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2018年10月 アーカイブ

2018年10月01日

ガンに新薬続々

1639 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
食と健康 「ガンに新薬続々」

ガンに効く、新タイプの治療薬が続々登場している。
ガン細胞に的を絞って攻撃したり、免疫の力を利用して
治療することで、従来の抗がん剤に比べて飛躍的に高い
効果が期待できるようになった。

昨年、余命数か月の白血病患者が、米国で認可された
新薬を一回点滴しただけで、患者の7~8割が1年以上
生存するという結果を示し、注目された。

抗がん剤にも、新たなタイプの治療薬が登場している。
狙ったガン細胞にくっついてガンを殺してしまう治療薬。
ガン細胞だけに攻撃を集中して、副作用を抑えながら
高い効果が期待できる。

ガンの発生に絡む遺伝子を狙い撃ちして、効果的に治療
する抗がん剤も注目されている。 
ガンの増殖や転移に関わる分子を攻撃する、分子標的薬
の一種で、再発すると治療薬のなかったガンにも、治療
効果がある。
ガン細胞の増殖のおおもとになる、ガン幹細胞の働きを
抑える研究も進められている。

日本で、一年間に新たにガンになる患者は86万人。
死者は36万人に達する。
治療薬の進歩は、ガン治療に新しい未来を切り開こうと
している。治療薬の進歩で、ガンが克服される日も近い
ようです。 
                                            日経新聞「ヘルスケアで拓く未来」

2018年10月03日

ヘビとカタツムリ、進化の因果関係

1640 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「ヘビとカタツムリ、進化の因果関係」

9月下旬、念願の小笠原でスキューバーダイビングの
計画があり、楽しみにしていたが、度重なる台風と地震
で中止された。

透明度と、大小魚種の多さで、他を圧倒する小笠原。
何れの種も様々に進化を重ねて生存を図り、小笠原に
しか見られない生物が多数生息。世界自然遺産に登録さ
れた 。
話題を変え、東大の細将貴助教は、ヘビとカタツムリの
進化の過程における因果関係を研究している。

右巻き
のカタツムリを食べる右利きのヘビが進化すると
、今度は食べられにくい左巻きのカタツムリが増えてい
く。
カタツムリの貝殻はほとんどが右巻きだが、琉球列島に
は左巻きがいる。調べると石垣島と西表島に住むヘビは
、右の下アゴの歯の数が左より多い。

現地でヘビとカタツムリを採取したところ、右巻きの
カタツムリに比べ、左巻きは捕食されにくいことが分か
った。
ヘビは背後から頭を左に傾けて、右アゴの牙が深く刺さ
るように噛みつく。この食べ方が、右巻きと左巻きカタ
ツムリの捕食率の差になって表れてくる。

カタツムリを食べるヘビが多い台湾でも調査すると、
台湾にも左巻きが多い地域がいくつかあり、過去に何度
も、左巻きへの進化が見られることが分かった。

貝殻の巻きは、子孫を残すための重要なカギになるので
す。

2018年10月07日

小笠原民謡/レモン林

■北方領土返還

日本には、戦後70年を経た今も、
故郷の返還を心待ちにする人たちがいる・・
北方四島である。

北方領土返還を求める運動を始めたのは、
当初、元島民と四島に隣接する根室の人たち
だったが、その後全国規模の運動に発展し、
900万名を超える署名が国会に提出されて
いる。



1641 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「小笠原民謡/レモン林」

昨日6日の早朝金沢を出発して、関空から沖縄・西表島
にスキューバーダイビングに出かける予定でしたが、
先月の小笠原に続いて、またも台風で中止になった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
終戦後まもなく、帰島者の一人が作り、小笠原村の
人たちに歌い継がれてきた小笠原民謡「レモン林」
ギターの調べに合わせて歌う・・その歌詞は

『 ♪若い二人は   人目が恥ずかしい
でね レモン林でかくれて話しましょう
レモン林の甘い香りり中で
キッスをしたのを   お月さまが見てた 』

レモンにキッス・・西洋の響きを醸しつつ、お月さま
・・ときて、日本の情緒がのぞく。

小笠原諸島が米国から日本に返還されて、今年の6月
で50年になる。
先の戦争で村の人々は大変な苦労をした。
本土防衛の盾となって激しい空襲を受け、7千人が強制
疎開させられた。
江戸後期に定住した欧米人の子孫らは、早々に帰島を
許されたが、日本人は返還を待たねばならなかった。

帰島が叶い、船からは懐かしい顔が次々降りてきた・・
笑顔と涙で出迎えたという。遅れて故郷に戻った人たち
、どんな思いで「レモン林」を聴いただろう。

                                                              北国新聞「編集手帳」

2018年10月10日

ハンセン病患者を隔離した島

らい病同様、不治の病と言われた「肺結核」
私は肺結核で、金沢市内の病院の「隔離
病棟」に入れられ、長く辛い療養生活を
強いられた。
隔離病棟は20人収容で、外部と隔離
され、家族との面会も許されない。

入院患者が死んでいく・・治る希望もなく、
このまま一生を終えるのだろうか?
辛い日々が続いた。
昭和30年代、アメリカで新薬が次々
開発され、治せる病気になった。

新薬のお陰でみるみる回復・・無事退院
した。6年間の自宅療養を経て、
28歳の時大手住宅会社に就職した。
結婚して、ようやく自立した。




1642 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「ハンセン病患者を隔離した島」

9月24日、岡山県瀬戸内海の小島・長島の国立療養所
「愛生園」を見学した。ハンセン病に対する国の無理解
から、生涯島で暮らすことを強いられた、元患者の生々
しい
体験を聴いた。

              IMG_2490
ハンセン病(らい病)患者を隔離する島として昭和
5年
に誕生。当時は有効な治療法がなく、人に感染する
恐ろ
しい病として、患者の強制隔離が
国の政策で継続された。

        IMG_2526
島に隔離された患者は、まず上記収容所に入れられた。
持参物は取り上げられ、クレゾールの入った風呂に入れ
られ、着ていた衣服はホルマリン消毒された。

逃走を防止するため所持金は保管され、島内でのみ使用
できる、ブリキの貨幣が渡された。

終戦の年の昭和20年、アメリカで特効薬が開発され、
100%治せる病気になった。
伝染することが極めて低い病気であることも、明らかに
なった。
ところが国の誤った政策で、療養所での隔離は平成8年
(1996年)に「らい予防法」が廃止される
まで、
隔離政策は以後50年も続けられたのです。


IMG_2514

現在、日本のハンセン病患者はゼロ。
にもかかわらず、
恐ろしい伝染病という風評と誤解が
今も根強く続き、完治しているのに帰るに帰れず、
社会復帰が困難な状況が続いている。
ほとんどの入居者が高齢になり、愛生園を「ついの棲家」
に生活しているのです。

2018年10月14日

母親にらい病を告げる息子

■差別の実例

*ホテルの宿泊を断られた
*飲食店の予約を断られた
*クリーニングの持ち込みを断られた
*路線バスの乗車を拒否された
*家族の結婚や就職が断られた
*故郷に帰れない 

2003年、熊本のホテルが宿泊を断った。
ホテルは謝罪したが、誠意が見られないと、
元患者は謝罪を受け入れなかった。

マスコミに報道され、元患者を非難する
差別的手紙やメールが殺到した。
社会に差別意識が根強く残っていることを
再認識する事件でした。



1643 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「母親にらい病を告げる息子」

前文略・・・その夜何年ぶりかで親子が枕を並べて寝る
ことができたが、これが母との最期の別れになるのでは
ないか、という思いが脳裏をよぎる度、胸が締め付けら
れるようで、私は瞳が熱くなるのを押さえきれなかった。

やがて母が『久々にお前の元気な顔を見て安心した。
明日には所用があって、どうしても帰らなければならな
い。
これからも一生懸命働いて、人様に可愛がられるような
人間になっておくれ』と言ったところで、ようやく病気
にかかったことを打ち明ける、勇気が湧いてきた。

『実は先日、病院で診察を受けたところ、らい病だとい
う宣告を受けた。不治の病と言われているが、岡山に
長嶋愛生園という専門の国立病院がある聞いて、
私は、そこに行ってしばらく治療してみることにした。

医学の進歩もあって、もしかしたら治るかもしれない。
今日、お母さんにだけ行き先を知らせようと帰ってきた』
と、やっとの思いで言えた。

薄明りの中でも、母の表情がさっと変わり、蒼白になっ
たことがわかった。しばらく沈黙が続いたが、母は大き
なため息をフッと吐き、声を震わせながら・・
『そんな病気はご先祖様から聞いたことがない。それは
何かの間違いだ。こちらでもう一度よく診てもらえ』
と言った。
私が『大阪の大きな病院で一日がかりで診察した結果だ』
と言っても納得しようとしない。

沈痛な雰囲気のまま時間が過ぎて、夜が白々と明けて
きた。母の頬に涙が光っているのが見えた。
一晩中二人は一睡もせず、親子で泣き明かした。

                                                                     ・・次号に続く

                             文芸社/加賀田一「島が動いた」より抜粋

2018年10月17日

母親にらい病を告げる息子(2)

■納骨堂

ハンセン病に対する差別や偏見がひどかった
大正・昭和の時代・・亡くなったあとの遺骨を
家族に引き取らせず、故郷に持ち帰ることも
許されなかった。
園内に残された遺骨を、無縁仏にしてはいけ
ないと、納骨堂が造られた。

  IMG_2528



1644 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「母親にらい病を告げる息子(2)」

夜が明けて母は、ようやく諦めがついたのか、
『・・この病気は親族血縁の者に、一生精神的な不幸を
負わせてしまうものだ。

一族の中からこの病気にかかった者が出たとわかれば、
その一族は結婚も出来ず、家は破綻に追い込まれ、
どんなに理解しあった夫婦でも、生涯負い目を背負って
の生活を強いられる。

つまり、お前一人の苦しみで済むような、生半可な病気
ではない。
お前は家や家族のために犠牲となって、行方不明とい
うことにしておくれ。そして外の者には絶対口外しない
でくれ。
これは二人だけの秘密にしておくれ・・頼む、頼みます。
親族に迷惑をかけることはできない。それが人の道とい
うものだ。これは私一生のお願いだ。是非守っておくれ』
と、涙を流しながら訴えた。

切々と訴える母の言葉には、わが子と再び永遠に別れな
ければならない苦悩が滲み出ており、私も胸が詰まり、
ただ黙ってうなずくことしかできなかった。

『岡山へ行っても便りは一切しないでくれ。便りが無い
ことが元気でやっていると、思うようにする。
お前も辛いであろう。しかし病は気からとも言う・・
病気に負けるな、どんな病気でも治らぬものではない。

どんなことがあろうと、生きて生きて、生き抜いてくれ。
生き抜いてこそ、人としての価値がある。
そして、人間に生まれた以上、人様に迷惑をかけず、
社会に少しでも役に立つことをしなけけばいけない。

笑って会える日が必ず来ることを信じて、そのことを
楽しみに、お互いの心を通わせながら生きよう・・
頼む、生き抜いてくれ 』

これが母と子の、最後の別れの言葉になった。

                              文芸社/加賀田一「島が動いた」より抜粋

2018年10月22日

風の電話/残された人々の声

1645 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
「風の電話/残された人々の声」

2011年3月11日の東日本大震災から、早いもので
7年半になります。
少し前の話
になりますが、2年前の3月、NHKスペシ
ャルで「風の電話/残された人々の声」という番組が
放映されました。

津波で大きな被害を受けた岩手県大槌町。
海を見下ろす高台に、1台の電話ボックスが置かれた。
ボックスには、線のつながっていない電話器とノートが
1冊置かれている。

ある日突然、家族や大切な人を一度に喪ったことは、
身が引き裂かれる大変悲しい出来事です。
悲しみを内心に湛え、亡くなった家族や友人ともう一度
話をしたい・・
願う人たちが、受話器を握りしめて語りかけるのです。
忘れることが出来ず、想いをつのらせる人たちが、
電話ボックスにやって来て、受話器を取るのです。

亡くなった人に、電話口でいくら語りかけても、返事は
返ってきません。
津波で息子を無くした母親は「きっと何処かで聞いて
くれているに違いない」と、心の奥底の想いを受話器に
向かって語りかけるのです。

辛い気持ち、寂しい想いが「風の電話」を通して伝わる
・・そう思うことで救われるのです。

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