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2009年03月 アーカイブ

2009年03月03日

落語・だくだく

■"柳屋小三治"師匠が考える"笑い"とは

「人を笑わせるのではない 笑ってしまうのが芸」

小三治の落語は"奇"をてらわない。無駄を削ぎ落とし、ただタンタンと語る…。
落語界を背負う、当代屈指の古典落語の最高峰と評される柳屋小三治師匠。

人を笑わせたくて噺家になる人が多い。修行を積んでいくうちに、人を笑わせることが、たいしたことではないことに気づく… 分かってくる。
今人気の若手漫才師のように、「ガハハ…」と笑わせようとしている間は、まだ一人前ではない。

笑わせようとして、笑わせるのは、同じことをやっていると、いずれ客がついて来なくなる…限りがある…飽きがくる。自分も飽きるし、 聞いている客も飽きる。
次々と新しい笑いを、客に提供しなければならない。

柳屋小三治師匠が考える"笑い"とは、面白い日常の話をそのまんま話して、笑わせる。
落語は、笑わせるためにやっているのではない。
聞き手が語りに引き込まれて、そこから自然に湧きあがってくる"笑い"…それが素晴らしい芸になる。

笑わせるのではなく、お客が"つい笑ってしまう芸"は、新しいネタを考えなくていい…プッシュがいらない… ひたすら落語の世界を演じていればいい。
面白く出来ている落語は、笑いが多い少ないではなく、「ヘェ~ヘェ~」と、お客が笑いに引きこまれ、お客の目付きが変わってくる… 輝いてくる。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 645】
~ことば遊び~  「落語・だくだく」

落語家は「想像力を生み出す芸人」…観客のイマジネーションのために、扇子や手ぬぐいを駆使して、どれだけ演じられるか… 想像力を喚起する落語という芸能…無限の可能性を秘めている。

想像力を喚起させてくれる落語といえば、「だくだく」がある…
狂言「棒しばり」などにも相通ずる、落語ならではのネタ噺です。
八五郎と泥棒が、常識では考えられない状況の中で、とぼけた洒落っ気を演じるのを、寄席のお客様に想像力を働かせていただき、 楽しんでもらおうというもの。

「だくだく」は、客席から笑いが取れないと、悲惨な結果になってしまう…
そんなこ難しい落語ですが、故・柳亭痴楽が得意ネタにしていた。
痴楽といえば、「痴楽つづり方狂室」や「恋の山手線」が有名。
顔をくしゃくしゃにして、独特の節回しで噺す、個性溢れる落語家だった…。

♪貧乏人の八五郎、長屋へ引っ越したはいいが、かついでいくのが面倒くさいと、家財一切、古道具屋に売っぱらってしまった。
家財道具が何もないから、新居はからっぽ。そこで、絵描きの先生に頼んで、壁一面に張った紙の上に、家具の絵を描いてもらって、 気分だけでも"ある"つもりになろう…と考えた。

床の間、箪笥、金庫、長火鉢など、長年欲しかったものを、次々と注文。
金庫はちょっと開いていて、銭がちらっと見えるように…だとか、
鉄瓶がチンチン煮立って、湯気を出しているところとか、猫があくびをしているところとか、なげしに先祖伝来の槍を架けるとか… やたら変な注文が飛び出す。

出来上がって、八五郎、すっかり新世帯にいるような気分になって…床につく。
その晩泥棒が忍び込んだ。その泥棒そそっかしくて、その上…近眼。
盛り沢山の家財道具に歓喜したのもつかの間…盗もうとして手に触れると、すべて絵に描いたものばかり。びっくりするやら、感心するやら… 。

このまま帰ったのでは面白くないと、家の主(あるじ)がそういうつもりなら、こっちも"つもり"でいこうと…仕事を始めた。
まず、「金庫を開けたつもり…拾両ばかり盗んだつもり」
「箪笥の引き出しを開けたつもり」と、声を出しながら、絵に描いてある箪笥の引き出しを開ける仕草をする。

「大きな風呂敷を取り出して、十分に広げたつもり」
「箪笥の中から、結城紬の小袖を一枚盗ったつもり」などと、
次々と品物を風呂敷に入れる仕草を繰り返す。
「目ぼしい物は盗んだつもり」
「大きくふくらんだ風呂敷包みを、背負ったつもり」と…逃げ出そうとする。

さっきから目を覚まして、泥棒の様子を見ていた八五郎…
そのまま見逃すわけにはいかないと、跳ね起きる。

「なげしに架けた槍をおっ取って、リュウリュウとしごいたつもり」と、
今しがた泥棒がやっていたように、声を出して捕まえる仕草を始めた。
とどめとして、「泥棒目がけて脇腹をブスッと突いたつもり」…と、
泥棒、脇腹を押さえて…「う~ン、いタタタタ…だくだくッと、血が出たつもり」

※新宿末広亭で、柳亭痴楽がこの噺を演じて、高座から下がりかけた時、
1人の客が、「ア~ア、面白かった…つもり」と言った。
痴楽、そちらを振り向き、「いやな客…のつもり。ポカッと横っ面を殴り倒した…つもり」と言い返した。場内、笑いの渦に包まれた。

2009年03月06日

臥薪嘗胆

■人生順境あり、逆境あり

人生、良いときも悪い時もある。「逆境」は誰にでも訪れる。
のがれることはできない。
このことを江戸時代の学者"佐藤一斎"が、言志四録の中の「言志晩録」で語っている。

「人の一生には、順調の時もあれば、逆境のときもあり、
 幾度となくやってくるものである。
 自ら検するに、順境といい逆境といい、なかなか定め難く、
 順境だと思えば逆境になり、
 逆境だと思えば順境になるといった具合である。
 だから、順境にあっても怠りの気持ちを起こさずに、
 ただただ謹んで行動するより仕方がないのである」

※言志四録
 学問・思想・人生観など、修養処世の心得が1133条にわたって書かれた随想録


【心と体の健康情報 - 646】
~故事に学ぶ~ 「臥薪嘗胆」

今日は"臥薪嘗胆"のことばの意味と由来について…臥薪嘗胆(がしんしょうたん)は、「史記」の中に出てくる言葉です。
「1人の人間が目標を実現するために、自らに艱難辛苦を強いる」という故事から出た言葉です。
♪呉の国の王は、越の"勾践"との戦いに敗れ、運に見放され、死んでしまいました。
臨終のとき息子の"夫差"に、「必ず自分の無念を晴らせ」と言い残して亡なります。
呉の王となった夫差は、ひと時もその言葉を忘れませんでした。
眼には、父の無念を焼き付け、固い決意で毎晩毎晩、薪の上に臥して勝利を誓い、部下には必ず、父の遺した言葉を叫ばせるようにしました。

「夫差よ、お前の父の言葉を忘れてはならぬ」
『はい、決して忘れません。必ず勝利します』
呉王の夫差は、こうして自らに苦しみを課し、ひたすら兵を訓練して、時の来るのを待ったのです。そして、 とうとう念願叶って"勾践"を破ります。

勾践は会稽山(かいけいざん)に逃れるが、鍛えられた呉の軍隊に追われ、とうとう国を捨てて、夫差の家来になるという、 屈辱的な条件で降伏します。
その後、呉王・夫差に許された勾践は、自分の国、越へ帰るこが許されます。
が、身分は呉王の家来のまま…惨めな気持ちに耐えなければなりません。

勾践もまた、かって夫差が薪の上に臥して、亡き父に勝利を誓ったように、今度は勾践が、自らに苦しみを与えて、励みます。
その後勾践は、常に傍らに肝(きも)を備え、座るときも、臥すときも、飲食をするときも、いつも苦い"肝"をなめて「会稽の屈辱」 を思い出し、自らを鍛えた。

自ら田畑を耕し、夫人も自ら機を織り、夫を支えます。粗衣粗食に耐え、人材の育成に励み、部下の言葉に耳を傾け、苦難に耐え、 ひたすら勝利を誓った。
後になって、ようやく"夫差"を破り、念願を果たした。

越王"勾践"が最後の勝利者になった理由は、国が滅びるという屈辱的な状況でも、素直に部下の意見に耳を傾けたこと…
「戦って死ぬことは簡単です。だが、死ねばそれまで…再び越の国を興すには、恥を忍ぶほかありません」
絶対絶命の敗北を喫した越王"勾践"を励まし、導いた、"范(はん)れい"という良臣がいたことを忘れてはなりません。

「理念と経営/社長力」より

2009年03月10日

六代将軍・徳川家宣

■火事と喧嘩は江戸の花

「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるくらい、江戸は火事が多かった。
長屋が密集していて、火事が起きると、直ぐに燃え広がった。
消防体制など無いに等しく、水をかけて消すよりも、周りの家を壊した方が手っ取り早い。
その役割をするのが「いろは四十八組」の、威勢いい若い衆。

夜中に火事を発見すると、半鐘を鳴らす。
二度打ちから五度打ちまで4パターンある。
「ジャン・ジャン」の二度打ちは、火事場が遠い時。
「ジャン・ジャン・ジャン」と三度鳴らされると、近いので避難しなければならない。
ちなみに四度打ちは、火事ではなく、水害などの他の災害になります。
五度打ちはめったなく、江戸城のま近かが火事になった時に鳴らされます。
この時は、四十八組総動員して消火に当たります。
家財道具を揃えても、火事になれば焼けてしまう。
従って自前で揃える人は少なく、必要な家財はレンタル…質屋を頻繁に利用した。
質屋には蔵があって、焼けません…。

ところで、火事をネタ噺にした落語といえば、「味噌蔵」「富久」「火事息子」
「鼠穴」などがある。「味噌蔵」は、2008年5月13日No.566で配信しています。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 647】                                                     ~歴史から学ぶ~ 「六代将軍・家宣」

パリの下町で暮らす母娘…高等学校に通うおてんば娘が、ある日突然、ヨーロッパの某王国の後継女王になった。 桧舞台で次々引き起こす騒動…映画「プリティ・プリンセス」そっくりの夢物語が、江戸幕府・将軍家世継で起きていたのです。

六代将軍徳川家宣がその人…甲府藩主綱重の長男として江戸藩邸に生まれる。
(綱重は、三代将軍家光の三男。長男は四代将軍家綱、四男の弟は五代将軍綱吉)
父・綱重がまだ正室を迎える前の19歳の時、身分の低い女中に子を産ませた。
世間をはばかり、家臣の新見正信に預けられ、正信の子・新見左近として育てられた。

ところが、正室を迎えた父綱重…世継の男子に恵まれず、呼び戻されて、17歳のとき、 思いもよらない甲府藩の家督を継ぐことになった。
その後、伯父の四代将軍家綱に可愛がられて、"綱豊"と名乗る。

43歳の時、五代将軍綱吉にも世継が無く、世継候補も死去したため、綱吉の養子に迎えられ、"家宣"と改名して、 江戸城西の丸に入る。
思いもよらぬ幸運で、将軍職にまで上り詰める…昨年の大河ドラマ、篤姫のようです。

西の丸に入った時、諸大名や旗本が、賄賂に近い祝いの品を持参したが、家宣はこれらの一切を受け取らなかった。 家宣48歳の時綱吉が亡くなり、ついに六代将軍の座に…。
将軍になるや、人事を一新…悪しき慣習や不正を、厳しく取り締まった。
悪評高かった「生類憐れみの令」や「酒税」を廃止するなど、気概を示したため、庶民から喝采でもって迎えられ、期待は高かった。

先代の綱吉は、「生類憐れみの令」を継続するよう遺言したが、家宣は葬儀の二日前、綱吉の柩の前で、側近の柳沢吉保に言った…
「生類憐れみの禁令に触れ、罪に落ちた者は数知れない。私は天下万民のために、あえて遺命に背くことにする」…この時、 罪を許された者は、八千数百人になるという。

先代は、老中を遠ざけ、ご用人・柳沢吉保を重用したが、家宣は、吉保を免職…新井白石を登用して、文治政治を推し進める。
財政改革に熱心だったが、在職わずか3年、51歳で惜しくも死去。
次の七代目将軍職は、家宣の子の"家継"が継いだ。

フリー百科事典「ウィキペディア」

2009年03月14日

生活習慣病「糖尿病」

■西郷隆盛と糖尿病

メタボといえば西郷隆盛…ピーク時の体重は、110キロにもなった。
沖永良部島に島流しになって1年6ヶ月。格子牢生活で、塗炭の苦しみを味わった。三食とも、冷飯に焼塩を振りかけるだけという食生活。 赦免されて帰ってきたときは、38キロ減って、72キロのスリムな体になっていた。
赦免されてからの7年間は、獅子奮迅の活躍…禁門の変で奮戦し、第一次長州征伐では、単身長州に乗り込み、戦わずして講和に成功。
そして、坂本竜馬の斡旋で、犬猿の仲の長州と同盟に成功した。

その勢いで、王政復古、更に、鳥羽伏見の戦い、江戸城無血開城と、肉体的にも、精神的にも、 計り知れないストレスに見舞われたこの時期…糖尿病を病んでいたのです。
生来肥満体質の西郷は、いつしか元の110キロに戻っていた。

糖尿の病を心配された明治天皇は、直々に減量をすすめられた。
天皇のドイツ人侍医が、西郷にヒマシ油を飲ませ、減量を試みた。
只でさえ飲みにくいのに、量が多いものだから、さすがの西郷どん、侍医を差し向けると閉口して、「これだけは…」と、逃げ回ったという。


【心と体の健康情報 - 648】
~生活習慣病~ 「糖尿病」

チョコレートが大好きな私、バレンタインで貰ったチョコレートを、血糖値とメタボを気にしながら、小出しにポリポリ食べている。

厚生労働省の調査によると、「糖尿病が強く疑われる人」690万人、「糖尿病の可能性を否定できない人」680万人… 合わせて全国で、1,370万人が糖尿を病んでいると、推定している。
ところが、糖尿病の治療を受けるため、病院に通っている人はわずか212万人。
なんで?…糖尿病は初期の段階では、痛みなどの自覚症状がないために、定期健診などで、医者から警告を受けても、つい放置し、 先延ばしにしてしまうのです。

生活が贅沢になり、体を動かさず、飽食から生まれた文明病…それが糖尿病です。
糖尿病は治療しても治らない病気です。また糖尿病は、遺伝的要因の高い病気で、両親に心当たりがあれば要注意です。 予防に心をくだく必要があるのです。
不幸にも糖尿と診断されたら、血糖値をコントロールして、恐い合併症を防ぐことが何より大切です。

血液によって運ばれるぶどう糖などの栄養素を、身体の組織が活用するのを促すため、 すい臓からインスリンが分泌されます。このインスリンの働きが不足すると、 エネルギー源となるはずの、ぶどう糖などの栄養素が血液中に溢れて、血糖値が高くなり、尿に糖が出るようになります… これが糖尿病の始まりです。

糖尿病は、遺伝や生活習慣と関わりが深いのですが、多くは、遺伝的体質を持っているところに、「食べすぎ・飲みすぎ・運動不足・ 加齢」などが加わり、発症するのです。
糖尿病は、初期の頃は自覚症状がなく、症状が出たときは、既に合併症がかなり進行してしまっている…そんな怖い病気です。 やたらとのどが渇き、尿が多くなり、体重も減ってきます。

「糖尿性腎症」は、自覚症状が出るに従い、急速に悪化…腎不全になって、 人工透析が必要になってきます。年間1万人以上の透析患者が、新たに生まれているという。 糖尿病が進行すると視角障害になり、失明してしまう…恐い病気です。

以前私が勤めていた会社の後輩…40過ぎに会社を辞め、独立起業した。
さあこれからと張りきっていた矢先、20代から慢性的に患っていた糖尿病が悪化。
視力を失い、車の運転が不能になった。仕事が出来なくなり、収入が途絶え、妻がパートに出て、家計を支えなければならなくなった。
将来に絶望し、1人家に閉じこもる日々…糖尿病を甘く見た結果の不幸です。

定期健康診断による早期発見、早期治療がとても大切な病気です。

2009年03月17日

名前ランキング

■赤ちゃんの名付け

「字画が悪いから」「名前が気に入らないから」と、親から貰った名前を
変えてしまう人がいます。
赤ちゃんに付けられた名前は、心を込めて両親が最初に贈るプレゼントです。
名前には両親の真心が詰まっています…一生大切にしたいものです。

だから、大人になってからも…自分にふさわしい、好な名前であってほしい…
人から、親しみをもって呼ばれる名前であってほしい…
生まれてきた時代にふさわしい名前であってほしい…

芸能人や流行歌手、スポーツ選手など、その時代の流行に追従した名前は、
周りに同じ名前の友達が何人もいたりして…
名前は一生変わらない…だから、ちゃんと意味があり、誰もが読める、
読み間違いのない、名前であって欲しい…
画数が少なく、書きやすい名前がいい…
字画がどんなに良くても、結婚して名前が変われば、意味がなくなってしまう…。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 649】
~私の昭和~「名前ランキング…時代とともに」

仕事も趣味も…家にいるより、山に海に、あちこち飛び回る方が好きな私。
親から貰った名前は「外喜雄」…外を喜ぶ男…アウトドアー好きの私に
ふさわしい名前です。
昨年08年、男の子に付けられた名前で、一番人気は「大翔(ひろと)」でした。
流行演歌のように、名前から生まれた年代が見えてくる。
そこで、戦前から戦後、現在に至るまでの、名前ランキングを追ってみました。

■男子
私の兄弟…昭和12年生まれの長男は「雄一」、次男は「忠雄」、三男の私は「外喜雄」、 四男で、19年生まれの弟は、戦争に勝ちたいとの思いから「勝治」。
戦後間もなく、22年に生まれの末つ子は「昭雄」。
戦前から戦後にかけて、男兄弟5人に父親が付けた名前です。

太平洋戦争真っ只中、昭和16年~20年に生まれた子供には、「勝・勇・進」など、戦勝を願う名前が多かった。 私の兄弟の名前にも「雄・忠・勝」が入っていて、 一億総決起時代の、父の思いが伝わってくる。
戦後間もない22年~24年は、平和であってほしいとの願いから、「博、和夫、清」が上位を占め、昭和30年代は、「誠、浩、茂、隆、 修」などがランキング上位を占めた。
生活にゆとりが出始める昭和40年代になると、「健一、哲也、剛」が上位を占め、昭和53年まで、「誠」が毎年一位になった。
昭和49年~61年の十年間、「大輔」が1位・2位を独占…「直樹、健太」が続く。
昭和63年~平成9年の十年間は「翔太」…「拓也、健太」が続く。

平成10~19年は「大輝」が一位…翔、大翔、翔太など、「翔」の人気は相変わらず。
「拓海、海斗」のような凝った名前が増え、読むのに一苦労する。
「大翔」の場合…ヒロト、ハルト、ヤマト、ダイト、ダイキ、タイト…など、 幾つもの呼び名があり、幼稚園の先生も大変です。

■女子
年号が昭和になった昭和2年、昭和の一字を取った「和子」がランキング1位になった。
この「和子」という名前、よほど気にいられたのでしょう…昭和27年までの26年間、戦前戦後を通して、ランキング1位23回、 2位が3回と、3位以下になったことがない。

「幸子」は27年間に、1位1回、2位16回、3位5回。
「洋子」は1位1回、2位4回、3位6回。
「節子」は昭和5年~14年の十年間、ずっと3位だった。
昭和28~38年は「恵子」がダントツの1位8回。「久美子、由美子」が続く。
その後、「陽子、智子、裕子」などの名前が上位を占めるが、昭和57年を境に、下に"子"が付く名前は姿を消していった。

代わって「愛」ちゃんが、昭和56年~平成7年の15年間、1位8回、2位7回、
「麻衣、美穂、彩」が続く。
平成3年からの6年間は、「美咲」が1位を独占。
平成9年以降ようやく、「明日香、萌、さくら」に取って代わり、
最近5年間は「陽菜」が1位、2位にいる。

2009年03月24日

将来に備えて

■将来に備えて…

40年後の2050年…あなたは何歳になっているでしょうか?
2050年…日本の総人口を占める65歳以上の割合が42.2%になり、老齢化のピークを迎えるのです。過去、どこの国も経験したことのない、驚異的老齢化社会が、21世紀末まで続くのです。
どんな世の中になっているだろうか?…バスの運転手も、医者も看護婦も、70歳以上の年寄りにも働いてもらわなければ、社会も経済も回っていかないだろう。

今は不況…失業者が出た、モノが売れないと騒いでいるが、これから先、世の中はもっと厳しくなることを覚悟しなければならない。
憲法で国民の権利が守られている。が、国民の4割が65歳以上になって、国は、私たちの生命・財産、最低限の生活を保障できるだろうか?

国が当てにならないとするなら、暮らしや家族は、自分で守らなければならない。
贅沢や無駄を慎み、出来るかぎりの貯蓄をしておかなければならない。
冬の時代が迫りつつある今、いつまでもキリギリスをやっている訳にはいかない。
そんな日本が嫌なら…どこか?暮らしやすい外国へ脱出することです。


【心と体の健康情報 - 650】
~幸せな人生を歩むために~
「将来に備えて…」

今週の倫理591号「日本人の原点に返り 大波を押し返そう」を転載します。

世界銀行は2005年、開発途上国人口の四分の一にあたる14億人が「貧困層」であるとの統計を発表した。
現在、地球上には、約67億4千万人の人口が溢れており、貧困層は総人口の20.7%…日本円に換算して、一日140円未満で生活している人々です。

我が国では、生活に困窮する国民に、様々な生活保護を行なっている。
最低限度の生活の確保を目的とした「生活保護制度」(生活扶助、教育扶助、住宅扶助、医療扶助、介護扶助、出産扶助、生業扶助及び葬祭扶助)が充実しており、最低でも月額6万円以上の援助が約束されている。

国によって、物価の違いなどで、一概には言えないが、世界の基準に照らしてみると、我が国には、一人として世界基準に該当する生活困窮者はいないということになる。
さらに、日本人は他国に比べ、非常に恵まれた環境の中で暮らしている。
食糧難で餓死することはないし、四季折々の食料も豊富です。また、治安も安定し、夜間の外出もよほどのことがない限り、事件や犯罪に巻き込まれることはありません。
飲料水は公園や公共施設、至るところにあり、高レベルの教育が受けられます。
医療も充実していて、世界でも冠たる長寿国として有名です。

あるアメリカ人が来日した折に、日本のホームレスが、街角で新聞を読んでいる姿を見て、「彼らは字が読めるのになぜ働かないのか? アメリカでは、読み書きできない者がホームレスになる…日本はどうなっているのだ」と、驚いたという。

幸せや豊かさの基準は、人により様々ですが、世界の生活水準から客観視すると、戦後私たちは、長年にわたって世界で最も安定した生活を保ち続けてきたことになる。
が、そんな幸福とは裏腹に、いつしか拝金主義がはびこり、日本人が大切に守ってきた「謙譲の美徳」や「相互扶助の精神」「心の豊かさ」などは、どこかに置き去れてしまったようです。それが今日の日本の弊害の原因…と、指摘する人がいる。

百年に一度といわれる経済不況の今、私たちは改めて、日本人の原点に立ち返らなければならない。
「感謝は最高の気力」と言われます。何気ない当たり前の暮らしの中に、幸せと豊かさ、喜びを見いだす…「ありがとう」の精神が、すべての感謝につながるのです。

「運命を切り開くは己である。境遇をつくるも亦自分である。己が一切である。
努力がすべてである。やれば出来るのです」               (万人幸福の栞37頁)

2009年03月27日

大家族の幼年時代

■ 不景気風が吹く今…

不景気風が肌で感じられるようになり、先き行に対する不安がつのってきている。
企業の倒産件数も過去最大になった。
入りに見合う出…「商いが少ないい時は、出を抑え、無駄を省き、質素倹約に努めるのが商人」…小さい頃、父親が言っていた言葉です。

子供の頃の食事は粗末だった。白いご飯が食べられるようになったのは、戦後十年くらい後である。御飯のおかずにカレイの煮付け… 今ならステーキだろう。
身をきれいにほぐして食べ、皿に残った骨にお湯をかけ、そのスープをすする…母は、骨を捨てずにこんがり焼いて、炒りゴマを混ぜ、 ご飯のふりかけにした。

茶の間には裸電球が一つ…クーラーも暖房器も、テレビも自家用車もなかった。
中学を出るまで、うどん屋の暖簾をくぐった記憶がない。

贅沢な暮らしにどっぷり浸った今の暮らし…お金がないと、生きていくのが辛い世の中だ。貧しさを知る私たちの世代は、 貧しさに耐えていく自信がある…。
豊かなバブル期に育った世代には、辛く厳しい世の中になっていくことを、覚悟しなければならない。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 651】
~私の昭和~「大家族の幼年時代」

私は昭和16年生まれ。香林坊の小さな商店の、7人兄弟の四番目に生まれた。
私の父…シナ事変で兵隊に取られた。戦地から帰ったら、勤めていた会社「粟ヶ崎遊園(宝塚を模して作った)」が、 戦時閉鎖で無くなっていた。

父は、生活のために、麻紐・ロープの小商いを始めた。どの家庭にも必要で、ライバルのお店も少ない…商いになると考えたようです。
昭和21年…満州から引き揚げてきた叔父家族4人と、私の家族、合わせて13人が一つ屋根の下で暮らした。

父はしつけに厳しく、風邪を引かない体になるからと、冬でも薄着をさせられた。
*「おはようございます」「お休みなさい」を、きちんと手をついて言わされた。
*食事は、最初に父親が箸を取り、全員揃って「いただきます」と言うまで、食べられなかった。
*履物を揃え、脱いだ着物は枕元に畳んで置くよう躾けられた。

食事に好き嫌いをしたり不平を言うと、厳しく叱られた。
こぼしたご飯は拾って食べ、「お百姓さんに感謝して食べなさい、罰があたる」が、お婆ちゃんの口癖だった。人様に迷惑をかける行為には、 とりわけ厳しかった。

どの家も子沢山で貧しかった。私は、身を粉にして働く両親の姿を見て育った。
父母は365日一日も休まず、元旦の午後にはもう算盤をはじいて、帳付けをしていた。
食事中、どこから入ってくるのか、アラレがパラパラ落ちてきた。国道に面した二階の窓は障子張りで、朝、目が覚めると、 枕元に吹き込んだ雪が、積もっていた。

母は、毎朝5時に起きて6人分の弁当を作り、子ども達に持たせた。
給食が始まったのは、小学三年の昭和26年…コッペパンに脱脂粉乳、ほとんど具のない味噌汁…白いウジが何匹も浮いていた。

お婆ちゃんは、朝6時に店を開け、家の周り・隣近所を掃き清め、ジョロで水を撒いた。茶の間と店の間に覗き窓があり、食事中・ 客が入って来ると、店に立つのは母だった…夜は、子ども達の着物をつくろい、夜遅くまで身を粉にして働いていた。
兄弟は分担して家事を手伝った。洗濯機も、冷蔵庫も、掃除機も無かった時代です。私は、毎朝かまどに薪をくべ、二升釜のご飯を炊いた。 「初めちょろちょろ、なかパッパ、赤子泣くともフタ取るな」…今も、ご飯を炊くのは上手いと思う。
炭を切ったり、お使いに行くのが私の役割…家族みんな助け合って暮らしを支えた。
寒いのは我慢出来た。しかし夏の夜…蚊帳の中は暑苦しく、眠れなかった。
母親の実家から届けられたスイカを、家の井戸で冷やし、家族みんなで切り分けて食べた…暑い夏には、最高のご馳走だった。

冷蔵庫が無かった時代です。小学五年の夏、夜食べた魚で、家族全員疫痢になった。夜中に医者がやって来た。ただ1人元気だっ私は、 氷を砕いて水枕に入れるなど、看病を手伝わされた。
中学三年、昭和32年まで、朝は、さつま芋が入った芋粥、夜は、麦3分のご飯を食べていた。おやつも芋…芋が、 育ち盛りで食欲旺盛な兄弟のお腹を満たしたのです。
当時は、どの家庭も似たようなもの…それぞれの家庭が…学校が…隣近所が…
小さな社会になって、助け合って暮らした…幸福だった。犯罪もなく、夜、家に鍵を掛ける習慣がなかった…60年前の私たちの暮らしです。

 

 

2009年03月31日

尋常小学校「修身教科書」から

■小学修身教科書より

「第十五 礼儀」
人は礼儀を守らなければなりません。
礼儀を守らなければ、世に立ち、人に交わることができません。
人に対しては、ことばづかいをていねいにしなければなりません。
人の前であくびをしたり、人と耳こすりしたり、目くばせしたりするような、不行儀をしてはなりません。

人に送る手紙には、ていねいなことばを使い、人から手紙を受けて返事のいる時は、すぐに返事をしなければなりません。
又、人にあてた手紙を、ゆるしを受けずに開いて見たり、人が、手紙を書いているのを、のぞいてはなりません。

その外、人の話を立ち聞きするのも、人の家をのぞき見するのも、よくないことです。
人と親しくなると、何事もぞんざいになりやすいが、親しい中にも礼儀を守らなければ、長く仲よく付き合うことはできません。
「親しき仲にも礼儀あり」です。


【心と体の健康情報 - 652】
~歴史から学ぶ~
尋常小学校「修身教科書」から

戦前の学校教育に「修身」という科目があり、古今東西の偉人・賢人達の具体的エピソードを通じて、「正直・謙虚・礼儀・勤勉・ 公益・勇気」といった科目を子ども達に教えていました。
修身教育の根本方針は、明治23年10月30日の「教育勅語」(メルマガ583号585号587号に掲載) によって定められた、全文315文字の短文からなります。
勅語は、「自己・家族・友人・社会・国家」に対する、国民が守るべき十四の徳目を説いています。
例えば「博愛の精神」…「博愛」と言われても、抽象的で、その意味がよく分かりません。修身の教科書では、エピソードを通して、 小学生にも十分理解できるよう、血の通った道徳教育がなされているのです。

■小学校修身教育 「博愛」の教え

紀伊の国の水夫寅吉は、蜜柑を積んだ船で江戸へ行った。
その帰り途、暴風に遭遇した。船は、一晩大波にほんろうされ、帆柱が折れ、舵は壊れ、遠く、 大洋の真っ只中に吹き流されてしまいました。
二ヶ月ばかり大洋の中を漂い、食物も飲料水も尽きて、大そう難儀をしました。
ある日、ちょうど通りあわせたアメリカ合衆国の捕鯨船が、寅吉たちを見つけて、救い上げ、パンなどを与えて、 親切にいたわりました。
船長が、どこの者かと聞いたが、言葉が通じないので、地図を出して見せて、やっと、紀伊の人ということがわかりました。

それからこの捕鯨船は、北の方へ鯨を捕りに行き、半年ばかりたって、帰りに船長は便船に頼んで、 寅吉たちを香港まで送り届けました。
香港には仕立屋をしてる日本人がいて、親切に世話をし、フランスの船に頼んで、上海まで送ってくれました。

そこで寅吉たちは、支那の役人の保護を受け、便船に乗り継いで、やっと日本に帰ることが出来ました。故郷では、 三年も便りがなかったことから、死んだと思い、葬式を出して墓までしつらえていました。
寅吉たちが無事に帰ってきたので、夢かとばかり喜びました。

知っていても知らなくても、「博く愛する」のが"人の道"です。
いろいろ災難にあって、困っている人を救うのはもちろん、たとえ敵であっても、負傷したり、病気になったりして、 苦しんでいる人を助けるのは「博愛」であり、人の道なのです。

明治37年、日露海戦において、上村艦隊が敵艦を打ち沈めた時、敵のおぼれ死のうとする者を、 六百余人も救い上げたのは、名高い美談です。

戦後の教育の現場からは、「修身」や「教育勅語」が排除されてしまった。
私たちは修身の内容を知らず、軍国主義の思想教育であるかのような、固定観念で見ている…。
徳目に書かれている内容をよく読むと…政治・マスコミ・日教組などで、"修身"が話題になっただけで、トラウマになって反対する… その理由が分からない。

(論語の友)

問題の箇所があれば、そうした箇所を削除し、今の学校教育にふさわしい内容に改め、修身を復活すべきと思うのですが…。
なぜ、薪を背負った二宮尊徳像が、小学校の校庭から撤去されなければならないのか?なぜ、二宮尊徳が教育の現場から排除されたのか?

 

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