今から約2800年前、地中海をはさんだイタリアの対岸、現在のアフリカ・チュニジア。
その地に拠点を置くフェニキア人によって建国された、都市国家カルタゴ…
地中海貿易の拠点として繁栄を極め、独自の文化を育んできた。
世界遺産が8ケ所も点在するチュニジア。
その地中海文明の至宝の数々が、はるばる石川県立美術館にやってきたのです。
「古代カルタゴとローマ展」と題して、160点が展示公開されている。
エジプト文明、ローマの栄枯盛衰に興味を持ち、様々な書物を読み漁ってきた私…
8月29日の初日、早速見学に訪れた。
(期間は9月20日まで)
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 696】
~歴史から学ぶ~「ポエニ戦争」
■人間愛に満ちた明治の日本人
日露海戦における幾多のうるわしい逸話が、今に伝えられている。
○波間に漂う敵兵を出来うる限り救助し、医療・食事など万全を期し、
俘虜として暖かく遇している。また惨敗を喫して、総崩れになった
敵艦隊から逃れ行く一隻の駆逐艦に対し、「武士の情け、深追いはするな」
と、見逃してもいる。
○敵の提督ロジェストウインスキーは、重傷を負い、人事不省になった
ところを救助され、佐世保の海軍病院に収容された。
東郷は直ちにこれを見舞い、なぐさめの言葉をかけた。
「敗れたとはいえ、私は、閣下のような立派なお方と戦ったことを、光栄に
存じます」…万感こみあげたロジェストウインスキーの目に、涙が光って
いた。
○敵兵への暖かい思いやりは、軍人だけでなかった。
敵兵の水死体が海流に乗って、山陰の海岸に漂着した。付近の住民はこれを
引き上げ、手厚く葬り、冥福を祈った。万里の波濤をけって、はるばる来航、
武運つたなく祖国に殉じた勇者に対する思いは、それが敵であろうと変わり
なかった。
明治の日本人には、うるわしい"人間愛"があったのです。 (論語の友から)
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 659】
~歴史から学ぶ~ 「明治の日本人気質」
「己の欲せざるところは 人に施すなかれ」 (顔淵第十二)
(自分がして欲しくないことを、人にしてはならない)
日露戦争で、乃木大将が激戦の後旅順を陥落させ、敵将ステッセルと会談した時の逸話から、明治の日本人気質を知ることが出来ます。
敗将ステッセルの一行が、白旗を掲げて乃木の陣営にやってきた。
戦勝国日本の新聞社のカメラマンたちは、この歴史的一瞬を撮影して、勝利をはなばなしく故国に報道しようと、待ち構えていた。
ところが乃木は、これを差し止めて、記者たちを遠ざけてしまった。
「何故そんなことをする…」と、記者たちは乃木将軍に詰め寄った。
乃木曰く「軍人にとって降伏することは、この上もない不名誉である。ましてや、その屈辱の情景をこれみよがしに報道されることは、
当人にとって死ぬ以上に辛いことです」
かって、西南の役において軍旗を奪われ、一死をもってそのつぐないをしようとして、果せなかった乃木には、
ステッセルの心中が痛いほど分かるのです。
武士の情がわかる乃木は、心細かに気配りして、手厚く敗将ステッセルを遇したのです。
この会談は、勝者のおごりも、敗者の卑屈も感じられず、ともに祖国のために堂々と戦った、将兵の誇りと満足が相互尊敬となって、
静寂をとり戻した戦場に、暖かい雰囲気をかもし出したのです。
東亜の小国日本が、大国ロシアを破った…輝かしい勝利もさることながら、当時の日本人が、武士道精神にのっとって、 立派に戦ったことが、全世界から好評を博すことになった。以降、国際社会における日本の信用を、いやが上にも高らしめたのです。
ところが、日露戦争に勝利した小国日本…国難に出会えば"神風が吹く"と慢心し、武士道的道義心は低下するばかり…ついには、
米国に戦争を挑み、敗戦を迎えることになる。
戦後直ちに、我が国の学校教育から、軍国主義的残渣が一掃されることになり、占領軍の係官が、学校を査察して廻った。
ある小学校で運悪く、乃木、東郷の肖像が、物置から発見された。
随行の校長、ハッと顔色を変えたが、査察官の口から意外な言葉が発せられた。
「乃木、東郷は、日本が生んだ世界に誇るべき武将であります。私は偉大な二人を尊敬しています。日本が今日、 このような不幸に会ったのは、彼らのような立派な武将がいなかったからではないでしょうか。この肖像の廃棄を私は認めません」
二宮金次郎の銅像が取り払われたのは、当時、左翼思想の強い日教組によるもので、進駐軍は「二宮金次郎は日本の偉人、 尊敬すべき人物である」と言っている。
戦後の教育の場では、日本の歴史上欠かすことのできない、こうした偉人たちを、子ども達に教えなかった。 日本に生まれながら日本を知らず、日本という国を尊敬できずに、今に生きる私たち…自らに誇りが持てない民族… そんな民族のままでいいのでしょうか…。世界一愛国心の薄い国民と、笑われているというのに…。
「坂の上の雲」「論語の友」より
■司馬遼太郎の遺言
「坂の上の雲」を大河ドラマにしたいと、30年以上も前から交渉し続けてきたNHK…OKが出たのは5年前。
司馬遼太郎は生前、映像化することを好しとしなかった。NHKの熱心な説得に遺族側が折れ、大河ドラマが実現することになったのです。
その内容はあまりにも壮大。零下15度の中国内モンゴルでの撮影に始まり、当時のロシア王朝の面影を残す、
サンクトペテルブルク宮殿での舞踏会シーン、ヨーロッパでの撮影など、今秋放映開始に向け、大掛かりな撮影が行われている。
3年にまたがる放映は初の試みです…壮大なスケールで繰り広げられるスペシャルドラマ…11月29日スタート…今から楽しみです。
3人の主役…秋山真之を本木雅弘さんが、秋山好古は阿部寛さんが、正岡子規を香川照之さんが演ずる。秋吉兄弟の両親は、伊東四朗さん、 竹下景子さん、伊藤博文を加藤剛さん、高橋是清を西田敏行さん、東郷平八郎を渡哲也さん、子規の妹・律を菅野美穂さん、 そして児玉源太郎を高橋英樹さん…と、ワクワクする布陣です。
NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」より
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 657】
~歴史から学ぶ~「坂の上の雲」
毎朝8時BS2で、「私が選ぶ一冊の本」を見ている…私はちゅうちょなく、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を選ぶだろう。
内容を解説できるほど、繰り返し読んだ。
自ら志す道を懸命に歩み、歴史に残る偉業をなしとげた、3人の若者の物語です。その「坂の上の雲」が、この秋、
NHKの大河ドラマになるのです。
物語の舞台は明治の日本。小国日本が清国との戦いに勝ち、大国ロシアに戦いを挑む…そんな明治とはいったい、
どんな時代だったのか?
原作者・司馬遼太郎は、明治を以下のように表現している。
|
「維新によって、日本人ははじめて近代的な"国家"というものをもった。 |
当時の若者の多くは、ほんの少し前の時代まで、立身出世を夢見るなど、考えもしなかった…それが明治になって、
何でも叶えられるようになったのです。
「坂の上の雲」は、そんな時代に生きた、3人の若者の物語です。
1人は「秋山真之(さねゆき)」。1986年四国の松山に生まれる。
日本海軍の作戦参謀として、瀬戸内海・村上水軍の戦術からヒントを得た「T字戦法」で、バルチック艦隊と国家の命運を掛けた海戦に臨み、
勝利を収めるという、大きな役割を担うのです。
1人は真之の兄「秋山好古(よしふる)」。真之とは九つ違い…陸軍に入り、広大なシベリアの最前線で、ロシアとの戦いに勝利するため、
日本で初めての騎兵隊を創設して、獅子奮迅の活躍をするのです。
もう1人は、真之の幼なじみ「正岡子規(まさおか しき)」…身体が弱く、病と闘いながら"俳句"を革新した人物として…
歴史にその名を残すことになる。
秋山兄弟も子規も、幼い頃から、自らの進路を決めていたわけではない。
子規は、学問をして、太政大臣になる夢のために、東京に出たいと思うようになる。
真之は子規に刺激され、偉くなりたいとの思いが募り、親の許しを得て東京に出る。
この先3人、明治という時代に何を目指し、どう生きていくのか…
「坂の上の雲」では、明治の若者が、国家のため、社会のため、悩みながらたくましく生き、人生を掛け、
国の運命を左右する熾烈な戦いの場へと突き進んでいく…。
秋山兄弟が描く壮大な人生ドラマ…読み重ねるほどに、ぐいぐい引きこまれていく。
「坂の上の雲」だけでなく、今、後編を上映中の三国志「レッド・クリフ」も、「天地人」も、原作小説を読んで、 時代や歴史背景を知ってから見ると…ドラマへの興味が深まり、面白さも倍加するというものです。
■小学修身教科書より
「第十五 礼儀」
人は礼儀を守らなければなりません。
礼儀を守らなければ、世に立ち、人に交わることができません。
人に対しては、ことばづかいをていねいにしなければなりません。
人の前であくびをしたり、人と耳こすりしたり、目くばせしたりするような、不行儀をしてはなりません。
人に送る手紙には、ていねいなことばを使い、人から手紙を受けて返事のいる時は、すぐに返事をしなければなりません。
又、人にあてた手紙を、ゆるしを受けずに開いて見たり、人が、手紙を書いているのを、のぞいてはなりません。
その外、人の話を立ち聞きするのも、人の家をのぞき見するのも、よくないことです。
人と親しくなると、何事もぞんざいになりやすいが、親しい中にも礼儀を守らなければ、長く仲よく付き合うことはできません。
「親しき仲にも礼儀あり」です。
【心と体の健康情報 - 652】
~歴史から学ぶ~
尋常小学校「修身教科書」から
戦前の学校教育に「修身」という科目があり、古今東西の偉人・賢人達の具体的エピソードを通じて、「正直・謙虚・礼儀・勤勉・
公益・勇気」といった科目を子ども達に教えていました。
修身教育の根本方針は、明治23年10月30日の「教育勅語」(メルマガ583号・585号・587号に掲載)
によって定められた、全文315文字の短文からなります。
勅語は、「自己・家族・友人・社会・国家」に対する、国民が守るべき十四の徳目を説いています。
例えば「博愛の精神」…「博愛」と言われても、抽象的で、その意味がよく分かりません。修身の教科書では、エピソードを通して、
小学生にも十分理解できるよう、血の通った道徳教育がなされているのです。
■小学校修身教育 「博愛」の教え
|
紀伊の国の水夫寅吉は、蜜柑を積んだ船で江戸へ行った。 それからこの捕鯨船は、北の方へ鯨を捕りに行き、半年ばかりたって、帰りに船長は便船に頼んで、
寅吉たちを香港まで送り届けました。 そこで寅吉たちは、支那の役人の保護を受け、便船に乗り継いで、やっと日本に帰ることが出来ました。故郷では、
三年も便りがなかったことから、死んだと思い、葬式を出して墓までしつらえていました。 知っていても知らなくても、「博く愛する」のが"人の道"です。 明治37年、日露海戦において、上村艦隊が敵艦を打ち沈めた時、敵のおぼれ死のうとする者を、 六百余人も救い上げたのは、名高い美談です。 |
戦後の教育の現場からは、「修身」や「教育勅語」が排除されてしまった。
私たちは修身の内容を知らず、軍国主義の思想教育であるかのような、固定観念で見ている…。
徳目に書かれている内容をよく読むと…政治・マスコミ・日教組などで、"修身"が話題になっただけで、トラウマになって反対する…
その理由が分からない。
(論語の友)
問題の箇所があれば、そうした箇所を削除し、今の学校教育にふさわしい内容に改め、修身を復活すべきと思うのですが…。
なぜ、薪を背負った二宮尊徳像が、小学校の校庭から撤去されなければならないのか?なぜ、二宮尊徳が教育の現場から排除されたのか?
■火事と喧嘩は江戸の花
「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるくらい、江戸は火事が多かった。
長屋が密集していて、火事が起きると、直ぐに燃え広がった。
消防体制など無いに等しく、水をかけて消すよりも、周りの家を壊した方が手っ取り早い。
その役割をするのが「いろは四十八組」の、威勢いい若い衆。
夜中に火事を発見すると、半鐘を鳴らす。
二度打ちから五度打ちまで4パターンある。
「ジャン・ジャン」の二度打ちは、火事場が遠い時。
「ジャン・ジャン・ジャン」と三度鳴らされると、近いので避難しなければならない。
ちなみに四度打ちは、火事ではなく、水害などの他の災害になります。
五度打ちはめったなく、江戸城のま近かが火事になった時に鳴らされます。
この時は、四十八組総動員して消火に当たります。
家財道具を揃えても、火事になれば焼けてしまう。
従って自前で揃える人は少なく、必要な家財はレンタル…質屋を頻繁に利用した。
質屋には蔵があって、焼けません…。
ところで、火事をネタ噺にした落語といえば、「味噌蔵」「富久」「火事息子」
「鼠穴」などがある。「味噌蔵」は、2008年5月13日No.566で配信しています。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 647】 ~歴史から学ぶ~ 「六代将軍・家宣」
パリの下町で暮らす母娘…高等学校に通うおてんば娘が、ある日突然、ヨーロッパの某王国の後継女王になった。 桧舞台で次々引き起こす騒動…映画「プリティ・プリンセス」そっくりの夢物語が、江戸幕府・将軍家世継で起きていたのです。
六代将軍徳川家宣がその人…甲府藩主綱重の長男として江戸藩邸に生まれる。
(綱重は、三代将軍家光の三男。長男は四代将軍家綱、四男の弟は五代将軍綱吉)
父・綱重がまだ正室を迎える前の19歳の時、身分の低い女中に子を産ませた。
世間をはばかり、家臣の新見正信に預けられ、正信の子・新見左近として育てられた。
ところが、正室を迎えた父綱重…世継の男子に恵まれず、呼び戻されて、17歳のとき、
思いもよらない甲府藩の家督を継ぐことになった。
その後、伯父の四代将軍家綱に可愛がられて、"綱豊"と名乗る。
43歳の時、五代将軍綱吉にも世継が無く、世継候補も死去したため、綱吉の養子に迎えられ、"家宣"と改名して、
江戸城西の丸に入る。
思いもよらぬ幸運で、将軍職にまで上り詰める…昨年の大河ドラマ、篤姫のようです。
西の丸に入った時、諸大名や旗本が、賄賂に近い祝いの品を持参したが、家宣はこれらの一切を受け取らなかった。
家宣48歳の時綱吉が亡くなり、ついに六代将軍の座に…。
将軍になるや、人事を一新…悪しき慣習や不正を、厳しく取り締まった。
悪評高かった「生類憐れみの令」や「酒税」を廃止するなど、気概を示したため、庶民から喝采でもって迎えられ、期待は高かった。
先代の綱吉は、「生類憐れみの令」を継続するよう遺言したが、家宣は葬儀の二日前、綱吉の柩の前で、側近の柳沢吉保に言った…
「生類憐れみの禁令に触れ、罪に落ちた者は数知れない。私は天下万民のために、あえて遺命に背くことにする」…この時、
罪を許された者は、八千数百人になるという。
先代は、老中を遠ざけ、ご用人・柳沢吉保を重用したが、家宣は、吉保を免職…新井白石を登用して、文治政治を推し進める。
財政改革に熱心だったが、在職わずか3年、51歳で惜しくも死去。
次の七代目将軍職は、家宣の子の"家継"が継いだ。
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■徳川家康「東照宮遺訓」
一. 人の一生は 重き荷を負うて遠き路を行くが如し 急ぐべからず
一. 不自由を常と思えば不足なし
一. 心に望みおこらば 困窮したる時を思い出すべし
一. 堪忍は無事長久の基
一. 怒りを敵と思え
一. 勝つことばかり知りて負くる事を知らざれば 害その身に至る
一. 己を責めて 人を責むるな
一. 及ばざるは 過ぎたるより勝れり
いずれも、不況風が吹く今、座右の銘にしておきたい、自らの生き方を諌める心得です。
中でも、最初の文章「人の一生は重き荷を負うて…」は、ズッシリ胸にしみます。
"千利休"が言った言葉というのが、最近の歴史家の通説です。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 643】
~歴史から学ぶ~ 「五代将軍・徳川綱吉」
家康から265年、15代続いた徳川幕府…家光や吉宗は、よく知られる将軍です。
が、その他の将軍についてはよく分からない?
そこで、歴代将軍にまつわるエピソードを取り上げて、その時代を見ていきます。
今回は「五代将軍・綱吉」です。
五代将軍・徳川綱吉は、三代将軍家光の四男。
綱吉将軍職就任に功労した"堀田正俊"を大老に据え、積極的に政務に関わっていく。
先代の家綱時代、政務一切を重臣たちに任せ、「左様せい様」という異名が付けられていた将軍の権威を、取り戻そうとしたのです。
関が原の戦いから80年…戦国の殺伐とした気風を排除して、"徳"を重んじる文治政治を推し進めた。これは、
父"家光"が綱吉に儒学を学ばせたことに影響している。
幕臣を集めて"四書"や"易経"を講義する、学問好きな将軍として知られている。
儒学を学んだ影響から、歴代将軍の中で最も皇室を尊び、皇室領を増額して献上したり、巨額の資金を投じて、 河内国一帯の66陵を修復したりした。
在任中に起きた刃傷沙汰で、赤穂藩主・浅野長矩守を、大名としては異例の、即日切腹に処したのも、 朝廷との儀式を台無しにしたことへの、綱吉の激怒が背景にあったのです。
綱吉のこうした儒学を重んじる姿勢は、新井白石、荻生徂徠らの学者を輩出するに至り、この時代儒学が隆盛を極めた。
また、近松門左衛門・井原西鶴・松尾芭蕉などの文化人が一世を風靡した、元禄時代の将軍です。
将軍就任4年目に、将軍の片腕、堀田正俊が若年寄"稲葉正休"に刺殺される事件が起きた。以後、大老を置かず、 "柳沢吉保"らご用人を重用し、老中を遠ざけるようになった。
この頃に、後に"悪政"と言われる「生類憐れみの令」を発したり、悪化しつつあった幕府財政を建て直そうと、「貨幣の改鋳」
を実施したが、世間を混乱させるだけに終わった。
側近・寵臣の意見にしか耳を傾けなかった弊害が、民衆を苦しめることになったのです。
綱吉の評価が、実際より低く見られるのは、忠臣蔵や水戸黄門に絡むTVドラマが、悪い印象を与えているのしょう…。
元禄11年、数寄屋橋より出火した大火は、300余町を焼き尽くし、三千人の死者を出した。
また、富士山が噴火…関東一円火山灰の被害に合い、庶民は飢饉に苦しんだ。
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■いま出世する者、しない者
大久保彦左衛門(1560~1639)が著した「三河物語」の中に、「いま出世する者としない者」という記述がある。
[いま出世する者]
・主君を裏切り、主君に弓を引く者 ・
口先だけうまい者 ・算盤勘定のうまい者
・ひきょうな振る舞いをして、人から笑われる者 ・前歴がよくわからない者
※今でいえば、社長の片腕でありながら、自らの野心のために、密かに部下の
引き抜き、お得意様の横取りを企むなどして、独立の期をうかがう幹部社員。
[いま出世しない者]
・絶対に主人を裏切らない者 ・
合戦一途に生きる者 ・算盤勘定の下手な者
・お世辞が言えず、世渡りが下手な者 ・最後まで主人に仕え続ける者
※今でいえば、現場一筋、身を粉にして会社に仕え、現在の地位・境遇に甘んじて、
生涯宮仕えしようと心に決める、実直な社員。
当時幕府は、武断政治から文治政治へと移行しつつあり、武家も、武功派より文治派が重用されるようになった。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 641】
~歴史から学ぶ~ 「四代将軍・徳川家綱」
家康から265年、15代続いた徳川幕府…家光や吉宗は、よく知られる将軍です。
が、その他の将軍についてはよく分からない?
そこで、歴代将軍にまつわるエピソードを取り上げて、その時代を見ていきます。
今回は、「四代将軍・家綱」です。
徳川家綱…三代将軍家光の嫡男。家光が48歳で死去(1651)したため、11歳で四代目将軍の座に…幼少で将軍家を継承したため、
政情不安になり、由比正雪の倒幕事件が起きた。
叔父の保科正之や、家光時代からの大老・酒井忠勝、老中の松平信綱など、優臣の補佐により危機を乗り越え、
以後29年の間安定政権をみた。
家綱は、関が原以降武力に頼った武断政治から、文治政治へと政策の切り替えを行った。
温厚な人柄の家綱は、絵画や魚釣りを趣味とし、政務を重臣たちに任せ、「左様せい」の一言で決済を済ませていたことから、「左様せい様」
という異名を付けられた。
エピソード(1)
将軍就任間もない少年の頃、天守閣に登った。
その際、近習の者が遠眼鏡をすすめたが、家綱はそれを受け取ろうとしなかった。
「自分は少年ながら将軍である。もし将軍が天守閣から、遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、恐らく世人は、
嫌な思いをするに違いない」と…。
エピソード(2)
ある時、島流しになり、流人となった者の話を聞き、「彼らは一体何を食べているのか?」と側近に尋ねたが、誰も答えられなかった。
家綱は「死罪を免れ、流刑に処せられたのに、なぜ食糧を与えないのか?」といぶかった。それを聞いた父・家光は喜んで、「これを竹千代
(家綱)の仕置きはじめにせよ」と家臣に命じ、それ以降、流人に食糧を与えるようになった。
エピソード(3)
家綱、食事中に汁物をすすろうとしたところ、髪の毛が入っていた。
家綱、何事もなかったように髪の毛をつまみ、取り除いた。
慌てた小姓、替えの汁物を用意しようとした。
家綱「その汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように」と、小姓に命じた。
お椀を空にして下げれば、普段のお代わりと同じ扱いになる…咎められる者が出ない。
家綱の優しい心配りがうかがえる逸話です。
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米国はすごい国
1967年、黒人エリート医師と、白人女性との結婚話を題材にした映画「招かざる客」が、
米国社会の人種差別に強烈な問題提起を行った。
娘の父親は新聞社主…苦悩の末、娘の結婚を認める…そんな物語です。
当時は、黒人とキスするなどもっての外…殺されかねない時代でした。
全米16州で、黒人と白人の結婚が禁止されていた。
劇中、主人公の黒人医師が、恋人の父親から子供について聞かれ、答える場面がある…「彼女は、子供は大統領になって、
多人種の政権を作るって、考えています」
42年後、このセリフが現実になった。
ケニア人の黒人男性と、カンザス州の白人女性との間に生まれた政治家、バラク・オバマ氏が大統領になった。
わずか40年の時の流れの中で、かつては不可能だったことが可能になった。
米国は、そんなすごい国です。
1/22 読売新聞
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 635】
~歴史から学ぶ~ 「国家のために何をなすか」
第35代合衆国大統領ジョン・F・ケネディ…
1963年、人気半ばに暗殺されたことはよく知られる。
大統領就任演説で、「国民は国家に何をして貰うかでなく、国家のために何をなし得るかを考えよ」
と述べ、名演説として歴史に残った。
2009年1月20日正午過ぎ、第44代大統領に宣誓したバラク・オバマ…
リンカーンが1861年の宣誓で使ったのと同じ聖書を、左手に置いての宣誓です。
就任演説では「世界は変わった。だから我々も世界と共に変わらなければならない」と強調。ケネディの言葉を引用して 「我々は責任を果さなければならない…米国民一人ひとりが、自分と自国、世界への義務を喜んで果さなければならない…」と促した。
1/22の読売朝刊
平和な国日本…そこに住む私たち…世界有数の充実した医療制度、治安、教育等々、生活の隅々まで手厚く国の保護に守られ、
国に依存した暮らしをしている。
世界に誇りうる、豊かで安全な国に住みながら、どこまで国を思い、恩に報い、国のために奉仕する気があるだろうか?
日本の総理が、ケネディにあやかって、「国民一人ひとりが、国家に何をして貰うかでなく、国家のために何をなし得るか、
考える時が来た」と国民に訴えたとしら、私たち国民は、それを素直に受け入れられるだろうか?
日本の政治家が言えば…各方面・マスコミから、格好の攻撃材料にされるのがオチだろう。
今年の秋NHKで、"明治の日本"を題材にした、司馬遼太郎「坂の上の雲」が大河ドラマになる。明治の日本は貧しく、 国は多額の負債を抱え、国民は極度の貧困にあえいでいた。
以下、「論語の友・明治の日本人と平成の日本人」から…
明治の国家は、国民に充分に与えるものを持たず、国民は国から何の保護も受けられなかった。それでも国民は、素直に礼節を守り、
国家に身を捧げて、国恩に報いんとした。
今の日本人…国を慈しみ、国の恩に報いようとする意志は薄い。
国民の国防や納税に対する義務意識は極めて薄く、免れようとさえする。
そのくせ"権利"は声高に主張する…。
「愛国心」を鼓吹するつもりはない…が、わずか百年足らずの間に、
これが同じ日本人かと…精神の堕落ぶりを、嘆かざるをえない。
■二代将軍秀忠にまつわるエピソード
武将としては評価が低かった家康の三男"秀忠"。大坂の陣の後のある日、弟"義直"と共に能を観劇している最中、地震が起きた。
場内がパニックになりかけた時…
「揺れは激しいが、壁や屋根が崩れる兆候はない。下手に動かないほうがよい…」
と、素早い対応を示し、混乱を回避した。
イザという時、いち早く状況を把握し、統率力を発揮するという、人には見えない才能があったのです。
その一方、妻で信長の姪"お江の方"には、頭が上らなかった。
生涯側室を持たず、一度だけ手を付けた女中に、男児(後の保科正之)が生まれた。
正室からの追求を恐れて、会うこともなく保科家へ養子に出してしまった。
頭が上らないと言っても、信長も家康も生きてはいない。"お江の方"と不仲になったところで、将軍の地位が揺らぐわけではない。
側室を持つことに何の問題もなかった…
恐妻家だったことは事実だが、秀忠は律儀さゆえ、愛妻家を押し通したのであろう。
なお、息子の"保科正之"に会ったのは、妻"お江の方"が亡くなって後である。
その保科正之…後に、兄にあたる三代将軍家光をしっかり支え、幕政に多大なる貢献をしている。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 631】
~歴史から学ぶ~ 「二代将軍・徳川秀忠」
歴史上の出来事をあれこれ探っていくと、思わぬ事実にたどり着くことがある。
それは結構楽しいものです。
家康から265年、15代続いた徳川幕府…家光や吉宗は、よく知られる将軍です。が、その他の将軍についてはよく分からない? そこで、
歴代将軍にまつわるエピソードを取り上げながら、人と為りを見ていくことにします。
今回は「二代将軍・秀忠」です。
秀忠は家康の三男。「秀忠は律儀すぎる。人は律儀一点張りではいかぬものだ」と、家康を嘆かせた。これに対し秀忠は、 「父のウソを買うものはいくらでもいる…しかし、私のウソを買うものはいないだろう」と、己を分析している。
兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に優れた"将"と評価されていた。
一方の秀忠、性格は温和で、戦は苦手。しかし、政務には抜群の才能を発揮した。
そんな性格故、関が原の戦いに遅参するという失態を招いている。にもかかわらず、兄・秀康を差し置いて、家康の後継者となり、
将軍の座に就いている。
家康亡き後、期待に違わず、幕藩体制を揺るぎないものにし、徳川265年の礎を築き上げたのです。鎌倉・ 室町両幕府が短命に終わったのは、二代目後継者に、それだけの能力がなかったことを示唆している。
政権を担うに当たり、酒井忠世、土井利勝、安藤重信を重臣に取り立て、他方、自分に従わない六男の松平忠輝、娘婿の松平忠直、
譜代の重鎮・本多正純を改易した。
更に、外様有力大名の福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲生忠郷
(会津若松60万石)を改易。
最終的に、外様23家、親藩・譜代16家を改易した。また"転封"も忠輝の時がピーク。
こうして、親藩だろうが大大名だろうが、遠慮無しに改易・転封する姿勢を示し、幕府に刃向かう芽をことごとく潰していった。
弟たちの処遇については、9男義直は尾張家、10男頼宣は紀州家、11男頼房は水戸家と、御三家を発足させた。
全国の諸大名に対しては、参勤交代を強いたり、築城・治水工事を命じ、藩財政に多大の負担を負わせるなどで弱体化を図り、
幕府に武力反抗するエネルギーを削いでいった。
在職中、「公家諸法度・武家諸法度」などの法を整備・定着させ、鎖国政策を推し進め、外国船の寄航を、平戸・長崎に限定した。
秀忠に将軍職を譲ったあとの家康がそうしたように、家光に将軍職を譲った秀忠は、"大御所"となり、
引き続き政務ににらみを利かせた。
海音寺潮五郎は著書の中で、「家康は全て自分で決めた。秀忠は半分自分で決めた。家光は全て重臣に任せた」と、
まつりごとに対する三人の違いを評している。
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■除夜の鐘
今年もあと5日…除夜の鐘を聞いて、今年いろいろあった"煩悩"を、消し去りたいものです。ところで、除夜の鐘を百八回鳴らす習慣?… 中国から伝わってきました。
"煩悩"とは、心身を悩まし、わずらわせ、惑わし…"さとり"を得ることを妨げる、あらゆる精神的作用を言います。
仏教では、百八の煩悩があるとしていますが、他に、八万四千の煩悩があるという説もあり、数についてはこだわる必要がなく、
"大変多い"という意味に解釈すればいいようです。
仏様をお参りするとき"数珠"は欠かせない…珠の数は普通百八個ある。
珠を一つ繰るごとに、念仏を唱える。念仏を唱えることで、煩悩を退治し、滅ぼすことができるのです。
カトリック教徒が、祈りをささげるときのロザリオも、この数珠が転じたものと言われています。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 628】
~歴史から学ぶ~ <徳川幕府の年表>
NHK大河ドラマ「篤姫」が終了した。13代将軍"家定"に嫁ぎ、14代"家茂"、15代"慶喜"の母となり、回を追うごとに、
しぐさ・言葉づかいに"らしさ"と貫禄がそなわっていく…徳川幕府、大奥の最後を取り仕切った篤姫を、みごとに演じきっていた。
ドラマに登場する3人の将軍…時代の波にほんろうされる姿が痛々しい。
ドラマも終盤になると、篤姫に関わるかけがえのない人たちが次々亡くなり、去っていく…楽しくも悲しいドラマでした。
家康から265年続いた徳川幕府。家光や吉宗はよく知られるが、その他の将軍についてはよく分からない? そこで、 歴代将軍を年表にして書き出してみました。
| 1603 | 初代 | 徳川家康 | 将軍在職 2年 |
| 1605 | 2代 | 徳川秀忠 | 将軍在職18年 (家康の三男) |
| ※律儀な性格で、戦は苦手。政治向きには抜群の手腕を発揮。 | |||
| 14 | ・大坂冬の陣 | ||
| 1623 | 3代 | 徳川家光 | 将軍在職28年 (秀忠の嫡男) |
| 35 | ・海外への渡航、国内への帰国禁止 | ||
| 37 | ・島原の乱 | ||
| 39 | ・ポルトガル人来航禁止 | ||
| 41 | ・完全鎖国 | ||
| 1651 | 4代 | 徳川家綱 | 将軍在職29年 (家光の長男) |
| ※武断政治から文治政治へ、政策の切り替えを行った。 | |||
| 1680 | 5代 | 徳川綱吉 | 将軍在職29年 (家光の四男) |
| 85 | ・生類憐みの令 | ||
| ※近松門左衛門、伊原西鶴、松尾芭蕉を生んだ"元禄時代" | |||
| 02 | ・赤穂浪士の仇討ち | ||
| 1709 | 6代 | 徳川家宣 | 将軍在職4年 (家光の孫) |
| ・幕政改革を断行し、歴代将軍の中でも名君と評される。 | |||
| 1713 | 7代 | 徳川家継 | 将軍在職3年 (家宣の四男) |
| ※4歳で即位、7歳で婚約、8歳の時風邪で亡くなる。 | |||
| -------------------------------------------------------- | |||
| 1716 | 8代 | 徳川吉宗 | 将軍在職29年 |
| (紀州2代藩主四男・家宣の養子になる) | |||
| 21 | ・享保の改革(目安箱を置く) | ||
| 32 | ・享保の大飢饉 ※破綻しかけていた幕府財政を復興…名君と言われた。 ・江戸火消し、小石川養生所の設置 |
||
| 1745 | 9代 | 徳川家重 | 将軍在職15年 (吉宗の長男) |
| 1760 | 10代 | 徳川家治 | 将軍在職17年 (家重の長男) |
| 82 | ・天明の大飢饉 | ||
| -------------------------------------------------------- | |||
| 1787 | 11代 | 徳川家斉 | 将軍在職50年 (一橋家2代当主長男) |
| 1828 | ・シーボルト事件 ・松平定信の寛政の改革 ※徳川を、一橋徳川の天下にしたいと、19男・27女の子供をもうけ、 諸大名との婚姻を推し進めた。 |
||
| 1837 | 12代 | 徳川家慶 | 将軍在職16年 (家斉の次男) |
| ※幕府財政の破綻、幕政の腐敗、網紀の乱れ…"大塩の乱"を招く | |||
| 41 | ・天保の改革 | ||
| 1853 | 13代 | 徳川家定 | 将軍在職5年 (家慶の四男) |
| ・ペリー来航 | |||
| 54 | ・日米和親条約 | ||
| -------------------------------------------------------- | |||
| 1858 | 14代 | 徳川家茂 | 将軍在職8年 (紀州13代藩主) |
| ・日米修好条約 | |||
| 60 | ・桜田門外の変 | ||
| 63 | ・下関事件。薩英戦争 | ||
| 1866 | 15代 | 徳川慶喜 | 将軍在職1年 (一橋家9代当主) |
| 67 | ・大政奉還 | ||
※「御三家」…尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家
※「御三卿」…田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家
将軍家に跡継ぎがないときは、他の御三卿とともに、跡継ぎを出す資格を有する。
家格は「徳川御三家」に次ぎ、所領は十万石だが、他の大名のように、領地や城は持たなかった。
・この制度で、御三家・御三卿から跡継ぎを出したのは、紀州藩と一橋家だけです。
■「忠臣蔵」、もう一つの知られざる真相
内匠頭が吉良への刃傷に及んだ背景は、従来「勅使饗応の作法を教えてくれなかったから」と言われてきたが、そんな作法は毎年のことで、
誰もが知っていること。
原因は他にあるのでは…?
当時、将軍綱吉の生母・桂昌院への「従一位授与」を強行しようとする、柳沢吉保による朝廷工作が、秘密裏のうちに着々と進んでいた。
親朝廷派の内匠頭が、朝廷と幕府の交渉に気づき、交渉役でもあった吉良をとがめて、口論になったのではないか…?
柳沢は刃傷沙汰の真の理由を、多くの情報から推測した。
大石内蔵助もまた、一年以上の雌伏の末、ようやく主君の真意に思い至る。
時の権力者である柳沢は、すべてを抱えたまま黙って切腹した内匠頭に同情した。
柳沢は同情心から、事前に「討ち入り」の情報を入手していながら、動かなかった。
「討ち入りで、浪士が1人も死ななかった」…謎が解けてくる。
新潮社/加藤廣著「謎手本忠臣蔵」より
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 625】
~歴史から学ぶ~「忠臣蔵・知られざる真相」
「風さそう 花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん」
世に"忠臣蔵"で知られる、浅野内匠頭の辞世の句である。
この句で、桜のように散っていった赤穂四十七士の物語は、謎めいた事件として、巷説おびただしい。この刃傷(にんじょう) の顛末には、世間には知られていない事実が、隠されているのです。
この事件で幕府は、「浅野内匠頭は切腹」「吉良上野之介はお構いなし」の裁定を誤下し、これを不満とする赤穂浪士が、
1年9ヶ月後に、吉良邸に討ち入ることになる。
そもそも、内匠頭が刃傷(にんじょう)に及んだ理由を"不詳"として、幕府は動機不明の事件として処理したが、世評は
「吉良が求めた賄賂に、内匠頭が十分に応じなかったため…」と記録している。
裏を返してみれば、幕府にとって都合の悪い事実を伏せてしまったため、事件の原因を、世間はあれこれ詮索するようになったのです。
大石蔵之助以下、四十七士が命がけで仇討ちするには、もう一つ、世間には知られていない理由があった…
それは、幕府がひた隠しにしてきた大名同士の"仲たがい"です。
遡って、豊臣時代や関ヶ原合戦で、恨みを持つ大名同士、末代まで"仇同士の仲"として、江戸城ですれ違っても挨拶も交わさず、
広間で同席しても知らん顔…こうした大名家が多かったのです。
列挙すると、加賀の前田家は、熊本の細川家や二本松(福島県)丹羽家と絶交したまま…。飫肥(おび・宮崎県) 伊東家と薩摩の島津家…島津家は参勤交代で飫肥を避けて、船を使ったほどである。
福岡の黒田家と、熊本の細川家や阿波(徳島)の蜂須賀家。盛岡の南部家と仙台伊達家。池田家(岡山と鳥取)は、永井家(高槻市・
岐阜)と…不仲は一族の支藩にまで及んでいた。
そして注目すべきは、芸州(広島)浅野家と、仙台伊達家も不仲で、ここに"忠臣蔵"の謎を解く"鍵"があるのです。
事件の原因は、不仲大名を仲直りさせることに熱心だった、老中稲葉丹後守と、
林大学頭の江戸城での会話にあった。
林大学頭が老中稲葉丹後守に尋ねた…
「伊達と浅野が不仲になったのは、いつの頃からであろうか…?」
この会話は、"松之廊下"の刃傷事件が起きる少し前の、正月のことである。
二人は、浅野と伊達を"和睦"させようとしたらしい。
それにはまず支藩からと、「来る3月14日の勅使と院使のご馳走役は、
伊達左京亮(伊予)と浅野内匠頭(播州赤穂)を相役とする…」と命じた。
これが2月のこと。この日から浅野内匠頭は「"ウツ症状"に悩まされるようになり、頭痛に襲われるようになった」と、記録にある。
先祖の遺言で、末代まで"仇"とされている家同士が、"相役"を勤めなければならない
とは…浅野内匠頭は、苦悩の毎日だったのです。
お互い口もきかず、饗応役を勤めた。軽んじられた浅野内匠頭、勅使饗応の準備を終えてから、堪忍袋の緒が切れ、 刃傷に至った。
その間、幕府の意を体した指南役の吉良上野介は、口を聞かず心を開こうとしない浅野内匠頭を、叱責したのだろう。
「このあいだの雑言、覚えたるか」と内匠頭が叫んで、切り付けたという記録が残っている。
浅野内匠頭が切腹させられた田村右京太夫邸も、伊達の支藩。
「和睦」を拒否し続けた内匠頭への、幕府の懲罰である。
この事件は、"不仲大名"を強権で和睦させようとした、幕府の失政にある。
"不仲"を貫いた内匠頭と、"喧嘩両成敗"を求めた赤穂四十七士の行動は、幕府への痛烈な批判だったのです。
こういったことを含んで、冒頭の辞世の句を読み直すと、味わい深いものになってくる。
法人「江戸異聞」より
■映画・レッドクリフ(赤壁)
先週の休日、私の大好きな、三国志"赤壁の戦い"を映画にした「レッドクリフ・前編」を鑑賞した。魏の曹操が、全国制覇を夢見て南下…迎え撃つ劉備と孫権の同盟軍は、"赤壁"に陣を敷く。
上映2時間半…3/2が戦闘シーン。黒澤監督の七人の侍を彷彿させ、趙雲・張飛・関羽そして、中村獅童が演ずる呉の将軍/甘興など、1人ひとりが見せる戦闘シーンは圧巻。
軍師・諸葛孔明の"八卦の陣"など、奇策と知略がふんだんに組み込まれ、スケールの大きさでは、タイタニックに劣らないだろう…先行上映された中国では、タイタニックの興行収入を塗り替えたという。
制作費100億円、アジア映画史上最大のスペクタル巨編。是非見ておきたい映画です。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 615】
~歴史から学ぶ~ 「禅寺に名園」
今年の紅葉は、例年になく美しいという。毎年11月になると、夫婦で京都を散策する。京都の楽しみは何といっても、木々が色づく美しい庭園巡り。
そして、夜には秋の味覚に舌鼓をうつことです。
お寺回りをしていて気がつくのは、美しい庭園があるお寺の、そのほとんどが"禅寺"であることです。
石庭で有名な龍安寺、苔寺として有名な西芳寺、京都三大名園の一つ天龍寺、ねねの大徳寺、金閣寺、銀閣寺など…数えればきりがない。このように禅寺に名園が多いのは、禅と庭園の間には、深い因果関係があるからです。
以下、枡野俊明「夢窓疎石・日本庭園を極めた禅僧」からの抜粋です。
禅は、「心の問題を追及していく教えであり、ものごとの心理を見極めていく訓練の場」である。
そして、禅の修業を重ねる目的は、「本来の自己と出会うこと」にあり、「人間の持つ心の本性を、明らかにすること」にあります。
禅は、心の教えの根本となる"哲学"を説いていく。従って、禅そのものには形がなく、目に見えるものはない…。
鎌倉後期から室町時代の禅僧たちは、この目には見えない自分の境地そのものを象徴化し、何かの形に置き換えて表現しようとした。ここから"禅の芸術"が生まれた。己を"無"にして"美"を極めていく中から、禅文化が育まれたのです。
こうした禅文化を象徴するのが「禅の庭」なのです。
禅僧たちは、自己を表現する場として庭造りに取り組み、自ら修行を重ね、会得した心の状態を、庭園という空間造形芸術に、落とし込んでいったのです。
「禅の庭」の父と呼ばれ、京都における「禅の庭」の原点となる庭園芸術を生み、完成させた"夢窓疎石"(むそうそせき1275~1351)。
室町初期の禅僧"夢窓疎石"の存在は、その後、日本の庭園芸術が開花していく中で、忘れてはならない存在になる。
夢窓疎石は、これまでの庭には見られなかった"石組み"を積極的に行い、庭園に"空間造形"を造り上げた。この作風がその後、京都における西芳寺、天龍寺などの造園の原点となり、やがて「禅の庭」は"枯山水"へと、たどり着くのです。
数ある京都の名園中で、私が好きなのは、大宮御所に隣接する"仙洞御所"庭園…17世紀に造営されたが、"空間造形"をみごとに演出している…。
■心に残ることば
「修身教授録」で知られる、教育者の故"森 信三"先生は、
人との出会いについて、次の言葉を残している。
「人間は一生のうち 逢うべき人には必ず逢える。
しかも一瞬早過ぎず 一瞬遅すぎない時に…」
人生を振り返ると…
大きな岐路に指しかかった時、志を立て、何かに挑戦し始めた時、
なくてはならない人が現れてきて…手を差し伸べ、援助してくれる。
遅過ぎず、早過ぎず…
最も必要な時に、かけがえのない人との出逢いがあるのです。
その後、目的が叶えられると、「もう用はないでしょう」と言わんばかりに、
スゥ~と、その人は離れていく。
何度となく、そのような体験をした…"縁"とは不思議なものです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 592】
~歴史から学ぶ~ 「生ましめんかな…」
東京の繁華街で…1945年の8月6日と9日、日本に何が起きたのか?
若者にマイクが向けられる。「何だろう?地震とか…」誰も答えられない。
今、原爆投下を知らない若者が4割を占め、日本がアメリカと戦争したことを
知らない中・高生が、増えてきているという。
一方で、悲惨な戦争体験、原爆体験を伝える語り部が、80歳を超え、老齢化していく。
栗原貞子さん(1913~2005)は、生涯を原爆の非人間性を告白し続けた
反核・反戦詩人として知られる。
1945年8月6日、32歳のとき爆心地から約4キロの自宅で被爆。
その夜広島市内に入り、惨状を目の当たりにする。
その時、広島貯金支局の地下室で、産気づいた被爆者を、重傷を負った産婆が立ち会い、赤ちゃんを誕生させた…という話しを聞いた。
その感動を、「生ましめんかな」という詩に書いて発表…大きな反響を呼んだ。
■「生ましめんかな」 反戦詩人 栗原貞子
|
こわれたビルディングの地下室の夜であった。 この地獄のような地下室で、今、若い女が産気づいているのだ。 と、「私が産婆です。私が産ませましょう」と言ったのは、 |
赤ちゃんは女の子で、"和子"と名づけられた。誕生日は原爆投下の2日後。
現在、息子さんと広島市内で、食事と酒の店を営んでいて、もうすぐ63歳になる。
しかし子ども達には、一度も被爆体験を語らなかった。
暗がりの地下室で生まれた和子さんは、高校に上るまで、自分が詩のモデルであることを知らずにいた。胎内被爆した娘であることを、 世間に知られないようにとの、母親の気遣いだったのです…。
今は、母の詩が朗読されると、生まれ出る自分のことではなく、地獄のような夜の暗がりで、命がけで産んでくれた母の身になって、
また、赤ちゃんを取り上げた後、死んでいった産婆さんの身になって…聴くという。
何度聴いても涙が溢れてくる。
「地下室の産声」は、いつまでも言葉なき語り部であり続けるだろう。
■昭和二十年、終戦直前の思い出
昭和二十年春、当時私は三歳。満州事変で出兵し、傷痍軍人になって帰郷した父は、病が癒え、香林坊の自宅で、ロープ・
梱包材料の商いを始めていた。
店は畳敷き。手回しの機械をコロコロ回して、麻ヒモの玉を巻き直ししている父の姿を記憶している。
戦争の影はわが家にも及び始めた。隣家の軒先にはいつも、村田銃を担ぎ、キャハンを巻いた兵隊さんが、数人屯していた。
向かいのNさんの家は、空襲時延焼を防ぐためと、強制取り壊しに遭い、引っ越していった。
各家、防空壕を掘らされた。私の家は、店の造作を取り壊して床に穴を掘り、形ばかりの防空壕を作った。
掘っているところを覗いていた私…こんな小さな洞穴…爆弾が落ちたら、焼き芋みたいになってしまうだろう…と、子どもながらに思った。
6月、母は祖母・姉と兄、そして私を連れ、弟をおぶって、金沢山手の母親の実家の、農家の納屋の2階へ疎開した。
その頃、夜中に何度も空襲警報が鳴り、頭上をB29が飛んでいった。
暑い夏の夜更け、物凄い数の飛行機がやってきて、富山の空が真っ赤に燃え上がるのを 見た。ポコン・
ボコンと焼夷弾が落とされるたびに、医王山が炎に浮かび上がる…
60年経た今も、脳裏の奥深く…忘れることがない。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 590】
~歴史から学ぶ~
「金沢が空襲に遭わなかったわけ?」
我が故郷金沢…一発の焼夷弾も落とされず、一人の被災者も出さず、空襲に遭うことなく終戦を迎えた。
もし空襲されていたら、市の中心部にある私の家は、焼けて無くなっていただろう。
米軍の資料によれば、金沢は、爆撃対象から除外されていたという。
その理由を求めると、金沢は第九師団がある軍都でありながら、当時師団が台湾に駐留していたため、兵卒はもぬけの殻…
極めて戦略価値が低かった…という説。
米軍の機密文書によれば、石川県の爆撃目標は、国鉄松任工場と、七尾港の2ヶ所だけ。それに対し、富山県は、不二越本社工場、
日満アルミニウム富山工場など、
工場8ヶ所、港湾3ヶ所、水力発電所10ヶ所、変電所1ヶ所の計22ヶ所もあった。
工業県としての圧倒的な実力の差が、石川と富山の明暗を分けることになった。
昭和19年秋から終戦まで、全国で、米空軍の焼夷弾攻撃にさらされた都市は、58ヶ所にのぼる。福井市は、
20年7月19日に焦土と化し、次は金沢と、誰もが覚悟した。
ところが8月2日、B29の編隊は、金沢の上空を通り過ぎて、富山市に1万2千7百発の焼夷弾を雨アラレと投下した。
11万人が焼け出され、2,776人の死者が出た。
市の焼失面積は95%、焼失率全国一の焼け野原になった。
(2005年8月12日・なんだかんだ89「富山大空襲」)
金沢が空襲をまぬがれたのは、原爆投下の実験候補地として、無傷のまま残したかったから…と、
まことしやかに噂されたこともあった。
逆に米軍は、歴史的街並みを残す金沢や京都への爆撃をためらい、保護しようとした…との見方もあるが、それはかいかぶりというもの。
あの姫路城も焼夷弾にさらされたが、炎上しなかったことで知られている。
終戦がもう少し先に伸びていたら、金沢も無事では済まされなかったと思う。
昨年、アメリカの日系3世が制作した、ドキュメンタリー映画 「ヒロシマ・ナガサキ」の冒頭のシーン…東京渋谷の雑踏の中で、 若者達に「8月6日は何の日?」と質問をぶつけたが、誰一人答えられなかった。
近頃の若者は、原爆投下の日など意識になく、関心を持とうともしない。
原爆投下で、何十万人もの死者を出し、今も尚、後遺症に苦しむ人がいることを…「自分には関係ない」と、他国の出来事のように、無関心…
。
当然、歴史にも興味を示さない…平和ボケの日本人。
日本人であれば忘れてはならない大東亜戦争。
遠い昔の出来事として、忘れ去られてしまっている。
お盆を真近にした護国神社…国を守り、命を捧げ、死んでいった人達を追悼し、手を合わす人影はまばら…今の日本の姿を見たら、
浮かばれないことだろう。
■「教育勅語」といえば、中村昭文さん
「教育勅語」といえば、中村昭文さんの顔が浮かんでくる。
中村さんは、伊勢市でレストランとウエディング事業を手がける青年社長です。
彼は若いながら、教育勅語をスラスラと空んじることが出来る…今の時代、大変めずらしい青年です。
「お金ではなく、人のご縁ででっかく生きろ!」と題した、中村さんの講演を幾度か聴いた。
高校卒業の時、学校の就職斡旋を断り、宛てもなく東京へ…。
ひょんな出逢いが縁となって、人生を切り開いていく…自らの青春体験記…聴衆に感動を与え、ヤル気・元気をいっぱい与えてくれる…。
彼が高校3年の時、悪さをして、35日間自宅謹慎処分を受けた。
その時罰として、毎日筆で「教育勅語」を清書し、暗唱するよう命ぜられた。
教育勅語を書いて覚えたのです。これが後に、彼の人生に大きな"幸運"をもたらすことになる。
事業経験豊かな年配者に目をかけられ、ご縁が広がり、起業家を志す中村氏を助けるのです。中村さんをして、教育勅語は「人生の宝」
と言わせることになる。
【心と体の健康情報 - 587】
~歴史から学ぶ~ 「教育勅語(3)」
「教育勅語」は、大きく分けて第一段の前文、第二段の本文、第三段の後文から成り立っています。今日は、前回の本文に続き、 第三段の後文を紹介します。
「コノ道ハ、実ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、
子孫臣民ノトモニ遵守スベキ所、
之ヲ古今ニ通ジテアヤマラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖(モト)ラズ」
「このような道徳は、実にわが皇室歴代の遺された教えであり、また、あなた方の子孫も、末永く守ってゆくべきものですから、 古今を通じて誤りがなく、どんな世界でも通用する立派な道徳であります」
「朕、ナンジ臣民トトモニ拳拳服膺
(ケンケンフクヨウ)シテ、ミナソノ徳ヲ一ニ
センコトヲコイ願ウ」
「これは、我が皇室の祖先がされてきたことであり、また一般国民も昔からやってきたことだから、私もあなた方と共に、
これらの徳目を一生懸命守り通したい。
決して一方的に"ヤレ"と命令しておられるのではなくて、むしろ明治天皇ご自身が、これを率先実行していこうと、
決意を表明しておられるのであります」
以上、3回に分けて「教育勅語」を紹介しましたが、どのように受け止められたでしょうか? 道徳で、一番よくないのは、
教える立場の親や先生が、自分がやりもしないのに、一方的に子ども達に道徳を押し付け、守らせようとすることです。
勅語の中で明治天皇は、我が祖先が実践してきたことであり、また私達の祖先もやってきたことだから、国民の皆さんも守って欲しい。が、
その前に天皇ご自身も、率先して一生これを守っていくと、決意しておられるのです。
教育勅語は、天皇が国民と共に守るべき道徳の根本を、明らかにしたものです。
つまり、天皇の独占的な命令でも、強制でもないことが、教育勅語に書かれているのです。
この学びから、道徳教育を考えるとき、私たち自身が、それを本当にヤルという覚悟を持ち、率先垂範する姿勢を見せることが、
大事になってきます。
口先だけで道徳を説いたり、職場に、何項目もの尊守事項を張り出して、守らせようとするのは…効果を期待するだけ、
野暮というものでしょう。
論語の友より
明治・大正の頃に日本人が持っていた、高い倫理感と道徳心は、論語と教育勅語によるところが大きかったように思う。 野口英世や渋沢榮一の伝記を読むと、幼い頃の母親は偉かった。その影響が大きかった。
渋沢榮一の母親は、ハンセン病の人をお風呂に入れて、背中を流してあげていました。
渋沢少年が「お母さんやめてください」と言うと、「おまえは何を言っているのですか。この病は、
自分がなろうと思ってなったのではありません。運が悪く病気になったのです。私はそれだから、何でもやってあげたいのです」と、
諭したそうです。
当時の日本人には「無私の精神」を内面化され、「私利私欲」がない人が多かった。
渋沢榮一は「片手に論語、片手に算盤」を唱え、「道徳経済合一論」を主張し、「会社を経営するには、
高い倫理感と道徳心をもって行うべきである」という思想に基いて行動している。
「理念と経営7月号/対談・不可能を可能にする経営」より
■昭和天皇
私たち国民が啓して已まない昭和天皇。天皇が崩ぜられて、早や20年になります。
昭和天皇が、生涯国民から敬愛の念で尊ばれたのは、その謙虚なお姿、高貴さにあります。一言で言えば「至高の徳性」にあったといえます。
昭和天皇は明治39年、大正天皇のご長男として誕生されました。生まれて僅か3ヶ月の頃、親元を離され、
一民間人の"川村伯爵"の許に預けられ、約2年間、将来の帝王となるべき、しつけ教育を受けられたのです。
川村伯爵は、薩摩出身の軍人さんで、しつけは厳しかったという。
その教育方針は…
一.健康な御体に育て、持てる天性を伸ばし、曲げぬこと
二.ものに恐れず、人を尊ぶ性格を養うこと
三.困難に耐え、我がままを言わぬ習慣を身につけること
その後、学習院の初等科に入られましたが、当時の学長は乃木希典でした。
乃木大将は、道徳を身にまとった見本のような人。その許で、厳しく鍛えられたことが、後の昭和天皇のお人柄を育まれたのです。
【心と体の健康情報 - 585】
~歴史から学ぶ~ 「教育勅語(2)」
「教育勅語」は、大きく分けて第一段の前文、第二段の本文、第三段の後文から成り立っています。前回は前文を紹介しました。
今日は第ニ段、本文です。
「日本人が道徳を身につける上で、何が大事か」…明確に述べられています。
「ナンジ臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、
恭倹(キョウケン)己レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、学ヲ修メ業ヲ習イ、
以テ智能ヲ啓発シ、徳器ヲ成就シ、進ンデ公益ヲ広メ、世務ヲ開キ、
常ニ国憲ヲ重ンジ、国法ニ従イ、一旦緩急アレバ、義勇公ニ奉ジ、
以テ天譲無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」
「まず国民は、家庭の一員として、両親に孝行を尽くす、兄弟仲良くする、夫婦も仲睦まじくする。そして、
近所や学校などの友達とも、信じ合えるようになる必要があります。
ついで、社会の一員として、謙虚に自己の本分をわきまえ、思いやりの心を多くの人々に及ぼし、また学業を身につけ、知恵を磨いて、
広く世のため役立つようになる必要があります。
更に国家の一員として、ふだん平常の時には、憲法や法律を守って生活し、いざ非常の時には、正義のために勇気を振るって、
全力を尽くす必要があります」
「カクノ如キハ、独リ朕ガ忠良ナル臣民タルノミナラズ、
又以ッテナンジ
祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」
「このような道徳を身につけて、日本の進運を担っていく、立派な日本国民になることは、あなた方の祖先が永らく続けてこられた、
立派な在り方を評価し、受け継いでいくことになるのです。決して難しいことではなくて、あなた方の祖先が、
そうやってこられた実績のあることだから、それを実践すればいいのです。
我々は新たに西洋の道徳を借り、真似をしていくのではなくて、祖先が昔からやってきた当たり前のことを、
我々も受け継いでいくことが大事なのです」
(論語の友より)
ここまでが本文です。
このように読み辛く、大人でも難しいい文章を、少し前の世代の子ども達は、学校で素読し、暗唱したのです。
ゆとり教育が問題になっている昨今、難解であることを理由に、覚えなければならない当用漢字を減らす動きなどは、
ナンセンスに思えるのです。
建設業のK社長さんと、JRで京都からの帰路…お互い、孫の話になった。
聞くとお孫さんは、仏教系の幼稚園に通って、浄土真宗の聖典「正真偈(しょうしんげ)」や、「念仏・和讃」を暗唱させられ、
小学生になった今も、おつとめがあると、お経を唱えることが出来るという…。
私の外孫は3歳。保育所で「♪ABCD…EFG…HIJKLMN…」と、英語の歌を覚えてきて、嬉しそうに歌って見せる。
意味が分からなくても、上手に歌うのです。
幼い頃に暗唱させられる「教育勅語」。文章は理解できなくても、刷り込まれた言葉は、大人になって生きてきて、潜在意識の中で、
自らの考え方・行動を律するようになるのです。
■「ポーラ美術館・名作展」(7/27まで)
モネ、ルノワール、セザンヌなどの印象派の巨匠の作品。マティス、ゴッホ、ピカソ、ルソーなど、私の好きな作品がまとまって、
21世紀美術館にやってきた。
絵画鑑賞が趣味の私。海外から名作がやってくるたびに、東京や京都の美術館へ出かけていく。が、こんなに沢山の巨匠の名作が、
一ヶ所でまとまって見られるのは初めて…。
国内では、日本最大級のコレクションを誇る"ポーラ美術館"。以前から見たいと思っていたが、まさか金沢に居ながら、鑑賞できるとは…。
13日の日曜、私の夫婦、息子夫婦、娘夫婦、3家族揃って、墓参りを兼ねて見学してきた。
![モネ[グランド・ジャット島]](http://www.noevir-hk.co.jp/mailmaga/photo/20080715-1.jpg)
![ピカソ[花売り]](http://www.noevir-hk.co.jp/mailmaga/photo/20080715-2.jpg)
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 584】
~歴史から学ぶ~ 「中国一人っ子政策の弊害」
終戦と同時に、何百万人もの引揚者が、海外から日本に戻ってきた。
それが、空前のベビーブームを呼び起こし、日本経済発展の原動力となった。団塊の世代である…以降、20数年周期で、第二次、
第三次のベビーブームの波がやってきた。
不思議なことに赤ちゃんは、女児100人に対して、男児は3~5人多く生まれる。
結婚適齢期には男女同数になり、年をとれば女性が長生きして、役目を果した男性は減っていく。「天の力」がなせる技であろう…。
ところが、医学が発達した現代…男女の産み分けが出来るようになった。
かつては男児が望まれたが、今は、いつまでも可愛いうえに、親を手助けしてくれる女児を望む親が多い。高齢化社会を背景に、
年寄りを介護してくれる女児を望むのも、少子化時代ゆえの防衛反応でしょうか…。
中国政府は、止め処もなく増え続ける人口増加を食い止めるため、「一人っ子政策」を実施して28年になる。この間、
中国の新生児数は3億人減少し、現在人口増加率は2%を下回り、先進諸国の水準にまで改善された。その一方で、
一人っ子政策がもたらした問題も多く、社会問題に発展しようとしているのです。
昨年5月下旬中国自治区で、「一人っ子政策」の徹底を図った当局に、市民が反発。約1万人が政府建物や車両に放火するなど、暴徒化して、
警官隊と衝突…5人が死亡、負傷者が多数出る大事件になった。
当局は一人っ子政策を徹底させようと、1980年以降、第二子を産んだ家庭に対し、最高2万元(約32万円)を、
生まれて数日以内に納めるよう命じ、出来なければ財産を没収する…という、強行手段に出た。現地住民の平均年収は2千元…
何と10年分に相当する。
更に、子どもを持つ女性に避妊手術を強要したりして、住民の不満が溜まり、暴動に発展したのです。
当局は上級政府から、一人っ子政策の徹底が不十分と批判され、数ヶ月以内に事態の改善が見られなければ、
当局の担当責任者を免職処分にすると通達…。
危機意識を持った当局は、一人っ子政策を守らない住民には、5百元の罰金を課すことを、ノルマにしたのです。
5/26 北国新聞
中国農村部では、男児は大切な働き手…一家の跡取りでもある。 女児が生まれると、密かに闇に葬ったり、第二子に期待して、
無戸籍の子にしたり、捨て子にしたりする。そこで農村部では、一人目が女子の場合、二人目を生んで良いことになった。
現在、中国の人口は約13億人。その裏には、約1億人の隠れ人口が存在すると言われている。
中央政府は、日本の靖国参拝を非難したりして、国民の不満のはけ口を国外に向けさせ、ガス抜きをしてきた。安倍内閣以降、
政治の行き過ぎを是正しようと、自粛していた矢先の暴動…。
農村部では、男女のバランスが崩れ、女児100人に対し、男児が144人に。
2020年頃には、結婚適齢期を迎える青年に、お嫁さんの来てがなく、3千万人も不足するとの予測…このままでは、
深刻な嫁不足に発展してしまう。
一人っ子政策で、王子様のように大切に育てられ、甘やかされて育った子ども達が、大人になっていく…冒険や苦労を嫌う、 ひ弱な青年が増えつつある中国。
そんな中、四川大地震が発生…一人っ子が大勢死んだ。子どもを失った親の嘆きようは、いかばかりか…。中国政府は、
子どもを亡くした親に、急遽もう一子認める通達を出した。
震災で、両親を失った子どもも多い。
中国政府は、里親制度を積極的に推し進めていくという。
急速な人口の増加・減少は、社会にひずみを生み、それ以降百年近くに渡り、国民生活に深刻な影響をもたらすことを…中国は、 日本の過去と現在から、学ばなければならない。
明治期、日本に滞在した英国の言語学者チェンバレンは、日本見聞録を「日本事物誌」に著した。当時、彼が見た日本人の姿は…
「金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下する様子がない。実に、貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない。そして、 周りの人たちはみな同じような人間だと、心底信じる平等精神が、社会の隅々まで浸透しているではないか」
中日春秋より
わずか50年前、子どもの頃を思い起こせば、家族は"早起きは三文の得"と朝6時には玄関前を掃き清めていた。それも、 自分の家の前だけでなく、隣近所もごく当たり前のように掃き清め、ジョウロで水を撒いていた。
ちょっと所用に出かけ、家を空にしても、鍵をかける習慣などなく、勝手口のくぐり戸は、夜も開けッぱなしだった。 暮らしは貧しかったが、近隣の人たち皆暖かく人情みがあり、助け合って暮した…。
【心と体の健康情報 - 583】
~歴史から学ぶ~ 「教育勅語(1)」
新聞・テレビを見ていると、同じマンションに住む若い女性を、自宅に呼び入れて殺傷してしまう…思いもしない凶悪犯罪が相次ぎ、
「もう、日本は駄目になってしまうのでは…」と思うほど、嘆かわしいニュースが頻発する。
企業犯罪、青少年の退廃、凶悪犯罪の低年齢化、学力の低下など、いったい日本人はどうなってしまったのでしょうか?
今、教育の在り方を、根本的に見直さなければならない時に来ているようです。
現在の日本人が、喪失してしまったものに「公徳心」がある。今こそ、1人ひとり、社会人としてどうあるべきか…見つめ直す時でしょう。
明治から昭和にかけて、日本人の公徳心を育んできたものに「教育勅語」がある。
その良さを、今一度見直してみる必要があるようです。
書かれている内容は、「家庭の道徳・社会の道徳・国民の道徳」です。
それは、昔も今も変わりません。だからこそ、今の時代に合った内容に作り変えて、再度、教育の現場に取り入れたらどうか…
と思うのですが。
ところで、教育勅語には、どんなことが書かれているのでしょうか?
内容も知らずに、戦前の天皇崇拝・軍国主義の復活を、イメージしている自分…「食わず嫌い」になっているようです。
そこで、今回から3回に分けて、書かれている内容を解説・紹介します。
「教育勅語」は、大きく分けて第一段の前文、
第二段の本文、第三段の後文から成り立っています。
まず第一段の前文から紹介します。
出だしは、私も耳にしたことがある書き出し文で始まります。
「朕オモフニ、
我ガ皇祖皇宗、国ヲハジムルコト広遠ニ、徳ヲ樹(タ)
ツルコト
深厚ナリ」
「私(明治天皇)が思いますに、わが皇室の先祖たちが、遥か昔にこの国を始められて以来、人間としての道徳、とりわけ君徳を、
あたかも樹木を植え込むように、代々樹立してこられました」
「我ガ臣民、
ヨク忠ニ ヨク考ニ、億兆心ヲ一(イツ)
ニシテ、世世ソノ美ヲ
ナセルハ、此レ我ガ国体ノ清華ニシテ、教育ノ淵(エン)
源、マタ実ニ
此処ニ存ス」
「また、我が日本の全国民は、よく忠義と孝養を重んじ、皆心を一にして代々仲良くやってきました。
これが日本の国柄のもっとも良いところであり、教育の原点も、ここにあるのであります」
文中の「忠義」という言葉に、天皇崇拝・軍国主義の臭いを感じるかもしれません。
三省堂の"広辞林"には、「主君や国家に対して忠誠を尽くすこと」とある。
今、諸外国と比べ、日本人に欠けているのが、この「国家への忠誠心」…言葉を変えれば、「愛国心」の欠落でしょうか…。
海外へ出かける時、日本国の国民を証するパスポートがなければ、どこの国も、一歩たりとも入国は認められません。 世界の多くの国々で、日本人はビザ不要…日本人というだけで、信用されるのです。
数年前の7月3日、ハワイのショッピングモールで…通りがかりに、高校生のブラスバンド演奏に出くわした。
独立記念日前夜祭の行事でした。
イベント開始前に、国歌が吹奏された。と、開始を待っていた米国人…"全員"起立して(座っている人は皆無)、背筋を伸ばし、
右手を左胸に当て、国歌を歌い始めたのです。
(日本では「国家吹奏です。全員ご起立下さい…」と促さない限り、人前で歌うことはしない…立たない人もいる)
日本の建国記念日が何時かを知らず、建国の意味を知らない若者たち…無関心といってよい…。
日本をここまで導いてきた先祖への感謝…日本という国を慈しむ心…この平和な国を、子々孫々にまで繁栄させていく、
良い意味での愛国心を育んでいかなければなりません。
次号で、道徳心を育む"本文"へと続きますが、読んでみると、教育勅語の文言は現代になじまず、難しく固くるしい。しかし、
そこに示されている内容は、日本人が受け継ぎ、守ってきたことを、伝承していこうとする心理が、書き込まれているのです。
■西郷隆盛 「敬天愛人」
NHK大河ドラマ「篤姫」…藩主斉彬に登用された、若き日の西郷吉之助が初々しい。
斉彬が急死した後、西郷吉之助は、国父・島津久光に疎んじられ、沖永良部島に流された。彼は主人久光を憎み呪った。そんな吉之助を、
島民は暖かく遇した。
島には、吉之助より先に流されていた、"川口雪蓬"という学者がいた。
ある日吉之助に会い、「いつまで、久光公を恨んでいる…」と、一冊の本を置いていった。 「嚶鳴館遺草(おうめいかんいそう)」
という本である。
冒頭に「政冶家は民の父母にならなければならない」「民の心を天の心とし、それを政冶家の心とする」と書いてある。孟子の流れを汲む
「朱子学」の思想である。
吉之助は思わず「これだ!」と、閃くものを感じた…長年求めてきたものが、この本によって、はっきりと示されたのです。
全文に流れているのは、「民を愛せ」という"愛民"の思想である。
吉之助は「愛民」を「愛人」にまで広めようと考えた。同時に、「人を相手にせず、天を相手にしよう…」と思った。天を相手にするというのは、
「天を敬う」ということである。
西郷隆盛の信条「敬天愛人」
は、沖永良部島で誕生したのです。
童門冬二「歴史に学ぶ知恵」より
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 582】
~歴史から学ぶ~
「薩摩藩と、木曾3河川分流大規模工事」
今朝5時過ぎ、バケツをひっくり返したような豪雨に目が覚めた。
1時間に90ミリの雨が降ったと、ラジオが報じていた。
温暖化の影響でしょう…全国、記録的豪雨に見舞われるニュースが増えたが、7月は梅雨時、災害の無いことを祈りたい。
江戸幕府が、250年の長きに渡って国家統一を継続し得たのは、治世術に長けた諸制度によるところが大きい。
徳川幕府が最も恐れたのは、外様を中心とした諸大名の反逆。諸藩の力を徹底して削いでおく必要がある。そこで「参勤交代」と「土木事業」
を諸藩に命じた。
ただでさえ苦しい大名家の台所に、強烈なパンチを食らわせたのです。
普請工事は、戦闘行為と同じで、命じられた大名は、石高に応じて必要な資金、資材、人員を差し出し、 期間内に工事を終わらせなければならない。
幕府は号令を発するだけ。金は出さず、手も下さない。諸大名は、ご下命が降りると、ここが忠誠心の見せどころと、 先陣を仰せつかったときのように、「ありがたき幸せ」と平伏して、武者震いする振りをした。断れば、幕府への反逆と見なされ、改易・ 廃藩の厳しい処分が待っている。
当時、どの大名も土木工事の施工技術を持っていた。秀吉は、美濃の斉藤道三との戦いでは、一夜にして城を築き、毛利との戦いでは、
高知城の周囲に長さ3キロの堤を12日間で築いて、水攻めにしている。
「土木も合戦と同じじゃ。将軍家にご奉仕せよ」と、大名に公共事業を請け負わせた幕府。 なかなかの知恵者である。
2年ほど前、NHKで放映された時代劇、薩摩藩に下された「木曾3河川分流大規模土木事業」を見た。 過酷で凄惨な難工事に苦悶する藩士たちの姿を、今も鮮烈に覚えている。
宝暦3年(1753)、洪水が頻発する木曾3河川(木曽川・長良川・揖斐川)の合流箇所に堤防を築き、分流せよと、
薩摩藩に下命された。江戸時代屈指の大規模難工事である。
二度に渡って将軍家から沙汰のあった、「姫君の降嫁話」を、巧みに破談にしたことへの嫌がらせと言われている。
当初10万両と見込んでいた工事費はみるみる40万両に膨れ上がり、窮した藩は、大坂の豪商から借金に借金を重ね、
逆さにしても鼻血も出ないほど困窮した。
遠路派遣された薩摩藩士は、難工事続きによる過労と伝染病で、次々倒れ、33人が病死。幕府の過酷な命令に憤って、
腹を切った者は52人にも及んだ。
1年3ヶ月で、何とか奇跡的に堤防は完成した。家老で総奉行の"平田靱負"は、藩の財政を破綻させたことと、人的損失の責任を取り、
切腹して果てた。
分流工事のお陰で、以後洪水はなくなり、濃尾平野は緑の大地に生まれ変わった。ドラマの終わりは、240年を経た現在も、
当時のままの姿で、松並木が美しい堤防堤を映し出す…。
当時の悲劇は、恨みとなって薩摩藩に語り継がれ、非情な難工事を押し付けた幕府への怨念となった。百年の後、西郷・
大久保を中心とした倒幕運動へ、駆り立てていく一因になったのです。
古川愛哲「江戸の台所事情」より
飛騨牛偽装事件「丸明」の社長は、部下に不始末一切をなすりつけ、必死に言い逃れ…。経営破たんしたNOVAの元社長は、
社員積立金横領で逮捕。
雪印、ミートホープ、船場吉兆…不祥事が発覚した時、何れも、潔く責任を取ろうとせず、悪あがきをしている。
新渡戸稲造の著書によって、世界から賞賛された「武士道精神」"日本人の美学"。
戦前まで、庶民の間に一般的に見られた、日本人の姿である。
今は、これが礼節を尊ぶ日本?日本人?と、諸外国からヒンシュクをかうほど、お粗末な国になってしまった…。
■自爆テロ
イスラムの国、イラクやアフガニスタンでは、自爆テロが後を絶たない。
毎日のように、罪のない市民が巻き込まれ、死んでいく。
狂信的イスラム教徒にとって、テロは"聖戦"…神のために誇り高く、
爆弾を抱いて死んでいく。
この「自分で自分の命を断つ行為」、その元祖といえば、日本の"神風特攻隊"
その精神をさかのぼれば、「切腹」に行き着く。
「カミカゼ」は、世界中に知られるテロの代名詞なのです。
ところが、ヨーロッパやアメリカには、このような自らを死に至らしめる行為は、
見受けられないのです。
キリスト教の国では、生命は"神から授けられたもの"…との意識が高い。
(2~3世紀前まで…「全ての大地と生命は、神が創造した」と信じられてきた)
故に、自らを死に至らしめる行為は、神を冒とくする行為になります。
キリスト教徒から見れば、日本人もイスラムも異教徒…
不可解で、理解できない人たちに見えるのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 572】
~歴史から学ぶ~ 「日清戦争・日本の戦略」
前号に続き、日清戦争から…
日本は大国「清」と戦争することになった。清国海軍には「定遠」と「鎮遠」というずばぬけて巨大な戦艦があり、
巨大な大砲が積まれている。
その巨艦から打ち出される砲弾は、届く距離が長く、命中すれば甲板を貫き、船内で破裂して、一発で敵艦の航行を不能にする破壊力がある。
当時、ヨーロッパの列強は、海戦を有利に導こうと、巨砲を積んだ戦艦の建造に
しのぎを削っていた。(その名残りは、戦艦大和や武蔵の建造に行き着く)
しかし、砲弾の命中率は低く、巨艦だけに、迅速性に欠けるところがある。
清国海軍が所有するその他の戦艦は、軽量・遅速まちまちで、速力も全体に鈍い。
国力は衰え、規律は乱れ、旧来の固定観念に囚われた海軍幹部が、指揮をとっていた。
一方の日本は貧乏国。戦争に必要な資金がなく、国力は弱く、短期決戦でしか戦えない。
清国と対等に戦うだけの艦隊も保有していない。
唯一の強みは、当時の陸海軍には海軍大臣の"西郷従道"、海軍大将"山本権兵衛"、
後の日露戦争で名をなす大本営司令官"大山巌"、"児玉源太郎"、"乃木希典"などの逸材が揃っていたことでしょう。
大国清国海軍に勝つために立てた、日本の戦略・戦法とは…
「狼の群れで、
犀の群れを襲う戦法」
(1)小粒だが高速で、同じ速度、迅速にまとまって戦える戦艦を外国に発注。
(日本が得意とするチームワーク作戦です)
(2)戦艦に速射砲を沢山積み込み、敵が発する巨砲をかいくぐって、小口径の
砲弾を短時間におびただしく敵艦に浴びせ、
敵の艦上建造物と敵兵をなぎ倒す。
艦上を無人の状態に陥れ、
軍艦としての機能を消滅させる作戦。
(3)敵艦の甲板を貫く大砲が無い代わりに、何かに触れるとすぐ爆発し、
敵艦上を焼き尽くす、焼夷弾のような砲弾を開発した。
こうした戦術で、敵艦を沈めることよりも、艦を航行不能に陥らせ、敵海軍の戦意を削ぐことに重点を置いた。
(4)敵艦の戦力が低下したスキを突いて、漁船を改造した魚雷艇が敵艦隊に
忍び寄り、敵艦を撃沈させる戦法で臨んだ。そして、
清国に勝った。
司馬遼太郎「坂の上の雲」より
相手の強みにばかりに目を奪われ恐れていては、何一つ解決しない。
どんな強い相手にも必ず弱点があるはず。それを何とか見つけ出し、対応を考え出したことが、清国に勝利する勝因になった。
先々週の土曜日、女子バレーが北京五輪最終予選で、6戦全勝という快挙をやってのけ、オリンピックの切符を手にした。サッカーも、 昨日のオマーン戦で3対0と快勝…本大会出場へ向け、一歩前進した。
身長が低く、体力やパワーに劣る日本人が、バレーボールやサッカーで、世界の競合と互角に戦うことが出来るのは、 軽量を強みに変える戦術…敏捷さ・素早い動きを武器にし、加えて、日本人特有のチームワークの良さを、存分に発揮する戦術が、 功を奏しているのです。
対応を誤らないためには、味方の強みを探り、相手の弱みを見つけ出すことです。
相手に勝とうと、弱みの改善に努めても、あまり効果は期待できません。
それよりも、自らの弱みには目もくれず、強みを更に強める努力をした方が、
効果も高く、戦意も高まろうというものです。
■無血革命で、明治の新政府誕生
徳川幕府が瓦解して、明治新政府が誕生した時、平穏に政権が譲渡されたことに西欧諸国は驚きました。西欧では、 権力が入れ替わるときは、フランス革命に象徴されるように、必ずといってよいほど、多くの流血と犠牲を強いられるからです。
明治維新に、新政府がまず実行したのは、三千六百万両(約3兆円)という、全国の諸藩が抱えていた途方もない負債を、
明治政府が肩代わりして、全額棒引きしにしたことです。
これによって殿様は、領主の地位を失いはしたものの、借金地獄から解放されることになったので、泣いて喜んだのです。
今なら、膨大な負債で倒産を覚悟してでいた会社社長が、社長を退く代わりに、借金の全てを肩代わりしてもらうようなものです。
維新で一番得をしたのは、藩主ということになります。
それ故、世界史に例をみない「藩籍奉還」という、無血革命がスムーズに行われたのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 570】
~歴史から学ぶ~ 「日清戦争とカキ殻」
司馬遼太郎の「坂の上の雲」が、来年から2年間NHKでロングラン放映されることになった。既に撮影に入っているそうで… 楽しみです。
私が過去に読んだ書物から一冊を選ぶなら、躊躇なく「坂の上の雲」を選ぶでしょう。
次いで三国志でしょうか…繰り返し読んだ本は、この両書です。
歴史小説なのに、経営書のように、あちこち鉛筆で線を引いたり、ページの端を折り曲げたりしてあります。
明治新政府樹立直後から、政府の重要政策に、朝鮮の「排日的鎖国主義を討ち、開国を求める」というのがある。
明治8年、日本の軍艦が韓国・漢江の砲台と交戦し、占領した。
翌年、アメリカに習って、釜山ほか2港を無理やり開港させ、不平等な日韓修好条規を締結した。以後日本は、宗主権を主張する清国と、
激しく対立することになる…。
朝鮮半島では、日本人の米の買占め阻止と、朝鮮政府の重税、官僚の腐敗などに苦しむ農民が、一斉蜂起した。
日本軍はこの機を逃さじと、朝鮮を清から独立させ、在留日本人保護を大儀名分に、朝鮮から清国の勢力を排除すべく、軍隊を動かした。
7月25日、ついに、日清両国艦隊は朝鮮・豊島沖で交戦。
日本の命運をかけて、東洋の大国"清"と、戦争を始めたのです。
「坂の上の雲」、日清戦争のくだりを読んでいくと…
戦いに勝つために、海軍省の山本権兵衛(ごんのひょうえ)大将が最初にやったことは、
戊辰戦争で功労のあった、海軍幹部の首を切ったことです。
清国と戦争を始めるに当たり、既成観念に凝り固まっている管理職を、一掃してしまったのです。
その後任に、若手の士官を抜擢して、黄海に押し出した。
日本海軍は縦横機敏に活躍し、"カキ殻"がいっぱいついた清国艦隊を、次々と沈めていった…。
艦船は、遠洋航海に出て帰ってくると、船底に"カキ殻"がいっぱい付いて、船足が落ちる。人間も同様です。経験は必要だが、 経験によって増える知恵と同じ分量だけ、カキ殻が頭に付く。知恵だけ採ってカキ殻を捨てることは、人間にとって大切なことだが、 歳を重ねると、過去の経験に囚われて、これが出来なくなってくる。
人間だけではない。国も古びる。海軍も古びる。
「海軍はこう…」「艦隊はこう…」「作戦はこう…」と、固定観念が邪魔をする。
恐ろしいのは、固定観念そのものではなく、固定観念に囚われていることも知らず、平気で司令室や、艦長室の柔らかい椅子に、
どっかり座り込んでいることです。
一方、素人というのは、
知恵が浅い代わりに固定観念がないから、必要で合理的と思えば、過去に囚われることなく、どんどん採用し、実行しようとする。
私たち零細企業に共通する課題は、古参幹部社員にとって代わる人材がいないことです。社長と労苦を共にし、
現在の会社に育てあげた功績で、経営幹部に居座っている。
過去の経験に囚われ、時代の変化に適応できなくなっている自分に気付いていない。
パソコンが苦手で、覚えようとしない経営幹部などは、その良い例です。
これは、経営する立場の私にも言えることで、いつまでもトップにいることの弊害に気付き、早めに後継者にバトンタッチすべきでしょう。
また、社長を引き継いだ二代目経営者が頭を痛めるのは、古参経営幹部の処遇です。
※[日清戦争]
明治27年7月から翌年4月、日本と清国は、朝鮮の覇権をめぐって戦争。
日本陸軍は9月に平壌、11月に遼東半島を占領し、北京・天津を脅かした。
海軍も9月、黄海海戦に勝利して制海権を握り、翌年1月の威海衛攻撃で、中国北洋艦隊を全滅。
戦費総額2億円、動員兵力24万人、戦傷者1万3千人(戦死者数百人)。
4月17日講和条約(下関条約)締結。日本は領土と賠償金を手にした。
その後日露戦争を経て、明治43年韓国を併合。
太平洋戦争終了までの間、朝鮮は日本の保護国となる…。
■今日のことば
~度を過ぎた"徳"は害をなす~ 伊達家の家法(壁書)
「仁」過ぐれば 弱くなる
「義」過ぐれば 固くなる
「礼」過ぐれば へつらいとなる
「智」過ぐれば 嘘をつく
「信」過ぐれば 損をする
中でも傍が迷惑するのは、常軌を逸した"義"(人として行うべき正しい道)だろう。
当の本人は、正しいことをしていると、信念に凝り固まり、反省することもない…。
ときにそれは、悪人より始末が悪い。
日銀人事を巡る与野党の攻防を見ていると、「義過ぐれば固くなる」に思えてくる。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 568】
~歴史から学ぶ~ 「国家の品格」
以下、藤原正彦「国家の品格」より
|
歴史を振り返ると、日露戦争当時の日本人は、本当に立派だった。 16世紀後半に日本を訪れたイタリア人宣教師ブァリニャーノも、 |
戦後、欧米型民主主義が日本に持ち込まれ、言論の自由や個人の自由が、国民の権利と叫ばれるようになった。
欧米型の資本主義、市場原理が日本に定着するにつれ、日本人から、弱者への思いやりや、
ひきような振る舞いを戒める心意気などが失われていった。
世界に誇る高潔な精神を持った日本人は過去のものになってしまったようです。
私が生きてきた世代…戦後の混乱期から、高度成長に至る日本は、家庭より会社を第一に考える時代だった。私たちは、
自らを犠牲にして会社のために働いてきた。
今のように、自分の家族や家庭を第一に考える人は稀だった。
週休二日制が浸透し、週末の接待ゴルフを断って、家族サービスを優先する…今はそんな時代なのです。
家族のために働くが、国や社会に人生を賭ける気にはならない。
どんなに一生懸命働いても、会社の都合で、突然リストラされるかもしれない。
終身雇用制は過去のものとなり、会社は命を懸けるほどの重みのある対象ではなくなった。
国や会社よりも、個人の利益が優先される今の時代、食品偽装事件に象徴されるように、日本人が持ち続けてきた倫理観は、
消え失せてしまったのでしょうか?
銃を乱射する凶悪事件が日本でも報じられるようになり、アメリカ社会にどんどん似てくる。物の見方、
考え方が大きく変わってしまった日本…モラルの欠落したつまらない国になろうとしている。
■老舗の多い金沢
「越中強盗、加賀乞食、越前詐欺師」…北陸の県民気質を言い表した言葉です。
家業がにっちもさっちもいかなくなった時、越中富山は"強盗"してでも…、越前福井は、 "詐欺"をしてでも…あきらめずに、
歯を食いしばってこらえ、何とかしようとする、
へこたれない。
それに引き換え、加賀金沢のわんさんは、へなへなと、なす術もなく乞食になる…。
金沢市は、富山市や福井市のように、戦災や地震で焼け出され、辛酸をなめた辛い経験がない。昔ながらの古い町屋・老舗が建ち並ぶ金沢…
土蔵のある家も珍しくない。
多くの老舗は貸家や不動産を持ち、おんぼら~と商をしている。
代々、謡曲をたしなみ、お茶屋遊びをする、粋な土地柄。富山や福井の商人ほどには、働かない…。
福井市の問屋団地、衣料品問屋の社長さん…「石川県は商いやすい」と言う。
富山県・高岡の卸問屋…能登の商圏に入り込み、金沢の問屋のお得意先を取っていく。
それをやっかんで、このような言葉が生まれた…。
京都で活躍する商人の多くは、滋賀の"近江商人"だという。
同じように金沢で活躍する商人は、富山県人が多いのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 221】
~歴史から学ぶ~ 「老舗企業大国日本(2)」
仏像・仏具の装飾に欠かせない金箔。金箔の99%が、我が故郷金沢で生産される。
加賀藩を興した前田利家が、京都から職人を呼び寄せたのが、その始まりという。
明治32年(1899年)創業の"カタニ産業"。金沢の金箔業界の一翼を担う老舗。
戦後養子に迎えられた三代目社長は、台湾に目を付けた。
台湾の人々はお寺参りする時、金色の紙に火をつけ、パチパチと派手に燃えれば
燃えるほど、ご利益があると信じた。
その金色の紙とは、紙にアルミ箔を張りつけ、黄色く塗ったものです。
三代目社長、このアルミ箔を自社で製造し、台湾に売り込んで、莫大な利益を得た。
カタニの箔の生産高は、金箔1割に対して、アルミ箔が9割…全国のアルミ箔シェアの半分はカタニ、と言われた時もあった。
富山県から来たよそ者…当然、同業者から妬まれ、異端児と白い目で見られ、風当たりは強かった。養子だからこそ、
保守的な金箔業界の観念にとらわれずに、実行できたのです。
蚊谷社長の座右の銘は「伝統は革新の連続」…伝統で受継がれてきた金箔の技術を守っていくだけでなく、その技術を生かし、
その時代時代に即応した商品・技術を次々開発していった…だからこそ、現在のカタニがあるのです。
私は繁華街香林坊育ち。商店街の名の知れた薬局、九谷焼、家具、ブティックの店主は養子でした。何れも、
店を廃れさせては養子の恥と、よく働き、店を繁盛させた。
私も某老舗から、養子に欲しいと打診されたことがあるが、片町の帽子店の同級生(次男)が、同じ商店街の老舗家具店の養子になっている。
一方で、「家督は長男に継がせる」と、決めている経営者も多い。
苦労して築き上げた会社…「有能な他人より、信頼できる血族…我が息子に」の思いが強いのです。
大坂の船場や東京の日本橋には「息子は選べないが、婿は選べる」という言い伝えがある。百年以上続いてきた老舗には、
男子を後継者にせず、経営者の資質に優れた人材を、
婿養子に迎え入れて、暖簾を守ってきたところが多い。
そういったことから、船場には、娘が生まれると赤飯を炊く風習があった。
NHK篤姫が嫁いだ、徳川家十三代将軍"家定"のように、跡取り息子がとんだ"アホのぼんぼん"でも、長子相続にこだわる限り、
経営を委ねざるをえない。
これで店を潰すくらいなら、赤の他人でも、優秀な娘婿に任せたほうがいい…。
船場や日本橋の老舗…家訓にしてまで、店を守ろうとしたのです。
NHK・BS朝の連続ドラマ、「京都の風」の再放送が3月末に終了した。
京都・老舗呉服屋の三姉妹が、店の暖簾を巡って繰り広げるドラマ…。
店を継ぐことになった次女は、店の番頭ではなく、外から養子を迎え入れた。
その養子、商いに失敗して店を潰しかけた。次女は「店を出ていってほしい」と、
夫である養子に三くだり半を突きつける…そんなシーンが印象に残っている。
役に立たない養子は、離縁して縁を切る。
養子縁組の裏には、そのような打算が働いているのです。
角川書店/野村進「千年、働いてきました」より
■自分が変われば、相手も変わる
イスラム教の開祖マホメットの教えです。
ある日、マホメットが奇跡をやってのけるというので、大勢の人が集まってきた。
なんでも、遠くにある山を、ここに呼び寄せるというのです。
「オ~イ、山よ、こっちへ来~い」
人々が見守る前で、マホメットは呼びかけます。けれども山は動きません。
彼は再び、山に呼びかけました。それでも山は動きません。
三度目、マホメットは呼びかけます。「山よ、こっちへ来~い!」
やはり山は動きません。人々は「なあ~んだ」という顔をしています。
その人々に向かって、マホメットは言いました。
「諸君!ご覧のごとく私は三度、山に呼びかけた。だが、山は動かぬ。
ならば、今度は私が山に向かって歩いていく番である」と…。
そして彼は、山に向かって歩いていきました。
山が動かなければ、自分が動けばいいのです。
こちらが動くと、向こうが近寄ってきます。
私たちは、相手に変わって欲しいと願っています。
でも、それではなかなか奇跡が起きません。自分が変わればいいのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 220】
~歴史から学ぶ~ 「老舗企業大国日本」
世界最古の会社はどこにあるのだろうか?
約二千年の長きに渡って世界に君臨した、ローマ帝国イタリア?それとも中国?
実は、我が日本にあるのです。
江戸時代?安土桃山?鎌倉?まさか平安時代? いや、もっとずっとずっと前…
西暦578年、なんと、飛鳥時代から続いている会社があるのです。
大坂の「金剛組」です。創業千四百年…寺社仏閣を建ててきた建設会社です。
世界一の長寿企業が日本にあるのです。
他にも、創業千三百年になろうかという、石川県粟津温泉の老舗「法師旅館」、
千二百年以上の京都の和菓子屋さん、同じく京都で千百年以上の仏具店、
千年を優に超える薬局、と"創業百年"を超える企業は、2002年の東京リサーチ調べで、15,207社もあるのです。
調査の対象から外れた零細企業を加えると、全国に十万社はあるという。
老舗が、これほど沢山ある国は日本だけ。
お隣の韓国には、百年以上続いている店舗や企業は一軒もないし、ヨーロッパで
最古の企業は、1369年設立のイタリアの金細工メーカー…日本には、これよりも歴史の古い会社が百社近くあるのです。
世界の中で、日本にだけ見られる特異な現象です…何故なんでしょう?
(1)日本は、植民地になるなど、他国に支配され、屈服させられた歴史がない。
(2)日本の老舗の半数は製造業…日本は他国に比べ、職人の社会的地位が高かった。
(3)インドや西欧では、職業がカースト制度や職階によって細分化され、
製造技術全てを、親から子、子から孫へと受継ぐことができたのは、
日本だけ。
※茶道や歌舞伎のように、技術を伝承していく家元制があり、
柔道のように、
○○道として、代々優秀な高弟に引き継いでいく文化がある。
(4)日本は、お上(国家)への信頼度が高く、国が安定していた年数も長い。
(5)同族経営ながら、長男は分家させ、優れた人材を養子に迎え入れる。
優秀な他人の血を入れることで、企業の永続を計った。
※政情が安定しないアジアの国々は、血族以外は信用しなかった。
(6)老舗でありながら、時代や環境の変化に、しなやかに対応してきた。
(7)時代に即応した製品を生み出していく努力は怠らなかったが、
創業以来続けてきた本業は、頑固に守り通した。
(8)相場や株に手を出すのはご法度。儲かるからと、本業からはずれた商いに
手を出したりせず、それぞれ"分"をわきまえた商いをしてきた。
(9)"創業の精神・家訓"を大切に守り、「町人の正義」を守り通した。
角川書店/野村進「千年、働いてきました」より
■「戦陣訓」
昭和16年1月、陸軍省・東条英機陸相が、軍人に公布した行動規範。
特に、「本訓其の2-第8 名を惜しむ」の項は、戦後、軍国主義の悪の代名詞の
ように言われた。
『恥を知るものは強し。常に郷党家門の面目を思い、愈々奮励して其の期待に答ふべし。
生きて虜囚
(りょしゅう)の辱
(はずかしめ)を受けず、
死して罪禍(ざいか)の汚名を残すことなかれ』
「戦陣訓」は全将兵に、死を覚悟して戦地に向かうべし…と説いた。
欧米では、戦いに敗れ捕虜になることは、何ら恥ずかしいことではなかった。
しかし、日本国軍人は、降伏して、生きて捕虜になることは、最大の恥辱であるとされ、
「非国民」としてさげすまれた。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 219】
~歴史から学ぶ~ 「横井庄一さん、グアムで28年間」
昭和47年(1972)私は31歳。この年の正月、グアムへ観光に出かける日本人が急増した。
グアムへ訪れた観光客の7割が日本人です。
この年以降、お正月になると大勢の日本人が、海外旅行に出かけるようになった。
1月27日、日本人観光客がにぎわうグアム島で、日本人生き残り兵隊、横井庄一さんが見つかったという、
ビッグニュースが飛び込んできた。
この時の報道を思い起こし、振り返ってみることにします…。
横井庄一さんは、名古屋の仕立て職人。26歳の時満州に出征。
昭和19年、グアム島に配属された後、米軍の猛攻撃を受け、部隊は全滅。
生残った横井さん、命からがらジャングルに逃げ込み、洞穴に隠れて生活した。
発見される恐怖におびえながら、毎日乏しい食料で、どうにか生き永らえた。
過酷な生活は28年にも及ぶ。横井さんが、地元の猟師に発見された時には、
57歳になっていた。
発見直後の記者会見で、車椅子の横井さん、集まった記者達を見渡し、両手がブルブル震えていた。前に居並ぶ人たち…
長髪でパーマにサングラスといういでたち…とても日本人には見えなかったのです。
記者会見の後、隣の部屋で「バン!」と処刑されるのでは…と、本気でおののいていた。
28年ぶりに帰国した横井さん、この年最も有名な人物になっていた。
2月2日羽田到着。その時の帰国第一声は、あまりにも有名です。
「グアム島敗戦の状況を、つぶさにみなさんに知っていただきたいと思い、恥ずかしながら…帰ってまいりました」
これは、グアムで亡くなった戦友と、上官に向かって言った言葉です。
もう一つは「生きながらえて帰ってきて、ごめんなさい!」
更には上官や天皇に、「おめおめ生きながらえて帰ってきた自分が、恥ずかしい…」
そんな複雑な心境だったのです。
病院で2ケ月間静養…故郷名古屋に戻ってきた。
市民が日の丸の旗を振って大勢出向かえ、まるでお祭りのような騒ぎ…。
横井さんが最初に向かったのは、母親が眠る横井家の墓地。
ここで彼は、母親によって建てられた、自分自身の墓があることを知った。
Q.ジャングルで何を食べていたのか?
A.<動物系> 毒ガマガエル、野ネズミ、鹿、カタツムリ、川エビ、山猫、ウナギ、
子牛、
野ブタ etc
<植物系> パンの実、ヤシの実、ソテツの実、タケノコ、パパイヤ、
山芋etc
Q.何で出てこなかったのか?
A.戦陣訓「生きて虜囚の恥ずかしめを受けるなかれ」の、軍人心得を叩き込まれていた。
ジャングルから出て捕虜になるのは、軍人最大の恥辱なのです。
日本中が、「28年間ご苦労様でした」と、横井さんを温かく迎え入れた。
島では、見つからないように夜暗くなってから行動した。
語りかける相手もなく、電気も水道もない孤独な生活に…28年間も…よくぞ耐えられたものです。
横井庄一さん、発見された9ケ月後の11月、美保子さんとお見合い結婚した。
その11日前、フイリピン・ルバング島で、生き残り日本兵二人と、地元警察が銃撃戦。
一人が殺され、生き残った一人は、ジャングルに逃げ込んだ…そんなニュースが飛び込んできた。小野田少尉である。
日本から、直ちに捜索隊が派遣された。
晩年は、講演活動の傍ら、陶芸に打ち込んだ。何度も個展を開くほどの腕前だったという。
平成9年、82歳で亡くなった。新しく作られた墓の脇に、寄り添うように、小さな慰霊碑が立てられた…「グアム島・小動物の碑」である。
横井さんの人柄が忍ばれる。…
■「具志堅用高の座右の銘」
ある時記者が、具志堅に尋ねた…「座右の銘は?」
思わぬ答えが返って来た…「左右どちらも2.0です」
記者…「??…アッハッハ」
具志堅用高は沖縄県石垣市出身。昭和52年ジュニアフライ級タイトル奪取。
その後13回も防衛に成功した、日本人チャンピオン最多防衛記録保持者です。
昭和47年、日本に復帰した沖縄が最初に出した英雄で、日本中が感動した。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 217】
~私の昭和~「忘れられない昭和47年」
昭和47年は、1月から2月のわずか1ヶ月の間に、大事件が4つも続いた。
この年は、大きな出来事が続く。私には、忘れられない年になった。
●1月27日、日本人の生き残り兵隊"横井庄一"が、グアム島で発見された。
●2月、サッポロで冬季オリンピックが開かれ、6日のジャンプで笠谷選手が金。
日本が金・銀・銅全て独占「やった~!」…快挙の瞬間を今も鮮明に覚えている。
●2月19日、赤軍派が浅間山荘にたてこもった。その一部始終が日本全国に
放映され、警官が撃たれた瞬間も見た。仕事を忘れ固唾を呑んで見守った。
視聴率は、ピーク時98.2%と、驚異的数字を残した。
●2月27日、ベトナム戦争の真っ只中、ニクソン大統領が突然訪中。毛沢東と会談。
●5月、沖縄が日本に返還されたことも、忘れてはならない。
●7月、田中角栄が自民党総裁になり、「日本列島改造論」をぶち上げた。
列島改造論ブームが巻き起こり、異常な地価高騰時代へと突入していく。
●9月、田中首相は中国に出かけ、周恩来首相と「日中国交正常化」の調印。
最大の戦争被害国中国…一切の「戦争賠償権」を放棄。
以後日本は、経済大国への道を突き進むことになる。
●お土産は、パンダの日本初公開。ひと目見ようと、上野動物園は長蛇の列。
列に並ぶこと3時間。ようやくパンダのオリの前へ。
立ち止まることが許されたのは30秒だけ。
夕食を食べながら、そんな上野動物園の中継を見ていた。
翌々年の昭和49~51年にかけて、二度のオイルショックに見舞われ、諸物価が急騰。
日本経済は大打撃を受けるが、昭和47年は好景気で、国民の消費熱は、住宅、自家用車などへ。本田が「シビック」を発売し、
一家に一台の大衆車時代へ…。
昭和47年は、35年頃に始まった高度経済成長が、一つの峠を迎えた年です。
少し遡る昭和45年。当時、額ニュータウンの坪単価は3万円だった。
住宅新築単価は坪8万5千円。47年には5万円台に…建築価格も坪12万円に高騰。
2年後、第一次オイルショックの昭和49年の建築価格は、坪16万円に。
第二次オイルショック後の昭和52年には、坪24万円と、異常に高騰。
日本全国、不動産投機熱に沸き立ち、株価が上昇し、バブルが膨らんでいく。
昭和47年、私は31歳。10月、会社の同僚と台湾へ…初めての海外旅行です。
台北は、国慶節を祝う市民が昇り旗を立て、列をなして繰り出し、爆竹や鳴り物で、市内はお祭りムードいっぱい。
宅地建物取引主任資格を取得した年でもある。
テレビでは、中村敦夫「木枯らし紋次郎」の、「あっしには関わりのないことでござんす」が、30%を超える高視聴率をマーク。 時代劇では珍しく、女性に人気があった。
◎12月、政府は第二次ベビーブーム到来を発表。
この年、205万人のベビーが誕生。(平成18年度は…109万人)
◎スーパー・ダイエー。
この年の年間売上げ、三越を抜いて首位に立った。
◎この年ヒットした流行歌
「喝采(ちあきなおみ)」「女のみち(ぴんからトリオ)」「せんせい(森昌子)」
「瀬戸の花嫁(小柳ルミ子)」「そして神戸(クールファイブ)」
■帝国海軍軍人が残した言葉
○25歳にして、南太平洋の凄惨な戦闘で亡くなった、
海軍主計大尉小泉信吉が、22歳の夏に書き残した言葉です。
「十歳の頃から、海軍士官になることが理想になりました。
落日の下に今や沈まんとする艦のブリッジに立ち、艦と運命を共にする艦長に
わが身をなぞらえたり。
幕僚を従えて海戦に臨む司令官に、未来のわが身を描いております…」
※海軍軍人に憧れた青年の、平均的姿です。
○戦艦大和が、燃料片道の沖縄突入作戦に出動を決定した時、
青年士官の間で、特攻で死んでいく意義をめぐって、激しい議論が起きた。
死生論議が堂々巡りする中、混迷を断ち切ったのは、若手士官を束ねる立場の、
哨戒長"臼淵 磐"大尉の言葉だった。
「日本は、進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、
本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める…俺たちはその先導になるのだ。
日本の新生に先がけて散る…まさに本望じゃないか」
吉田満「戦艦大和ノ最期」より
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 216】
~歴史から学ぶ~「東京大空襲(2)」
以下、当時中学1年だった"滝 保清"さんの地獄の体験記、前号の続きです。
「お母さん!」『どうしたの、お爺さんは?』「ダメ!行ってもダメ!お婆さんは何処へ行ったかわからないし…探しに行っても無駄!
それより由美子の所へ行こう」
異様な私に、母も大変な事態になったことを察し、由美子の所へと走った。
途中「バリバリ」と、雷が何十個もまとまって落ちたような轟音に、二人は一瞬頭を抱え、地面に伏してしまった。至近弾の炸裂です。
炎を逃れて逃げ惑う人たちの頭上に、雨アラレと降り注ぐ焼夷弾…。
つんざく炸裂音と同時に、中から、真っ赤に燃える生ゴムのようなものが四散。
目の前の家の羽目板に付き、「パッ」と明るくなる…と同時に燃え出すのです。
「ゴー」と、鼓膜が破れんばかりの地響き…見上げると、B29が超低空で飛んでいく。
炎の照り返しで、物凄く大きな悪魔のように、機体は真っ赤。
空をにらみ上げ、無念の唇を噛みしめる。
無抵抗に逃げまどう女・子どもを、皆殺しにしようと空から嘲笑っている鬼のようです。
何とか小学校に逃げ込んだ。中はすでに人でいっぱいだったが、私と母は廊下の隅にへたり込んだ。
校庭を見ると、真っ赤な火の粉が渦巻き、校庭に高く積んであった古材が燃えて、「ボンボン」舞い上がっていた。
火焔と烈風は凄まじく、この世の地獄…「外にいるほとんどの人は助からないだろう…」。
恐ろしさで震えが止まらない。
逃れてくる人たちは、どの人も衣服が燃えていた。その人達を中へ入れようと、校舎の扉を開けると、
同時に凄まじい火の粉と煙が中に舞い込んでくる。
そのうちに、衣服の燃える火を消す水も絶えてしまい、衣服から飛び散った細かい火の粉が校舎内に散らばり、煙が充満し、
むせかえるような息苦しさ…。
しばらくして、校舎を火災から守り、中に避難している1,500人の生命を守るために、校舎入り口の鉄扉に鍵をかけた…
断腸の思いでの決断だったのです。
更に、強風と外圧に耐えるように、内側に下駄箱を積み上げた。
「開けてくれ…助けてくれ…」、扉を叩く悲壮な叫び。皆、耳を塞ぎ、神仏を拝んだ。
しばらくして、扉を叩く音が途絶えた。
力尽きた人たちの後から、後から、扉の前に人が積み重なり、熱風で焼死していった。
「がやがや」する声に目覚めた。窓の外は朝日が差している。
校庭に積んであった古材は、跡形もなく燃え尽き、校舎の入り口には、真っ黒な塊が山になっている。
「何だろう」と窓にすり寄ると、それは30人ほどの焼死体の大きな塊だった。
衣服は燃え尽き、髪は焼け、皮膚はどろどろに溶け、焼けただれ、顔もどこが口だか鼻だか、原型をとどめない。手も足も引きつって、
人間の最後の苦悶の表情を呈している。
このような地獄絵を、13歳の私が見たのです。
私は人間の気丈さをつくづく感じました。平常なら失神してしまうでしょう。
悲しくて涙が出るのは、まだ余裕があるからで、恐ろしさで体が震えるときは、まだ震える余裕があるのです。
その時は、恐ろしくも悲しくもなく、「母さん、助かって良かった。生きていて良かった」と、母と手を握り合い、喜びの涙を流したのです。
母と私は、末の妹を預けた避難場所に向かって歩いた。
昨夜は私たちが入る余地が無いほど、人と荷車で込み合っていた避難所…一面、おびただしい数の真っ黒な焼死体が散乱している。
うつぶせになったり、のけぞったり、親が子を、家族をかばうように、幾重にも折り重なっている様は、言葉では到底表しつくせない、
気の遠くなる光景です。
「むごい」…妹由美子の安否も絶望に近く、深い悲しみが私の心を捉まえた。
(以下略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今の平和な世の中は、戦争で散っていった、数知れない尊い命の上に、成り立っているのです。 それを忘れることなく、次の世代に語り継いでいかなければならない。
合唱
■東京大空襲
63年前の3月10日未明、東京に352機のB29爆撃機が来襲。
36万発の焼夷弾を下町の密集地帯に投下…犠牲者約10万人、罹災者100万人、焼失家屋27万戸という、広島の原爆を上回る、
悲惨きわまりない大災害に見舞われたのです。
今の中・高生の中には、東京大空襲はおろか、日本とアメリカが戦争したことも知らない生徒がいるという…学校で何を学んでいるのでしょうか?
60数年前の、終戦前後の出来事を、語れる人が少なくなってきている。
66歳になる私、終戦当時は3歳…富山の空襲や、戦時中のことを記憶する、最年少の世代になるでしょうね…。
2005年8月12日には、「富山大空襲」
を、2006年3月10日には「大坂大空襲」
を、そして、2007年7月27日には「宇部市の空襲」
を、私のメルマガで配信しました。
合わせて、当時私が記憶していたことも書き添えました。
お読みになりたい方は、私のブログの「歴史から学ぶ」
カテゴリーをご覧ください。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 215】
~歴史から学ぶ~「東京大空襲(1)」
以下、当時中学1年の少女だった"滝 保清"さんの、地獄の体験記です。
明治時代から桐タンスの製造と、家具の販売をしていた父は、数年前に病死。
家族は、私に母と祖父母、妹三人の7人暮らし…母は万一のため、家財道具を埼玉の実家に預け、2人の妹をそこに疎開させた。
私と5歳の四女を、母の手許に残した。
昭和20年3月9日、運命の夜がきた。
その夜は強い北風が吹き、レーダーが揺れて、 低空で迫り来る敵機編隊を補足出来ず、 空襲警報が発令されたのは、
爆撃が始まった後だった…。
0時過ぎに隅田川方面から火の手が上った。
火の手はみるみる広がり、大火の模様なので、近所の人たちと、私の家の前にある神明神社の境内へ、避難し始めた。
私は、足の不自由な祖父を背負い、家族全員避難。
「ここにいれば大丈夫」と思ったのも束の間、風はますます強く、火の手は北の空を真赤に焦し、神社の裏門近くまで迫ってきた…
更に西門の裏も燃え始めた。
火の粉は、きらきらと強風にあおられ、夜空を舞い、頭上に降りかかってくる。
母は危険を感じ、「ここにいては危ない!もっと広い所へ…」と言ったのですが、叔父は「自分の家が焼けるのを見届けてから…」
と言うので、「じゃ、由美子(末の妹5才)を安全な所に預けてくるから…保清はお爺ちゃんと一緒にいるように…」と言って、
祖父母と私の三人を置いて行ってしまった。
それから間もなく、神社裏門の火は東側にも移り、境内は三方火に囲まれ、火の粉が激しく振りかかってきました。そのうち、 火の粉ではなく、焼トタンや板切れが火の玉となって、ぼんぼん飛んでくるようになりました。
「母さんは何処へ行ったんだろう…」と祖母と話していると、「逃げろ~、こんな所にいると焼け死ぬぞ~」という男の声に、皆、
神社の正門から逃げ始めました。
そうこうしているうちに西門からの火は、南側の私の家にも延焼し、四方炎に囲まれ、真昼のように明るくなった。
境内は火の粉と煙が渦巻き、母を待っていたのでは逃げ場を失うと、足の不自由な祖父の手を肩にかけ、引きずるように逃げ出した…。
神社の鳥居まで出たときです。火のついた雨戸が風に舞って落ちてきた。
フェン現象の熱風となって、煙と炎の渦が迫ってきた。一刻の猶予もありません…。
鳥居の階段を、 祖父を引きずって下りた時、 「保清、 待って!」と叫ぶ祖母の声に振り向くと、背負っていた祖父のドテラが燃え出し、
祖母が叩き消そうとしているのです。
夢中で揉み消したが、今度は私のオーバーの裾が燃え出した。
慌てて揉み消していると、さらに、祖父の足の包帯に火が付き、燃え出したのです。
祖母も、自分の衣服の火の粉を払うのが精一杯で、燃えている祖父のドテラにまで、手が回りません。
突然、目の前が見えなくなり、むせるように息が詰まり、熱風の渦に巻き込まれた。
防空頭巾で口を覆い、息を止めた。目は熱風で開けられない…。
この場にいては窒息してしまう…。
「もうこれまで!」と、燃えている祖父をそのままに、夢中で暗い方に走った。
後ろ髪もなにも…生きたいという本能と、窒息の苦しさから逃れたい一心で、祖父を置き去りにしてしまったのです。
炎の渦を振り切って振り向くと、もうもうたるオレンジ色の炎が、地面を這い迫ってくる。
その中から、二人三人と飛び出してくる黒い人影。時折明るい人影は背に火が付いたり、防空頭巾が燃えているのに気づかず、
夢中で走る人たちです。
その逃げ惑う様は、人の世の生と死…恐怖の狭間を…地獄絵を見る思いでした。
気付くと、祖母とはぐれてしまった。逃げ惑う大勢の人波の中では、祖母を探す術もない。
祖母も、自身の判断で、どちらかに逃げ延びているに違いないと信じ、電車路の大通りに出た。そこは、人と自転車、リヤカーでごった返し、
一人になった不安から、恐怖がこみ上げてきた。
母さんに逢いたい…「母さん~、母さん~」と叫びながら駆け出した。
森下の交差点に差しかかった時です。人混みの中から「保清…」の声が…。
振り向くと、目の前に母がいた…全くの奇跡です。
炎の照り返しだけの、暗い人混みの中で、出会えるなんて…。
(次号に続く)
■NHK・BS朝7時45分からの連続小説「都の風」(再放映中)
京都室町の呉服問屋の三姉妹。ある日当主(婿)に呼ばれ、当主の前に座らされた。
「末娘(ドラマの主人公)に婿を取って、当家の後を継がせることにする。長女は商家に嫁に出す。次女は養子を取って別家を持たせる。」と、
言い渡した。
そこから物語が展開し、大騒動が巻き起こる…
・三女に店を継がせることにした理由は…
長女は「新しものがりやのくせに、すぐに冷めてしまい、長続きしない。」
次女は「性格がおとなしく、身代を守っていくには頼りない。」
三女は「人の心が分る優しさと、何事にも前向きにとらまえる積極性がある。」
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 199】
~歴史から学ぶ~ 「老舗と暖簾(のれん)」
512号に続き、伊勢の赤福。創業以来三百年、代々暖簾を継承してきた老舗である。 市場環境の変化に機敏に対応してきたからこそ、暖簾を守り通せたのでしょうが、それだけでは、 これほど長く暖簾を守ることは難しいのです。
「企業は外から潰れるのではないんですね。多くの場合、内から崩壊していく。内がしっかりしていなければダメなんです。」
日創研・田舞徳太郎氏が「理念と経営」9月号で、BSE問題で大打撃を受けた、(株)吉野家・安部修仁社長との対談で語っている。
今回の「製造日偽装事件」。平成12年の雪印乳業に端を発し、姉歯耐震強度偽造事件、不二家製菓など、
多くの企業が内部告発などで、企業内の悪事が表ざたになった。そして、消費者にソッポを向かれ、歴史の幕を閉じている。
何故、類似職種の経営者は、そうした事件を教訓に、自社を総点検し、悪習があれば正そうとしなかったのでしょうか?
赤福も、北海道の「白い恋人」の摘発で危機感を高めた。一度は悪習を断ち切ろうと、改善を図った…にもかかわらず、
利益率追求の誘惑に負け、長年続けてきた悪習を断ち切ることができなかった。経営者は見て見ぬ振りをしてしまったのです。
バレることはないと、たかをくくった経営者…。叩けば埃の出る企業がまだまだ隠れているのでは…。もうこれっきりにしてほしいものです。
以下、ほうじん「江戸異聞」から
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父祖伝来の"家業"と"しきたり"を代々踏襲(とうしゅう)し、守ってきた「老舗」。 これが江戸っ子になると、もっと徹底する。日本橋博労町の紙問屋。 以外なのは、店の当主と娘の一存で、婿を決められななかったこと。親族・別家の同意だけでなく、
同業組合の"議決"が必要なのです。 江戸時代、万が一にも「お上」のご法度に触れるようなことがあると、家族に留まらず、町内や同業組合までも、
連座して罰せられた。 この伝統は昭和の初期まで残り、市中の金融機関は、「婿取りだったら融資するが、息子が当主だったら融資しない。 」のが、一般的だった。その婿も、バカ婿であれば、はした金で離縁させられた。 |
私は商家の三男坊。二十歳の頃、私を養子に欲しいと、金沢の某老舗が人を介して申し込んできた。その老舗、 40年経た今も隆昌なのを見ると、ちょっぴり惜しい気がするが、「自分は養子向きではない。」と断ったのは、正しかったと思っている。
■安倍首相退陣
水曜日、「安倍首相退陣」の突然のニュース報道…驚くと同時に、無責任さを感じた。
首相としてやるべきことを道半ばに、政権を投出してしまったように見える。
自らが掲げた政府公約を実現するため全力で臨み、それで、矢折れ刀尽きて辞めるというのなら、私たち国民も納得しようというもの。
解散して、国民に真を問うべきと思うのです。
父は外務大臣などを務め、病に倒れ、総理になる夢を果せなかった安倍晋太郎。
祖父は、日米安保条約を締結した岸首相。
大叔父は沖縄返還を実現した佐藤栄作首相。
血筋の良さで総理になったものの、したたかさや、しぶとさに欠ける、二代目の弱さがもろに出てしまったようです。
引き換え、国際社会での責任の重さでは、安倍首相の比ではない、米国ブッシュ大統領。
‘04年11月、大統領に再選された後、ブッシュ政権自ら、「イラクには大量破壊兵器は元より無かった。
そのことは1998年の時点で知っていた。」と弁明して、国際社会の批判に耐え、しぶとく政権を維持している。
器の大きさが違うようです…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 191】
~歴史から学ぶ~
「イラクに根強い文化的抗体」
米国の大統領選挙の最重要課題として、米国民の43%が「イラク戦争」を挙げる。
現政権のイラク政策の泥沼化は、「協和党政権に勝ち目のない」状況になりつつある。
ブッシュ大統領は、「撤退すれば大災難になる」と述べ、民主党のヒラリー・クリントン候補は、「大統領が戦争に幕引きできないなら、
私がやる」と、こぶしを振り上げる。
8/26 読売「白熱・大統領選挙」より
サマワに駐留していた日本の自衛隊。
何とか役目を終えて1年を経た現在もなお、激しく住民同士が宗派抗争を繰り広げ、ゲリラによる自爆抵抗がとるように繰り返される。
そんなイラクの情勢に、「勝利」への明確な展望が示せずに悩むブッシュ政権。
米政府高官は、「アフガニスタンやイラクで民主化が進んでいる」と、輝かしく語る。
しかし、アフガニスタンやイラクの国民が、米軍の占領を心から嫌っていることを知っている現地の司令官は、両国を民主化することなど
「馬鹿げた幻想である」と言っている。
アフガンやイラク人の体内には、過去二千年の歴史がDNAとなって、キリスト教徒白人に対する非常に強い「宗教的・文化的抗体」がある。
それが、自国に泥足で踏み込んできだアメリカ人と、その仲間の国々に対し、自国内からの早々の立ち退きを迫るのです。
イラクの現地司令部の掲示板には、1918年当時、アラブの兵士たちを訓練していたアラビアのロレンスが、
当時の実戦から学んだ"教訓"が張り出されている。
ロレンス曰く、「自分で完全にやろうとするよりは、彼らに、不完全ながら自らやらせる方がよい。それは、
歴史的伝統を誇る彼らの自尊心を満足させる、彼らのやり方である」と…。
昨年BSテレビで、「アラビアのロレンス」完全復刻版を見た。
四十数年ぶりに見たその鮮烈な映像とストーリーは、強烈な残像となって今も残っている。
♪砂の海を真紅に染める巨大な太陽を眺め、一人のアラブ人がロレンスに言った。
「砂漠を楽しめるものは2つ以外にない。"ベドウイン族と神々"だけだ。
ベドウインはラクダの背で、砂漠を一日に百キロ移動できる…。
それ以外のよそ者には、砂漠は焦熱の地獄にしか過ぎない…。」
そのロレンスは、誰もが不可能と思われた砂漠を横断し、奇襲を仕掛けて、トルコ軍を背後から打ち破った。
後に鬼神と言われ、その名を馳せることになる。
シカゴから来た記者が、部族長と同じ白装束を身にまとうロレンスに質