井原西鶴の商家経営原則
『 正しきによりて滅びる店あらば 滅びても良し
古くして新しきもののみ 永遠にして不滅 』
今から約2800年前、地中海をはさんだイタリアの対岸、現在のアフリカ・チュニジア。
その地に拠点を置くフェニキア人によって建国された、都市国家カルタゴ…
地中海貿易の拠点として繁栄を極め、独自の文化を育んできた。
世界遺産が8ケ所も点在するチュニジア。
その地中海文明の至宝の数々が、はるばる石川県立美術館にやってきたのです。
「古代カルタゴとローマ展」と題して、160点が展示公開されている。
エジプト文明、ローマの栄枯盛衰に興味を持ち、様々な書物を読み漁ってきた私…
8月29日の初日、早速見学に訪れた。
(期間は9月20日まで)
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 696】
~歴史から学ぶ~「ポエニ戦争」
■人間愛に満ちた明治の日本人
日露海戦における幾多のうるわしい逸話が、今に伝えられている。
○波間に漂う敵兵を出来うる限り救助し、医療・食事など万全を期し、
俘虜として暖かく遇している。また惨敗を喫して、総崩れになった
敵艦隊から逃れ行く一隻の駆逐艦に対し、「武士の情け、深追いはするな」
と、見逃してもいる。
○敵の提督ロジェストウインスキーは、重傷を負い、人事不省になった
ところを救助され、佐世保の海軍病院に収容された。
東郷は直ちにこれを見舞い、なぐさめの言葉をかけた。
「敗れたとはいえ、私は、閣下のような立派なお方と戦ったことを、光栄に
存じます」…万感こみあげたロジェストウインスキーの目に、涙が光って
いた。
○敵兵への暖かい思いやりは、軍人だけでなかった。
敵兵の水死体が海流に乗って、山陰の海岸に漂着した。付近の住民はこれを
引き上げ、手厚く葬り、冥福を祈った。万里の波濤をけって、はるばる来航、
武運つたなく祖国に殉じた勇者に対する思いは、それが敵であろうと変わり
なかった。
明治の日本人には、うるわしい"人間愛"があったのです。 (論語の友から)
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 659】
~歴史から学ぶ~ 「明治の日本人気質」
「己の欲せざるところは 人に施すなかれ」 (顔淵第十二)
(自分がして欲しくないことを、人にしてはならない)
日露戦争で、乃木大将が激戦の後旅順を陥落させ、敵将ステッセルと会談した時の逸話から、明治の日本人気質を知ることが出来ます。
敗将ステッセルの一行が、白旗を掲げて乃木の陣営にやってきた。
戦勝国日本の新聞社のカメラマンたちは、この歴史的一瞬を撮影して、勝利をはなばなしく故国に報道しようと、待ち構えていた。
ところが乃木は、これを差し止めて、記者たちを遠ざけてしまった。
「何故そんなことをする…」と、記者たちは乃木将軍に詰め寄った。
乃木曰く「軍人にとって降伏することは、この上もない不名誉である。ましてや、その屈辱の情景をこれみよがしに報道されることは、
当人にとって死ぬ以上に辛いことです」
かって、西南の役において軍旗を奪われ、一死をもってそのつぐないをしようとして、果せなかった乃木には、
ステッセルの心中が痛いほど分かるのです。
武士の情がわかる乃木は、心細かに気配りして、手厚く敗将ステッセルを遇したのです。
この会談は、勝者のおごりも、敗者の卑屈も感じられず、ともに祖国のために堂々と戦った、将兵の誇りと満足が相互尊敬となって、
静寂をとり戻した戦場に、暖かい雰囲気をかもし出したのです。
東亜の小国日本が、大国ロシアを破った…輝かしい勝利もさることながら、当時の日本人が、武士道精神にのっとって、 立派に戦ったことが、全世界から好評を博すことになった。以降、国際社会における日本の信用を、いやが上にも高らしめたのです。
ところが、日露戦争に勝利した小国日本…国難に出会えば"神風が吹く"と慢心し、武士道的道義心は低下するばかり…ついには、
米国に戦争を挑み、敗戦を迎えることになる。
戦後直ちに、我が国の学校教育から、軍国主義的残渣が一掃されることになり、占領軍の係官が、学校を査察して廻った。
ある小学校で運悪く、乃木、東郷の肖像が、物置から発見された。
随行の校長、ハッと顔色を変えたが、査察官の口から意外な言葉が発せられた。
「乃木、東郷は、日本が生んだ世界に誇るべき武将であります。私は偉大な二人を尊敬しています。日本が今日、 このような不幸に会ったのは、彼らのような立派な武将がいなかったからではないでしょうか。この肖像の廃棄を私は認めません」
二宮金次郎の銅像が取り払われたのは、当時、左翼思想の強い日教組によるもので、進駐軍は「二宮金次郎は日本の偉人、 尊敬すべき人物である」と言っている。
戦後の教育の場では、日本の歴史上欠かすことのできない、こうした偉人たちを、子ども達に教えなかった。 日本に生まれながら日本を知らず、日本という国を尊敬できずに、今に生きる私たち…自らに誇りが持てない民族… そんな民族のままでいいのでしょうか…。世界一愛国心の薄い国民と、笑われているというのに…。
「坂の上の雲」「論語の友」より
■司馬遼太郎の遺言
「坂の上の雲」を大河ドラマにしたいと、30年以上も前から交渉し続けてきたNHK…OKが出たのは5年前。
司馬遼太郎は生前、映像化することを好しとしなかった。NHKの熱心な説得に遺族側が折れ、大河ドラマが実現することになったのです。
その内容はあまりにも壮大。零下15度の中国内モンゴルでの撮影に始まり、当時のロシア王朝の面影を残す、
サンクトペテルブルク宮殿での舞踏会シーン、ヨーロッパでの撮影など、今秋放映開始に向け、大掛かりな撮影が行われている。
3年にまたがる放映は初の試みです…壮大なスケールで繰り広げられるスペシャルドラマ…11月29日スタート…今から楽しみです。
3人の主役…秋山真之を本木雅弘さんが、秋山好古は阿部寛さんが、正岡子規を香川照之さんが演ずる。秋吉兄弟の両親は、伊東四朗さん、 竹下景子さん、伊藤博文を加藤剛さん、高橋是清を西田敏行さん、東郷平八郎を渡哲也さん、子規の妹・律を菅野美穂さん、 そして児玉源太郎を高橋英樹さん…と、ワクワクする布陣です。
NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」より
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 657】
~歴史から学ぶ~「坂の上の雲」
毎朝8時BS2で、「私が選ぶ一冊の本」を見ている…私はちゅうちょなく、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を選ぶだろう。
内容を解説できるほど、繰り返し読んだ。
自ら志す道を懸命に歩み、歴史に残る偉業をなしとげた、3人の若者の物語です。その「坂の上の雲」が、この秋、
NHKの大河ドラマになるのです。
物語の舞台は明治の日本。小国日本が清国との戦いに勝ち、大国ロシアに戦いを挑む…そんな明治とはいったい、
どんな時代だったのか?
原作者・司馬遼太郎は、明治を以下のように表現している。
|
「維新によって、日本人ははじめて近代的な"国家"というものをもった。 |
当時の若者の多くは、ほんの少し前の時代まで、立身出世を夢見るなど、考えもしなかった…それが明治になって、
何でも叶えられるようになったのです。
「坂の上の雲」は、そんな時代に生きた、3人の若者の物語です。
1人は「秋山真之(さねゆき)」。1986年四国の松山に生まれる。
日本海軍の作戦参謀として、瀬戸内海・村上水軍の戦術からヒントを得た「T字戦法」で、バルチック艦隊と国家の命運を掛けた海戦に臨み、
勝利を収めるという、大きな役割を担うのです。
1人は真之の兄「秋山好古(よしふる)」。真之とは九つ違い…陸軍に入り、広大なシベリアの最前線で、ロシアとの戦いに勝利するため、
日本で初めての騎兵隊を創設して、獅子奮迅の活躍をするのです。
もう1人は、真之の幼なじみ「正岡子規(まさおか しき)」…身体が弱く、病と闘いながら"俳句"を革新した人物として…
歴史にその名を残すことになる。
秋山兄弟も子規も、幼い頃から、自らの進路を決めていたわけではない。
子規は、学問をして、太政大臣になる夢のために、東京に出たいと思うようになる。
真之は子規に刺激され、偉くなりたいとの思いが募り、親の許しを得て東京に出る。
この先3人、明治という時代に何を目指し、どう生きていくのか…
「坂の上の雲」では、明治の若者が、国家のため、社会のため、悩みながらたくましく生き、人生を掛け、
国の運命を左右する熾烈な戦いの場へと突き進んでいく…。
秋山兄弟が描く壮大な人生ドラマ…読み重ねるほどに、ぐいぐい引きこまれていく。
「坂の上の雲」だけでなく、今、後編を上映中の三国志「レッド・クリフ」も、「天地人」も、原作小説を読んで、 時代や歴史背景を知ってから見ると…ドラマへの興味が深まり、面白さも倍加するというものです。
■小学修身教科書より
「第十五 礼儀」
人は礼儀を守らなければなりません。
礼儀を守らなければ、世に立ち、人に交わることができません。
人に対しては、ことばづかいをていねいにしなければなりません。
人の前であくびをしたり、人と耳こすりしたり、目くばせしたりするような、不行儀をしてはなりません。
人に送る手紙には、ていねいなことばを使い、人から手紙を受けて返事のいる時は、すぐに返事をしなければなりません。
又、人にあてた手紙を、ゆるしを受けずに開いて見たり、人が、手紙を書いているのを、のぞいてはなりません。
その外、人の話を立ち聞きするのも、人の家をのぞき見するのも、よくないことです。
人と親しくなると、何事もぞんざいになりやすいが、親しい中にも礼儀を守らなければ、長く仲よく付き合うことはできません。
「親しき仲にも礼儀あり」です。
【心と体の健康情報 - 652】
~歴史から学ぶ~
尋常小学校「修身教科書」から
戦前の学校教育に「修身」という科目があり、古今東西の偉人・賢人達の具体的エピソードを通じて、「正直・謙虚・礼儀・勤勉・
公益・勇気」といった科目を子ども達に教えていました。
修身教育の根本方針は、明治23年10月30日の「教育勅語」(メルマガ583号・585号・587号に掲載)
によって定められた、全文315文字の短文からなります。
勅語は、「自己・家族・友人・社会・国家」に対する、国民が守るべき十四の徳目を説いています。
例えば「博愛の精神」…「博愛」と言われても、抽象的で、その意味がよく分かりません。修身の教科書では、エピソードを通して、
小学生にも十分理解できるよう、血の通った道徳教育がなされているのです。
■小学校修身教育 「博愛」の教え
|
紀伊の国の水夫寅吉は、蜜柑を積んだ船で江戸へ行った。 それからこの捕鯨船は、北の方へ鯨を捕りに行き、半年ばかりたって、帰りに船長は便船に頼んで、
寅吉たちを香港まで送り届けました。 そこで寅吉たちは、支那の役人の保護を受け、便船に乗り継いで、やっと日本に帰ることが出来ました。故郷では、
三年も便りがなかったことから、死んだと思い、葬式を出して墓までしつらえていました。 知っていても知らなくても、「博く愛する」のが"人の道"です。 明治37年、日露海戦において、上村艦隊が敵艦を打ち沈めた時、敵のおぼれ死のうとする者を、 六百余人も救い上げたのは、名高い美談です。 |
戦後の教育の現場からは、「修身」や「教育勅語」が排除されてしまった。
私たちは修身の内容を知らず、軍国主義の思想教育であるかのような、固定観念で見ている…。
徳目に書かれている内容をよく読むと…政治・マスコミ・日教組などで、"修身"が話題になっただけで、トラウマになって反対する…
その理由が分からない。
(論語の友)
問題の箇所があれば、そうした箇所を削除し、今の学校教育にふさわしい内容に改め、修身を復活すべきと思うのですが…。
なぜ、薪を背負った二宮尊徳像が、小学校の校庭から撤去されなければならないのか?なぜ、二宮尊徳が教育の現場から排除されたのか?
■火事と喧嘩は江戸の花
「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるくらい、江戸は火事が多かった。
長屋が密集していて、火事が起きると、直ぐに燃え広がった。
消防体制など無いに等しく、水をかけて消すよりも、周りの家を壊した方が手っ取り早い。
その役割をするのが「いろは四十八組」の、威勢いい若い衆。
夜中に火事を発見すると、半鐘を鳴らす。
二度打ちから五度打ちまで4パターンある。
「ジャン・ジャン」の二度打ちは、火事場が遠い時。
「ジャン・ジャン・ジャン」と三度鳴らされると、近いので避難しなければならない。
ちなみに四度打ちは、火事ではなく、水害などの他の災害になります。
五度打ちはめったなく、江戸城のま近かが火事になった時に鳴らされます。
この時は、四十八組総動員して消火に当たります。
家財道具を揃えても、火事になれば焼けてしまう。
従って自前で揃える人は少なく、必要な家財はレンタル…質屋を頻繁に利用した。
質屋には蔵があって、焼けません…。
ところで、火事をネタ噺にした落語といえば、「味噌蔵」「富久」「火事息子」
「鼠穴」などがある。「味噌蔵」は、2008年5月13日No.566で配信しています。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 647】 ~歴史から学ぶ~ 「六代将軍・家宣」
パリの下町で暮らす母娘…高等学校に通うおてんば娘が、ある日突然、ヨーロッパの某王国の後継女王になった。 桧舞台で次々引き起こす騒動…映画「プリティ・プリンセス」そっくりの夢物語が、江戸幕府・将軍家世継で起きていたのです。
六代将軍徳川家宣がその人…甲府藩主綱重の長男として江戸藩邸に生まれる。
(綱重は、三代将軍家光の三男。長男は四代将軍家綱、四男の弟は五代将軍綱吉)
父・綱重がまだ正室を迎える前の19歳の時、身分の低い女中に子を産ませた。
世間をはばかり、家臣の新見正信に預けられ、正信の子・新見左近として育てられた。
ところが、正室を迎えた父綱重…世継の男子に恵まれず、呼び戻されて、17歳のとき、
思いもよらない甲府藩の家督を継ぐことになった。
その後、伯父の四代将軍家綱に可愛がられて、"綱豊"と名乗る。
43歳の時、五代将軍綱吉にも世継が無く、世継候補も死去したため、綱吉の養子に迎えられ、"家宣"と改名して、
江戸城西の丸に入る。
思いもよらぬ幸運で、将軍職にまで上り詰める…昨年の大河ドラマ、篤姫のようです。
西の丸に入った時、諸大名や旗本が、賄賂に近い祝いの品を持参したが、家宣はこれらの一切を受け取らなかった。
家宣48歳の時綱吉が亡くなり、ついに六代将軍の座に…。
将軍になるや、人事を一新…悪しき慣習や不正を、厳しく取り締まった。
悪評高かった「生類憐れみの令」や「酒税」を廃止するなど、気概を示したため、庶民から喝采でもって迎えられ、期待は高かった。
先代の綱吉は、「生類憐れみの令」を継続するよう遺言したが、家宣は葬儀の二日前、綱吉の柩の前で、側近の柳沢吉保に言った…
「生類憐れみの禁令に触れ、罪に落ちた者は数知れない。私は天下万民のために、あえて遺命に背くことにする」…この時、
罪を許された者は、八千数百人になるという。
先代は、老中を遠ざけ、ご用人・柳沢吉保を重用したが、家宣は、吉保を免職…新井白石を登用して、文治政治を推し進める。
財政改革に熱心だったが、在職わずか3年、51歳で惜しくも死去。
次の七代目将軍職は、家宣の子の"家継"が継いだ。
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■徳川家康「東照宮遺訓」
一. 人の一生は 重き荷を負うて遠き路を行くが如し 急ぐべからず
一. 不自由を常と思えば不足なし
一. 心に望みおこらば 困窮したる時を思い出すべし
一. 堪忍は無事長久の基
一. 怒りを敵と思え
一. 勝つことばかり知りて負くる事を知らざれば 害その身に至る
一. 己を責めて 人を責むるな
一. 及ばざるは 過ぎたるより勝れり
いずれも、不況風が吹く今、座右の銘にしておきたい、自らの生き方を諌める心得です。
中でも、最初の文章「人の一生は重き荷を負うて…」は、ズッシリ胸にしみます。
"千利休"が言った言葉というのが、最近の歴史家の通説です。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 643】
~歴史から学ぶ~ 「五代将軍・徳川綱吉」
家康から265年、15代続いた徳川幕府…家光や吉宗は、よく知られる将軍です。
が、その他の将軍についてはよく分からない?
そこで、歴代将軍にまつわるエピソードを取り上げて、その時代を見ていきます。
今回は「五代将軍・綱吉」です。
五代将軍・徳川綱吉は、三代将軍家光の四男。
綱吉将軍職就任に功労した"堀田正俊"を大老に据え、積極的に政務に関わっていく。
先代の家綱時代、政務一切を重臣たちに任せ、「左様せい様」という異名が付けられていた将軍の権威を、取り戻そうとしたのです。
関が原の戦いから80年…戦国の殺伐とした気風を排除して、"徳"を重んじる文治政治を推し進めた。これは、
父"家光"が綱吉に儒学を学ばせたことに影響している。
幕臣を集めて"四書"や"易経"を講義する、学問好きな将軍として知られている。
儒学を学んだ影響から、歴代将軍の中で最も皇室を尊び、皇室領を増額して献上したり、巨額の資金を投じて、 河内国一帯の66陵を修復したりした。
在任中に起きた刃傷沙汰で、赤穂藩主・浅野長矩守を、大名としては異例の、即日切腹に処したのも、 朝廷との儀式を台無しにしたことへの、綱吉の激怒が背景にあったのです。
綱吉のこうした儒学を重んじる姿勢は、新井白石、荻生徂徠らの学者を輩出するに至り、この時代儒学が隆盛を極めた。
また、近松門左衛門・井原西鶴・松尾芭蕉などの文化人が一世を風靡した、元禄時代の将軍です。
将軍就任4年目に、将軍の片腕、堀田正俊が若年寄"稲葉正休"に刺殺される事件が起きた。以後、大老を置かず、 "柳沢吉保"らご用人を重用し、老中を遠ざけるようになった。
この頃に、後に"悪政"と言われる「生類憐れみの令」を発したり、悪化しつつあった幕府財政を建て直そうと、「貨幣の改鋳」
を実施したが、世間を混乱させるだけに終わった。
側近・寵臣の意見にしか耳を傾けなかった弊害が、民衆を苦しめることになったのです。
綱吉の評価が、実際より低く見られるのは、忠臣蔵や水戸黄門に絡むTVドラマが、悪い印象を与えているのしょう…。
元禄11年、数寄屋橋より出火した大火は、300余町を焼き尽くし、三千人の死者を出した。
また、富士山が噴火…関東一円火山灰の被害に合い、庶民は飢饉に苦しんだ。
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■いま出世する者、しない者
大久保彦左衛門(1560~1639)が著した「三河物語」の中に、「いま出世する者としない者」という記述がある。
[いま出世する者]
・主君を裏切り、主君に弓を引く者 ・
口先だけうまい者 ・算盤勘定のうまい者
・ひきょうな振る舞いをして、人から笑われる者 ・前歴がよくわからない者
※今でいえば、社長の片腕でありながら、自らの野心のために、密かに部下の
引き抜き、お得意様の横取りを企むなどして、独立の期をうかがう幹部社員。
[いま出世しない者]
・絶対に主人を裏切らない者 ・
合戦一途に生きる者 ・算盤勘定の下手な者
・お世辞が言えず、世渡りが下手な者 ・最後まで主人に仕え続ける者
※今でいえば、現場一筋、身を粉にして会社に仕え、現在の地位・境遇に甘んじて、
生涯宮仕えしようと心に決める、実直な社員。
当時幕府は、武断政治から文治政治へと移行しつつあり、武家も、武功派より文治派が重用されるようになった。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 641】
~歴史から学ぶ~ 「四代将軍・徳川家綱」
家康から265年、15代続いた徳川幕府…家光や吉宗は、よく知られる将軍です。
が、その他の将軍についてはよく分からない?
そこで、歴代将軍にまつわるエピソードを取り上げて、その時代を見ていきます。
今回は、「四代将軍・家綱」です。
徳川家綱…三代将軍家光の嫡男。家光が48歳で死去(1651)したため、11歳で四代目将軍の座に…幼少で将軍家を継承したため、
政情不安になり、由比正雪の倒幕事件が起きた。
叔父の保科正之や、家光時代からの大老・酒井忠勝、老中の松平信綱など、優臣の補佐により危機を乗り越え、
以後29年の間安定政権をみた。
家綱は、関が原以降武力に頼った武断政治から、文治政治へと政策の切り替えを行った。
温厚な人柄の家綱は、絵画や魚釣りを趣味とし、政務を重臣たちに任せ、「左様せい」の一言で決済を済ませていたことから、「左様せい様」
という異名を付けられた。
エピソード(1)
将軍就任間もない少年の頃、天守閣に登った。
その際、近習の者が遠眼鏡をすすめたが、家綱はそれを受け取ろうとしなかった。
「自分は少年ながら将軍である。もし将軍が天守閣から、遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、恐らく世人は、
嫌な思いをするに違いない」と…。
エピソード(2)
ある時、島流しになり、流人となった者の話を聞き、「彼らは一体何を食べているのか?」と側近に尋ねたが、誰も答えられなかった。
家綱は「死罪を免れ、流刑に処せられたのに、なぜ食糧を与えないのか?」といぶかった。それを聞いた父・家光は喜んで、「これを竹千代
(家綱)の仕置きはじめにせよ」と家臣に命じ、それ以降、流人に食糧を与えるようになった。
エピソード(3)
家綱、食事中に汁物をすすろうとしたところ、髪の毛が入っていた。
家綱、何事もなかったように髪の毛をつまみ、取り除いた。
慌てた小姓、替えの汁物を用意しようとした。
家綱「その汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように」と、小姓に命じた。
お椀を空にして下げれば、普段のお代わりと同じ扱いになる…咎められる者が出ない。
家綱の優しい心配りがうかがえる逸話です。
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米国はすごい国
1967年、黒人エリート医師と、白人女性との結婚話を題材にした映画「招かざる客」が、
米国社会の人種差別に強烈な問題提起を行った。
娘の父親は新聞社主…苦悩の末、娘の結婚を認める…そんな物語です。
当時は、黒人とキスするなどもっての外…殺されかねない時代でした。
全米16州で、黒人と白人の結婚が禁止されていた。
劇中、主人公の黒人医師が、恋人の父親から子供について聞かれ、答える場面がある…「彼女は、子供は大統領になって、
多人種の政権を作るって、考えています」
42年後、このセリフが現実になった。
ケニア人の黒人男性と、カンザス州の白人女性との間に生まれた政治家、バラク・オバマ氏が大統領になった。
わずか40年の時の流れの中で、かつては不可能だったことが可能になった。
米国は、そんなすごい国です。
1/22 読売新聞
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 635】
~歴史から学ぶ~ 「国家のために何をなすか」
第35代合衆国大統領ジョン・F・ケネディ…
1963年、人気半ばに暗殺されたことはよく知られる。
大統領就任演説で、「国民は国家に何をして貰うかでなく、国家のために何をなし得るかを考えよ」
と述べ、名演説として歴史に残った。
2009年1月20日正午過ぎ、第44代大統領に宣誓したバラク・オバマ…
リンカーンが1861年の宣誓で使ったのと同じ聖書を、左手に置いての宣誓です。
就任演説では「世界は変わった。だから我々も世界と共に変わらなければならない」と強調。ケネディの言葉を引用して 「我々は責任を果さなければならない…米国民一人ひとりが、自分と自国、世界への義務を喜んで果さなければならない…」と促した。
1/22の読売朝刊
平和な国日本…そこに住む私たち…世界有数の充実した医療制度、治安、教育等々、生活の隅々まで手厚く国の保護に守られ、
国に依存した暮らしをしている。
世界に誇りうる、豊かで安全な国に住みながら、どこまで国を思い、恩に報い、国のために奉仕する気があるだろうか?
日本の総理が、ケネディにあやかって、「国民一人ひとりが、国家に何をして貰うかでなく、国家のために何をなし得るか、
考える時が来た」と国民に訴えたとしら、私たち国民は、それを素直に受け入れられるだろうか?
日本の政治家が言えば…各方面・マスコミから、格好の攻撃材料にされるのがオチだろう。
今年の秋NHKで、"明治の日本"を題材にした、司馬遼太郎「坂の上の雲」が大河ドラマになる。明治の日本は貧しく、 国は多額の負債を抱え、国民は極度の貧困にあえいでいた。
以下、「論語の友・明治の日本人と平成の日本人」から…
明治の国家は、国民に充分に与えるものを持たず、国民は国から何の保護も受けられなかった。それでも国民は、素直に礼節を守り、
国家に身を捧げて、国恩に報いんとした。
今の日本人…国を慈しみ、国の恩に報いようとする意志は薄い。
国民の国防や納税に対する義務意識は極めて薄く、免れようとさえする。
そのくせ"権利"は声高に主張する…。
「愛国心」を鼓吹するつもりはない…が、わずか百年足らずの間に、
これが同じ日本人かと…精神の堕落ぶりを、嘆かざるをえない。
■二代将軍秀忠にまつわるエピソード
武将としては評価が低かった家康の三男"秀忠"。大坂の陣の後のある日、弟"義直"と共に能を観劇している最中、地震が起きた。
場内がパニックになりかけた時…
「揺れは激しいが、壁や屋根が崩れる兆候はない。下手に動かないほうがよい…」
と、素早い対応を示し、混乱を回避した。
イザという時、いち早く状況を把握し、統率力を発揮するという、人には見えない才能があったのです。
その一方、妻で信長の姪"お江の方"には、頭が上らなかった。
生涯側室を持たず、一度だけ手を付けた女中に、男児(後の保科正之)が生まれた。
正室からの追求を恐れて、会うこともなく保科家へ養子に出してしまった。
頭が上らないと言っても、信長も家康も生きてはいない。"お江の方"と不仲になったところで、将軍の地位が揺らぐわけではない。
側室を持つことに何の問題もなかった…
恐妻家だったことは事実だが、秀忠は律儀さゆえ、愛妻家を押し通したのであろう。
なお、息子の"保科正之"に会ったのは、妻"お江の方"が亡くなって後である。
その保科正之…後に、兄にあたる三代将軍家光をしっかり支え、幕政に多大なる貢献をしている。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 631】
~歴史から学ぶ~ 「二代将軍・徳川秀忠」
歴史上の出来事をあれこれ探っていくと、思わぬ事実にたどり着くことがある。
それは結構楽しいものです。
家康から265年、15代続いた徳川幕府…家光や吉宗は、よく知られる将軍です。が、その他の将軍についてはよく分からない? そこで、
歴代将軍にまつわるエピソードを取り上げながら、人と為りを見ていくことにします。
今回は「二代将軍・秀忠」です。
秀忠は家康の三男。「秀忠は律儀すぎる。人は律儀一点張りではいかぬものだ」と、家康を嘆かせた。これに対し秀忠は、 「父のウソを買うものはいくらでもいる…しかし、私のウソを買うものはいないだろう」と、己を分析している。
兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に優れた"将"と評価されていた。
一方の秀忠、性格は温和で、戦は苦手。しかし、政務には抜群の才能を発揮した。
そんな性格故、関が原の戦いに遅参するという失態を招いている。にもかかわらず、兄・秀康を差し置いて、家康の後継者となり、
将軍の座に就いている。
家康亡き後、期待に違わず、幕藩体制を揺るぎないものにし、徳川265年の礎を築き上げたのです。鎌倉・ 室町両幕府が短命に終わったのは、二代目後継者に、それだけの能力がなかったことを示唆している。
政権を担うに当たり、酒井忠世、土井利勝、安藤重信を重臣に取り立て、他方、自分に従わない六男の松平忠輝、娘婿の松平忠直、
譜代の重鎮・本多正純を改易した。
更に、外様有力大名の福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲生忠郷
(会津若松60万石)を改易。
最終的に、外様23家、親藩・譜代16家を改易した。また"転封"も忠輝の時がピーク。
こうして、親藩だろうが大大名だろうが、遠慮無しに改易・転封する姿勢を示し、幕府に刃向かう芽をことごとく潰していった。
弟たちの処遇については、9男義直は尾張家、10男頼宣は紀州家、11男頼房は水戸家と、御三家を発足させた。
全国の諸大名に対しては、参勤交代を強いたり、築城・治水工事を命じ、藩財政に多大の負担を負わせるなどで弱体化を図り、
幕府に武力反抗するエネルギーを削いでいった。
在職中、「公家諸法度・武家諸法度」などの法を整備・定着させ、鎖国政策を推し進め、外国船の寄航を、平戸・長崎に限定した。
秀忠に将軍職を譲ったあとの家康がそうしたように、家光に将軍職を譲った秀忠は、"大御所"となり、
引き続き政務ににらみを利かせた。
海音寺潮五郎は著書の中で、「家康は全て自分で決めた。秀忠は半分自分で決めた。家光は全て重臣に任せた」と、
まつりごとに対する三人の違いを評している。
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■除夜の鐘
今年もあと5日…除夜の鐘を聞いて、今年いろいろあった"煩悩"を、消し去りたいものです。ところで、除夜の鐘を百八回鳴らす習慣?… 中国から伝わってきました。
"煩悩"とは、心身を悩まし、わずらわせ、惑わし…"さとり"を得ることを妨げる、あらゆる精神的作用を言います。
仏教では、百八の煩悩があるとしていますが、他に、八万四千の煩悩があるという説もあり、数についてはこだわる必要がなく、
"大変多い"という意味に解釈すればいいようです。
仏様をお参りするとき"数珠"は欠かせない…珠の数は普通百八個ある。
珠を一つ繰るごとに、念仏を唱える。念仏を唱えることで、煩悩を退治し、滅ぼすことができるのです。
カトリック教徒が、祈りをささげるときのロザリオも、この数珠が転じたものと言われています。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 628】
~歴史から学ぶ~ <徳川幕府の年表>
NHK大河ドラマ「篤姫」が終了した。13代将軍"家定"に嫁ぎ、14代"家茂"、15代"慶喜"の母となり、回を追うごとに、
しぐさ・言葉づかいに"らしさ"と貫禄がそなわっていく…徳川幕府、大奥の最後を取り仕切った篤姫を、みごとに演じきっていた。
ドラマに登場する3人の将軍…時代の波にほんろうされる姿が痛々しい。
ドラマも終盤になると、篤姫に関わるかけがえのない人たちが次々亡くなり、去っていく…楽しくも悲しいドラマでした。
家康から265年続いた徳川幕府。家光や吉宗はよく知られるが、その他の将軍についてはよく分からない? そこで、 歴代将軍を年表にして書き出してみました。
| 1603 | 初代 | 徳川家康 | 将軍在職 2年 |
| 1605 | 2代 | 徳川秀忠 | 将軍在職18年 (家康の三男) |
| ※律儀な性格で、戦は苦手。政治向きには抜群の手腕を発揮。 | |||
| 14 | ・大坂冬の陣 | ||
| 1623 | 3代 | 徳川家光 | 将軍在職28年 (秀忠の嫡男) |
| 35 | ・海外への渡航、国内への帰国禁止 | ||
| 37 | ・島原の乱 | ||
| 39 | ・ポルトガル人来航禁止 | ||
| 41 | ・完全鎖国 | ||
| 1651 | 4代 | 徳川家綱 | 将軍在職29年 (家光の長男) |
| ※武断政治から文治政治へ、政策の切り替えを行った。 | |||
| 1680 | 5代 | 徳川綱吉 | 将軍在職29年 (家光の四男) |
| 85 | ・生類憐みの令 | ||
| ※近松門左衛門、伊原西鶴、松尾芭蕉を生んだ"元禄時代" | |||
| 02 | ・赤穂浪士の仇討ち | ||
| 1709 | 6代 | 徳川家宣 | 将軍在職4年 (家光の孫) |
| ・幕政改革を断行し、歴代将軍の中でも名君と評される。 | |||
| 1713 | 7代 | 徳川家継 | 将軍在職3年 (家宣の四男) |
| ※4歳で即位、7歳で婚約、8歳の時風邪で亡くなる。 | |||
| -------------------------------------------------------- | |||
| 1716 | 8代 | 徳川吉宗 | 将軍在職29年 |
| (紀州2代藩主四男・家宣の養子になる) | |||
| 21 | ・享保の改革(目安箱を置く) | ||
| 32 | ・享保の大飢饉 ※破綻しかけていた幕府財政を復興…名君と言われた。 ・江戸火消し、小石川養生所の設置 |
||
| 1745 | 9代 | 徳川家重 | 将軍在職15年 (吉宗の長男) |
| 1760 | 10代 | 徳川家治 | 将軍在職17年 (家重の長男) |
| 82 | ・天明の大飢饉 | ||
| -------------------------------------------------------- | |||
| 1787 | 11代 | 徳川家斉 | 将軍在職50年 (一橋家2代当主長男) |
| 1828 | ・シーボルト事件 ・松平定信の寛政の改革 ※徳川を、一橋徳川の天下にしたいと、19男・27女の子供をもうけ、 諸大名との婚姻を推し進めた。 |
||
| 1837 | 12代 | 徳川家慶 | 将軍在職16年 (家斉の次男) |
| ※幕府財政の破綻、幕政の腐敗、網紀の乱れ…"大塩の乱"を招く | |||
| 41 | ・天保の改革 | ||
| 1853 | 13代 | 徳川家定 | 将軍在職5年 (家慶の四男) |
| ・ペリー来航 | |||
| 54 | ・日米和親条約 | ||
| -------------------------------------------------------- | |||
| 1858 | 14代 | 徳川家茂 | 将軍在職8年 (紀州13代藩主) |
| ・日米修好条約 | |||
| 60 | ・桜田門外の変 | ||
| 63 | ・下関事件。薩英戦争 | ||
| 1866 | 15代 | 徳川慶喜 | 将軍在職1年 (一橋家9代当主) |
| 67 | ・大政奉還 | ||
※「御三家」…尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家
※「御三卿」…田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家
将軍家に跡継ぎがないときは、他の御三卿とともに、跡継ぎを出す資格を有する。
家格は「徳川御三家」に次ぎ、所領は十万石だが、他の大名のように、領地や城は持たなかった。
・この制度で、御三家・御三卿から跡継ぎを出したのは、紀州藩と一橋家だけです。
■「忠臣蔵」、もう一つの知られざる真相
内匠頭が吉良への刃傷に及んだ背景は、従来「勅使饗応の作法を教えてくれなかったから」と言われてきたが、そんな作法は毎年のことで、
誰もが知っていること。
原因は他にあるのでは…?
当時、将軍綱吉の生母・桂昌院への「従一位授与」を強行しようとする、柳沢吉保による朝廷工作が、秘密裏のうちに着々と進んでいた。
親朝廷派の内匠頭が、朝廷と幕府の交渉に気づき、交渉役でもあった吉良をとがめて、口論になったのではないか…?
柳沢は刃傷沙汰の真の理由を、多くの情報から推測した。
大石内蔵助もまた、一年以上の雌伏の末、ようやく主君の真意に思い至る。
時の権力者である柳沢は、すべてを抱えたまま黙って切腹した内匠頭に同情した。
柳沢は同情心から、事前に「討ち入り」の情報を入手していながら、動かなかった。
「討ち入りで、浪士が1人も死ななかった」…謎が解けてくる。
新潮社/加藤廣著「謎手本忠臣蔵」より
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 625】
~歴史から学ぶ~「忠臣蔵・知られざる真相」
「風さそう 花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん」
世に"忠臣蔵"で知られる、浅野内匠頭の辞世の句である。
この句で、桜のように散っていった赤穂四十七士の物語は、謎めいた事件として、巷説おびただしい。この刃傷(にんじょう) の顛末には、世間には知られていない事実が、隠されているのです。
この事件で幕府は、「浅野内匠頭は切腹」「吉良上野之介はお構いなし」の裁定を誤下し、これを不満とする赤穂浪士が、
1年9ヶ月後に、吉良邸に討ち入ることになる。
そもそも、内匠頭が刃傷(にんじょう)に及んだ理由を"不詳"として、幕府は動機不明の事件として処理したが、世評は
「吉良が求めた賄賂に、内匠頭が十分に応じなかったため…」と記録している。
裏を返してみれば、幕府にとって都合の悪い事実を伏せてしまったため、事件の原因を、世間はあれこれ詮索するようになったのです。
大石蔵之助以下、四十七士が命がけで仇討ちするには、もう一つ、世間には知られていない理由があった…
それは、幕府がひた隠しにしてきた大名同士の"仲たがい"です。
遡って、豊臣時代や関ヶ原合戦で、恨みを持つ大名同士、末代まで"仇同士の仲"として、江戸城ですれ違っても挨拶も交わさず、
広間で同席しても知らん顔…こうした大名家が多かったのです。
列挙すると、加賀の前田家は、熊本の細川家や二本松(福島県)丹羽家と絶交したまま…。飫肥(おび・宮崎県) 伊東家と薩摩の島津家…島津家は参勤交代で飫肥を避けて、船を使ったほどである。
福岡の黒田家と、熊本の細川家や阿波(徳島)の蜂須賀家。盛岡の南部家と仙台伊達家。池田家(岡山と鳥取)は、永井家(高槻市・
岐阜)と…不仲は一族の支藩にまで及んでいた。
そして注目すべきは、芸州(広島)浅野家と、仙台伊達家も不仲で、ここに"忠臣蔵"の謎を解く"鍵"があるのです。
事件の原因は、不仲大名を仲直りさせることに熱心だった、老中稲葉丹後守と、
林大学頭の江戸城での会話にあった。
林大学頭が老中稲葉丹後守に尋ねた…
「伊達と浅野が不仲になったのは、いつの頃からであろうか…?」
この会話は、"松之廊下"の刃傷事件が起きる少し前の、正月のことである。
二人は、浅野と伊達を"和睦"させようとしたらしい。
それにはまず支藩からと、「来る3月14日の勅使と院使のご馳走役は、
伊達左京亮(伊予)と浅野内匠頭(播州赤穂)を相役とする…」と命じた。
これが2月のこと。この日から浅野内匠頭は「"ウツ症状"に悩まされるようになり、頭痛に襲われるようになった」と、記録にある。
先祖の遺言で、末代まで"仇"とされている家同士が、"相役"を勤めなければならない
とは…浅野内匠頭は、苦悩の毎日だったのです。
お互い口もきかず、饗応役を勤めた。軽んじられた浅野内匠頭、勅使饗応の準備を終えてから、堪忍袋の緒が切れ、 刃傷に至った。
その間、幕府の意を体した指南役の吉良上野介は、口を聞かず心を開こうとしない浅野内匠頭を、叱責したのだろう。
「このあいだの雑言、覚えたるか」と内匠頭が叫んで、切り付けたという記録が残っている。
浅野内匠頭が切腹させられた田村右京太夫邸も、伊達の支藩。
「和睦」を拒否し続けた内匠頭への、幕府の懲罰である。
この事件は、"不仲大名"を強権で和睦させようとした、幕府の失政にある。
"不仲"を貫いた内匠頭と、"喧嘩両成敗"を求めた赤穂四十七士の行動は、幕府への痛烈な批判だったのです。
こういったことを含んで、冒頭の辞世の句を読み直すと、味わい深いものになってくる。
法人「江戸異聞」より
■映画・レッドクリフ(赤壁)
先週の休日、私の大好きな、三国志"赤壁の戦い"を映画にした「レッドクリフ・前編」を鑑賞した。魏の曹操が、全国制覇を夢見て南下…迎え撃つ劉備と孫権の同盟軍は、"赤壁"に陣を敷く。
上映2時間半…3/2が戦闘シーン。黒澤監督の七人の侍を彷彿させ、趙雲・張飛・関羽そして、中村獅童が演ずる呉の将軍/甘興など、1人ひとりが見せる戦闘シーンは圧巻。
軍師・諸葛孔明の"八卦の陣"など、奇策と知略がふんだんに組み込まれ、スケールの大きさでは、タイタニックに劣らないだろう…先行上映された中国では、タイタニックの興行収入を塗り替えたという。
制作費100億円、アジア映画史上最大のスペクタル巨編。是非見ておきたい映画です。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 615】
~歴史から学ぶ~ 「禅寺に名園」
今年の紅葉は、例年になく美しいという。毎年11月になると、夫婦で京都を散策する。京都の楽しみは何といっても、木々が色づく美しい庭園巡り。
そして、夜には秋の味覚に舌鼓をうつことです。
お寺回りをしていて気がつくのは、美しい庭園があるお寺の、そのほとんどが"禅寺"であることです。
石庭で有名な龍安寺、苔寺として有名な西芳寺、京都三大名園の一つ天龍寺、ねねの大徳寺、金閣寺、銀閣寺など…数えればきりがない。このように禅寺に名園が多いのは、禅と庭園の間には、深い因果関係があるからです。
以下、枡野俊明「夢窓疎石・日本庭園を極めた禅僧」からの抜粋です。
禅は、「心の問題を追及していく教えであり、ものごとの心理を見極めていく訓練の場」である。
そして、禅の修業を重ねる目的は、「本来の自己と出会うこと」にあり、「人間の持つ心の本性を、明らかにすること」にあります。
禅は、心の教えの根本となる"哲学"を説いていく。従って、禅そのものには形がなく、目に見えるものはない…。
鎌倉後期から室町時代の禅僧たちは、この目には見えない自分の境地そのものを象徴化し、何かの形に置き換えて表現しようとした。ここから"禅の芸術"が生まれた。己を"無"にして"美"を極めていく中から、禅文化が育まれたのです。
こうした禅文化を象徴するのが「禅の庭」なのです。
禅僧たちは、自己を表現する場として庭造りに取り組み、自ら修行を重ね、会得した心の状態を、庭園という空間造形芸術に、落とし込んでいったのです。
「禅の庭」の父と呼ばれ、京都における「禅の庭」の原点となる庭園芸術を生み、完成させた"夢窓疎石"(むそうそせき1275~1351)。
室町初期の禅僧"夢窓疎石"の存在は、その後、日本の庭園芸術が開花していく中で、忘れてはならない存在になる。
夢窓疎石は、これまでの庭には見られなかった"石組み"を積極的に行い、庭園に"空間造形"を造り上げた。この作風がその後、京都における西芳寺、天龍寺などの造園の原点となり、やがて「禅の庭」は"枯山水"へと、たどり着くのです。
数ある京都の名園中で、私が好きなのは、大宮御所に隣接する"仙洞御所"庭園…17世紀に造営されたが、"空間造形"をみごとに演出している…。