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2008年07月 アーカイブ

2008年07月01日

かなざわなまり(2)

■ヨーロッパ時間

定刻になっても人が集まらない、「金沢時間」というのがどの地方にもあります。
日本人は一般的に"せっかち"で、定刻に遅れることにはうるさいようです。

「時間を守る」ことについて、ヨーロッパ各国を見ると、
ドイツ人は…定刻きっかりに集まってくる。
英国人とアメリカ人は…10分くらいの遅れは許容範囲。
フランス人は…30分、イタリア人は1時間くらいまでなら待てる。
スペイン人は、定刻に電話したら、まだ寝ていた…。

ドイツなどの北欧の寒い国は…全員揃うまで待っていられない。
時間を守り、定刻に遅れないようにすることが、気配りになる。
一方、温かい南の国…温暖な気候が、のんびりとした風土を育む。
少しくらい待たされても、苦にならないのです。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 580】
~ことば遊び~ 「かなざわなまり(2)」

「かっこいいジー」「うェ」「おいね」「ほうや」
「そうけ」 「な~ん」「…がやわいね」

交通網が整備され、一時間もあれば、富山や福井へ行けるというのに、
金沢の北部、競馬場の近くには、早口ことばの八田弁?があり、
金沢の中心部だけに通じる方言(例…キンカンなまなま)があったりと、
わずか数キロ離れただけで、意味が相手に伝わらない方言がある…不思議ですよね…。
※「キンカンなまなま」…真冬、道路が凍ってツルン・ツルンになった状態のこと

「昨日、春スキーに行ってきたうェ。これ、そん時の写真ながヤ!」
『そんながけ、そりゃよかったわいね…あら~!かっこいいジー』
「な~ん、たいしたことないわいね…でも、昨日は天気やったさかいに、良かったわいね」
『おいね…ほやとこと、いい天気で…よかったわいね』
「ほやけど、天気良すぎて…雪質悪て、ダメやったわいね…」
日常、こんなやり取りが交わされている。

転勤してきた男性、女子社員から「かっこいいジー」と言われて苦笑する。
「かっこいいね」と素直に言われると喜べる…が、語尾に付く「ジー」が分らない?
この「ジー」、金沢弁独特の文末詞である。
東京でうっかり「そのスーツ、いいジー」なんて言おうものなら、「イージーオーダー」のスーツのことと、勘違いされてしまう。

北陸三県には、それぞれ味わいのある文末詞がある。
富山県は、「新聞きとったゼ」と、「ゼ」を多用する。
福井県では、「ほんなことしたら、あかんザ」と、「ザ」を多用する。

「おいね」 は、相手の話に同感し、相づちを打つ「ハイ」「そうだ」の意味になる。
同じ相づちでも「ほうや」 は、「その通り」「まったく同感」と、相手の話題を励ます。
そうだそうだと相づちを打つ時、「ほや、ほや」と重ねる。
更に強調すると、「ほうながや~」「ほうながかいね~」と語尾を伸ばす。
そこには、相手に対して、いささかの不信感も存在しない…。
「でもねー」という意味の、「ほぅやけど…」もよく出てくる言葉です。

「そうけ」 もよく使われる。「そうですか」といった意味で、「ほうや」よりも消極的肯定となる。
お婆ちゃんことば、「そうけ、そうけ…そうかいね」となると、今度は相手の話に深い関心を示す言い方になり、その使い分けは、 よそから来た人には難しい。
妻「映画面白かった?」 夫『なーん』…金沢で、こんな会話がひん繁に交わされる。
県外の人が聞くと、「日本語じゃないみたい」と言う。
「なーん」 は否定する「いいえ」の言葉だが、そんなに強いニュアンスはない。
さりげなく、気を抜いたように、あいまいに発音する。
又、「別に…」という意味に、「なーん」を使うことも多い。

夫「近頃、元気ないジー」 妻『なーん…』
相手を思いやってか、その後の言葉がない…その先は察するしかない。
それ以上聞かないで欲しい…という意味が「な~ん」に含まれる。

十年ほど前の裏話だが、米露首脳会談で、当時のクリントン大統領が、エリツィン大統領に注意を促した。「日本人のYESは、 NOである」と…。
金沢ことばの「なーん」は、必ずしも「NO」を意味しないのです。

「頑張りまっし、金沢ことば」より

2008年07月05日

算盤は右脳・左脳両方を育てる

■「全国亭主関白協会

同じ趣味や志を持った人が集まって出来る組織…全国には、いろんな組織があります。
「全国亭主関白協会」も、そのひとつです。
夫婦円満には欠かせない、"夫の心得"を説き、平和で円満な家庭づくりを目指す男性の集まりです。

○主 張   …「夫は妻の尻に敷かれるべきである」

○尊主事項 …「ありがとう」「ごめんなさい」「愛してる」
          妻に、この言葉をことあるごとに言う。

○スローガン…夫婦げんかをしたら…
          「勝たない」「勝てない」「勝ちたくない」

世のお父さん方…家庭で威厳を保とうと、威張り散らしたところで、神通力はとっくに消えてありません。とりあえず3日間、 この3つの約束を実行してみてはいかがでしょう。奥様がどんな反応を示すか?…楽しみです。



【心と体の健康情報 - 581】
~子育て心理学~
「そろばんは、右脳・左脳、両方を育てる」

会社でソロバンを手にして、伝票を整理していたら、「あら~ァ珍しい、算盤をはじいてる…」と、 訪れた代理店さんに言われることがある…。
さほどに、ソロバンを使う人が少なくなり、珍しがられる時代になったのです。
私には、電卓より算盤の方が正確で早く、安心できます。珠をはじく微妙な指の感触が、計算の正しさを確信するのです。

算盤は中国から日本に伝来した。我が石川県に、日本最古の算盤が現存することをご存知でしょうか…加賀藩の初代藩主前田利家が、 1592年に陣中で使ったと伝えられる。縦7センチ、横13センチの「陣中算盤」です。玉は獣の骨で作られている。
戦後、算盤と電気式計算機の対抗試合が行なわれたのは、以外に早く、終戦の翌年昭和21年11月…日比谷で催された。米軍の機関紙 「星条旗」が主催して、「加減乗除に混合算」の計5種目を競い、算盤側の日本が4種目を制している。

敗戦直後のことで、「戦勝国を打ち負かした」「日本は死なず」と喜んだと伝えられる。
その後、計算機の演算速度が飛躍的に進歩しても、対抗試合は続き、算盤に軍配が上がっている。

近年、学力向上の手段として、算盤が教育の現場で見直されるようになった。
珠算能力検定受験者数は、昨年、26年ぶりに増加に転じたのです。
最近では、東南アジアや、中東などの教育現場でも、採用されるようになり、日本でも、伝統の計算術に復権の兆しが見えるのは、 うれしい限りです。

読売新聞「編集手帳」から

最近になって、算盤を習うと右脳が開発され、知能が発達することがわかった。
算盤の上段者になると、頭の中にイメージした算盤で、暗算能力が研ぎ澄まされる。名人になると、16桁もの乗除計算を、 暗算でこなしてしまう。
これを外国でやって見せると、みんな「マジックだ、魔法だ」と、ビックリする。

右脳は、音楽・感性・創造力などの働きを司る。左脳は計算・論理・暗記力の働きをする。詰め込み学習で大人になった「左脳型人間」 より、創造性豊かな「右脳型人間」の方が、重宝され、求められる時代なのです。

算盤を使っての計算は"左脳"。算盤を脳に描いての暗算は"右脳"。算盤を身に付けると、左脳と右脳の両方… 同時に活性化されるのです。算盤を習うにつれ、バランスの良い思考力も、同時に備わってくるのです。

囲碁ブームに続いて、我が子を「珠算塾」や「お習字塾」へ通わせるのが流行っている。算数や計算が得意で、きれいな字が書け、 物事を大局的に見ることができるようになるなら…親の願いです。
いい大学を目指そうと、小学生の時から学習塾に通わせ、目先の成績ばかりに囚われているようでは、子どもがかわいそうです。

※私にとって囲碁は、生涯の友です。趣味にしたい方…お手合わせ、いつでもOKです。

2008年07月08日

薩摩藩・木曾三河川分流大規模工事

■西郷隆盛 「敬天愛人」

NHK大河ドラマ「篤姫」…藩主斉彬に登用された、若き日の西郷吉之助が初々しい。
斉彬が急死した後、西郷吉之助は、国父・島津久光に疎んじられ、沖永良部島に流された。彼は主人久光を憎み呪った。そんな吉之助を、 島民は暖かく遇した。

島には、吉之助より先に流されていた、"川口雪蓬"という学者がいた。
ある日吉之助に会い、「いつまで、久光公を恨んでいる…」と、一冊の本を置いていった。  「嚶鳴館遺草(おうめいかんいそう)」 という本である。

冒頭に「政冶家は民の父母にならなければならない」「民の心を天の心とし、それを政冶家の心とする」と書いてある。孟子の流れを汲む 「朱子学」の思想である。
吉之助は思わず「これだ!」と、閃くものを感じた…長年求めてきたものが、この本によって、はっきりと示されたのです。

全文に流れているのは、「民を愛せ」という"愛民"の思想である。
吉之助は「愛民」を「愛人」にまで広めようと考えた。同時に、「人を相手にせず、天を相手にしよう…」と思った。天を相手にするというのは、 「天を敬う」ということである。
西郷隆盛の信条「敬天愛人」 は、沖永良部島で誕生したのです。

童門冬二「歴史に学ぶ知恵」より 


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 582】
~歴史から学ぶ~
「薩摩藩と、木曾3河川分流大規模工事」

今朝5時過ぎ、バケツをひっくり返したような豪雨に目が覚めた。
1時間に90ミリの雨が降ったと、ラジオが報じていた。
温暖化の影響でしょう…全国、記録的豪雨に見舞われるニュースが増えたが、7月は梅雨時、災害の無いことを祈りたい。

江戸幕府が、250年の長きに渡って国家統一を継続し得たのは、治世術に長けた諸制度によるところが大きい。
徳川幕府が最も恐れたのは、外様を中心とした諸大名の反逆。諸藩の力を徹底して削いでおく必要がある。そこで「参勤交代」と「土木事業」 を諸藩に命じた。
ただでさえ苦しい大名家の台所に、強烈なパンチを食らわせたのです。

普請工事は、戦闘行為と同じで、命じられた大名は、石高に応じて必要な資金、資材、人員を差し出し、 期間内に工事を終わらせなければならない。

幕府は号令を発するだけ。金は出さず、手も下さない。諸大名は、ご下命が降りると、ここが忠誠心の見せどころと、 先陣を仰せつかったときのように、「ありがたき幸せ」と平伏して、武者震いする振りをした。断れば、幕府への反逆と見なされ、改易・ 廃藩の厳しい処分が待っている。

当時、どの大名も土木工事の施工技術を持っていた。秀吉は、美濃の斉藤道三との戦いでは、一夜にして城を築き、毛利との戦いでは、 高知城の周囲に長さ3キロの堤を12日間で築いて、水攻めにしている。
「土木も合戦と同じじゃ。将軍家にご奉仕せよ」と、大名に公共事業を請け負わせた幕府。 なかなかの知恵者である。

2年ほど前、NHKで放映された時代劇、薩摩藩に下された「木曾3河川分流大規模土木事業」を見た。 過酷で凄惨な難工事に苦悶する藩士たちの姿を、今も鮮烈に覚えている。

宝暦3年(1753)、洪水が頻発する木曾3河川(木曽川・長良川・揖斐川)の合流箇所に堤防を築き、分流せよと、 薩摩藩に下命された。江戸時代屈指の大規模難工事である。
二度に渡って将軍家から沙汰のあった、「姫君の降嫁話」を、巧みに破談にしたことへの嫌がらせと言われている。

当初10万両と見込んでいた工事費はみるみる40万両に膨れ上がり、窮した藩は、大坂の豪商から借金に借金を重ね、 逆さにしても鼻血も出ないほど困窮した。
遠路派遣された薩摩藩士は、難工事続きによる過労と伝染病で、次々倒れ、33人が病死。幕府の過酷な命令に憤って、 腹を切った者は52人にも及んだ。
1年3ヶ月で、何とか奇跡的に堤防は完成した。家老で総奉行の"平田靱負"は、藩の財政を破綻させたことと、人的損失の責任を取り、 切腹して果てた。

分流工事のお陰で、以後洪水はなくなり、濃尾平野は緑の大地に生まれ変わった。ドラマの終わりは、240年を経た現在も、 当時のままの姿で、松並木が美しい堤防堤を映し出す…。
当時の悲劇は、恨みとなって薩摩藩に語り継がれ、非情な難工事を押し付けた幕府への怨念となった。百年の後、西郷・ 大久保を中心とした倒幕運動へ、駆り立てていく一因になったのです。

古川愛哲「江戸の台所事情」より

飛騨牛偽装事件「丸明」の社長は、部下に不始末一切をなすりつけ、必死に言い逃れ…。経営破たんしたNOVAの元社長は、 社員積立金横領で逮捕。
雪印、ミートホープ、船場吉兆…不祥事が発覚した時、何れも、潔く責任を取ろうとせず、悪あがきをしている。

新渡戸稲造の著書によって、世界から賞賛された「武士道精神」"日本人の美学"。
戦前まで、庶民の間に一般的に見られた、日本人の姿である。
今は、これが礼節を尊ぶ日本?日本人?と、諸外国からヒンシュクをかうほど、お粗末な国になってしまった…。

2008年07月11日

教育勅語(1)

明治期、日本に滞在した英国の言語学者チェンバレンは、日本見聞録を「日本事物誌」に著した。当時、彼が見た日本人の姿は…

「金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下する様子がない。実に、貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない。そして、 周りの人たちはみな同じような人間だと、心底信じる平等精神が、社会の隅々まで浸透しているではないか」

中日春秋より

わずか50年前、子どもの頃を思い起こせば、家族は"早起きは三文の得"と朝6時には玄関前を掃き清めていた。それも、 自分の家の前だけでなく、隣近所もごく当たり前のように掃き清め、ジョウロで水を撒いていた。

ちょっと所用に出かけ、家を空にしても、鍵をかける習慣などなく、勝手口のくぐり戸は、夜も開けッぱなしだった。 暮らしは貧しかったが、近隣の人たち皆暖かく人情みがあり、助け合って暮した…。



【心と体の健康情報 - 583】
~歴史から学ぶ~ 「教育勅語(1)」

新聞・テレビを見ていると、同じマンションに住む若い女性を、自宅に呼び入れて殺傷してしまう…思いもしない凶悪犯罪が相次ぎ、 「もう、日本は駄目になってしまうのでは…」と思うほど、嘆かわしいニュースが頻発する。
企業犯罪、青少年の退廃、凶悪犯罪の低年齢化、学力の低下など、いったい日本人はどうなってしまったのでしょうか?

今、教育の在り方を、根本的に見直さなければならない時に来ているようです。
現在の日本人が、喪失してしまったものに「公徳心」がある。今こそ、1人ひとり、社会人としてどうあるべきか…見つめ直す時でしょう。
明治から昭和にかけて、日本人の公徳心を育んできたものに「教育勅語」がある。
その良さを、今一度見直してみる必要があるようです。

書かれている内容は、「家庭の道徳・社会の道徳・国民の道徳」です。
それは、昔も今も変わりません。だからこそ、今の時代に合った内容に作り変えて、再度、教育の現場に取り入れたらどうか… と思うのですが。

ところで、教育勅語には、どんなことが書かれているのでしょうか?
内容も知らずに、戦前の天皇崇拝・軍国主義の復活を、イメージしている自分…「食わず嫌い」になっているようです。
そこで、今回から3回に分けて、書かれている内容を解説・紹介します。

「教育勅語」は、大きく分けて第一段の前文、 第二段の本文、第三段の後文から成り立っています。 まず第一段の前文から紹介します。
出だしは、私も耳にしたことがある書き出し文で始まります。

朕オモフニ、 我ガ皇祖皇宗、国ヲハジムルコト広遠ニ、徳ヲ樹(タ) ツルコト
 深厚ナリ

「私(明治天皇)が思いますに、わが皇室の先祖たちが、遥か昔にこの国を始められて以来、人間としての道徳、とりわけ君徳を、 あたかも樹木を植え込むように、代々樹立してこられました」

我ガ臣民、 ヨク忠ニ ヨク考ニ、億兆心ヲ一(イツ) ニシテ、世世ソノ美ヲ
 ナセルハ、此レ我ガ国体ノ清華ニシテ、教育ノ淵
(エン)
源、マタ実ニ 
 此処ニ存ス

「また、我が日本の全国民は、よく忠義と孝養を重んじ、皆心を一にして代々仲良くやってきました。 これが日本の国柄のもっとも良いところであり、教育の原点も、ここにあるのであります」

文中の「忠義」という言葉に、天皇崇拝・軍国主義の臭いを感じるかもしれません。
三省堂の"広辞林"には、「主君や国家に対して忠誠を尽くすこと」とある。
今、諸外国と比べ、日本人に欠けているのが、この「国家への忠誠心」…言葉を変えれば、「愛国心」の欠落でしょうか…。

海外へ出かける時、日本国の国民を証するパスポートがなければ、どこの国も、一歩たりとも入国は認められません。 世界の多くの国々で、日本人はビザ不要…日本人というだけで、信用されるのです。

数年前の7月3日、ハワイのショッピングモールで…通りがかりに、高校生のブラスバンド演奏に出くわした。 独立記念日前夜祭の行事でした。
イベント開始前に、国歌が吹奏された。と、開始を待っていた米国人…"全員"起立して(座っている人は皆無)、背筋を伸ばし、 右手を左胸に当て、国歌を歌い始めたのです。
(日本では「国家吹奏です。全員ご起立下さい…」と促さない限り、人前で歌うことはしない…立たない人もいる)

日本の建国記念日が何時かを知らず、建国の意味を知らない若者たち…無関心といってよい…。
日本をここまで導いてきた先祖への感謝…日本という国を慈しむ心…この平和な国を、子々孫々にまで繁栄させていく、 良い意味での愛国心を育んでいかなければなりません。
次号で、道徳心を育む"本文"へと続きますが、読んでみると、教育勅語の文言は現代になじまず、難しく固くるしい。しかし、 そこに示されている内容は、日本人が受け継ぎ、守ってきたことを、伝承していこうとする心理が、書き込まれているのです。

2008年07月15日

中国・1人っ子政策の弊害

■「ポーラ美術館・名作展」(7/27まで)

モネ、ルノワール、セザンヌなどの印象派の巨匠の作品。マティス、ゴッホ、ピカソ、ルソーなど、私の好きな作品がまとまって、 21世紀美術館にやってきた。
絵画鑑賞が趣味の私。海外から名作がやってくるたびに、東京や京都の美術館へ出かけていく。が、こんなに沢山の巨匠の名作が、 一ヶ所でまとまって見られるのは初めて…。
国内では、日本最大級のコレクションを誇る"ポーラ美術館"。以前から見たいと思っていたが、まさか金沢に居ながら、鑑賞できるとは…。
13日の日曜、私の夫婦、息子夫婦、娘夫婦、3家族揃って、墓参りを兼ねて見学してきた。

モネ[グランド・ジャット島]
モネ[グランド・ジャット島]
ピカソ[花売り]
ピカソ[花売り]



【吉村外喜雄のなんだかんだ - 584】
~歴史から学ぶ~ 「中国一人っ子政策の弊害」

終戦と同時に、何百万人もの引揚者が、海外から日本に戻ってきた。
それが、空前のベビーブームを呼び起こし、日本経済発展の原動力となった。団塊の世代である…以降、20数年周期で、第二次、 第三次のベビーブームの波がやってきた。
不思議なことに赤ちゃんは、女児100人に対して、男児は3~5人多く生まれる。
結婚適齢期には男女同数になり、年をとれば女性が長生きして、役目を果した男性は減っていく。「天の力」がなせる技であろう…。

ところが、医学が発達した現代…男女の産み分けが出来るようになった。
かつては男児が望まれたが、今は、いつまでも可愛いうえに、親を手助けしてくれる女児を望む親が多い。高齢化社会を背景に、 年寄りを介護してくれる女児を望むのも、少子化時代ゆえの防衛反応でしょうか…。

中国政府は、止め処もなく増え続ける人口増加を食い止めるため、「一人っ子政策」を実施して28年になる。この間、 中国の新生児数は3億人減少し、現在人口増加率は2%を下回り、先進諸国の水準にまで改善された。その一方で、 一人っ子政策がもたらした問題も多く、社会問題に発展しようとしているのです。
昨年5月下旬中国自治区で、「一人っ子政策」の徹底を図った当局に、市民が反発。約1万人が政府建物や車両に放火するなど、暴徒化して、 警官隊と衝突…5人が死亡、負傷者が多数出る大事件になった。

当局は一人っ子政策を徹底させようと、1980年以降、第二子を産んだ家庭に対し、最高2万元(約32万円)を、 生まれて数日以内に納めるよう命じ、出来なければ財産を没収する…という、強行手段に出た。現地住民の平均年収は2千元… 何と10年分に相当する。
更に、子どもを持つ女性に避妊手術を強要したりして、住民の不満が溜まり、暴動に発展したのです。

当局は上級政府から、一人っ子政策の徹底が不十分と批判され、数ヶ月以内に事態の改善が見られなければ、 当局の担当責任者を免職処分にすると通達…。
危機意識を持った当局は、一人っ子政策を守らない住民には、5百元の罰金を課すことを、ノルマにしたのです。

5/26 北国新聞

中国農村部では、男児は大切な働き手…一家の跡取りでもある。 女児が生まれると、密かに闇に葬ったり、第二子に期待して、 無戸籍の子にしたり、捨て子にしたりする。そこで農村部では、一人目が女子の場合、二人目を生んで良いことになった。
現在、中国の人口は約13億人。その裏には、約1億人の隠れ人口が存在すると言われている。
中央政府は、日本の靖国参拝を非難したりして、国民の不満のはけ口を国外に向けさせ、ガス抜きをしてきた。安倍内閣以降、 政治の行き過ぎを是正しようと、自粛していた矢先の暴動…。

農村部では、男女のバランスが崩れ、女児100人に対し、男児が144人に。
2020年頃には、結婚適齢期を迎える青年に、お嫁さんの来てがなく、3千万人も不足するとの予測…このままでは、 深刻な嫁不足に発展してしまう。

一人っ子政策で、王子様のように大切に育てられ、甘やかされて育った子ども達が、大人になっていく…冒険や苦労を嫌う、 ひ弱な青年が増えつつある中国。

そんな中、四川大地震が発生…一人っ子が大勢死んだ。子どもを失った親の嘆きようは、いかばかりか…。中国政府は、 子どもを亡くした親に、急遽もう一子認める通達を出した。
震災で、両親を失った子どもも多い。
中国政府は、里親制度を積極的に推し進めていくという。

急速な人口の増加・減少は、社会にひずみを生み、それ以降百年近くに渡り、国民生活に深刻な影響をもたらすことを…中国は、 日本の過去と現在から、学ばなければならない。

2008年07月18日

教育勅語(2)

■昭和天皇

私たち国民が啓して已まない昭和天皇。天皇が崩ぜられて、早や20年になります。
昭和天皇が、生涯国民から敬愛の念で尊ばれたのは、その謙虚なお姿、高貴さにあります。一言で言えば「至高の徳性」にあったといえます。

昭和天皇は明治39年、大正天皇のご長男として誕生されました。生まれて僅か3ヶ月の頃、親元を離され、 一民間人の"川村伯爵"の許に預けられ、約2年間、将来の帝王となるべき、しつけ教育を受けられたのです。
川村伯爵は、薩摩出身の軍人さんで、しつけは厳しかったという。
その教育方針は…
一.健康な御体に育て、持てる天性を伸ばし、曲げぬこと
二.ものに恐れず、人を尊ぶ性格を養うこと
三.困難に耐え、我がままを言わぬ習慣を身につけること

その後、学習院の初等科に入られましたが、当時の学長は乃木希典でした。
乃木大将は、道徳を身にまとった見本のような人。その許で、厳しく鍛えられたことが、後の昭和天皇のお人柄を育まれたのです。



【心と体の健康情報 - 585】
~歴史から学ぶ~ 「教育勅語(2)」

「教育勅語」は、大きく分けて第一段の前文、第二段の本文、第三段の後文から成り立っています。前回は前文を紹介しました。 今日は第ニ段、本文です。
「日本人が道徳を身につける上で、何が大事か」…明確に述べられています。

ナンジ臣民、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ、
 恭倹(キョウケン)己レヲ持シ、博愛衆ニ及ボシ、学ヲ修メ業ヲ習イ、
 以テ智能ヲ啓発シ、徳器ヲ成就シ、進ンデ公益ヲ広メ、世務ヲ開キ、
 常ニ国憲ヲ重ンジ、国法ニ従イ、一旦緩急アレバ、義勇公ニ奉ジ、
 以テ天譲無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ

「まず国民は、家庭の一員として、両親に孝行を尽くす、兄弟仲良くする、夫婦も仲睦まじくする。そして、 近所や学校などの友達とも、信じ合えるようになる必要があります。
ついで、社会の一員として、謙虚に自己の本分をわきまえ、思いやりの心を多くの人々に及ぼし、また学業を身につけ、知恵を磨いて、 広く世のため役立つようになる必要があります。
更に国家の一員として、ふだん平常の時には、憲法や法律を守って生活し、いざ非常の時には、正義のために勇気を振るって、 全力を尽くす必要があります」

カクノ如キハ、独リ朕ガ忠良ナル臣民タルノミナラズ、 又以ッテナンジ
 祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン

「このような道徳を身につけて、日本の進運を担っていく、立派な日本国民になることは、あなた方の祖先が永らく続けてこられた、 立派な在り方を評価し、受け継いでいくことになるのです。決して難しいことではなくて、あなた方の祖先が、 そうやってこられた実績のあることだから、それを実践すればいいのです。
我々は新たに西洋の道徳を借り、真似をしていくのではなくて、祖先が昔からやってきた当たり前のことを、 我々も受け継いでいくことが大事なのです」

(論語の友より)

ここまでが本文です。
このように読み辛く、大人でも難しいい文章を、少し前の世代の子ども達は、学校で素読し、暗唱したのです。 ゆとり教育が問題になっている昨今、難解であることを理由に、覚えなければならない当用漢字を減らす動きなどは、 ナンセンスに思えるのです。

建設業のK社長さんと、JRで京都からの帰路…お互い、孫の話になった。
聞くとお孫さんは、仏教系の幼稚園に通って、浄土真宗の聖典「正真偈(しょうしんげ)」や、「念仏・和讃」を暗唱させられ、 小学生になった今も、おつとめがあると、お経を唱えることが出来るという…。

私の外孫は3歳。保育所で「♪ABCD…EFG…HIJKLMN…」と、英語の歌を覚えてきて、嬉しそうに歌って見せる。 意味が分からなくても、上手に歌うのです。
幼い頃に暗唱させられる「教育勅語」。文章は理解できなくても、刷り込まれた言葉は、大人になって生きてきて、潜在意識の中で、 自らの考え方・行動を律するようになるのです。

2008年07月22日

土用の丑の日

■小噺「うなぎ その1」

土用の丑の日、うなぎ屋は大忙しでうなぎを焼いています。
そこへ外国人がやってきて、
「おお~いい匂い。このウナギの蒲焼…セイヨウ料理デスカ?
ソレトモ日本リョウリデスカ?」
うなぎ屋、「えッエ~と、これは…洋食(養殖)です!」

■小噺「うなぎ その2」

熊公 「ご隠居に尋ねるが、ウナギは、なんでウナギと言うんだい…」
ご隠居 「鵜がウナギを飲み込もうしたが、長くて難儀した。
鵜が難儀したので、鵜が難儀した…鵜難儀…ウナギになったんじゃよ」
熊公 「ふ~ん、じゃ何だって蒲焼って言うんだい?」
ご隠居 「鵜に飲み込まれるようなバカな魚だからよ。
バカ焼き、バカ焼きって言っているうちに、カバ焼きになったのよ…」
熊公 「じゃあ、バカ焼きって言えばいいのに、なんだってカバ焼きってひっくり
返ったんだい?」
ご隠居 「よ~う考えてみな! ひっくり返さないと、うまく焼けないねェ!」



【吉村外喜雄のなんだかんだ - 586】
~ことば遊び~ 「土用の丑の日」

7月24日は「土用の丑の日」。土用・鰻の日にちなんで、ウナギにからむ話を、あれこれ集めてみました。読んだ後、 よろずウナギ物知り博士になっています…。
丑の日に「う」の付く物、「うどん・うり・梅干」などを食べると体に良い、という言い伝えが以前からあった。江戸時代の中期、 売上不振に悩んだウナギ屋が、"平賀源内"に相談を持ちかけた。ならばと、「鰻は土用の丑の日に」と書いた張り紙を出して、宣伝した。 それがきっかけで、ウナギを食べるようになった。

ウナギ料理は、好きな人が多い反面、形がニョロニョロしているからと、食わず嫌いの人も多い。そのウナギ料理、「くし打ち3年、 焼き一生」と言われ 、日本人が大切に守ってきた伝統の味、伝統の料理なのです。

「"くし"を"刺す"」のが、正しい言い方ですが、縁起が悪いからと、「打つ」と言う。
同じように"するめ"を「あたりめ」、すり鉢を「あたり鉢」、"箸"は「おてもと」と言ったりする。いずれも、古くからある、 縁起をかつぐ言葉づかいです。

ウナギのさばき方では、商人の町・関西では、「腹を割って…」というので"腹開き"。
一方、関東は武家の町。「腹を割く」は「切腹」をイメージして、縁起でもないと、
"背開き"になった。
ところで何故"蒲焼"というのか?昔、丸のまま竹に刺して、蒲(がま)の穂の形で焼いていたからなのか?
関東は、竹串に刺して素焼きにした後、一度蒸してからタレ焼きにします。
あっさりと淡白で柔らかな仕上がりになります。
関西の焼き方は、直に焼いた後、タレを付け焼きし、蒲焼に仕上げます。
芳ばしさと、パリパリ感があって、美味しい。

「うな丼」と「うな重」の違いは、江戸末期には、素焼きの丼に「うな丼」として出されていたが、大正時代になって、高価な 「漆塗り丼」が出て、昭和になって、東京の店が重箱に入れて出すようになった。
中身は同じなのに、重箱に入れて値段を高くする店が出始めたのです。

ウナギの名前の由来は、天然ウナギの胸が黄色いところから、奈良時代までは「胸黄(ムナギ)」と呼んでいた。 それがウナギと呼ばれるようになった。
ウナギを使った言葉に「ウナギの寝床」があり、「ウナギ登り」がある。ウナギが水中を真っ直ぐに登っていくことから、「物価が…」 などに使われます。

ウナギの赤ちゃんは、日本から南に二千キロ離れた、赤道直下のマリアナ諸島付近で誕生するそうです。
半年近く海流に乗り、アジア諸国沿岸に来ますが、大半は養殖用に捕獲されます。
「シラス」といって、「海のダイヤ」とも言われ、年々漁獲量が減少しています。

2008年07月25日

教育勅語(3)

■「教育勅語」といえば、中村昭文さん

「教育勅語」といえば、中村昭文さんの顔が浮かんでくる。
中村さんは、伊勢市でレストランとウエディング事業を手がける青年社長です。
彼は若いながら、教育勅語をスラスラと空んじることが出来る…今の時代、大変めずらしい青年です。
「お金ではなく、人のご縁ででっかく生きろ!」と題した、中村さんの講演を幾度か聴いた。
高校卒業の時、学校の就職斡旋を断り、宛てもなく東京へ…。
ひょんな出逢いが縁となって、人生を切り開いていく…自らの青春体験記…聴衆に感動を与え、ヤル気・元気をいっぱい与えてくれる…。

彼が高校3年の時、悪さをして、35日間自宅謹慎処分を受けた。
その時罰として、毎日筆で「教育勅語」を清書し、暗唱するよう命ぜられた。
教育勅語を書いて覚えたのです。これが後に、彼の人生に大きな"幸運"をもたらすことになる。
事業経験豊かな年配者に目をかけられ、ご縁が広がり、起業家を志す中村氏を助けるのです。中村さんをして、教育勅語は「人生の宝」 と言わせることになる。



【心と体の健康情報 - 587】
~歴史から学ぶ~ 「教育勅語(3)」

「教育勅語」は、大きく分けて第一段の前文、第二段の本文、第三段の後文から成り立っています。今日は、前回の本文に続き、 第三段の後文を紹介します。

コノ道ハ、実ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、 子孫臣民ノトモニ遵守スベキ所、
 之ヲ古今ニ通ジテアヤマラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖
(モト)ラズ

「このような道徳は、実にわが皇室歴代の遺された教えであり、また、あなた方の子孫も、末永く守ってゆくべきものですから、 古今を通じて誤りがなく、どんな世界でも通用する立派な道徳であります」

朕、ナンジ臣民トトモニ拳拳服膺 (ケンケンフクヨウ)シテ、ミナソノ徳ヲ一ニ
 センコトヲコイ願ウ

「これは、我が皇室の祖先がされてきたことであり、また一般国民も昔からやってきたことだから、私もあなた方と共に、 これらの徳目を一生懸命守り通したい。
決して一方的に"ヤレ"と命令しておられるのではなくて、むしろ明治天皇ご自身が、これを率先実行していこうと、 決意を表明しておられるのであります」

以上、3回に分けて「教育勅語」を紹介しましたが、どのように受け止められたでしょうか? 道徳で、一番よくないのは、 教える立場の親や先生が、自分がやりもしないのに、一方的に子ども達に道徳を押し付け、守らせようとすることです。
勅語の中で明治天皇は、我が祖先が実践してきたことであり、また私達の祖先もやってきたことだから、国民の皆さんも守って欲しい。が、 その前に天皇ご自身も、率先して一生これを守っていくと、決意しておられるのです。

教育勅語は、天皇が国民と共に守るべき道徳の根本を、明らかにしたものです。
つまり、天皇の独占的な命令でも、強制でもないことが、教育勅語に書かれているのです。
この学びから、道徳教育を考えるとき、私たち自身が、それを本当にヤルという覚悟を持ち、率先垂範する姿勢を見せることが、 大事になってきます。
口先だけで道徳を説いたり、職場に、何項目もの尊守事項を張り出して、守らせようとするのは…効果を期待するだけ、 野暮というものでしょう。

論語の友より

明治・大正の頃に日本人が持っていた、高い倫理感と道徳心は、論語と教育勅語によるところが大きかったように思う。 野口英世や渋沢榮一の伝記を読むと、幼い頃の母親は偉かった。その影響が大きかった。

渋沢榮一の母親は、ハンセン病の人をお風呂に入れて、背中を流してあげていました。
渋沢少年が「お母さんやめてください」と言うと、「おまえは何を言っているのですか。この病は、 自分がなろうと思ってなったのではありません。運が悪く病気になったのです。私はそれだから、何でもやってあげたいのです」と、 諭したそうです。
当時の日本人には「無私の精神」を内面化され、「私利私欲」がない人が多かった。
渋沢榮一は「片手に論語、片手に算盤」を唱え、「道徳経済合一論」を主張し、「会社を経営するには、 高い倫理感と道徳心をもって行うべきである」という思想に基いて行動している。

「理念と経営7月号/対談・不可能を可能にする経営」より

2008年07月29日

あと1勝…頑張れ!山本マサ

■ことば遊び  ことばの由来 『正々堂々』

熱戦を繰り広げる全国高校野球、いよいよ8月2日開幕。
勝っても負けても、球児たちの「正々堂々」としたプレーはさわやかだ。

態度や手段が正しく立派なことを「正々堂々」と言う。
この言葉は、孫子の兵法 「正正の旗を迎うるなかれ、堂堂の陣を撃つなかれ」から採った言葉です。

「正正の旗」とは、 攻撃態勢が整っている様。
遠望する敵陣の旗が、一切の乱れもなく、整然とはためいている。
攻撃態勢が完璧に出来ている組織は、外から見てもわかるものです。

「堂堂の陣」とは、 守りが完璧な状態。これも外から見てわかります。
だから、「正々堂々」とは、「攻めと守りが完璧な陣容で、軍隊が訓練され、
整っており、士気盛んに整然とたなびき進む様」を言います。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 588】
「あと1勝…頑張れ!山本マサ」

この8月、43歳の誕生日を迎える中日ドラゴンズの"山本昌"投手。
一昨日の7月27日、じっとしているだけでも汗が滴る猛暑の中で、
猛虎打線を相手に199勝目を挙げた…200勝まであと1つ!
達成すれば、ドラゴンズでは伝説の名投手"杉下茂"以来…2人目となる。

以下、7月28日中日スポーツ「あと1勝、頑張れマサ」の記事を転載します。

山本昌を思うとき、いつも"運命"という言葉が浮かぶ。
忘れもしない1988年8月、半年間の米国武者修行を終えて帰国した山本昌が、
二軍戦にテスト登板するというので、ナゴヤ球場に取材に行った。

試合前、山本昌がキャッチボールを始めた瞬間、目を見張った。
4ヶ月前まで大きな体を持て余し、手先だけで投げていたはずのフォームが、
別人のように変わっていた。腕が上り、スムーズに投げているではないか。

この5年間、何人もの指導者が、変えようとして変えられなかったフォームが、
わずか半年の留学で、変わってしまった。
気になって山本昌に聞くと、答えの代わりに一枚の小さなメモを見せた。
そこには、4行の文字が書かれていた。

(1)野球をやれることに感謝しながら投げること
(2)低めに投げること
(3)ボールは、前で離すこと
(4)常にストライクを先行させること

米国で面倒を見てくれた、アイク生原さんが書いたメモだった。
米国の育成法は…育てるために、中4日でキッチリ投げさせる。
日本ではほとんど登板することのなかった山本昌…。
米国での投球数は、わずか4カ月で150イニングを超えていた。
「登板前には必ずメモを見ました。腕が上ったのは、上げなきゃ疲れて、低めに投げられなかったからです」

メモの教えを守っているうちに、無意識のうちにフォームが身に付いた。
4年間で、わずか2イニングしか投げていなかった山本昌。この年5勝して、優勝に貢献した。
私の記憶では、期待されての"留学"ではなかったと思う。当時の星野監督が、ドジャースとの縁をつくった関係で、 数人の若手が送り込まれた。
人のいい山本昌は"付け足し"でしかなく、球団の期待も低かった。
解雇されてもおかしくなかった入団5年目の留学。
そして、アイク生原さんとの出会いがなかったら…。運命を感じてしまうのです。

今年セ・リーグが始まるとき、42歳を考えると、7勝するのは大変…と思った。
5月にトントンと3勝した後、6試合登板して3敗…3勝3敗…やたら200勝が遠く感じられた。
7月15日、ようやく巨人から1勝もぎ取り、21日広島、そして一昨日阪神と3連勝して、ようやく200勝に大手が掛かった。

昨年と今、落合監督には、その違いが見えるようだ。
「去年なら勝てなかったと思う。まだ来年があった。今年勝てなきゃ来年はないわけだし、 土俵際にいるということで、 甘い考えを捨てたんじないかな」

当初、プロに入るつもりはなかったし、ここまでやれるとは思っていなかった。
高校の恩師に背中を押されてプロに入り…25年。
次回の登板で歓喜の瞬間を味わってほしいものです。
「とにかく一つ勝つことが大変…1試合1試合頑張っていきたい」と山本昌。

野茂英雄は201勝で引退…その時「悔いが残る」と言った言葉が残る。
「いつか辞める日は来るけど、満足して終わることはないでしょう。
でも、ここまでやってこれた…チームのために頑張りたい」と、何処までも謙虚な山本昌…。

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