« 2017年12月 | メイン | 2018年02月 »

2018年01月 アーカイブ

2018年01月01日

「道元・仏道をならうとは

明けましておめでとうございます
本年もよろしくおねがいします



1564 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
心と体の健康 「道元・仏道をならうとは」

~ 年の初めに ~

曹洞宗の開祖・道元禅師は、生涯に87巻の仏教思想書
を著した。以下は「正法眼蔵・現成公案」から・・

仏道をならうというは   自己をならうなり

自己をならうというは   自己をわするるなり

自己をわするるというは   万法に証せらるるなり

万法に証せらるるというは   自己の身心および

他己の身心をして   脱落せしむるなり

仏道を修行して進んでいくということは、
自分の本当の姿を見つめることである。

自分の姿を見つめるということは、自分の物の見方や
考え方・生き方から離れて、自然の中から自分をみつめ
てみることである。

自己を忘れることは、答えを自分の中に求めないこと。
大自然に生かされている自分の姿に気づくこと。

仏の世界から見れば、すべてがかけがえのないもので
ある今を生きていること。

2018年01月04日

永平寺で座禅

■世界から支持される”禅”の魅力

禅は、宗教というより、生き方や世界観、
仕事観などに心を整えて、自己と向き合う・・

気持ちの整理ができ、囚われていた観念や
価値観から解放される。
「あるがままに受け入れる」ことで、悩みが
消えていく。
自分自身を見つめていると他人が見えてくる。
自分自身を理解すると、人関関係が良くな
ってくる。



1565 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「永平寺で座禅」

昨年の秋、福井県・永平寺の1泊2日体験道場に参加
した。坐禅は1回40分・・細かい作法に則って行われ
る。
坐禅の心得で大切なことは「只管打」(しかんたざ)
「ただひたすら坐る」という意味です。
坐禅は、心と体を一つに、坐ることに成りきることに
ある。
坐禅を始めたら、まず呼吸を整えます。
吸って吐く・・その単純な動作に意識を集中します。

呼吸の作法に従い何も考えず無心で、自分の内面と向き
合います・・緊張がほぐれてきます。
何も考えまいとしても、雑念が次々湧いてくるが、
気にしない・・僧侶は心得を説く。

「迷いを吹っ切るためとか、悩みを解消させるために
  坐禅をするのは、きっかけとしては良いのですが、
  本来の座禅はそれが目的ではなく、何も考えず坐禅
  のために座禅を行います」

「悟りを得ようと坐禅をするなら、それは煩悩です。
無心で座禅に臨まなければ、安らぎは得られません」

食事は精進料理・・食べることもまた修行。
食事中は一切無言で、きちんと食材に向き合い、いただ
きます。箸や食器の持ち方にも細かい作法があります。

一日3回、朝・昼・夜、座禅を組んで就寝です。
2日目、修行が始まるのは朝4時・・僧侶が修行を
始める時間と同じです。

禅の魅力に引き寄せられ、永平寺の坐禅に参加した。
普段とは全く違った時間と空間を体験し、心の洗濯が
できた2日間でした。

2018年01月07日

永平寺で座禅(2)

■道元が説く禅

  坐禅は、自分の心を真摯に見つめる修行です。

  修行によって、自分の周りの世界も真摯に見つめる
  ことができるようになり、それが、思いやりや協調性
  などに繋がっていく。



1565 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「永平寺で座禅(2)」

福井県の曹洞宗大本山永平寺は、鎌倉時代に10万坪
の広大な敷地に、禅の修行道場として建てられた。

永平寺には何度か訪れたが、ゆっくり見学すると1時間
はかかる。一歩中に入ると、禅修行を目的に建てられた
だけに、寺は静寂に包まれている。

長い歴史の積み重ねが、お寺全体に漂う空気となって
伝わってくる・・心は穏やかになり、落ち着いてくる。

永平寺を開いたのは、曹洞宗の開祖”道元”です。
(1200 ~1253)
中国で学んだ禅を日本に持ち帰り、独自の教えを説い
た。
早朝4時、僧侶が鈴を鳴らして廊下を駆ける音から
1日の修行
が始まる。日々最も大事にされる修行は
”坐禅”です・・
朝・昼・晩坐禅が繰り返される。

人は、エゴや我欲に囚われ、自分も周りもわからなく
なっ
ている。禅は、心が安らぐ神秘の世界です。
坐禅の目的は、欲や雑念にとらわれず、自己を見つめる
ことにある。
道元は「日々の生活すべてが修行」であると説いている。
毎日の清掃”作務”もその一つです。
単純な作業に打ち込むことで、心が静まるのです。

日頃一所懸命仕事に集中し、打ち込んでいる・・
その姿が、禅修行に於ける”作務”と同じな
のです。

2018年01月10日

心安らぐ座禅

世界の指導者が「禅」に目覚めたなら、
あらゆる紛争はなくなるだろう。

諸縁を放捨し 万事を休息して
   善悪を思わず 是非を管することなかれ

                                           道元禅師

過去・現在のすべて、民族が数百年、数千年
抱えてきたものすべてを手放して、心を休め 
ただ黙って坐り、心穏やかに瞑想すれば 
あらゆる怨念、しがらみを乗り越え、
平和に暮らせる道筋が見えてくるだろう。 



1567 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
心と体の健康「心安らぐ座禅」

禅修行・・日々の修行の中心となる”坐禅”
朝・昼・晩、雑念にとらわれず、ひたすら自己を見つめ
ます。
起きてから寝るまで、生活のすべてが修行です。
寺の内外の清掃・作務(さむ)は、単純作業に打ち込む
ことで心が静まると言われています。

曹洞宗の開祖で、禅の修行寺・永平寺を建てた”道元”
の「禅の教え」は・・
禅とは、自分の心を真摯に見つめる修行。
    自分の周りの世界も真摯に見つめられ、
    思いやりや協調性などにも繋がる
  」

永平寺の僧などが、アメリカやヨーロッパ、東南アジア
で禅の普及に努めているが、今では「ZEN」は本来の
禅のほか「穏やか」という意味の英語、フランス語など
になり、定着している。

西洋の価値観や物質主義で人は幸せになれるだろうか?
疑問を持った「ヒッピー」などが、西洋にはない価値観
を仏教に求め、禅に傾倒した。
各所に坐禅を目的とした禅センターが創られ、異国の
地に禅が受け入れられていった。

坐禅を組むと、心拍数が穏やかになり、血圧が下がる。
ストレスホルモンの分泌が止まり、心がおだやかになる
・・身体の医学的効果が実証されている。

結跏趺坐
(けっかふざ)・・腰骨を立て、背筋を伸ばして
坐る・・坐禅の基本であるこの”姿勢”に、医学的効果
が認められるのです。

坐禅を組み、煩悩だらけの自分に気づくだけでも、
生き方が大きく変わっていきます。
煩悩と欲望に振り回され、生きていく人間にはなりたく
ないものです。

坐禅の瞑想で心を静めることで、「他人の痛みを共有
できる人間」になることができ、それまでの価値観や
人生観に大きく影響するのです。 

                                              NHK「心が安らぐ神秘の世界」

2018年01月14日

心やすらぐ座禅(2)

  春は花 夏ほととぎす
  秋は月
  冬雪さえて冷(すず)しかりけり  
        
                                   道元禅師



1568 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
心と体の健康 「心やすらぐ座禅(2)」


禅は心に変化をもたらします・・ストレスに囲まれた
現代社会において、自分を見失い心を病む人が後を
絶たない。
禅は「成果に囚われるでない、こだわるでない!

教えます。成果に囚われなければ、業績が出なくても
自信を無くさずに済むのです。

禅は人間関係に良い影響をもたらします。
坐禅に集中し、何も考えず無になろうとするが、自分に
嫌なことや恥ずかしいこと、恐怖や欲望、悲しみなどが
次から次と浮かんできます。

反対に幸せなことや、嬉しかったことも現れてきます。
様々な思いに向き合っていると、自分の心の奥底の
潜在意識、観念に気づくきます。

例えば、人から善良で立派人間に見られたい・・
そんな心に支配されている自分に気づき、行動を慎む
ようになります。
人の目を気にするあまり、無理をしている自分に気づき
、人間関係の悩みが驚くほど改善した例もあります。

坐禅は回数を重ねていると、しだいに心がおおらかに
ってくる。それまでは「こうしたい・・こうあるべき
だ」と、自らの価値観を人に押し付けたり、干渉したり
していた。
自分とうい人間に気づかず、周囲の欠点ばかりに目が
いき、不満やストレスを蓄積させてはいなかったか・・
あるがままに受け入れると、人を尊重できるようにな
る。
坐禅をすることで気持ちの整理ができ、解放されるので
す。
エゴに囚われた生き方をしていると、自分の周りが見え
なくなる。坐禅を通して、自分自身を見つめると、他人
がよく見えてくる。
自分と向きあうことで、自分自身を知ることができるの
です。
                                            NHK「心が安らぐ神秘の世界」

2018年01月18日

おかげさまで

■「寒い」と思うのは・・

北海道北端の知床の1月は、海水温の影響でマイナス
3~4度・・プラスの日もあるという。私たちが思って
いるほど寒くないのです。
2月上旬、知床に流氷が押し寄せると、気温は一気に
下がりマイナス10度になる。そして「今年も冬が来た
」と挨拶を交わすのです。

金沢は、昭和56年の大豪雪以降雪が降らなくなった。
平均気温は4~5度と暖かく、氷が張ることもまれ。
しかし、みんな「寒い寒い」と言う。
蔵王のー20度の耳がちぎれる寒さの中でスキーを楽し
み、毎年正月、伊豆や伊勢の海に潜っていた私には、
北陸の冬は寒くないのです。



1569 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
幸せな人生 「おかげさまで」

~ おかげさまで ~

夏になると   冬がいいという
冬になると   夏がいいと思う

ふとると   やせたいと思う
やせると   ふとりたいと思う

いそがしいと   ひまな方がいいという
ひまになると   忙しい方がいいという

自分に都合のいい人は   善い人だとほめ
自分に都合が悪くなると   悪い人だと敗す

借りた傘も    雨が上がれば邪魔になる
金が貯まれば    古びた女房が邪魔になる

衣食住   昔と比べれば天国なのに
上ばかり見て   不平不満に明け暮れる

隣を見て    愚痴ばかり
どうして自分を見つめないのか
静かに考えてみるがよい    一体自分は何なのか

両親のおかげ    先生のおかげ
世間様のおかげのかたまりが    自分ではないですか

つまらぬ自我妄執を捨てて    得手勝手を慎んで
俺が俺がの「我」を捨てて
おかげさまで    おかげさまの心で暮らしたい

2018年01月25日

ことば遊び 「冬の魚”鱈”の語源」

[日本で生まれた国字]
働く

[明治の文明開化の折生まれた国字]
(すい)、(せん)、(キロメートル)

[同じ漢字が中国にあることを知らずに作った国字]
(くるま)、

[日本で漢字に新たな意味を加えた]
椿(しずく)

 

1570 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
ことば遊び 「冬の魚”鱈”の語源」

冬の魚”鱈(たら)”は中国伝来の漢字ではなく、
日本で生まれた国字です。

雪が降る頃になると、産卵のために比較的浅い所に
上がってくる。それを獲って食べると、魚肉が雪の
ように白くて旨い。そこで魚に雪をくっつけて”鱈”と
日本で生まれた国字になった。

鱈は産卵期になると、餌が少ない深海から浮上してくる
と、目に付く餌は何でもよく食べる。その大食漢から
「矢鱈(やたら)に食べる」「鱈腹(たらふく)食う」
が生まれた。

北陸の鱈は冬の味覚。昔はブリや鱈、それにイワシも
カニもよく取れて、北陸の冬の味覚になった。

方言「だらほど食べる」の「だら」は鱈が語源と思いき
や、「だらぶち」(バカもの)からきた言葉です。
「だらぶち」は、仏教用語「南無阿弥陀羅仏」が語源
です。
タラバカニの語源は、鱈の漁場にカニ似た生き物がいて
「鱈場のカニ」から付けられた名前です。

ちなみにタラバカニは、カニの仲間ではなく、ヤドカリ
の仲間です・・「へえ~そうなんだ」

2018年01月28日

幸せな人生 「おかげさまで(2)」

今日の話「おかげさまで」は20年前、
日創研の研修で学びました。

戦い競い合って勝者になるか、
それとも敗者になる
か・・
ではなく、譲り合いの精神で”共に勝つ”
ことも 大切な選択の一つです・・



1571 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
幸せな人生 「おかげさまで(2)」


あるところに、仲の良い夫婦がいたわり合いながら、
幸せに暮らしていました。
ところがお嫁さんが病気になり、寝込んでしまいました。

ある日、お嫁さんが「ウナギが食べたい」と弱々しい
声で言いました。夫は「わかった!待ってろ」と言う
なり、川に向かいました。

そこに、顔見知りの兄弟がいました・・二人はウナギを
探しに川に入った。しかし、ウナギはスルスル逃げ回っ
たので、兄は大声で「お~い力を貸してくれ」と弟を
呼んだ。
日頃、兄弟の仲は悪かったが、弟は「力を貸してやる
から、半分わけろよ!」と言いながら、ウナギを探しに
川に入った。
やっとのことで大きなウナギを捕まえ、岸に引きあげた。

そこで弟は「助けてやったのだから半分よこせ」と言っ
た。すると兄は「見つけたのは俺だから、半分はやれな
い」と、互いに口ぎたなくののしり合った。

様子を見ていた夫に、兄弟は仲裁を頼んだ。
夫は兄弟に
俺が見つけた、俺が助けたと言い合うのは止しなさい
・・分けまえが多いとか、少ないとか言い合っていては
事が納まらないではないか。
『俺が、おれが』を引っ込めて、兄の『おかげ』、弟の
『おかげ』というふうに考え方を変えて、譲り合って
みてはどうでしょう・・」

兄弟は争うのを止め、夫に半分、残る半分を仲よく分け
合うことにした・・その
お陰でお嫁さんは、日に日に
快方に向かい、元気になったそうな。

『俺が、おれが』という、己の心の醜さに気づいた時、
兄は弟の、弟は兄に感謝し、報いる心が起こったのです。
仏教で使われる「報恩」は、「為されたことを知る」の
意味になります。   
                         真宗大谷派・東本願寺「真宗の生活」

メルマガ購読受付

このブログの記事をメルマガで定期的にお届け致します。

メルマガ購読のお申し込みはこちら >>

About 2018年01月

2018年01月にブログ「吉村外喜雄のなんだかんだ」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2017年12月です。

次のアーカイブは2018年02月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.36