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2018年02月 アーカイブ

2018年02月01日

加賀藩の藩校開設

■金澤神社

藩校・明倫堂の御守社として創建された
金澤神社。
兼六園の東、石引へ通り抜ける成巽閣
の奥にある。
学業成就、商売繁盛、災難除けなどで、
お参りする人が絶えない。



1572 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ 「加賀藩の藩校開設」

18世紀後半の江戸時代、各藩は士気を高め、風紀を
引き締めようと、次々藩校を設けた。
加賀藩もその影響を受け、1792年・寛政4年 11
藩主前田治脩(はるなが)によって藩校が開設された。

各藩、文武を合わせた「1校開設」が主流の中で、
加賀藩は文と武を明確に分け、文学校を「明倫堂」、
武学校を「経武館」と名付け、現在の兼六園の梅林横に
2校並べて開校した。

経武館   明倫堂

加賀藩の藩校が他藩と大きく異なるのは「四民教導」
士農工商分け隔てなく、庶民教育に力を入れたことが
特質される。
開校時、入学希望者は2600人を超え、素読希望
だけでも300人に上がった。

開校は他藩と比べ、決して早い方ではなかつた。
構想はその100年前、5代藩主前田綱紀の時にあった
が、藩財政の悪化や、藩主が短命で相次いで代るなど
したため、実現しなかった。

藩の教育への力の入れようもさることながら、郷士の
教育熱が高かったことがうかがえるのです。

                            北国文華「学府金沢を創った知の源流」

2018年02月04日

加賀藩の藩校(2)


■加賀藩重臣12家

・本多安房守 5万石
・長   大隅守 3万3千石
・横山山代守 3万石
・前田駿河守 1万8千石

・奥村伊豫守 1万7千石
・村井豊後守 1万6千石
・奥村丹波守 1万2千石
・前田近江守 1万1千石

・今枝民部    1万4千石
・津田玄蕃    1万石
・横山筑後    1万石
・本多図書    1万石


1573 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ「加賀藩の藩校(2)」


幕末、全国大名家の数は約270藩。
3万3千石の信州高遠藩でも、藩校・進徳館を開設して
いるように、藩の大小にかかわらず、藩士子弟の教育に
熱心だった。
諸藩の知的レベルの向上に大いに役立っただけでなく
、明治以降多彩な高等専門学校を生み出し、近代日本の
礎に欠かせない、数多くの人材を排出した。

藩ごとに制度上の差異はあるが、5~6歳になると私塾
に通い、読み書きを習った。9~10歳で藩校に入学し
四書(論語・大学・中庸・孟子)、五経(易経・詩経・
書経・礼記・春秋)を、素読から習い始めた。

各藩は、文武合わせた1校開設が主流の中で、加賀藩は
文と武を明確に分け、文学校を「明倫堂」、武学校を
「経武館」と名付け、現在の兼六園の梅林横に、2校
並べて開校した。

明倫堂では、朱子学をメインに和学、漢学、漢医学、
算術など多彩な科目を学ぶことができた。
経武館では、馬術、槍術、剣術、柔術、軍螺(ほら)
組打の学科があった。

女子は、礼記「男女七歳にして席を同じゅうせず」の
教えに従い、百人一首、古今和歌集、平仮名と習字を
習った。
藩校では、今日の小学校レベルから、中学、高校、大学
レベルまで、一貫教育を行ったことが特筆される・・
この時代、これほど徹底して教育を行った国は、世界に
例を見ない。

2018年02月08日

歴史から学ぶ「加賀藩の藩校(3)」

■加賀藩 102万5千石(実収130万石)

  能登・加賀(石川県)と越中(富山県)
                    
  近江領今津・弘川の2村(滋賀県)

・後に富山支藩10万石、大聖寺支藩7万石を分離

■加賀藩直属藩士数

   ・士 分 1,840余人

   ・医師/坊主  140余人

   ・足軽/中間 5,310余人

       計   7,300余人



1574 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ「加賀藩の藩校(3)」

幕末から明治にかけて加賀藩は、才能豊かな人材を数多
排出している。
加賀藩はそもそも、戦場に算盤を持ち歩いた藩祖利家に
始まり、2代利長、3代利常、5代綱紀と、藩主は学問
好き

藩内はその影響で、九谷焼、加賀友禅などの工芸や、
加賀宝生流、茶道、加賀料理などの文化・芸能が盛んに
なり、切磋琢磨して技能や学識の向上に勤しむ風土が
生まれた。
江戸末期、西洋の脅威が大きくっなたことを契機に、
加賀藩の旺盛な進取の精神は、一斉に西洋文明に向け
れた。
科学や医学など、加賀藩の優秀な学者たちの目は、
世界の先端科学に向けられたのです。

加賀藩は、発言力のある100万石の大藩でありながら
、政治的には佐幕派に留まり、維新をリードするには
至らなかった。
しかし科学分野においては、明治の日本の近代化の
一翼を担うことになった。

加賀藩には、西洋科学のレベルに早く追いつき、日本を
列強の脅威から救わなければ・・という、強い使命感が
あっ
て、”武”ではなく"知”で存在感を示したのです。

明治に入り、彼らの才能は一気に開花した。
高峰譲吉(近代バイオテクノロジーの父)、桜井錠二
(日本近代科学の父)、木村 栄(地球緯度の公式を
発見)、藤井健次郎(細胞遺伝学の祖)、飯盛里安
(放射化学の父)など・・

「〇〇の父」「〇〇の祖」と言われる、日本を代表する
科学者を数多く輩出した。

 
                              金沢ふるさと異人館/学芸員・増山 仁

2018年02月11日

歴史から学ぶ 「洋式学校を新設した加賀藩」

■加賀藩

・1600年
  加賀藩・藩祖/前田利長 122万石

・1615年  七日市支藩  1万石 
  藩祖/前田利孝(利家の5男)

・1640年  富山支藩  10万石
  藩祖/前田利次(3代利常の次男)

・1640年 大聖寺支藩  7万石
  藩祖/前田利治(3代利常の3男)



1575 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ 「洋式学校を新設した加賀藩」

幕末の加賀藩は、大藩でありながら勤王・佐幕派いずれ
にも登場せず、時代が変革していく中で、ただ手をこま
ねいていた感がある。

黒船が浦賀に現れたのは1853年だが、それ以前から
異国船が日本沿岸に次々と出没していて、幕府はもとよ
り各藩は緊張感を高めていた。

日本列島の真ん中に位置し、長い海岸線を有する加賀藩
も、外敵を排除できる軍事力を持つことが急務となった。

13代藩主・前田斎泰(なりやす)は、西洋砲術の研究
に取り組んでいた藩士・大橋作之進を抜擢・・
ベリー来航の翌年、香林坊・柿木畑(地名)に藩直轄の
洋式武学校「壮猶館」(そうゆうかん)を開校した。

1万4千平方メートルの敷地に、射撃場や火薬研究所を
設け、砲術、航海術、測量学など多岐にわたり研究した。

階級や家柄が重視される時代にあって、壮猶館は実力
主義をとり、有能な者は身分を問わず登用され、数多く
の逸材を輩出した。

やがて、新時代の明治をけん引する人材へと、継承され
ていった。決して手をこまねいて、何もしなかったわけ
ではないのです。

                                 北国文華「学府金沢を創った知の源流」

2018年02月14日

歴史から学ぶ 「第四高等学校開校」

   model (2)

   四高全景図


1576 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ「第四高等学校開校」

明治19年文部省令により、東京の一高、仙台二高、
京都三高に次いで第四高が金沢に、第五高は熊本に置か
れた。
北陸の四県、新潟、富山、石川、福井は、猛烈な誘致
合戦を行った。
加賀藩の藩校から専門学校と医学校を受け継いだ石川県
は、加賀百万石のプライドもあり、官民あげて猛烈な
誘致運動を展開した。

誘致の条件として、12万円(10数億円)の巨額の
地元負担が課せられたが、約8万円は旧藩主前田家が
寄付し、残りは県民からの寄付で賄われた。

候補地視察に訪れた文部省の役人を「鍔甚」や「山ノ尾
」の高級料亭でもてなした・・との記録も残っている。
努力が実り、明治20年第四高等中学校が金沢に創設
された。
数年後、金沢城に隣接する広阪通りの2万坪の敷地に、
しょう洒な赤レンガの校舎が建てられた。
          第四高等学校 (3)

四高は設立当初から、全国から秀才が集まり、二高、
五高をはるかにりょうがする卒業生を送り出し、巾広い
分野で多数の人材を輩出した。

2回生(明治24年卒)には、西田幾太郎や鈴木大拙が
いる。
主な人物では、東京府知事/井上友一、京大学長/松本
文三郎、台湾農業の父/八田与一、東大教授で真宗僧侶
/花山信勝、物理学者/中谷宇吉郎、読売新聞社主/
正力松太郎など・・
昭和25年に廃校になるまで、幾多の人材を輩出した。

2018年02月18日

第四高等学校

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1577 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
「第四高等学校」

四校の学生たちでにぎわった香林坊界隈・・
当時学生たちの溜まり場・喫茶店オリヤンタルで、
文学や哲学など、活発に議論が交わされた。

オリヤンタル喫茶は、彼らにとって「街中の青春道場」
だった(お孫さんは、私より4歳年下でゴルフ仲間)

       香林坊
   
大正末期の四高のクラス編成は、文甲2クラス、文乙
1クラス、理甲3クラス、理乙1クラス」になっていた。
学生寮では、消灯時間が過ぎてもロウソクを立てて
勉学に励む「蝋勉」が伝統になっていた。

校章は4稜の北極星。校風は何事にも動じない、
自立の精神「超然時習」「至誠自治

        flag (3)

応援歌は明治40年「南下軍の歌」が作られたが、
西田幾多郎の故郷、文化都市金沢には勇まし過ぎて
相応しくないと、大正4年に「北の都に」が作られた。

この寮歌は、叙情的な歌詞と、当時としては珍しい
ホップ調で「男女の棲む國に・・」などと艶っぽく、
青春の夢が綴られていて、他の寮歌に多く見られる
気負った悲愴感はなく、明るくて優しい清明な歌として
受け入れられた。
校歌もあったが、式典で使用されることはなかった。

     cap (2)

運動会は学生服を着たまま行われた。
他校との対抗戦は学校の威信がかかっていた。
中でも、柔道は大正9年全国高専柔道大会で7連覇を
達成。柔道と漕艇は、全国優勝する強剛だった。

昭和16年4月6日、琵琶湖で漕艇部8名が溺死する
遭難事故が発生。この事故を悼んで「琵琶湖哀歌」が
作られた。
東海林太郎と加藤登紀子の持ち歌として愛唱された。
戦後、昭和22年10月昭和天皇の来県に際し、来高
反対を決議、ために巡行ルートが変更させられた。

昭和25年3月、学制改革により閉校・・新制金沢大学
に引き継がれた。

2018年02月19日

懐かしの第四高等学校

     旧制第四高等学校本館

1578 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
「懐かしの第四高等学校」

第四高等学校卒業生が八月、全国から現在のいしかわ
四高記念公園の、旧四高・赤レンガ校舎に参集した。

夜は、赤く天高く燃え上がるキャンプファイヤーを囲み
、炎に顔を染め、肩を組んで応援歌「南下軍の歌」や
寮歌「北の都に」を高らかに歌った。
その声が自宅まで聞こえてきて、見に行ったものです。

♪「北の都に秋たけて 我らはたちの夢かぞう
  をとこをみなのすむ國に にはちにかへるすべも
  なし・・」(私も歌えます)

夜9時頃、懐かしく青春を謳歌した初老の卒業生たち、
詰襟の学生服、釣鐘マントに朴歯の高下駄を履いて、
香林坊都大路を、校旗を先頭に掲げ、のぼり旗を振って
寮歌を歌い、太鼓を打ち鳴らして闊歩する。

             firestorm2 (2)

 国道に面した香林坊商店街に生まれた私は、戦後何度か
このような光景に出逢った。
戦後間もない、当時6~7歳だった私は、四高の運動場
尾山神社の境内で、毎日暗くなるまで遊んだものです。

四高の運動場に沿って流れる、巾1間の7ケ用水を飛び
越え、石垣の上の垣根の隙間から、運動場忍び込んで
遊んだ。
運動場の一郭に、25メートルの屋外プールがあった。
3mと10mの「飛び板飛び込み台」があって、
10mの上から下を見下ろすと、立ちすくんだものです。

夏は、戦後の食糧不足を補おうと、運動場でイナゴを
捕まえてきて、佃煮にして食べた・・香ばしくておいし
かった。
校舎の脇には、銀杏の大木があった。秋には、下に落ち
た実を拾って実を腐らせ、焼いて食べたのが、子どもの
頃の懐かしい思い出です。

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