西洋の方法論で、この問題に
向き合おうとする。
しかしこれは、向き合うべき相手を根本的に無視する
態度であって、単に「自分たちが正しい」と考える、

方法論として、すでに西洋で考えられ語られていること
を、無批判的に応用しようとしているだけなのです。
このような傾向は、日本の知識人に特に顕著である。

不真面目きわまりなく、相手をないがしろにする不遜な
態度と言わざるをえない。
論文を書いて自分の業績を挙げることはできるが、

それと相互理解とは何の関係もない・・
いやむしろ、相互理解を阻害することにすらなる。

         OAK・TREEフォレスト羅針盤 8・9月号

2016年09月05日

日中韓は一つになれない(2)

■根本から考え方が違う日本人

韓国や中国では、「間違いをした相手は
絶対正さなければならない。相手が間違
いを認めないなら、認めるまで許しては
ならない」と考える。

日本人は、「いつまでも過去に囚われて
いては問題は解決しない。過去のことは
忘れて、今後どうすればよい人間関係が
築けるか、考えようではないか」と・・



1420 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ 
「日中韓は一つになれない(2)」

以下は、小倉紀蔵著「日中韓はひとつになれない」
前号の続きです。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

日本と韓国や中国が、互いに理解し合えない理由に、
理解しようと努める取り組みに不真面目なことがある。

互いに理解できない、もう一つの大きな理由に、
”性善説”に対する解釈に違いがあることです。

東アジアの地域は、儒教の教えが浸透した地域でもある。
「人間の本性を善と見るか、悪と見るか」という儒教的な
世界観が支配している。

東アジアの中国や韓国は、性善説が強く支配している。
ところが日本では、この性善説が極めて弱いのです。

問題なのは、この性善説という爆発的パワーを持つ思想
が、下手をすれば日韓、日中関係を破壊してしまうかも
しれないということです。

性善説は、その解釈を間違えれば、極めて危険な結果を
もたらす思想である。
「人間は本来善である」と考える性善説は、その本質が
”厳格主義的”な姿においては、他者に対しての寛容を
一切許さない思想である。

中国宋の時代の思想家”朱子”は「人間は全て善である」
「善でも悪でもない」という考えとは異なり、性善説は
徹底的に他者に干渉し、父親のごとく他者を善に導こう
とする。
他人には余計なお世話だが、向き合う相手は”善”とい
う信念の権化になつているので、聞く耳を一切持たない
のです。
かくして性善説が支配する地域では、自己が善であり
他者が不善であると決めつけ、しかも目の前の不善を
ほうっておけず、善なる方向に戻そうと干渉するのです。

ここに劇しい”道徳的”奪取闘争が、国境を越えて展開
されるようになり、”善”をめぐる闘争は熾烈をきわめ、
相いれることなく、決裂に至るかもしれないのです。

これが、性善説が三国の関係を破壊する最悪のシナリオ
になるのです。
 
              OAK・TREEフォレスト羅針盤 8・9月号

2016年09月07日

日中韓は一つになれない(3)

1421 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
「日中韓は一つになれない(3)」


以下は、小倉紀蔵著「日中韓はひとつになれない」
の続きです。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
韓国が日本に対するときは、日韓併合や慰安婦問題を
言葉を尽くして批判するのに、過去高麗が”元”に支配
された過酷な歴史については・・そのことを忘れて、
何故日本に対してのみ、これほど怨恨の感情を持ち続け
るのか?
「性善説」を思想の中心に位置づける韓国では、
自分よ
り上位に立つ人や国に、自分以上の道徳性を求め
ようと
する。
韓国人は、モンゴルを自国より下位の国と位置づけてい
る・・
故に、過去の不道徳的行為を糾弾しようとしない。

対する日本は、近代化の歴史に於いても、経済規模に
於いても、韓国より上位にあると認識している。

「性善説」から、上位の存在の日本を道徳的に批判し、
糾弾することにより、韓国は日本より上位であると位置
づけようとするのです。

交差点で出会いがしらの事故を起こしたとき、米国人は
原因が自分の運転ミスによるものであっても、悪いのは
ぶつけた相手だと、声を荒げて主張する。

韓国でも「声の大きい者が勝つ」という言葉が、絶対の
真理のように信じられている。
とにかく何であれ声を大にして主張しなければ、自らの
存在が危うくなるという、潜在的恐怖心がある。

それによって、大きな弊害と摩擦が生じ、社会の統合を
困難にしている。
韓国社会は、皆が声を限りにど突き
いながら、生存を
かけ、生き抜くための知恵として培ってきたのです。

韓国ドラマを観ていると、相手を困らせることによって
相手の譲歩を勝ち取ろうとする姿勢がやたら目に
つくの
です。
このような国民性に「和をもって貴し」と考える日本

にはとても理解しがたく、韓国人への反発心に結びつい
ていくのです。

           OAK・TREEフォレスト羅針盤 8・9月号

2016年09月11日

韓国料理

1422 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
「韓国料理」

韓国の主食は日本と同じお米「ご飯」です・・粘り気が
あって、私たちが日ごろ食べているご飯と変わりがない。
韓国訪問中に出されたご飯は、白米のほか、雑穀を混ぜ
て炊いたご飯が・・夕食にお粥が出たことも。

           雑穀を混ぜたごはん

ホテルの朝食バイキングでは、お粥が一番の人気・・
ふと見ると、韓国人の多くはお粥の上に(吉野家の牛丼
のよう)細切れの牛肉をたっぷり乗せて食べている。
「朝から牛肉?」と思いながら、真似て食べてみると・・
大変おいしかった。

           115

副食のおかずは、金属のお椀に入った料理がテーブル
いっぱいに並べられる。みんなで食卓を囲み、好きな
料理を取って、食事を楽しむのです。

沢山の食材でお客様をもてなす・・韓国ならではの食
文化です。しかも、お代わりは自由で無料・・言えば
何度で
も持ってくる。
一方日本料理は、すき焼きなど鍋料理以外は全て、
自分1人の料理がお膳に並べられる。

韓国訪問三日目の夕食はサムギョプサル(骨付きカルビ)
わらじのような大きな骨付きの豚肉をハサミでちょん切
り、鉄板の上で焼いて葉っぱにくるみ、一緒に焼いた
キムチを乗せ、味噌を付けてほお張る・・

          韓国料理

さっぱりとして美味しい。ただ、一緒に出された味噌汁
のようなスープは、口に合わなかった。

毎食に出される、刺身やタコ、貝類、魚料理は、共通の
”くさみ”があり、日本料理のような”うまみ”が感じ
られない。
一様に箸が進まないようで、食欲が湧いて
こない。
          135

韓国料理に「唐辛子」は欠かせない・・
生のまま、あるいは粉にして、料理に・調味料・香辛料
として使われる。ニンニクやネギ、生姜などの香味野菜
も食卓に並ぶ。
大豆に唐辛子粉を加え発行させた調味料、コチュジャン
(唐辛子味噌)は私の好物です。

韓国料理の基本にあるのは「薬食同源」でしょうか・・
良い食べ物は、良い薬となり、良い身体をつくる。

          採食道元

自然治癒力を高めることを目的に発展してきた”韓医薬”
その伝統を取り入れた韓国料理や薬膳料理が、現代に
息づいている。
長い伝統に育まれた肉料理、スープ、鍋料理が美味しい。
また、焼いた肉を葉っぱで包んだり、食材を混ぜて食べ
る料理が多いのも、韓国料理の特徴でしょうか・・

2016年09月15日

韓国料理の作法

1423 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
「韓国料理の作法」

韓国へ出かける前に、韓国の食卓マナーを知っておくと、
韓国での食事が一層楽しく、素晴らしいものになります。

箸とスプーンは縦に揃えて置く
  韓国では、ステンレスの箸とスブーンで食事をします。
  日本では、箸をお膳の手前に横に置きますが、
  韓国ではお善の右側に、箸は外側、スプーンは
  内側に縦に揃えて置きます。

ご飯と汁物はスプーンで、おかずは箸で食べます
  スプーンと箸は、洋食のナイフとフォークのように
  同時に使いません。どちらか一方を使い、
  使わない方は食卓に置くのがマナー。
  使わない箸を器の上にのせる「渡し箸」はタブーです。

目上の人が箸をつけてから食べはじめる
  日常、年長者を敬う習慣のある儒教の国韓国。
  食事の時、目上の人より先に箸を取るのはタブー。
  目上の人と一緒の食事の席でタバコを吸うのもタブー。

  お酒は、目上の人から顔と体を横に背けて、
  左手でグラスを覆って飲みます。

■椀は手に持たず食卓に置いたまま食べる
  茶碗を持って食べるのが習慣の日本に対し、
  重くて熱が通るステンレスの食器の韓国では、
  器は置いたままスプーンで食べます。

  器か熱くならない木のお椀のときなどは、
  持って食べてもマナー違反にはなりません。 

汁かけご飯はタブー
  韓国の人気料理のクッパーはスープご飯です。
  韓国では、スープの中にご飯を入れるのが普通で、
  日本の「ねこまんま」のように、ご飯にスープをかけ
  て食べるのはよくないのです。

食事は音を立てずに食べる
  「くちゃくちゃ」行儀悪く音を立てて食べるのは、
  韓国でもタブーです。
  麺類を「ズズ~っ」とすするのもタブー。

女性があくらをかいたり、片膝を立てて食事を
  するのは、マナーに反しない
  韓国女性は、民族衣装チマチョゴリを着て、
  片足立膝で座る習慣があるため・・

2016年09月18日

壱岐・対馬と元寇の役

元寇

 

1424 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ  「壱岐・対馬と元寇の役」

鎌倉時代、隣国と国境を接する壱岐・対馬の先祖が
元寇の襲来によって、島民が皆殺しにされるという、
過去にもそれ以降も日本人が体験したことのない、
悲しい歴史があるのです。

元が高麗に命じて造らせた、900隻の船と4万の兵が
対馬を攻略。対馬を全滅させた10日後に、こんどは
壱岐に上陸してきた。

朝鮮人と中国人の混成部隊・・その軍隊にわずか30名
の蒙古兵が指揮する軍隊が押し寄せてきたのです。
対する壱岐の守備兵は、わずか100名たらず・・

当時の戦い方は、「矢合わせをした後、互いに名乗り出
て一騎打ち」が一般的・・重いよろい、かぶとで長弓と
日本刀を持ち、一人敵陣に突っ込んでいく。

 文永の役 

元の兵士のいでたちは、短刀と刀、長槍を持ち、服装は
身軽なよろい・かぶと。集団で戦い、破裂すると大きな
音がする強烈な爆弾を武器にした。

日本軍の矢は100メートル、対する元軍の矢は倍の
200メートル飛び、矢先には毒が塗ってあった。

残虐な元の軍隊・・住民はすべて切り殺し、赤子は股裂
き、妊婦のお腹を切り裂き、胎児まで殺した。

女性は集められ乱暴された後、手に穴を開けて縄を通し
、舟原に数珠つなぎに吊るして、盾の代りにされた。
家は焼き払われ、穀物や家畜はすべて持ち去った。

壱岐を攻め落とした後、元の軍隊は博多を目指した・・
文永の役である。

その7年後の1281年(弘安4年・弘安の役という)
再び蒙古軍が来襲・・トタンの苦しみを味わう。
兵力14万人、4400隻・・ノルマンディ上陸作戦の
ようだ。 
         041 

壱岐・対馬には、当時住民が隠れ潜んだ穴や、戦いで
亡くなった人の冥福を祈る「千人塚」が、あちこち残っ
ている。

2016年09月21日

韓国孤児の母・木浦千鶴子

千鶴子の夫尹致浩”(ユン・チホ)

1909年全羅南道の玉洞村で宗家の長男に
生まれる。 大学で神学を学び伝道師になる。

1928年親を亡くした孤児を家に連れてきて、
共同生活を始める。
噂を聞いた孤児が集まってきた・・これが共生園の
始まりになった。
当時、世の中から注目されることもなく、「善行」程度
に思われていたが、韓国福祉の歴史に於いて、
先駆者と としての礎を築いたのです。

      「尹致浩/尹鶴子 記念館」 日本語説明文



1425 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「韓国孤児の母・木浦千鶴子」

日韓両国の不仲が問われる中、戦前戦後の混乱期に
韓国孤児の救済に生涯を捧げた日本人妻がいたことを、
昨年の韓国全羅南道訪問で知った。 そして今年、
二度目の訪問です。

その人は”田内千鶴子”・・高知市に生まれ、日本統治
時代の1938年、全羅南道の小さな港町木浦
(モッポ)で、周囲の反対を押し切って、牧師の尹致浩
(ユン・チホ)と結婚した。

               199

孤児を救済する”共生園”で、夫を助けて働いた。
統治時代は、貧しい施設と資金難に苦しめられた。

終戦とともに排日感情が高まり、1946年千鶴子は
夫の元を去り、2児と老いた母を連れて、故郷の高知県
に引き上げ た。

木浦に残してきた夫と孤児たちへの想いはつのる一方
・・翌年母の説得を振り切って、再び子どもを連れ、
韓国 へ密入国した。
母親と母国日本に決別し、生きていかなければならない
運命に、千鶴子は泣いた。

朝鮮戦争で荒廃する中、夫は孤児たちの食料を求めて
さまよい、行方不明になった・・
夫亡き後も千鶴子は日本に戻らず、見捨てられた孤児を
育てることに人生の全てを捧げた・・その数三千人

           200

晩年献身的行為が認められ、1963年日本人初の
”韓国文化勲章”が授与された。
1968年、木浦市で孤児たちに見守られ、56歳の
人生を終える。
死の直前、千鶴子は長男に「梅干しが食べたい」とつぶや
いた。
木浦市で市民葬が営まれ、三万人の市民が訪れ、
死を悼んだ。
民族を超えた人間愛は「木浦の母、韓国孤児の母」と
敬わ れ、今も市民に慕われている。

            「尹致浩/尹鶴子 記念館」 日本語説明文

2016年09月23日

韓国孤児の母・田内千鶴子(2)

           田内千鶴子



426 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「韓国孤児の母・田内千鶴子(2)」


千鶴子は夫が残した共生園で、見捨てられた孤児を育て
ることに人生の全てを捧げた・・その数は三千人にもなる。


1968年田内千鶴子は木浦市で、孤児たちに見守られ
56歳の人生を終えた。       木浦市で市民葬が営まれ、
三万人の市民が訪れ、彼女の死を悼んだ。

●市民葬 翌日の新聞
オモニ・・木浦のオモニ・・私たちみんなのオモニ
子どもたちを残してどこに行かれるのですか?

死を受け入れられない300人余りの幼い子どもたちは
泣きじゃくりながらオモニを呼び、窓越しにオモニの
旅立ちを見守った。 
                    
共生園

黒いチマを着ていつも忙しく動き回っていた、私たちの
オモニ。
56歳という短い生涯を閉じて、家族や園児たち、
そして彼女を物心両面で支えた木浦市民たち・・
愛し続けてきた共生園に分かれを告げた11月2日、
木浦は泣いた。

木浦市は開港以来初めて、全市の教会の鐘を鳴らした。
沿道の市民も足を止めて頭を下げ、彼女の冥福を祈った。

2日の午前10時葬儀が行われ、三万人の市民が参列し
彼女の永眠に哀悼の意を表した。

●園児代表哀悼の辞
オモニ・・
寒い冬には凍えた小さな手に息を吹きかけ、オモニの
その暖かい手で温めながら「ちゃんと勉強するんだよ」
と・・まだつたない韓国語で話してくれたオモニ。

この先どうやって、誰からオモニのように暖かい手に
触れ、愛を与えてもらえるというのですか・・オモニ

昨年の10月にオモニが病気になり、床に伏せられた
とき、私たちはみんなでオモニの回復を祈りました。

共生園のみんなオモニの手で育ち、愛をいっぱい貰って
社会に出ていった、3千人の子どもたち家族みんなが
オモニのために手を合わせ、祈りました。

オモニ・・何かおっしゃってくたさい!
私たちは、オモニが願った立派な人間になります。
ただそれしか約束することができません。
天国でどうか安らかにお休みください。

      「尹致浩/尹鶴子 記念館」 日本語説明文

2016年09月27日

山岳信仰の山・立山

1427 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「山岳信仰の山・立山」

越中富山のシンボル立山・・富士山、白山とともに日本
三霊山の一つで、極楽・地獄の異界が存在する、山岳
信仰の山です。
6世紀の半ばに、百済から仏教が日本に伝来する以前は
死者の霊は山に登っていくとされていた。

九世紀から十世紀にかけての平安時代には、立山は
山岳霊場を巡る修験者の、
修行の山になっていた。
その山岳信仰に、地獄極楽の”仏教浄土”が結びついた。

雄山の山頂付近は、仏様のいる理想郷の”浄土”です。 
そのふもと・・白いガスと熱湯が噴出する地獄谷一帯は
恐ろしい鬼が棲む、閻魔地獄です。
すべての”異界”が存在する山として、信仰されてきた。

立山駅の手前15分のところに、芦峅寺という村がある。
村には、これから山に登ろうとする修験者たちの宿坊や
古寺が残っている。

村の中ほどに「立山博物館」があり、山岳信仰の歴史と
立山の異界を図示した、巨大な”立山曼荼羅”の屏風絵
が展示されている。

立山信仰

屏風には極楽と地獄が詳細に描かれている。
地獄に落ちた者は、
生前犯した罪によって、針の山や
釜茹で、火責めなどの苦しみに苛まれる様が描かれてい
る。
立山へお出かけの折に立ち寄られては・・必見です。

2016年09月30日

道元禅師の教え「欲望を克服するすべ」

■宗派によって異なる座禅の目的

座禅の目的は、宗派によって異なります。
臨済宗は、疑問を抱きつつ座禅することで
悟りに至ります。

対する曹洞宗は、何かの目的のための
手段として座るのではなく、座禅そのものが
目的であり、座禅をすることに集中する。

臨済宗は壁を背にして坐り、
曹洞宗は壁に向かって坐る。
中国北宋時代に両派は激しく対立・・
現在に至る。
日本曹洞宗の開祖で、永平寺を開山した
道元禅師は、ただひたすら坐ることに打ち
込んだ。そして、誰でもできる座禅の行法を
説いた。

・金沢市の禅寺
  曹洞宗は、大乗寺、天徳院など60寺
  臨済宗のお寺は8寺



1429 【心と体の健康】
道元禅師の教え「欲望を克服するすべ」

永平寺78代貫主・宮崎禅師が語る、道元禅師の教え。

♪人間は名誉とか地位とか、見栄とか我がままとか・・
そんなもんでいっぱいです。
そうした欲は克服しなければならんが、それが難しい。
克服するすべを身につけんといかんのやが・・
それが”座禅”なんや。

自然は、時が来たならちゃんと花が咲き、黙って散って
いく。故に、欲望を克服するすべは・・大自然の法則を
真似て、自然界の心理に従った暮らしをすることや!

誰かに褒められたいとも思わないし、
これだけのことをしたから、これだけの報酬が貰える
ということも考えない。
褒められても、褒められんでも、すべきことをして
黙って去っていく・・

そう実行することが大自然の心理だ。
善いこともせんのに、善い報いを得ようとするのは・・
欲望だ。自然界の摂理に反するひっくり返った考えや。

人間いつ死んでもいいと思うのが”悟り”やと思うて
おった・・ところがそれは間違いやった。
自然界の為すまま、平気で生きていることが”悟り”
やった。

メルマガ購読受付

このブログの記事をメルマガで定期的にお届け致します。

メルマガ購読のお申し込みはこちら >>

About 2016年09月

2016年09月にブログ「吉村外喜雄のなんだかんだ」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2016年08月です。

次のアーカイブは2016年10月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.36