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第四高等学校

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1577 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
「第四高等学校」

四校の学生たちでにぎわった香林坊界隈・・
当時学生たちの溜まり場・喫茶店オリヤンタルで、
文学や哲学など、活発に議論が交わされた。

オリヤンタル喫茶は、彼らにとって「街中の青春道場」
だった(お孫さんは、私より4歳年下でゴルフ仲間)

       香林坊
   
大正末期の四高のクラス編成は、文甲2クラス、文乙
1クラス、理甲3クラス、理乙1クラス」になっていた。
学生寮では、消灯時間が過ぎてもロウソクを立てて
勉学に励む「蝋勉」が伝統になっていた。

校章は4稜の北極星。校風は何事にも動じない、
自立の精神「超然時習」「至誠自治

        flag (3)

応援歌は明治40年「南下軍の歌」が作られたが、
西田幾多郎の故郷、文化都市金沢には勇まし過ぎて
相応しくないと、大正4年に「北の都に」が作られた。

この寮歌は、叙情的な歌詞と、当時としては珍しい
ホップ調で「男女の棲む國に・・」などと艶っぽく、
青春の夢が綴られていて、他の寮歌に多く見られる
気負った悲愴感はなく、明るくて優しい清明な歌として
受け入れられた。
校歌もあったが、式典で使用されることはなかった。

     cap (2)

運動会は学生服を着たまま行われた。
他校との対抗戦は学校の威信がかかっていた。
中でも、柔道は大正9年全国高専柔道大会で7連覇を
達成。柔道と漕艇は、全国優勝する強剛だった。

昭和16年4月6日、琵琶湖で漕艇部8名が溺死する
遭難事故が発生。この事故を悼んで「琵琶湖哀歌」が
作られた。
東海林太郎と加藤登紀子の持ち歌として愛唱された。
戦後、昭和22年10月昭和天皇の来県に際し、来高
反対を決議、ために巡行ルートが変更させられた。

昭和25年3月、学制改革により閉校・・新制金沢大学
に引き継がれた。

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