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2006年10月 アーカイブ

2006年10月03日

勉強のできない我が子(2)

■ヤマ勘も才能のうち?
吉村の"ヤマ勘"。一番の思い出は高校卒業の時。病気療養中で、学校から
就職の斡旋がない。無断で、学校推薦なしで、一箇所だけ就職試験を受けた。
一回こっきりのチャンス。一発採用に賭けた。注目を引くために…まず、市販
の履歴書を使わず、和紙に"一字一魂"筆書き! 巻紙にたたんで提出した。

次いで、面接での質問を想定して、事前に予習。作文も苦手だった。
そこで、出題に山を張った。浮かんできたのは「実社会に出るにあたって」。
4百字詰め原稿用紙二枚分、前もって作っておいて、試験場に臨んだ。

試験会場の商工会議所別館は、高卒2名採用に、75名の学生で溢れかえった。
就職難の時代だった。当日は一次試験。学科試験と作文、面接は五人まとめて
行われた。
学科試験の後、いよいよ作文。奇跡が起きた…。試験官がやおら黒板に
「実社会に出るにあたって」と書いた…。その瞬間を忘れない。数日後、
二次面接の通知が届いた。三次面接も無事通過。採用通知が届いた…。

「運」という字は"ワ冠に車"、それに動きを表す"しんにゅう"が付いている。
つまり、一所懸命走り回らないと、"運"は掴めないということです。

【心と体の健康情報  - 263】 
~子育て心理学~
「勉強のできない我が子、両親はどう導く?(2)」

豊田商事事件に関わり、元日弁連の会長で、弁護士の憧れの的"中坊公平"氏。
幼少の頃神童と思いきや、成績は"丙"ばかり。落ちこぼれの生徒だったのです。

公平少年、幼い頃から寝小便が直らず、16歳まで続いた。ところが、母親に
叱られたという記憶がない。「お母ちゃん、またお布団が濡れた…」と言えば、
母親は何時であろうと起きてきて、笑って、新しい布団に変えてくれた。

公平少年が、社会の評価を初めて受けたのは、昭和17年。公立の中学の
入学試験を落第した。試験当日父親は、息子が泣きじゃくって帰ってくることを
察知して、布団を敷いて寝ていた。
布団に抱き込んだ父親、
「公平、心配せんでもえェ、おまえにはお父ちゃんとお母ちゃんが付いてる」
続けて母親が、「公平、今は戦時中です。何れ平和になる。その時は公平の
時代ですよ!必ず公平が活躍できる時代になる」と、公平に希望を持たせた。

中学二年の一学期の中間試験の時、突然クラスで一番の成績になった。
「お母ちゃん、僕一番や!」と母に言ったら、「公平、あんたは天才や!
いいかい、秀才は徐々に成るもんやが、天才は一夜にして成るもんや…」。
いつの間に自分は天才になったんやろう…?良かったなァ~、と喜んだ。

ところが、一学期の期末試験では、25番に落ちた。
「お母ちゃん、やっぱりあかんかった…」と言ったら、母親は「何言うてんの、
世の中25番が一番ええのや。"中庸は徳の致すところ"とあるやないの…」
(中庸…儒教の教典。四書…「大学」「中庸」「論語」「孟子」)

入学試験に落第した時は、「公平が悪いんやない、世の中が悪いんや…」
と母親。どんな状況であっても、プラス思考でいることを教えてくれた。

両親は、我が子に何を与えようとしたのでしょう…。
安堵感」を与えようとしていたのです。「安堵感」 を人に与える人間になること、
それは社会人になった後に特に必要なことです。人生落ち込んだ時、
「安堵感」を持つことで、「意欲」が湧いてくるものなのです。

自分には鉄の才能しかない。しかし、クラスメートには負けたくない…。
そこで、どうしたらいいか?知恵を働かせた。中坊少年は、ヤマ勘を働かせる
ことが大得意だった。先生は、「採点しやすい問題」を出題してくることに気付
いた。そこにヤマを張った。
この特技が幸いして、京大に受かり、弁護士になった。自分は誰より頭か悪
い人間、"鉄"の人間と自覚していたからこそ、しっかり地に足を付けて人生を
歩み、人生の階段を上り詰める処までいったのです。

私(吉村)も人並みに勉強した。が、所詮は"鉄"。頭の良い、IQの高い生徒
には敵わない。人と同じことをしていてはダメと、いつの頃からか、試験問題
に山を張るようになった。"第六勘"がよく当たるのです。思わぬ才能に気づき、
ヤマを張ることを得意とするようになった。

中学二年の一学期、クラスの成績順位が30番以下だった私。それまで、親から
「勉強しろ!」と言われたことがなかった。それが、三年の二学期末には3番に
なっていた。ヤマ勘の威力はすごい! 
そのコツは、いたって簡単…
(1)どんな問題を出題するか、出題する先生の立場に立ってヤマを張る。
(2)毎日の授業の進め方に注意。先生が1ページに費やした時間の長さを、
   ページの頭に書き込んでおき、先生が多く時間をかけた箇所を、重点的に
   復習。

2006年10月06日

「昔は皆、自前の"はし箱"を持っていた」

◆ある零細企業の挑戦
河内長野は爪楊枝の国内生産地。 ところが安い中国産に押されて
産地は壊滅。強い相手と同じ土俵で戦っていては勝ち目はない。
将来が見えないまま、ほとんどが廃業してしまった。

そんな中、しぶとく生き残っている工場がある。
自分たちの会社には、長年培った"技術"があるじゃないか…。
生き残る道はないかと、必死に考えた。
「新しい市場」を求め、「新しい商品」を模索する苦闘の日々…。

ついに、歯の治療が目的の「高級三角楊枝」を発案。
商品化に成功した。歯科医業界は新しい市場、競争相手がいない。
そこに自社の新しい商品を売り込んだ。
新商品の楊枝は一本2円20銭、中国産爪楊枝は20銭。
11本分に相当する。

 

【吉村外喜雄のなんだかんだ  - 143】
「昔は皆、自前の"はし箱"を持っていた」

今年の春、小池環境相は、昨年のクールビズ成功?に気をよくして、
"風呂敷"の利便性を国民に提唱した。

ジャスコでは、レジ袋に詰め替えずに、自前の「マイバスケット」の普及を
呼びかけている。近所の生協でも、レジの袋を使わずに「マイバック」の持参を
促すようになり、私も車にマイバックを常備している。

マスコミの報道でご存知でしょうが、コンビニ弁当についている割りばしが、
有料になるかもしれない…。日本の割りばしの消費量は、年間二百五十億本。
90%が中国からの輸入。その中国製割りばしの値上げが原因という。

理由は「原木の高騰」。昨年中国は、50%の値上げを一方的に通告してきた。
更に追い討ちをかけるように、中国政府は今年の3月、「森林保護・環境保護」
を理由に生産を制限し、何れ輸出そのものを禁止すると言ってきた。

中国には、割りばしを使う習慣がない。「人件費が安いから」と、目先の単純な
動機で、中国に製造機械を持ち込み、ノウハウを教えた日本の産地企業。
技術ノウハウを、そっくり中国に持っていかれてしまった。

国内の割りばしの生産地は、奈良と北海道。高級品主体の奈良は、今も命脈を
保っている。が、中国産と競合した北海道は、競争に勝てず、85年当時約70社、
1900人就業していた生産地が、04年現在8社40人にまで激減、壊滅してし
まった。
外食業界は、今後の対応を模索している…。
全国に760店舗の居酒屋を展開し、年間1500万本消費する"海鮮マルシェ"
は、対応策として、全店2月からプラスチック箸に切り替えた。
発想は良かったが、箸を洗うコストや、箸袋に詰める手間が余分にかかる…。

そこで「自前の箸の持参」をお客様に呼びかけ、「マイ箸割引サービス」を始めた。
箸を持参したお客様に50円のポイントを差し上げ、10ポイント貯まったら、
500円分の飲食をサービスする。
更に、お客様から頂いた50円を、自然環境保護団体に寄付することにした。

この会社では、お客様だけでなく、社員さんも自分の箸を持ち込むよう徹底…。
携帯ストラップのように、社員が思い思いに、一言自慢したくなる、
意味ありの箸を持参するようになった。環境保護への意識も高まってきた。
マルシェは、"マイ箸"へこだわる社員を見て、「これはビジネスになる!」と、
「お箸の専門店」を計画しているという。

割りばし同様、産地衰退の道をたどったのが「爪楊枝業界」。
生産地は大阪河内長野。つい最近まで、日本のシェアーの70%を押さえてい
た。割りばし同様、中国に機械を持ち込んで技術を教えたのは、河内で一番の
製造業者。
同業者の反対に合い、組合を脱退してまで、中国に工場を作った。
ところが三年もせずして真似され、生産地、河内長野は壊滅。残っている
工場はわずか数軒。

今は忘れているが、昔は皆"自前の箸箱"を持っていた。
会社や学校では、自前の箸で食事をした。
そこで、外へ食事に出かける時、自前の箸を持ち歩いてはどうだろう…。
食品スーパへ「マイバック」を持参するように、そんなささやかな行為も、
みんなでやれば、温暖化防止と、資源保護の一助になる…。

2006年10月10日

子どもの適正と人生

一歳半の孫、大人のやることを見ていて、上手に真似る。 「学ぶ」の語源は「まねぶ」。つまり"真似ぶ"ことから始まる…

・毎朝、みんなと一緒に長い柄のホウキを引きずって、掃除の真似事…。
・お客様が入ってくると駆け寄り、満面の笑顔でおじぎする。
・パソコンのキーを触り、受話器を耳に当て、意味不明のことをしゃべる。
・商品を手に取り、「どうじょ!」と持ってくる。
・やたらとペンを持ちたがり、目の前に紙があれば、書きなぐる。

誰が傍に来ても人見知りしない。誰にでも笑顔を振りまき、可愛がられる。
会社で大人たちがやっていることを上手に真似る。日々成長する姿を見て、
その吸収力・学習力には感嘆する。子どもの持つ能力は無限…。

子は親のコピー…、癖までそっくり似てくる。
真似されてもいいよう、良いお手本を示さなければならない…

【心と体の健康情報  - 263】 
~子育て心理学~
「子どもの適正と人生」

私は男四人・女二人の、六人兄弟の三番目。家に居座わられては困ると、
"外喜雄"と名づけられた。
長兄は、兄弟の中ではずば抜けて頭が良かった。(後に息子さん早稲田へ)
高校はインターハイで活躍。大学へ行きたかったが、当時、満州から引き揚げ
てきた叔父家族が同居。13人の大家族が一つ屋根の下で暮していた。

家は貧しく、毎日食べるだけで精一杯。長男を大学へ出す余裕などない。
兄は父から「商人に大学は無用」と、大学を諦めさせられた。店を継ぐまで、
しばらく他所の空気を吸ってくるようにと、高校卒業後、大手銀行に就職した。

次男の私は四つ年下。その頃になると少し家計に余裕が出て、大学受験OK。
ところが、肝心の私は病気療養中で、家族の厄介者…。
家族会議が持たれ、将来の見込みが立たない私を家に残し、長男が家を出る
ことになった。私は両親の元でじっくり療養し、いずれ、私が母屋と家業を継ぐ
ことで、兄は了承した。長男と次男の立場が入れ替わったのです。

その後兄夫婦は、全国を転勤して歩く人生。能力を評価されながら、学歴高卒
が災いして、支店長にはなれなかった。始めから家を出るとわかっていれば、
無理をしてでも大学へ行っただろうに…。兄には申し訳ないことをした。

しかし長兄は、商人には向かない事務屋タイプのおっとり性格(銀行マンが
お似合い)。しかも多趣味。何をやっても私より上手い。銀行で出世できなかっ
た代わりに、植木等ではないが、気楽なサラリーマン稼業を満喫できたと思う。
右肩上がりの良き時代に人生を過ごし、バブル崩壊後、窓際に追いやられる
こともなく、つつがなく65歳の定年を迎えた。

兄は、私と入れ替わって良かったのでは、と思う。
もし、兄が家業を継いでいたら…長兄としての責任と義務感(几帳面な性格)
から、家業を守り通そうとしただろう。
(私はそれが希薄だった。家業を親から受け継いだが、父親が亡くなった後、
一生続ける気がないと廃業し、自分の好きな道へ…)
その後、商いを続けるには難しい世の中になった。兄が店を継いで幸せになれ
たかは疑問です…。

一つ下の弟の三男は、勉強嫌いで、生まれながらの"鉄"。
そこで父は、中学を出ると直ぐ、東京のハンドバックメーカーに住み込ませた。
学問のない弟の将来を考え、手に職を持たせようとしたのです。
15歳で親元を離れ、腕を磨き、手に職を付けた弟。三十代に独立、所沢に
土地を求め、家を建てた。腕のいい職人…と、発注元の信頼も厚く、知らない
土地で幸せに暮している。

一番下の弟は、金沢美大に約5倍の難関を突破、まさかの合格。その喜びが、
人生を迷わせることになろうとは…。"鉄"の能力しかないのに、自らを"金"と
思い込んでしまった…?
社会人になってからの弟は、プライドが高く、芸術家気取り。努力したが報わ
れず、運やチャンスにも恵まれないまま、"天命を知る"歳になってしまった。
兄弟の中でただ一人大学を出ながら、幸せには縁遠い…。

戦後教育の大きな問題は、大学を選択せず、商業や工業系の高校に進む生徒を、
一段低く見てしまうことです。
ヤンキース松井選手の出身校、星陵高校。私の長男も世話になった。
当時は、大学進学を目指す学生の、滑り止め高校だった。志望高を落ちた生徒
が、已むなく入る学校だったのです。
入学式に参列した母親の中に、我が子の将来を悲観し、人目もはばからず嗚咽
を漏らす人がいて、何とも暗い入学式だったと、帰ってきた妻が言った。

我が子を、技術系の専門学校に入れるのを、世間体が悪いいとか、恥ずかしい
といった、親の偏った社会観・職業観。それを改めない限り、子どもを能力に
合った人生の選択など、してやれないでしょう。
更には、社会の偏見も改めていかないと、どうにもならないでしょう…。

2006年10月13日

「愛するヘブンと家族旅行」

わが家のビーグル犬"ヘブン"。娘がアメリカに留学していた時、アパートで飼っ
ていて、大家さんに見つかり、処置に困って、はるばる日本に送られてきた。

小松空港へ引き取りに行った。
狭い犬小屋に2週間も閉じ込められ、げっそり痩せて、オシッコまみれ。
私達が覗き込むと、尻尾を千切れんばかりに振って、擦り寄ってきた。
昨日まで犬が怖くて、傍へ寄ることも出来なかった妻。
あまりの可愛さに膝に乗せると、喜びで全身を震わせ、ペロペロ顔中なめ回した。

あれから12年、人間なら75歳のお婆さんになった。最近急に足が弱くなり、
階段の上がり降りを嫌がる。毎朝の散歩も行きたがらなくなった。

 

【吉村外喜雄のなんだかんだ  - 145】
「愛するヘブンと家族旅行」


先週の連休、可愛い"ヘブン"を連れて、思い出作りの一泊旅行 に出かけた。来年連れて出るのはもう無理だろう…。

愛犬を伴っての旅行は、今回で四回目。着いた所は、愛犬と共に泊まれるお宿、妙高赤倉高原 プチホテル「dogs.inn」。

ペンションを経営しているご夫婦 は、大の犬好き。寝室も食堂も、<館内すべて愛犬同伴OK 他所にはない、愛犬がくつろげる、 レンガ貼りリビングルームもあって、嬉しい。

一歩外へ出れば、高原の涼やかな風が頬を伝う。"ヘブン"は嬉しくて、白樺の
散歩道を、ぐいぐい手綱を引っ張り、嗅ぎ回る。
旅の最大の楽しみは、何といってもホテルの食事。「dogs.inn」の自慢は、
オリジナルのイタリアン料理。

私達夫婦は、家族旅行の前日、友人の税理士事務所の記念パーティに招待され
た。そこで頂いたフランス料理は、金沢ではトップクラス。
だが、このペンションで出される料理の美味しさには、勝てないと思う…。

では、美味しかった「dogs.inn」の夕食メニューを思い出し、書き出してみます。
前菜は、「戻りカツオの刺身と柿のもとのサラダ」
次いで「秋ナスとお豆腐のグラタン」、「若鶏と栗のスープ」へと続く。
メインは、「虹マスのアカアパッツァ」と「津南町の豚肉のサルラィンボッカ」
デザートは「栗のパウンドケーキ」、そしてコーヒーor紅茶。

地元の季節感あふれる食材を上手に取り込み、白ワインが美味しさを引き立て
る。一皿一皿、出される料理を味わうごとに、美味しさが喜びになり、幸せな
気分に浸る。
更に感激したのは、翌朝の朝食。私達を精一杯もてなそうとする、ペンション
ご夫妻の想いが伝わってくる。
テーブルの土鍋の蓋を取ると、郷土料理「ソバ粥」。フツフツとソバの香りが
漂ってくる。茶碗によそい、塩味の効いた野沢菜や、鮭の塩焼きと一緒に戴い
たが、とっても美味しかった。

郷土料理の「くるま麩の卵あえ」や、「柿の千切りあえ物」も、初めて口にする
料理。美味しかった。宿の朝食は、これに味噌汁、温泉卵、海苔があれば十分
なのに、感動したのはここから…。
これも郷土料理でしょう、「里芋の団子汁」が出てきた。けんちん汁に里芋を
擂って、団子に丸め煮込んだもの…。いや~満足、満足、美味しかった…。

これで終わりと思ったら、柔らかくじっくり煮込んだ、四センチ角のボリューム
ある豚肉の塊が二個出てきた。噛まなくても、口の中で肉汁が柔らかくとろけ
る。沖縄の豚の角煮を西欧風味にしたような、さっぱりとしていて、美味しか
った。デザートはリンゴ、絞り立ての牛乳、コーヒーor紅茶。

こんなに豪華で美味しい朝食は初めて…朝食から、お腹のベルトを緩めること
になろうとは…。夕食の時も、朝食の時も、ご主人が一品運んで来るたびに、
私達のテーブルの前で、料理と食材を丁寧に説明してくれた…。

このプチホテル、定員は六部屋。夫婦二人が心からもてなすには、ここが限界
かも…。玄関前まで、ご夫妻が見送りに出た。素敵なプチホテルに泊まれたこ
とに感謝…「来年又来ます」と約束し、車を出した。

 

2006年10月17日

人は使命を持って生まれてくる

■ヘレンケラーとサリバン先生
ヘレンケラーは、一歳の時重病にかかり、 幸い命は助かったものの、口は利けず、
目は見えず、耳も聞こえず、生きるだけの、三重苦を背負って生きていくことに
なった。
ヘレンの家庭教師に、サリバン先生がやってきた。その日から不屈の挑戦が始ま
った。「水」の一字を教えるために、井戸端に行って手に水をかけ、水を飲ませ、
手に"水"と書いて教える。こうして一字一語覚えていった。発声練習も必死にやった。

8歳の時ボストンの盲学校に入学。休暇で家に帰ったとき、「お母さま、ただいま」
と言ったのには、皆、飛び上がるほど驚き、母は喜びのあまり抱きしめた。

その後猛勉強して、大学に入学。勿論サリバン先生も一緒。ヘレンの手のひらに
先生の講義を書き続ける、サリバン先生の底知れない忍耐が二十数年に及ぶ。
24歳の時、優等生で卒業。それからの生涯、世界の平和と救済のために働き続
けた。日本にも三度来日している。

サリバン先生との出会いがなかったら、後のヘレンケラーは存在しなかっただろう。

【心と体の健康情報  - 265】 
~子育て心理学~
「人は一つの使命を持って、この世に生まれてくる」

「♪ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね…」
九十六歳になる詩人、まど・みちおさんの作品「ぞうさん」です。単に母と子の、
なかよし童謡ではなく、象の子が「お鼻がながい…」と、からかわれる歌です。

でも、象の子は「そうだよ、ぼくの一番好きなかあさんも、長いのよ」と、誇ら
しげに答える。そんな歌だと、まどさんは言う。「象が、象に生まれたことを
誇りにしているのです」              9/20 中日新聞「中日春秋」     

私の子どもの頃も「いじめ」はあった。中学1年のクラスに、韓国系の女の子が
転校してきた。「朝鮮、朝鮮とパカにするな…」と囃したてられ、泣かされてい
た。可愛そうに思ったが、私も、クラスの生徒も、いじめの矛先が自分に向け
られるのが怖くて、見て見ぬ振りをしていた。

あの子は今どうしているだろうか…?心の傷は癒えただろうか…?
五十年経った今も、思い出すと心がうずく。

人は、この世に生まれてくるとき、神様から一つの"使命"を与えられ、
一通の手紙を持って生まれてくる。誰よりも足が速かったり…、誰よりも体が
大きく力持ちだったり…。早く走る能力を持って生まれた子は、それを生かし
て人生を歩んでいけばいい…。

ところが、それに気づかず、「自分は何でこんなにチビなんだろう。どうして
力がないんだろう」と、自分にないものを求め、憧れ、うらやみ、ねたみ、
悩む。そんな子が、いじめっ子になったり、いじめられっ子になったりする。

小学生の頃の私は、運動会が大嫌いだった。原因は、幼稚園の親子遠足。
白山姫神社の境内での恥ずかしい体験が、私をかけっこ嫌いにしてしまった。
園児が5~6人並ばされ、顔に紙袋をかぶせられた。
ヨ~イドンの掛け声で、お母さんの声のする方へ駆けていく。そうやって順位
を競う、楽しい親子リクレーション。

袋をかぶせられ前が見えない私、お母さんの声はすれど、どっちへ行っていい
か分らない。気ばかり焦る。その内に、よそのお母さんの声がしなくなった。
私の母親の「こっちよ!こっち!」と叫ぶ声だけが、聞こえる。

ようやくゴールにたどり着き、紙袋を取ったら、周りの視線が私に集中してい
た。みんな私を見て笑っていた…。その時の恥ずかしかった屈辱感が、心の底
の傷となって残った。そして私は、運動会のかけっこが大嫌いになった。

「マラソンランナーは相撲取りになれない。相撲取りはマラソンランナーに
なれない」

生まれながら、小さくきゃしゃな子供に、「あなたが持って生まれたその"力"
で、世の中のお役に立ちなさい」と、神様は言わない…。だから、力持ちに
なろうなどと思わなくていい。誰からも期待されないことに劣等感を持つなど
、まったく無意味です。
ほとんどの人は、神様から託された一通の手紙を開封することなく、自らの
価値に気づかず、一生を終えていく…。

2006年10月20日

「落語 時そば」

■ことば遊び イソップ物語 「井の中の蛙 大界(大海)を知らず…」

狐が井戸の底を覗きこみ、「蛙さん、可哀そうに、井戸の底から見える世界は、
丸く小さなお空だけ。それに引き換え僕なんか、春・夏・秋・冬、野山を駆け巡
り、小川で遊び、楽しいことだらけ…、君には想像できないような世界を沢山
知っているよ…」。
そんなやりとりから、「自分の狭い了見に囚われ、他に広い世界があることを
知らないで、得々と振舞っている様」を例えて、言うようになった…。

この狐の哀れみの言葉を耳にした蛙、何て返答しただろうか? 
「井の中の蛙 大界を知らず」と哀れんだ狐さんに、蛙は「されど……」と、
胸を張って言い返した。

答えは、このメルマガの最後に…

【吉村外喜雄のなんだかんだ  - 146】
~ことば遊び~
「落語・時そば」

今日は、落語家柳家小さんの得意ねた、「時ソバ」のさわり。
「笑い」をくすぐる…、私の好きな落語の一つです。

町を流し歩くソバ屋を呼び止めた男が、客のくせに調子のいいことを並べて
ほめちぎる。
「おめえんとこの行灯、変わってるねェ~。的に矢が当たってるじゃねえか」
『へえ、手前どもの屋号は"当たり矢"と申します』
「当たり矢なんざうれしいねェ。おめえんとこの行灯見たら、呼び止めるからな」

『よろしくごひいきに。……へい、親方、お待ちどうさまでございます』
「おう、早いねえ…」
「ちょっと無駄話ししているうちに『親方、お待ちどうさま』はうれしいな。
こちとら江戸っ子だよ。催促してやっと持って来るなんてのは、
うまいものも、まずくなっちゃうぜ。いや、本当だよ。うれしいねェ」

こんな調子で、丸箸でなく、割箸を使っているのは清潔でいい。
ものは器で食わせるというが、いい丼を使っている。匂いがいい。
鰹節をおごってるな。出汁がきいてるぜ。しかも、ソバが細いのがうれしい。

なかには、うどんみたいに太いソバがあるが、あんなものは江戸っ子の食う
もんじゃないよ。腰があっていいね。
たいがい、まがいの竹輪麩(ちくわぶ)を使っているが、本物の竹輪で、
しかも厚く切ってある。夜鷹ソバにしちゃ出来すぎだ。
などとほめちぎって、「いくらだい」
『十六文ちょうだいします』

「銭は細かいんだ、手ェ出してくれ。いいかい? ほらいくよ。ひい、ふう、
みい、よ、いつ、む、なな、や、いま何時だい?」 
『へえ、九つです』
「十、十一、十二…」
と数えて、十六文払うと…、ぷいと行ってしまった。

これを見ていたのが、ちょっと抜けた男。ぺらぺら喋りすぎるし、ソバ屋を
持ち上げるので、食い逃げするのかと思ったら、銭を払って行ったので、
ますます気に入らない。

二人のやり取りをなぞっていたが、十六文と決まっているソバの値を、
わざわざ聞いたり、ていねいに勘定していたのを思い出した。
八文まで数えて「いま何刻だい?」 『へえ、九つです』
「十、十一、十二」と、一文かすめ取ったのに気づいた。
「あれじゃ、ソバ屋は生涯気がつかねえや。面白ぇな。おれもやってみよう…」

あいにく細かい銭を持っていないので、あくる晩、細かいのをそろえると、
待ちかねて飛び出した。
ところが、前夜のソバ屋とは雲泥の差で、もたもたして時間がかかるし、
割箸でなく丸箸を使っている。
丼は縁が欠けてノコギリのようで、口を切りそうになるありさま。
出汁は濃いし、ソバはうどんのように太くて、ねちゃねちゃと腰がない。
その上カンナで削ったように、薄い竹輪麩で情けなくなってしまう。

さて、金を払う段になって、
「銭、細かいんだ。ちょいと手ェ出してくれ。それいくよ…
ひい、ふう、みい、 よ、いつ、む、なな、や、いま何時だい?」 
『へえ、四ツです』 
「いつ、むう、なな、や……」

 

■「井の中の蛙 大界を知らず」の下の句…
 「されど、 天の心(深さ)を知れり」

毎日飽きもせず、天空の一点を見上げているカエル。日々季節に合わせ姿を
変えていく天空…、そこに輝くお星さま…。何と奥が深く、素晴らしいことか…。
狐さんには、とても分からないだろう。だから、ちっとも寂しくなんかないし、
狐さんをうらやましいと思ったことはない。

狐の生き方は「広く浅く」。蛙は「一つことを、とことん深め・極める」人生。

2006年10月24日

回復不可能な米国社会の乱れ

一昨年、塩野七生著「ローマ人の物語」を読んでから、古代ローマとその周辺諸国、ギリシャやカルタゴの歴史、戦争、人物、 栄枯盛衰に強い関心を持つようになった。

10月、絶対見逃せないすごい美術品が、ルーブルから京都市美術館にやってきた。

ルーブル美術館が大改修されることになり、古代ギリシャの彫刻と宝飾品、史上空前のギリシャの芸術・神々の遺産が134点も、 世界で初めて国外に持ち出され、身近な京都で見る機会を得た。(~11/5まで)

コレクションのほとんどが門外不出の名品。
ルーブル美術館でも、これだけ多くの点数をまとめて、テーマに沿って展示した例はないという。
古代ギリシャの神々や、英雄たちの、等身大の大理石の立像の前に立ち、その美しさに、時間のたつのも忘れて見入った。 

【心と体の健康情報 - 266】 
~子育て心理学~
「回復不可能な米国社会の乱れ」

私が生きてきた戦後日本。世界に例を見ない、繁栄と平和を謳歌する国になっ
た。国が豊かになるにつれて社会が病み始め、堕落していっているようで、
心が痛む。このままでは、日本がダメになってしまう…そんな思いにかられる
のは私だけでしょうか?

そんな時、メルマガを始めるきっかけとなった"松尾 和"先生の講演テープを
聞いた。松尾先生は米国在住25年のピアニスト。日本でも演奏活動を行って
いる。
十五年ほど前から、アメリカの後追いをしている日本の教育の現状を憂え、
全国各地の保育所を廻り、園児のお父さんやお母さんに、21世紀の子育ての
あり方について講演。啓蒙活動を行うようになった。

今米国は、回復不可能なくらい病んでいる。米国で生まれてくる子供の三人に
一人は、未婚の母。母親の三人に一人は、女手一つで育てていかなければな
らない。三人に一人は父親がいないのです。

当然しつけ、子育てがうまくいかず、社会問題と化している。幼児虐待が問題
になっているのです。親たちの多くが、自分で子供を育てる意思をなくしている
のです。
そういった環境に育った子供の二十人に一人は、いずれ刑務所に入ります。
子供が十八歳になるまでに、40%の親が離婚してしまいます。子供たちの
六割の家庭は、父親がいません。そんな事実を統計が物語っているのです。

十五・六歳前後に子供を生む少女が沢山います。性モラルの欠如と見られがち
ですが、多くは、子供を生みたくて妊娠しているのです。家庭が荒み、愛に餓え
た少女が、愛を求め、子供に夢を託すのです。
暖かい家庭にあこがれて、子供を生んでしまうのです。結婚が家庭の始まりで
はなく、子供を生むことが家庭の始まりなのです。

子育てが始まると、直ぐに夢はハジケてしまいます。子育ては大変です。
まだ大人になりきっていない少女…、我慢をする"基礎的忍耐力"が育っていな
い。幼児虐待に走ってしまうのです。そして、いつしか虐待することに、快感
を覚えるようになるのです。

米国の悲劇は、そういった社会現象が、既に数世代にわたって繰り替えされて
いることにあります。日本においても、痛ましい幼児虐待が次々とマスコミで
報道されるようになり、社会問題になろうとしている。
今の日本は、間違いなく福祉先進国の米国や、北欧諸国の後追いをしている
のです。
新たに発足した、安倍内閣が掲げる重点政策は「教育の再生」。
「美しい国」を造る基盤は教育です。「志ある国民を育て、品格ある国家、社会
をつくっていかなければ、明日の日本はない」と総理は言う。従来の教育行政
を見直そうと、「教育再生会議」がスタートした。

2006年10月27日

運動会抜くなその子は課長の子

北国新聞「子ども討論会」のテーマ、"かけっこ"についての六年生の意見です。
「ビリの子は傷つくから、なくしてしまったら…」 「順位があるから盛り上がる…」 
「競い合った方が自分の力が出せる…」。中には「走るのが遅い子は、前の方
からスタートすれば…」という、面白い意見もあった。
                                    
でも…、前の方からスタートする子が勝ったりしたら、いじめに合いそう…。
成長度合いに、大きな開きが出る小学生。運動能力に、どうしても差が出てくる。
勝ち負けにこだわる教育ではなく、強い者が弱いものに手を差しのべる、そんな
教育であってほしい。

ところが、「先生が生徒をいじめていた…」なんて、とんでもないTV報道。
学校現場も、落ちるところまで落ちてしまったようです…。
教える側の先生に、倫理観・道徳・人間性が欠落しているのでしょう…。
当の先生が悪いというより、先生の子どもの頃の家庭や教育環境が悪かった
からでしょう。
安倍内閣のキャッチフレーズは、「美しい国日本。敗者が復活できる国づくり」
美しい日本にするために、教育を含め、何をどう意識改革していくのか? 
今一つ見えてこない?

【吉村外喜雄のなんだかんだ  - 147】
~幸せな人生を歩むために~

「運動会抜くなその子は課長の子」

雪印事件から早や七年になる。企業犯罪は性懲りなく繰り返され、収まりそう
にない。なぜこのような事件が繰り返えされるのだろう? 
そこには封建時代のなごり?「藩」の主従関係に近い社風が垣間見える…。

私は以前、業種の違う二つの「大藩(会社)」に仕え、禄を食んだ経験がある。
大きな会社は、組織と上下関係がガッチリしていて、歯車の一つとしての責任
は重く、みッちり働かされた。有給休暇を取る余裕もなかった。
会社の都合が全てに優先し、家庭も私生活も犠牲にして、身を粉にして働いた。
企業戦士と言われて頑張ってきた世代なのです。

現在も仕事に追い回され、過労死するといった、労働災害があとを絶たない。
一年前のJR西日本の脱線事故。事故を起こした若い運転手、お客様の安全よ
り、遅れを取り戻すことの方が大事…。懲罰が頭にちらつき、何とか遅れを取り
戻そうと事故を起こし、死んでしまった。

会社から月給という禄を与えられ、会社が世間の常識やモラルに反することを
習慣的にやっていても、「お家(会社)第一」 のじゅばくにかかり、見ざる・言わ
ざる・聞かざるの、家畜ならぬ"社畜"と化している…。

岐阜県庁で裏金が発覚し、処置に困り、500万円を燃やしてしまった職員…
まだ記憶に新しい。三菱自動車のリコール隠しもそう…。月給は口止め料、
もしくはガマン料である…。

大きな会社、個人の力は小さい。一人問題意識を持ったところで、どうなるも
のでもない…と、私は思ってきた。
ところが「内部告発」というやり方で、企業のモラルを正そうとする動き…見逃
せない。企業の良識、まだ失っていないということでしょうか? 会社への忠
誠心が薄れてきたことも、その一因でしょう…。

私が勤めていた頃…実力で所長から部長になり、将来は取締役と言われたA氏。
ところが、五十前の働き盛りに、突然後輩に道を譲るようにと言われ、机が一つ、
部下が一人もいない閉職に追いやられた。日頃、A氏の傲慢な言動を嫌った部
下が、連名で社長に直訴した、というのが表向きの理由…。

閉職になった途端、面倒を見た部下が離れていく…。出世コースから外された
無力さを思い知らされ、居場所を失ったA氏、寂しく退職していった。
講談社の「平成サラリーマン川柳傑作選」には、そうしたサラリーマンの悲哀が
数多く詠い込まれていて、どれも、身につまされる…。

「運動会 抜くなその子は課長の子」 
「ああ言えばこう言う奴ほど偉くなり」 
「持ち歌を歌ったばかりに 左遷され」
「社宅では 犬も肩書き外せない」
「シッポ振るポチに 自分の姿見る」 
「客よりも上司を立てる大会社」

2006年10月31日

孔子の教え(5)

■真の学問とは…
今の時代、十五歳といえば、中学を卒業して高校に入る年代である。
十五歳前後というのは、人生の進む方向や、「志」を立てるには大変大切な
年頃です。
昔は、十五歳で元服。もう一人前の大人である。
当時の中国の士大夫の子弟は、十三歳の頃までに一通りの学問を終えた。
そんな意味で、「吾十有五にして学に志し…」は、学問に志すには、遅きに
失している。その疑問に答えて、孔子は…

「なるほど、それまでにも師に付いて何かと教えは受けていた。
じゃが、学問の尊さを知り、自ら求めて学ぼうとする熱意を持ち始めたのは、
十五の年じや。
恥ずかしい話じゃが、それまではなんの自覚もなく、教えられるままにただ、
物まねをしていたに過ぎなかった。物まねは学問ではない…。
まことの学問は、自ら求めて、勉め励むところに始まるのじゃ…

 下村湖人「論語物語」より

【心と体の健康情報  - 267】 
~古典から学ぶ~
「孔子の教え(5) 吾十有五にして学に志し…」


■論語の中でも、とりわけよく知られている「天命を知る」
「子曰わく、吾十有五にして学に志し、
 三十にして立ち、
 四十にして惑わず、
 五十にして天命を知り、
 六十にして耳従い、
 七十にして心の欲する所に従えども、矩(ノリ)をこえず」

                               (為政第二)
「先師が言われた。私は十五の年に聖賢の学に志し、
三十になって一つの信念をもって、世に立った。
しかし、世の中は意のままには動かず、迷いに迷ったが、
四十になって物の道理がわかるにつれ、迷わなくなった。

五十になるに及び、自分が天の働きによって生まれ、
また、何ものにも変えられない、尊い使命を授けられていることを悟った。
六十になって、人の言葉や、天の声が素直に聞けるようになった。
そうして、七十を過ぎる頃から、自分の思いのままに行動しても、
決して道理を踏み外すことがなくなった 」          

苦労人の孔子は、人生の生き方について、人間関係の処理について、
更には、仕事への取り組み方などについて、論語の中であれこれ語っている。
孔子の偉いところは、貧乏暮しの中にあって、いささかもめげることなく、
いつも前向きの姿勢で、たくましく生きたことです。その最も有名な言葉が
「天命を知る」です。これは、孔子の一生を要約した言葉といえます。

孔子は、春秋時代後期の紀元前551年、魯(ろ)の国、今の山東省で、
父親の孔家からは認知されない、第三婦人の子、「野合の子」として生まれた。
三歳の時、父親が死去。冷遇されて育った、母子家庭の子だったのです。

困窮の少年時代を過ごし、小さいときから、生計を助けるために働きに出た。
17歳の時、母が亡くなった後にようやく、孔家の跡取りに認知された。
(子どもの頃の境遇は、二宮金次郎とよく似ている)

このように、孔子は初めから悟りすました人間ではなく、人生の目標を設定し
ながら、その目標に向って絶えず、自分を鍛え上げていったことが伺えます。

■「十有五にして学に志す」
素質的に優れていて、15歳で学問で身を立てようと決心し、人生の目標を
設定した。19歳で結婚、翌年長男出生。二十歳のとき倉庫の管理人になり、
その後、家畜の管理人になったりして一家を養った。まじめで、よく仕事を
こなしたという。
孔子は、機会があればどこででも教えを乞い、学問のチャンスをつかもうとし
た。鄭(テイ)の国の君主が古代史に造詣が深いと知るや、鄭に行き、また、
大思想家"老子"を尋ねて、教えをこうたりもした。

■「三十にして立つ」
学問の知識が深まるにつれ、三十歳の頃、学問の師を志し、自立した。
その頃から、多くの弟子を受け入れるようになった。

■「四十にして惑わず」
学問を深め、弟子も集まるようになった。そろそろ、政界へ登用されることを
願うようになった。しかし、政治の中枢に参画して、自らが信ずる正しい道を
実現したいと願っても、魯の国では願いが叶わない。隣国の斎へ自らを売り
込みに行ったが、うまくいかなかった。

40歳の頃、自分の進む方向に、揺るぎのない確信が持てるようになった。
ここで初めて孔子は、迷いが吹っ切れた。

しかし、四十代の脂が乗った頃になっても、仕官の道は開けず、あせった。
時折襲ってくる動揺…。その時の心境から、「四十にして惑わず…」と、
言い残すようになったのでしょう…。

-以下次号に続く-

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