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ハンセン病患者を隔離した島

らい病同様、不治の病と言われた「肺結核」
私は肺結核で、金沢市内の病院の「隔離
病棟」に入れられ、長く辛い療養生活を
強いられた。
隔離病棟は20人収容で、外部と隔離
され、家族との面会も許されない。

入院患者が死んでいく・・治る希望もなく、
このまま一生を終えるのだろうか?
辛い日々が続いた。
昭和30年代、アメリカで新薬が次々
開発され、治せる病気になった。

新薬のお陰でみるみる回復・・無事退院
した。6年間の自宅療養を経て、
28歳の時大手住宅会社に就職した。
結婚して、ようやく自立した。




1642 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「ハンセン病患者を隔離した島」

9月24日、岡山県瀬戸内海の小島・長島の国立療養所
「愛生園」を見学した。ハンセン病に対する国の無理解
から、生涯島で暮らすことを強いられた、元患者の生々
しい
体験を聴いた。

              IMG_2490
ハンセン病(らい病)患者を隔離する島として昭和
5年
に誕生。当時は有効な治療法がなく、人に感染する
恐ろ
しい病として、患者の強制隔離が
国の政策で継続された。

        IMG_2526
島に隔離された患者は、まず上記収容所に入れられた。
持参物は取り上げられ、クレゾールの入った風呂に入れ
られ、着ていた衣服はホルマリン消毒された。

逃走を防止するため所持金は保管され、島内でのみ使用
できる、ブリキの貨幣が渡された。

終戦の年の昭和20年、アメリカで特効薬が開発され、
100%治せる病気になった。
伝染することが極めて低い病気であることも、明らかに
なった。
ところが国の誤った政策で、療養所での隔離は平成8年
(1996年)に「らい予防法」が廃止される
まで、
隔離政策は以後50年も続けられたのです。


IMG_2514

現在、日本のハンセン病患者はゼロ。
にもかかわらず、
恐ろしい伝染病という風評と誤解が
今も根強く続き、完治しているのに帰るに帰れず、
社会復帰が困難な状況が続いている。
ほとんどの入居者が高齢になり、愛生園を「ついの棲家」
に生活しているのです。

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