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2008年12月 アーカイブ

2008年12月02日

天から与えられた我が命…何に使うか?

■光市、母子殺害事件

最愛の妻子を殺された"本村洋"23歳。
青年は、こぶしを握り締めて震えながら言った…「僕は…僕は…絶対に犯人を殺します」
妻子を殺された深い悲しみの中、裁判を傍聴し、マスコミや、国民に訴え続ける。
幾度となく、司法の厚い壁に跳ね返される…それでもなお、敢然と挑み続けた。

自殺を考え、遺書も書いた。絶望の淵を彷徨う青年を励まし、支え続ける人たち。
巨大弁護団に1人で闘う青年。亡き妻と娘のためと、愛と信念を貫いた…。
一審の山口地裁、二審の広島高裁とも「無期懲役」…だが、最高裁は差し戻し判決。
9年にわたる辛い闘いの末、ついに「死刑判決」を勝ち取ったのです。

裁判の場では、被害者の無念の思いを汲み揚げる場がない。
被害者は蚊帳の外におかれたままの、日本の司法界。
"本村洋"は「司法の在り様」を大変革させた人物である。
死刑廃止論者も、肯定論者も、今一度見つめ直さなければならない事件です。

講談社「なぜ君は絶望と闘えたのか」


【心と体の健康情報 - 622】
~幸せな人生を歩むために~
「天から与えられた我が命…何に使うか?」

今の時代、大人も子どもも、なにかイライラして「将来に希望が持てない」…
そんな人が多くなってきている。

子どものとき飼っていた犬が、保健所に処分されたからと、その恨みを30年も持ち続け、殺意を募らせ、 関わりのない市民を殺害するに及んだ、犯人の異常性…人の命を虫けらのように軽んじる、恐ろしい世の中になったものです。

「今週の倫理586号」は、「この世に生を享け、与えられた"命"を何に使うのか?」
がテーマ…日頃、"命"について深く考えることがないだけに、この号を読んで、いろいろ感じるものがあります。

以下、今週の倫理586号から…
自身の人生の中で、絶望の淵に追い込まれるような出来事に見舞われながらも、
その後自暴自棄になることなく、いよいよ自分の人生に対して、真正面から真摯に 向かう人が、時としています。

1999年4月、山口県光市で起こった凄惨な母子殺害事件で、大切な家族を喪った
"本村洋"さんも、そうした中の一人ではないで しょうか。

事件後、公判が進む折々での、ご本人の会見や、事件に関するマスコミ報道等でご存知の方も多いでしょうが、 『なぜ君は絶望と闘えたのか本村洋の3300日』(新潮社 門田隆将著)には、氏の事件直後からの心の葛藤や、また本村さんを支え続 けた、周囲のたくさんの方々との、交流が綴られています。

事件で、18歳の少年が逮捕された。が、「少年法」が壁となって、家庭裁判所の判断によっては、 事件の詳細を遺族さえ知ることなく、闇から闇に葬り去られる可能性がありました。

同様の事件が1997年、神戸で起こり、その猟奇的な犯行は、世間を騒がせました。
担当の刑事の配慮により、本村さんはその被害者(当時11歳の少年)の父親と交流を持つことができ、 同じ境遇を体験した者同士ということで、大変勇気づけられたそうです。

担当刑事は、本村さんが、最愛の家族を守ることが出来なかった自分を責めて、自殺を図ることを危惧していたのです。実際、 本村さんは、一審判決の直前、両親と義母に「遺書」を書いています。

また本村さんは、初公判が迫り、心が落ち着かない時期、勤務先へ辞表を出しています。
会社に迷惑がかかる…との思いからでした。しかしこの時、辞表を受け取った上司は…

「この職場で働くのが嫌なのであれば、辞めてもいい。
君は特別な経験をした。社会に対して訴えたいこともあるだろう。
でも君は、社会人として、発言していってほしい。労働も納税もしない人間が、社会に訴えても、 それはただの負け犬の遠吠えにしかならない。君は社会人たれ」と応え、
また、「亡くなった奥様もそれを望んでいるんじゃないか」と、諭したそうです。

これを契機に本村さんは、単に裁判の終結を静観するのではなく、積極的に社会に対し、被害者として発言し、 事件が社会の目に晒されることで、司法制度や、犯罪被害者の置かれる状況・問題点を、見出だしてもらうことに、全力を注ごうと決意しま した。

この背景には、本村さんの幼少期の闘病経験や、妻子の「命」、さらには犯人の「命」 に必然的に向き合わなければならない状況にあったことから、「死生観」というものの存在を、感ぜずにはいられないのです。

「この世に生を享け、与えられた"命"を何に使うのか?」という大命題は、
常に私たちに突き付けられているものですが、意識することはなかなか難しいものです。

多くの人々に支えられ、そして、天国の最愛の妻子に背中を押され、何度となく挫折感を味わった9年間の長い闘いの末、犯人に、 自らの罪と向き合わせた本村さんですが、見舞われた悲劇は察して余りあります。

「絶望」という状況の中でも、投げやりになることなく、「使命感」をもって取り組まれた本村氏の姿勢は、 個々の人生を歩む私たちに、大切なことを教えてくれるのです。

2008年12月05日

ラーメンと私

■J2参戦おめでとう

J2は、来季3クラブ加えて、15から18クラブとなることから、今季下位リーグ(JFL)で3位になつた、 富山県のサッカークラブが、J2に昇格することになった。

日本のサッカー選手の頂点に位置する「Jリーガー」は36クラブ、約千人。
日本サッカー協会に登録する選手は、約89万人…わずか1.1%。
その数字から、レベルの高さがうかがえる。

JFLでの順位や、ホームゲームでの観戦者数といった、数々の条件をクリヤーして、クラブ設立わずか1年で承認された。石川県は、 地元開催が年に数度しかなく…J1もJ2も無縁なだけに、「おめでとう」と言う前に、寂しさが先に立つ…。

J2はJ1に比べ、侮る向きもないではないが、決してそんなことはない。
今季のJ2は、7チームが以前J1を経験していて、元日本代表や五輪代表ら、有力選手が何人もいる。来季、地元「カターレ富山」が、 そんな有力選手と真っ向勝負する姿を、是非見たいものです。

北日本新聞「天地人」

※「カターレ」というチーム名は、「○○せられ」と言う、富山の方言からとった。
 勝って欲しい⇒勝たれ⇒カターレになった。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 623】
~私の昭和~ 「ラーメンと私」

お湯を掛けるだけで、はい出来上がり。今年は「即席ラーメン」が誕生して50年になる。
私が初めて即席ラーメンを口にしたのは、昭和35年18歳の時…高校を卒業した年です。

友人の家で、油で揚げた麺の塊りにお湯を掛け、柔らかくなるのを待って食べた。
麺に"ダシ"をしみ込ませ、お湯で緩めるだけの食べ物だったと、記憶している。
主食でもなく、間食でもない?けったいな食べ物で、美味しいとは思わなかった。

昨年は、国内で54億食(世界では979億食)生産された。国民1人当たり41食、食べた計算になる。全国県庁所在地で、 即席麺を一番多く食べているのは、富山市。上位に青森、新潟、仙台市などの寒い地域が並ぶ。
富山市が一番なのは、寒さに加え、共働きの家庭が多いことも、要因の一つだろう。

(北日本新聞・天地人)

初めて即席麺を食べた翌年の昭和36年、小松市粟津と山代温泉のほぼ中間の国道8号線沿いに、八番ラーメン一号店が誕生していて、 評判を聞きつけて、食べに行った。
自家用車の普及は現在のベンツ並みで、まだ金持ちの持ち物だった時代…。
香林坊のスナックのママのクラウンを拝借して、金沢から山代まで食べに行った。

当時、8号線は新道建設中…大聖寺から先はまだ未完成…トンネル工事中だった。
粟津から先は未舗装で、穴ぼこだらけの道を砂埃をたてて1時間…そこまでして出かけるほど、美味しかったのです。

ハチバン一号店は、トタン葺きのバラックでした。カウンターに丸椅子が8脚くらいの、粗末な店。店内は客が列をなし、 椅子が空くのを待っている。
壁に「フランチャイズ募集」と、大きな張り紙…フランチャイズチェーンの先駆けだったのです。

その後しばらくラーメンに凝り、美味しい店があれば、どこへでも出かけた。
当時、金沢でラーメンと言えば「チュー」(現在20店舗)…醤油味の透き通ったスープに、チャーシューが2枚乗った、素朴なラーメンです。

金沢は日本列島の真ん中に位置して、北海道から九州まで、全国のラーメンが食べられる激戦地。そんな中、 さして特徴もないチューが、チェーン店を増やしているのは、何なんだろう?…しいて言えば、出前してくれるから…?。

最近になって、沖縄の食材で沖縄料理を食べさせるお店が、近所に開店して、食べに行った(メニューには、 沖縄名物"海ぶどう"もある)。
嬉しいことに、沖縄ラーメンが食べられるのです。美味しいんですよ!

一風堂河原社長(右) むしょうに本場の豚骨ラーメンが食べたくて、新幹線で博多へ行ったことがある…。
博多といえば長浜・天神、そして中州の屋台。
タクシーの運転手に教えられ、ラーメン通の地元の人たちに評判の、豚骨ラーメン店へ…。

豚骨スープの強烈な臭みが店内に充満…
初めての人には無理かも…テーブルに供えてある、臭みを消す紅しょうがや高菜を乗せて食べた…鼻をつまんで食べると美味しいんです。
ラーメンだけでなく、シューマイ、モツ鍋など、美味い店を探して、食べ歩いた。
全国にモツ鍋ブームが起きる以前に、既に、通ぶっていたのです。


敦賀のラーメン屋台も、付き合いが長い。JR駅前、8号線沿いの商店街に、夜の8時頃から、10軒くらい屋台が並ぶ。 一番の人気店は"ごんちゃん"。
大坂出張の帰り、夕食抜きで高速を走り、11時頃敦賀を下りて、目指す屋台へ…。

"ごんちゃん"屋台…歩道に並べられた椅子席は、いっぱいの人…。
店に着くや、「親父、ラーメンまだある?」…ネタ切れの日は、早仕舞いしてしまう。
スープは乳色で、甘めの豚骨醤油…麺はちぢれ太麺…豚骨風味だが、見た目よりあっさりして、スープが美味しい。

2008年12月09日

性善説・性悪説(2)

■「孟子」名言

自ら反(かえり)みて 縮 (なお)ければ 千万人といえども 吾往かん
「自分が正しいと思うときには、たとえ相手が1千万人であろうとも、
 断じてあとへは退かぬ。これこそが本当の勇気というものだ」

この「千万人…」の言葉、孟子が人から"勇気"について尋ねられたとき、
孔子の言葉として伝えている。

※孟子(前371?~289?) 中国戦国時代の賢人。
  孔子同様、儒教の道徳を説き、政治理念にかなう統治者を探して、
  20年の長きにわたり、中国を放浪した。その間に、為政者や弟子たちと
  交わした言葉が、孟子の死後、「言行録」として編まれた。


【心と体の健康情報 - 624】
~古典から学ぶ~  「性善説・性悪説(2)」

「性善説・性悪説」…その意味を私たちは、以下のように、間違って解釈しているようです。
「性善説」…人の本性は善である。よって人は、信じなければならない。
「性悪説」…人の本性は悪である。よって人は疑ってかかるべきで、信じては
        ならない。
正しい解釈は…
「性善説」…人は生まれつき善の性質を持っている。
        成長過程で学習し、人為的に悪行・悪知恵を身に付けていく。
「性悪説」…人は生まれつき悪の性質を持っている。
        成長過程で学習し、人為的に善行を身に付けるようになる。

■孟子の思想…性善説
孟子は、『人の性の善なるは、 猶(なお)水の下 (ひく)きに就くがごとし
と述べ、「人の性は善であり、どのような聖人も小人も、その性は一様である」
と唱えた。
本来人の性が"善"でありながら、時として"不善"を行うのは、この"善なる性"が、外部からもたらされるものによって、 失われてしまうからだとした。

そのことを孟子は、以下のように述べている。
大人(たいじん・大徳の人) とは、 其の赤子の心を失わざる者なり。
 学問の道は他無し、 其の放心(失われた心)を求むるのみ

「性善説」を唱えた"孟子"も、「性悪説」の"荀子"も孔子の弟子。
人間の本性は「善」なのか、或は本性は「悪」なのか…荀子は、孟子の「性善説」を意識して、あえて反対論を唱えた… 二千数百年を経た今の世に於いても、意見は対立したままで、答えは見つからない。

孟子言うには、孔子の教え「仁・義・礼・知」は、「人が外部から受け取るものではなく、生まれながらに所有しているもの… そのことに気付かないだけ」だと…。
それを努力して伸ばしてやらない限り、人間は禽獣同然の存在となる。
教育して初めて、「仁・義・礼・知」の得を身につけることが出来る…と言っている。

薄学な私が思うに…人は生まれながら、善か悪のどちらか…ということではなく、善も悪も両方、潜在的に所有していると思うのです。
教育や環境によって、いずれかの方により強く染まり、何か事があった時、「善の心」「悪の心」いずれかが、 その人の個性となって強く表れてくる。
人間の高い知能が、そうさせると思うのです。

インドで起きた「狼に育てられた少女」の実話から、環境や教育によって、人間は人にもなれば、狼にもなれる…人は教育によって、 初めて人間になる…
すなわち、学問をすることによって、人間としての徳を身に付けるのです。

孟子も、荀子も、つまるところ、同じことを言っているのですが、2人の違いは、君主の国家を治める手法に表れてくる…

孟子は、君主は徳によって仁政を行い、人民はその徳を慕って、心服するようになる。
1人ひとりの主体的努力によって、社会全体を統治出来る…といった楽観的な、人間中心主義を唱えているのです。

対する荀子は、君主は社会を法制度に則り治めなければ、人間は良くならない…という、社会制度重視の考えに立っている。
前者は、後世に「朱子学」のような、主観中心主義への道を開き、後者は、荀子の弟子たちによって、そのまま「法家思想」 になっていきます。

※ 「性善説・ 性悪説(1)」は、2005年9/13 に 配信。
  「性悪説」を唱えた荀子の弟子"韓非子"については…
  2005年10/4、10/11、10/18 の3回に分けて配信しました。
  ブログ 「吉村外喜雄のなんだかんだ」を開き、
  カテゴリー/月別分類、’05年9月と10月をご覧ください。

2008年12月12日

忠臣蔵・知らざれざる真相

■「忠臣蔵」、もう一つの知られざる真相

内匠頭が吉良への刃傷に及んだ背景は、従来「勅使饗応の作法を教えてくれなかったから」と言われてきたが、そんな作法は毎年のことで、 誰もが知っていること。
原因は他にあるのでは…?

当時、将軍綱吉の生母・桂昌院への「従一位授与」を強行しようとする、柳沢吉保による朝廷工作が、秘密裏のうちに着々と進んでいた。
親朝廷派の内匠頭が、朝廷と幕府の交渉に気づき、交渉役でもあった吉良をとがめて、口論になったのではないか…?

柳沢は刃傷沙汰の真の理由を、多くの情報から推測した。
大石内蔵助もまた、一年以上の雌伏の末、ようやく主君の真意に思い至る。

時の権力者である柳沢は、すべてを抱えたまま黙って切腹した内匠頭に同情した。
柳沢は同情心から、事前に「討ち入り」の情報を入手していながら、動かなかった。
「討ち入りで、浪士が1人も死ななかった」…謎が解けてくる。

新潮社/加藤廣著「謎手本忠臣蔵」より


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 625】
~歴史から学ぶ~「忠臣蔵・知られざる真相」

「風さそう 花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん」
世に"忠臣蔵"で知られる、浅野内匠頭の辞世の句である。

この句で、桜のように散っていった赤穂四十七士の物語は、謎めいた事件として、巷説おびただしい。この刃傷(にんじょう) の顛末には、世間には知られていない事実が、隠されているのです。

この事件で幕府は、「浅野内匠頭は切腹」「吉良上野之介はお構いなし」の裁定を誤下し、これを不満とする赤穂浪士が、 1年9ヶ月後に、吉良邸に討ち入ることになる。
そもそも、内匠頭が刃傷(にんじょう)に及んだ理由を"不詳"として、幕府は動機不明の事件として処理したが、世評は 「吉良が求めた賄賂に、内匠頭が十分に応じなかったため…」と記録している。
裏を返してみれば、幕府にとって都合の悪い事実を伏せてしまったため、事件の原因を、世間はあれこれ詮索するようになったのです。

大石蔵之助以下、四十七士が命がけで仇討ちするには、もう一つ、世間には知られていない理由があった…
それは、幕府がひた隠しにしてきた大名同士の"仲たがい"です。
遡って、豊臣時代や関ヶ原合戦で、恨みを持つ大名同士、末代まで"仇同士の仲"として、江戸城ですれ違っても挨拶も交わさず、 広間で同席しても知らん顔…こうした大名家が多かったのです。

列挙すると、加賀の前田家は、熊本の細川家や二本松(福島県)丹羽家と絶交したまま…。飫肥(おび・宮崎県) 伊東家と薩摩の島津家…島津家は参勤交代で飫肥を避けて、船を使ったほどである。

福岡の黒田家と、熊本の細川家や阿波(徳島)の蜂須賀家。盛岡の南部家と仙台伊達家。池田家(岡山と鳥取)は、永井家(高槻市・ 岐阜)と…不仲は一族の支藩にまで及んでいた。
そして注目すべきは、芸州(広島)浅野家と、仙台伊達家も不仲で、ここに"忠臣蔵"の謎を解く"鍵"があるのです。

事件の原因は、不仲大名を仲直りさせることに熱心だった、老中稲葉丹後守と、
林大学頭の江戸城での会話にあった。
林大学頭が老中稲葉丹後守に尋ねた…
「伊達と浅野が不仲になったのは、いつの頃からであろうか…?」

この会話は、"松之廊下"の刃傷事件が起きる少し前の、正月のことである。
二人は、浅野と伊達を"和睦"させようとしたらしい。
それにはまず支藩からと、「来る3月14日の勅使と院使のご馳走役は、
伊達左京亮(伊予)と浅野内匠頭(播州赤穂)を相役とする…」と命じた。

これが2月のこと。この日から浅野内匠頭は「"ウツ症状"に悩まされるようになり、頭痛に襲われるようになった」と、記録にある。
先祖の遺言で、末代まで"仇"とされている家同士が、"相役"を勤めなければならない
とは…浅野内匠頭は、苦悩の毎日だったのです。

お互い口もきかず、饗応役を勤めた。軽んじられた浅野内匠頭、勅使饗応の準備を終えてから、堪忍袋の緒が切れ、 刃傷に至った。
その間、幕府の意を体した指南役の吉良上野介は、口を聞かず心を開こうとしない浅野内匠頭を、叱責したのだろう。

「このあいだの雑言、覚えたるか」と内匠頭が叫んで、切り付けたという記録が残っている。
浅野内匠頭が切腹させられた田村右京太夫邸も、伊達の支藩。
「和睦」を拒否し続けた内匠頭への、幕府の懲罰である。
この事件は、"不仲大名"を強権で和睦させようとした、幕府の失政にある。

"不仲"を貫いた内匠頭と、"喧嘩両成敗"を求めた赤穂四十七士の行動は、幕府への痛烈な批判だったのです。
こういったことを含んで、冒頭の辞世の句を読み直すと、味わい深いものになってくる。

法人「江戸異聞」より

2008年12月16日

子どもは遊びで育つ

■日本三名山の立山と白山

12月8日は丸一日、北陸の冬には珍しい、雲一つない快晴でした。
真っ青に晴れ上がったのです。天気予報を見て、急遽友人二人と、
金沢港に隣接する金沢リンクスへ…温かい陽射しに感謝しながら、ゴルフを満喫した。

11月28日は一日雨、12月9日は、7日に降った雪(山手のゴルフ場はクローズ)で、予定していたコンペが二度も流れた。 それだけに、楽しさもひとしお…

左前方には、雪を頂きキラキラ輝く立山連峰が、右前方には霊峰白山が…
雪化粧したこの季節が一番美しい。
澄みきった青空に、蜃気楼のように浮かび上がる、二つの雄姿…。

旧8号線、車で呉羽から富山市街に入るとき、小さな峠を上がり下りする。
峠にさしかかり、市街地が目に入ったその瞬間、突然飛び込んでくる"立山・剣"の雄姿。
富山市街の借景となって、屏風のようにそそり立つ…絶景である。
日本一の富士山にも劣らない…美しさに、感動するのです。

立山は、男性的で雄大。
一方、片山津温泉・柴山潟から遠望する白山は、女性的で美しい。


【心と体の健康情報 - 626】
~子育て心理学~ 「子どもは遊びで育つ」

4歳の誕生日が間近な外孫(女の子)。
毎週、民放TVの救急病院ドラマを食い入るように見ている。
「面白い?」って聞いたら、「将来お医者さんになる」という。
医者になるには、「私立の小学校に入れなくちゃ」と、今から心配する母親…。

子どもが「ただいま」と、学校から帰ってきたら、すぐに外に出て、同じ年頃の子ども達と遊べる環境だったらいいな… 小川で水遊びをして、着ているものを泥んこに汚し、裸足で川底の石を掴み、体じゅうを使って水と戯れる。
全身に血がめぐる…お腹が減り、よく食べ、疲れ、よく眠る…幼い頃の、日々の私の姿である。

着ている服をカギ裂きにして帰ってきても、母は何も言わなかった。
今は、洗濯機に入れれば済むのに、子どもが服を汚してきただけで、叱る親がいる。

先週の日曜日、天才サッカー少年の家庭を、放映していた。
お父さんは、元プロサッカー選手。練習プログラムがびっしりの毎日…。
体を鍛えるためと、月曜は柔道教室、金曜は水泳教室に通う。
更に週3日、塾でお勉強。両親の期待に応える天才少年…将来が楽しみです。

「3歳からでは遅すぎる」と、我が子を英才教育へ駆り立てる親。
昨今、各界の一流プレーヤーを見ると、幼少の頃からの両親の英才教育で、
頭角を現した人が多い。
囲碁界は特にそう…政界のように、やたら二世が目立つのです。
今、人並み以上に勉強出来ても…大人になればただの人? 
子は親のコピーである。
ごく普通のDNAの親が、我が子が鷹になることを期待する…そんなご時世です。

10歳頃までは、勉強よりも遊びの方が大事だ!…まず体をつくることだ。
十分に遊び、暴れまわった子…結局は伸びる。
勉強よりも遊ばせた方が、将来、良好な人間関係がつくれるようになる…。
塾に駆り立てるよりも、本を読ませた方が、感性豊かな子どもに成長するだろう…。

学ぶことの意味が分からない幼い子に、人より早く詰め込み教育をして、どんな意味があるというのか? 
日本の子どもたち、理数系の学習能力は、先進国最下位…。
子どもは、体と頭を使って遊ぶことで、初めて工夫し、考える知恵が育まれる。
自ら工夫し考える…自主性を育む環境がないと、子どもの能力は開花しない。
土台がない所に、何を積み上げ、学ばせたところで、無駄というものです。

ところが現実…外で遊ばせたくても、近所で一緒に遊んでくれる子どもがいない…
少子化社会である。いたとしても、学校から帰れば、塾が待っている。
お友達のお母さんは、遊びより塾が大事と、我が子を塾へと駆り立てる。

それよりも、外に、子どもを1人にはしておけない…物騒な世の中になった。
そんな環境で、「勉強より遊びの方が大事」と思ってみても…このまま遊ばせていて…うちの子、勉強が遅れてしまう… みんなに付いていけなくなったらどうしよう…。

「遊んでばかりいないで、塾へ行きなさい」と、つい言ってしまう…子を持つ親の心理です。

2008年12月19日

江戸小噺・酒百態

■おじん駄じゃれ

毎・日曜夕方5時半から、欠かさず見ている「笑点・大喜利」。
のど自慢、水戸黄門に並ぶ、長期放映番組・御三家です。
師匠たちが笑いを競い合う中で、とりわけ異彩を放つ"林家木久扇"
「雨が漏るよ…ヤーネー」など、毎回おなじみの"駄じゃれ"を連発…。
そこで、"木久扇おじん駄じゃれ"あれこれ…

「九州の山へ登ったよ…あッそー」
「台所、ここにしようと思うんだけど…勝手にしろ!」
「隣の空き地に囲いが出来たよ…へぇー」
「お隣さんに塀が出来たよ…かっこい~」

「おい、あそこへ坊さんが通るよ…そうかい」
「この帽子、ドイツんだ?…オランダ…でもイラン」
「灰皿がこぼれたよ…はい、拭きましょう」
「土瓶が漏るよ…そこまで気づかなかったよ」

「この暦は誰んだ?…彼んだ~」
「カラスがお前の頭に、なんかおっことしたよ…フ~ン…(さわって)クソー」
「これはタコですか?…イカにも」
「美味しいね、この肉、鴨かい?…かもね」

"駄じゃれ"が大受けした時の、木久扇師匠の満面の笑顔が浮かんでくる…。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 627】
~ことば遊び~ 「江戸小噺・酒百態」

落語には、酒にからむ噺がたくさんあります。
酔っ払いの、へりくつ亭主の本音がポロっと…「替わり目」
酒に酔った久六が豹変して、笑いを誘う…「らくだ」
貧乏長屋の大家と店子が、連れ立って花見に行く…「長屋の花見
                             (‘07.4.6配信)
のんべえの似た者親子の、ほのぼのと心温まる噺…「親子酒
                             (‘08.1.8配信)
その他「試し酒」「花見の仇討」「青菜 (‘08.8.29配信)」など、
江戸庶民の人情噺が、おかしくも楽しく伝わってくる。

「一杯は、人…酒を呑み、二杯は、酒…酒を呑み、三杯は、酒…人を呑む」
"お酒でしくじった"苦い思い出の一つや二つ、誰にも思い当たるものがあります。
私は下戸なので、直ぐにお酒に飲まれてしまいます。

♪「お酒呑む人花ならつぼみ、今日もさけさけ、明日もさけ」なんてぇます。
また、「酒呑みは やっこ豆腐にさも似たり 初め四角で あとがぐずぐず」
なんてんで、お酒呑みにも、いろんな上戸がございますようで…

「怒り上戸」「泣き上戸」なんてんで、一番罪がないのが「寝上戸」…
酔っ払うとたわいなく寝ちまうなんてんで、罪がありません。
「笑い上戸」なんてのが一番うらやましい…本人も一座も陽気に盛り上がるようで…

「わっはっははは…ま…ね…君ね…今日はゆっくり…ゆっくり呑もうじゃないか。
ええ…帰るぅ…はっはっはっは…バカを言うな…ええ…うちから電話があったぁ
…わっはっは、何だってぇ?…うぅん?隣が火事…あっはっはっはっは、そりゃ面白い…」
なんてんで…呑めない私には、面白くもなんともありません。

ま、中には、泣き上戸なんてんで…
「まぁね…今日は、君とゆっくり…ゆっくり呑もうと思ってさ…あ…ありがとう…グスッ、 君なら分かってくれると思うんだよ。えッ、何がって…部長だよォ…何もあすこまで言う ことはないと思うんだよ。僕だって、怠けている訳じゃないんだから…それをだよ… みんなの前で…あすこまで言うなんて…僕、立つ瀬が無いじゃないか…トホホホホホ」
泣きながら酒を呑んでおりまして…

見ていて面白くないのが「薬上戸」…(呑みそうで呑まない、嫌そうな顔をして、ようやくの思いで呑み込む)…「ッくは~、 もう一杯」なんてんで。

見ていて面白いのが「壁塗り上戸」。むやみに壁を塗りたがる人がおりまして…
「ええ…もう呑めない…もう…今日はね…本当に呑めない…もう…たくさん…
もう入らない…もう呑めない…いいいいい」
(さかんに壁を塗るように、手を左右に振る)なんてんで、四隅を塗り固めたりいたしまして…。
中には「鶏上戸」なんてんで、にぎやかなのがございまして…
「おッとととととととと、ッくぴ…けっこう」

12月と新年は、お酒を呑む機会が多い…呑み過ぎ、飲酒運転には、くれぐれもご注意を…。

2008年12月26日

徳川幕府の年表

■除夜の鐘

今年もあと5日…除夜の鐘を聞いて、今年いろいろあった"煩悩"を、消し去りたいものです。ところで、除夜の鐘を百八回鳴らす習慣?… 中国から伝わってきました。

"煩悩"とは、心身を悩まし、わずらわせ、惑わし…"さとり"を得ることを妨げる、あらゆる精神的作用を言います。
仏教では、百八の煩悩があるとしていますが、他に、八万四千の煩悩があるという説もあり、数についてはこだわる必要がなく、 "大変多い"という意味に解釈すればいいようです。

仏様をお参りするとき"数珠"は欠かせない…珠の数は普通百八個ある。
珠を一つ繰るごとに、念仏を唱える。念仏を唱えることで、煩悩を退治し、滅ぼすことができるのです。
カトリック教徒が、祈りをささげるときのロザリオも、この数珠が転じたものと言われています。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 628】
~歴史から学ぶ~ <徳川幕府の年表>

NHK大河ドラマ「篤姫」が終了した。13代将軍"家定"に嫁ぎ、14代"家茂"、15代"慶喜"の母となり、回を追うごとに、 しぐさ・言葉づかいに"らしさ"と貫禄がそなわっていく…徳川幕府、大奥の最後を取り仕切った篤姫を、みごとに演じきっていた。
ドラマに登場する3人の将軍…時代の波にほんろうされる姿が痛々しい。
ドラマも終盤になると、篤姫に関わるかけがえのない人たちが次々亡くなり、去っていく…楽しくも悲しいドラマでした。

家康から265年続いた徳川幕府。家光や吉宗はよく知られるが、その他の将軍についてはよく分からない? そこで、 歴代将軍を年表にして書き出してみました。

1603 初代 徳川家康 将軍在職 2年
1605 2代 徳川秀忠 将軍在職18年 (家康の三男)
  ※律儀な性格で、戦は苦手。政治向きには抜群の手腕を発揮。
14 ・大坂冬の陣
1623 3代 徳川家光 将軍在職28年 (秀忠の嫡男)
35 ・海外への渡航、国内への帰国禁止
37 ・島原の乱
39 ・ポルトガル人来航禁止
41 ・完全鎖国
1651 4代 徳川家綱 将軍在職29年 (家光の長男)
  ※武断政治から文治政治へ、政策の切り替えを行った。
1680 5代 徳川綱吉 将軍在職29年 (家光の四男)
85 ・生類憐みの令
  ※近松門左衛門、伊原西鶴、松尾芭蕉を生んだ"元禄時代"
02 ・赤穂浪士の仇討ち
1709 6代 徳川家宣 将軍在職4年 (家光の孫)
  ・幕政改革を断行し、歴代将軍の中でも名君と評される。
1713 7代 徳川家継 将軍在職3年 (家宣の四男)
  ※4歳で即位、7歳で婚約、8歳の時風邪で亡くなる。
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1716 8代 徳川吉宗 将軍在職29年
    (紀州2代藩主四男・家宣の養子になる)
21 ・享保の改革(目安箱を置く)
32 ・享保の大飢饉
※破綻しかけていた幕府財政を復興…名君と言われた。
・江戸火消し、小石川養生所の設置
1745 9代 徳川家重 将軍在職15年 (吉宗の長男)
1760 10代 徳川家治 将軍在職17年 (家重の長男)
82 ・天明の大飢饉
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1787 11代 徳川家斉 将軍在職50年 (一橋家2代当主長男)
1828 ・シーボルト事件
・松平定信の寛政の改革
※徳川を、一橋徳川の天下にしたいと、19男・27女の子供をもうけ、
 諸大名との婚姻を推し進めた。
1837 12代 徳川家慶 将軍在職16年 (家斉の次男)
  ※幕府財政の破綻、幕政の腐敗、網紀の乱れ…"大塩の乱"を招く
41 ・天保の改革
1853 13代 徳川家定 将軍在職5年 (家慶の四男)
  ・ペリー来航
54 ・日米和親条約
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1858 14代 徳川家茂 将軍在職8年 (紀州13代藩主)
  ・日米修好条約
60 ・桜田門外の変
63 ・下関事件。薩英戦争
1866 15代 徳川慶喜 将軍在職1年 (一橋家9代当主)
67 ・大政奉還

※「御三家」…尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家
※「御三卿」…田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家

将軍家に跡継ぎがないときは、他の御三卿とともに、跡継ぎを出す資格を有する。
家格は「徳川御三家」に次ぎ、所領は十万石だが、他の大名のように、領地や城は持たなかった。
・この制度で、御三家・御三卿から跡継ぎを出したのは、紀州藩と一橋家だけです。

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