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コロナの時代を詠む

1851 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
心と体の健康 「コロナの時代を詠む」

人気タレントの志村けんさんが、新型コロナウイルスに
よる肺炎で死去した・・この突然の報道に驚き、ショック
を受けた。
志村けんさんがお骨となって帰ってくるまで、家族は会え
なかった・・亡くなった方と遺族の対面が許されなかった
のです。
出生と葬式は人生の二大行事です。

人が亡くなるということは、その人の尊厳が最後に保証
されるべき場で、そのお別れの場を奪われてしまった家族
の憤懣は計り知れず、無念さはいつまでも残っていく。
今回の報道で初めて表に出た、憂うべき問題です。

「愛している人を失う悲しみは
   その人の前で 輝いていた自分が失われる悲しみ」
                                                    歌人・永田和宏

人は誰しも、突然発生した悲しみを受け止めることが
できない。
お通夜や葬式、斎場でお骨になる前の最後のお別れ
する・・そうしたプロセスを踏んで、少しづつ愛する人に
先立たれた悲しみを和らげていく。

こうした「喪の作業」の一切を奪ってしまう新型コロナウイ
ルス・・突然遺骨となって帰されてきても、遺族には心の
準備ができていないのです。

死者を大切に悼むという、残された人たちが納得する
プロセスが、行政に抜け落ちてしまっている。

死者に近寄らせない、触れさせないことが、本当に必要
で大切なことなのか・・疑問に思うのです。
感染症で亡くなった人の体内には、まだウイルスが残って
いるだろう・・

しかし、呼吸はしないし、ウイルスを吐き出すこともない。
死者の顔や手を消毒し、家族は隔離された死者と、
ガラス越しにでもお別れすることができれば・・
感染することはないと思うのですが。
                                           NHK「こころの時代」より

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