コンプレックス(2)
『 人は、日々様々なミスを経験し、繰り返している。
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【吉村外喜雄のなんだかんだ - 763】
「病んでいる海」
■ 無垢な”気”
T氏が帰宅のため、電車に乗った時のことです。
車内は…皆疲れきった表情で、よどんだ空気が漂っていました。
次の駅で、赤ちゃんを抱いた母親が乗ってきました。
年配の婦人が腰を浮かせ席を譲ると、母親が「すみません」と言って
腰掛けました。その時、婦人が赤ちゃんを覗き込んで「いくちゅですか」
と尋ねた。その際、婦人の見せた穏やかな表情に、乗客はなごんだ。
笑顔で話しかけられた赤ちゃん…次に新聞を読んでいた男性のコート
に手を伸ばしました。母親が再び「すみません」と謝ると、今度は男性
が赤ちゃんに、ニッコリ微笑み返しました。
停滞した車内の空気は、一瞬にして和やかなものに変わりました。
赤ちゃんの無垢な”気”が、疲れた大人たちの心を緩ませたのです。
職場の教養
【心と体の健康情報 - 760】
~食と健康~ 「拍手の文化」
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「誰がレベッカを殺したのか?」大荘園に渦巻くゴシップ・サスペンスです。
アルフレッド・ヒチコック監督の名作として知られる…
恋愛サスペンスがミュージカルになった…好評との噂が、都会から離れた私の耳に…
いよいよ大楕円…レベッカの死の真相が明らかになって、興奮冷めやらぬ中…終演…
鳴り止まぬ拍手…繰り返されるカーテンコール。
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【吉村外喜雄のなんだかんだ - 757】
「彦三の大火」
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「彦三の大火」として、今に伝えられている。 あれから約八十年、当時を知る人はいなくなった。 「そりや怖かったよ。兄貴と二人、泣きながら震えとったがや」 福岡さん(89)が、7歳の頃のかすかな記憶をたどる。 古物商だつた父親は、火元近くの親戚宅を助けに走った。 福岡さんの自宅は被害を免れたが、火の手はすぐ近くまで迫っていた。 |
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【吉村外喜雄のなんだかんだ - 753】
チュニジア紀行(4)「チュニジアン・ブルー」
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6日目、首都チェニスの南2百キロ
の町エル・ジェムへ…
3万5千人収容の世界遺産・コロセ
ウムを見学した。
ローマのそれに匹敵する、巨大な
円形闘技場…
ローマのように、床が抜け落ちては
なく、保存度が良い…
地階の猛獣の檻も見学した。
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【吉村外喜雄のなんだかんだ - 751】
チュニジア紀行(3)「原住民ベルベル人の穴居住宅」
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7日目、チュニジア北部のローマ遺跡、
「ザクアンの水道橋」を見学。 水源地ザクアンから、地中海に面した カルタゴまで、全長132kmの、 世界最長のローマ水道橋。 その多くは、地下に掘られた水路を 流れるが、地表に表れる水道橋、 現在残る部分は20kmあり、 一部は現在も使用されている。 |
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【吉村外喜雄のなんだかんだ - 749】
チュニジア紀行(2)「サハラ砂漠の日の出」
| BC2000年 : | ベルベル人、ヌミディア王国建国 |
|---|---|
| 814年 : | フェニキア人による都市国家・カルタゴ建国 |
| 146年 : | カルタゴ滅亡。ローマの支配下に… |
| 紀元439年 : |
ローマ帝国衰退。スペインからゲルマン民族侵入 王国建国 |
| 533年 : | ビサンチン帝国(東ローマ帝国)の支配下へ… |
| 647年 : |
ビサンチン衰退。 以後1200年、イスラム・アラブの支配下に… |
| 1881年 : | フランスの植民地支配 |
| 1956年 : | 独立運動の後チュニジア共和国建国 |
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 747】
チュニジア紀行「古代カルタゴとローマ」
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頃は明治3年…明治維新に際し、新政府側につかず、独自の立場を貫いた長岡藩は、 戊辰戦争で官軍に町を焼かれ、 石高も七万四千石から、二万四千石に削減され、窮状にあえいでいた。
それを見かねた支藩の三根山藩が、見舞いに届けたのが” 米百俵”
長岡藩の大参事(旧家老)の小林寅三郎は、米を藩士に分けず、百俵を元手に学校を作ることを主張した。 窮状にあえぐ藩士らは猛反発し、
米を寄こせと詰め寄った。
大激論の末、小林はこう説き伏せた。
「百表の米を分けたところとて、何日ひもじい思いをしのげるだろうか?
食べてしまえばそれまでで、
いつまでたっても本当に食えるようにはならない。
この米で学校を建て、
人材を養成するのが迂遠だが、一番の近道だろう。
今、
百俵の米が、その時には千俵にも万俵にもなるだろう…」と。
後に長岡中学から、山元五十六や小野塚喜平次・東大総長らの逸材を多数輩出した。 目先に囚われているようでは、 いつまでたっても世の中は変わらないだろう。 5年後、 10年後を見据えた政治を行うことが大事なのです。
「マクベス」の舞台になった能登演劇堂。今から16年前の1983年、
仲代達也夫妻が能登に旅行し、中島町に立ち寄った際…「こんな素朴な土地で、無名塾の稽古が出来たらどんなにいいだろう」
と言ったのがきっかけ。町長の呼びかけで、能登の片田舎で、無名塾の合宿が始まったのです。
その後、「能登から演劇文化の発信を!」の機運が高まり、大勢の人の力を得て1995年、客席651席の立派な演劇場が完成した。
当時、人口わずか八千人の小さな町が、お荷物になるのを覚悟で、年間予算の3分の1を投じ、一か八かで造った大劇場。
この大英断で、能登の地に今、演劇文化が根付こうとしているのです。
■仲代達也の主な作品
◎シェイクスピア劇…「ハムレット」 「リチャード三世」 「マクベス」 「オセロ」
「乱(リア王)」 「ジュリアスシーザー」
◎映画
「用心棒」 「椿三十郎」 「天国と地獄」 「陰武者」 「乱」 「切腹」 「人間の条件」
「黒い河」 「炎上」 「我輩は猫である」 「鍵」 「阿修羅のごとく」 「男たちの大和」
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 700】
「能登・マクベス公演・大英断」
能登の小さな町で、都会でしか見られないシェイクスピア劇が上演されている。
先週18日、七尾市中島・能登演劇堂・無名塾で、シェイクスピアの「マクベス」初日公演を観賞してきた。 マクベスは、
日本の戦国時代より五百年も昔の、11世紀半ばのスコットランドの物語ですが、恐ろしい物語です。

勇猛な武将マクベスは、魔女たちから「やがて王になる」と予言され、先王を殺し、王位を手に入れる。
が、先王の子が軍を率いて報復、殺されてしまう…。
魔女の予言にほんろうされ、破滅していく男の物語です…日本の戦国武将、明智光秀の姿が浮かんでくる。
シェイクスピア4大悲劇の一つだが、前もってあらすじを読み、時代背景を知った上で観賞しないと、 演じている内容がチンプンカンプン…分からないまま、終わってしまいそう。
芝居の途中、舞台後方の大扉が観音開きに開け放たれ、舞台奥に広がる自然の風景が、スコットランドの荒野となって再現される…
背景の景色が舞台に見事に溶け込み、観客を魅了する。
日本演劇界初の試みだそうで、世界どの国にも無い、当劇場でしか見られない、素晴らしい演出が出来る劇場と、話題を呼んでいる。
開け放たれた舞台奥の大地を、馬に乗った騎兵が次々駆けぬけていく…クライマックスには、 森の奥から無数の兵隊が木の枝で身を隠し、城へと迫ってくる…森が動いて見えるのです。
舞台の巨大なお城のセットと、舞台奥に広がる森や山が、映画「乱」の一場面を見ているような臨場感を演出…思わず身を乗り出し、
見入っていた。
背景の杉山の照明と、前評判の"バーナムの森が動く場面"がクライマックスを盛り上げる。
舞台後ろの扉が全開されるや、観客席に新鮮な空気がここちよく流れ込む。
フッと…大雨の日はとうするのだろう? それより11月になると、劇場内に冷たい風が吹き込むだろうし…出演者は冷たい雨に打たれ、
寒さに震えるだろう。
舞台は水浸しになるかも? (マクベス演出家/林清人・演出雑感から)
数年前の能登半島地震で観光客が激減…「これからどうしよう」と悩んでいた矢先、仲代達也から「復興の意味合いを込めて、 能登限定の芝居をやっては…」との申し出があり、「マクベス」の企画がスタートした。
過疎の地能登の劇場に足を運んでいただけるお客様を、三万数千人も集めなければならない。この不況時に、
能登限定で50日間のロングラン…お客様が来ていただけるだろうか?日本の演劇界では考えられないことです。
ある意味で大博打であり、大英断だったのです。
主催者は、たとえ1万人でもやろうと覚悟を決めて臨んだ…この大英断が、能登に新たな風を吹き込むことになった。
二ヶ月間に50回のステージをこなし、観客動員目標三万五千人…チケットは発売早々の八月末に売り切れた…予想を超える人気に、
主催者の喜びはひとしお…。
以前、この劇場で20日間公演をやった時、東京からの客が「遠くまで来て見た感動はものすごい!」… 東京で見るのとは違った感動があり、観光地能登への期待もあった…今回も、東京・大阪・名古屋…全国の仲代フアンが大勢、 能登に押しかけて来る。過疎地能登にもたらす、マクベスの経済的効果は大きい…
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 690】
「モンゴル・スダディツアー」
■「剣岳点の記」映画化構想のきっかけ
旧国道8号線を呉羽から富山市に入る時、小さな峠を上り下りする。
峠に差しかかると、富山市街が前方に見えてくる。「オオ~ッ」と声を発するくらい、
市街地の後ろに屏風のようにそそり立つ立山連峰…雄大な景色が目に入ってくる。
自然撮影では第一人者のカメラマン"木村大作"さんが、「剣岳点の記」映画化の
構想を思い立ったのは、2006年の2月。車にカメラを積んで、ふらり能登半島を
訪れた時に始まる。その帰りに、フッと思い立って、剣岳の雄姿を見に行った時だという…。
剣岳を見ながら、その場で新田次郎の原作を読み返し、「無理だとは思うが、
この山と対峙して映画を作ってみたい」との思いが芽生えたのです。
脚本作りを始めた木村大作…この年の6月、室堂から別山へと登った。
別山から見た剣岳…こみあげてくる感動を、映像に収めたいと思った。
7月末、今度は剣岳頂上を目指した。木村大作は68歳。自分が登れば、
若いスタッフや俳優たちもきっと登れる…その思いを込めて頂上に立った。
山頂から電話した…「トラ、トラ、トラ」。ここから本格的映画化がスタートした。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 682】
「剣岳点の記」を鑑賞して
先週の土曜日、日本地図完成のために命を賭けた男たちの物語、「剣岳点の記」を鑑賞した。
この映画の原作は、「八甲田山死の彷徨」 「武田信玄」で知られる"新田次郎"
「八甲田山」「鉄道員(ぽっぽや)」「火宅の人」などの作品で、日本人の心と自然を撮り続けてきたカメラマン"木村大作"さん…
日本で自然を撮らせたら「木村さんが一番」と言われている。
当時、木村さんは67歳、2006年の夏、51年の映画人生全てを賭けて、
「剣岳点の記」の映画作りを始めた…初めての監督作品に取り組んだのです。
そして、雄大で芸術性の高い山岳映画が完成したのです。
以前、木村さんが撮影した「八甲田山」は大ヒット。あの映画は全て
極寒の山中での撮影で生まれた。今回の作品も、全部現場に入り、
本物の場所で撮影する。しかも、ヘリコプターからの空撮はやらない。
全て自分の目線で撮っていく…企画・脚本・撮影・監督全て自分でやる…と、
木村監督の固い決意。
監督は、俳優・スタッフを次々と決めていった。面接の時…
「この映画はかってない厳しい撮影になる。機材や荷物はスタッフ
自身が背負って、歩いて運ぶ。泊まる場所も、何十人も詰め込まれて
眠る山小屋だ。しかもそれが何十日も続く。この条件に耐えられるか?」
その条件を受け入れて、共に山へ登る覚悟をした者が、彼の回りに
集結していった。
立山連峰の雄大な景色、息を呑む美しさ、立ちはだかる剣岳、
厳しい自然を背景に、お金でもなく、名誉でもなく、ひたすら
自らに課せられた仕事への誇りをかけて、苦難に立ち向かって行く人々の物語。
その姿が、映画を作る作業と重なって見えてくる…。
撮影は、天候がらみの一発勝負だ…撮り直しがきかない。一刻一刻
変化していく山の風景。場面は、その一瞬の風景が切り取られ、
ドラマになっていく。
映画は、剣岳・立山連峰各所の山々に、100年前の史実に沿って、
三角点を設置していく姿を、忠実に再現…四季折々美しく、或は
荒々しく変化する大自然…想像を絶する、厳しい大自然に挑む人たち
の姿を、延べ200日を費やし、標高3千メートル、氷点下40度の中
でのロケーション…。
あまりの厳しさに俳優たちは「これは撮影ではない、これは行だ!」
と言った。
音楽は、木村監督自ら選曲した、クラシックの名曲の数々…
ヴィヴァルディ「四季」や、バッハの名曲が全編を彩り、自然と人間が
織り成す壮大なドラマが盛り上がっていく。
上映時間2時間20分…日本人の"心"の物語である。
この作品から、今は失われつつある"日本人魂"が、映画を観る私
たちの心を打つ。
撮影中のスタッフから、「自分たちは日本一凄まじい、すごい現場に
いるんだ」という、誇りが感じられる…映画を観る私たちにも、それが
伝わってくる。
感動の大作だ…これほどに美しく、また雄大で、人の心を打つ山岳
映画は過去に例がない…日本映画史にその名を残すだろう。
「剣岳点の記」カタログから抜粋
■昭和三十年代の出来事・流行歌
S30 映画「ローマの休日」で、ヘップバーンカットが流行
山手線ラッシュアワー…押し屋が登場
「月がとっても青いから」「この世の花」
S31 ホッピング流行 「鉄腕アトム」「鉄人28号」
「愛ちゃんはお嫁に」「哀愁列車」
S32 裕次郎「俺は待ってるぜ」人気で、リーゼント流行
「有楽町で逢いましょう」「東京だよおっ母さん」
S33 フラフープ大流行 東京タワー完成 ベビーブームですし詰め学級
「お~い中村君」「だから言ったじゃないの」「からたち日記」
S35 池田勇人首相…「所得倍増」「私はウソは申しません」
国民総バカンス
S36~37 植木等の「わかっちゃいるけどやめられない」「ハイそれま~でぇよ」
「巨人・大鵬・卵焼き」 TV普及1千万台突破
S38 東名高速道路開通
S39 東京オリンピック「ウルトラC」、「シェー」、東海道新幹線開通
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 672】
~私の昭和~ 「昭和三十年代(14~23歳)」
昭和三十年代は青春真っ只中…三十年代初めの頃の日本は、戦後の貧しさがまだ続いていた。昭和30年… 戦前から十数年続いた我が家の朝食"芋粥"が、ようやく麦入りの白いご飯になった。
三十年代半ばになると、復興期を乗り切った日本が、経済的に大きく発展し、様々な可能性を広げていった。
暮らしを豊かにする魅力的商品が次々発売され、平和を肌で感ずるようになった。
当時、神社のお祭りは人で溢れるほどにぎわったが、どこのお祭でも、片足義足の傷痍軍人が鳥居の下で松葉杖をつき、
首から募金箱を下げて立っていた。
徐々に生活にゆとりが出て、食だけでなく、衣類・日用品・電化製品などが買い揃えられ、暮らしにゆとりが感じられるようになった。
昭和31年、その年高校を卒業する兄は、父親に「商人に学問は不要…学費は出せない」と言われ、大学を断念…
某大手銀行金沢支店に就職した(学歴がないことが、その後の出世を妨げた)。 4年後…私の時は大学受験OKだった。
上部にローラー絞り器が付いた洗濯機、扇風機、電気コタツ、掃除機…次々買い揃えていった。電器釜は、
毎朝薪でご飯を炊く手間が省け、洗濯機は家事にゆとりをもたらした。
大家族の我が家…家事一切を切り盛りする母には、どんなに有りがたかったか…。
更に、トランジスタラジオ、レコードプレーヤー、カメラ、ミシンなど…家の中が豊かになっていった。手回しのエンピツ削り器が出回り、
安価なソノシート(簡易レコード盤)で、当時流行したラテン・ミュージックを楽しんだのも、この頃。
"神武以来"と言われる好景気が続き、消費を刺激…
政府は昭和31年、「もはや戦後ではない」を宣言…家電メーカーや、自動車の大衆化が成長を支えた。大村昆のダイハツ・
ミゼットのTVコマーシャルが、印象に残っている。
機会さえあれば、誰もが豊かになれる…誰もが夢が描ける…そんな時代になったのです。昭和33年、長島選手が巨人入団。翌年王選手入団…
巨人軍ON全盛期の幕開けです…同年、インスタント・チキンラーメン発売…35円だった。
昭和32年、MRO放送がテレビ普及のため、私の家の隣にショールームを開設。
ウインドウに、テレビが横に3台、縦に3段・ズラッと並べられ、受信映像をデモンストレーションした。相撲は大鵬、
プロレスは力道山が大活躍…中継を見ようと、ショールームの前は人垣ができた…。
昭和31年当時…公務員の月給は1万7千円。観音開きの扉が付いたテレビが48万円…庶民には高嶺の花だった。
14インチTVが家庭に普及したのは、昭和34年、皇太子・美智子さんの結婚…ミッチーブーム以降…
東京オリンピック直前の昭和37~38年に、急速に普及した。
そして我が家にもテレビがやってきた…茶の間に据えられ、どん帳がまくられる。
映画館のように、茶の間を暗くして映された映像…やたらとまぶしかった。
■囲碁・7大タイトル獲得数
(棋聖・名人・本因坊・十段・天元・王座・基聖)
42…趙 治勲 35…小林光一 31…加藤正夫(故人) 21…坂田栄男
21…林 海峰 17…大竹英雄 15…張 栩 14…藤沢秀行(故人)
12…高川 格(故人)、依田紀基 11…王 立誠 10…武宮正樹
私が囲碁を覚えたのは昭和39年。昭和36年から昭和60年の25年間は、坂田栄男、藤沢秀行、林海峰、加藤正夫の全盛期だった。
この間のタイトル総数は127(年平均5個)…その半数の68個を、この四人が獲得している。
昭和61年から平成7年の10年間は、小林光一、趙治勲、加藤正夫、武宮正樹が活躍。
この間のタイトル総数は70…その7割49個を、この4人が獲得している。
平成8年から平成20年の13年間は、趙治勲、張栩、依田紀基、王 立誠が活躍。
この間のタイトル総数は91…その半数49個をこの4人が占め、現在"張栩"が史上初、7冠のうち"5冠"を独り占めしている。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 668】
「藤沢秀行・名誉棋聖逝く」
豪快・華麗な棋風で、囲碁界最高のタイトル「棋聖」6連覇の記録を持つ、藤沢秀行名誉棋聖(83歳)が、5月8日亡くなった。
名人位2期、棋聖6連覇を始め、王座5期、NHK杯2期など、通算獲得タイトル数は23…その独創的棋風は、自由奔放、豪放磊落…
昭和を代表する名棋士でした。
平成3年「王座」獲得、翌年67歳で防衛に成功…史上最高齢の防衛記録保持者である。
その人生は破天荒…酒、ギャンブル、借金などをめぐるエピソードには事欠かない。
「囲碁とは 勝負である前に 芸である」という名言を残している。
二十代後半から競輪にのめり込み、1点買いに250万円をつぎ込んだことは、 今も語り草になっている。
目当ての選手に、後続がきわどく迫ってくる…藤沢さん、金網をつかみ「ガマーン」と叫び続けた…最後に抜かれて大金は紙クズに…
金網は菱形にひしゃげた…その後「秀行引き寄せの金網」として、競輪場の名所になった。
三十過ぎてからは酒を愛し、酒のにおいをさせて対局に臨んだり、不動産業に手を出したり、囲碁ツアーを企画したりしたが、
いずれも赤字で、億単位の借金を抱えた。
借金返済のため、囲碁タイトルでは最も賞金の高い「棋聖戦」に自らのすべてを賭けた。
防衛戦の一ヶ月前から、好きな酒を断った執念は、語り草になっている。
秀行の型破り…賭け事にとどまらない。女性関係も…無頼ぐらいでは追っつかない。
将棋の"米長"永世棋聖の若い頃、米長の奥さんが、藤沢さんの奥さんを訪ね、「うちの主人は週に5日は帰ってこない…」と、
悩みを打ち明けたところ、藤沢夫人「うちは(愛人の家に入り浸って)3年、帰ってきませんでした…」
事業に失敗して借金の山を築き、高利貸しに追われ、自宅を競売に掛けられる修羅のさ中、
並ぶ者なき"棋聖戦6連覇"の偉業を成し遂げている。
第5局開始の朝、「負けたら首を吊ろう…」と、枝ぶりのよい木を探しながら、対局場に向かったという…。
この碁で藤沢は、一手に2時間57分という記録に残る長考の末、対局者"加藤正夫"の大石を全滅させるという、気迫の勝利を収めた。
勝利の後、「最善手を求めて命を削っているから、借金も女も怖くない」と語った。
私生活は破天荒だったが、囲碁は謙虚そのもの…「囲碁の神様が「100」知っているとしたら、自分は…」との問いに、
希代の名人が出した答えは、「6」だった。
享年83歳…誰よりもめちゃくちゃな人生を歩み、誰からも愛され、そして囲碁は誰よりも強かった。
戦前・戦後の乱世を、すさまじく生き抜いたプロ棋士…こういうスケールの大きな自由人は、もう現れないだろう。
5/9 読売新聞
■賞味期限間近のサプリメント
消費者の「鮮度信仰」を背景に、流通市場の「日付管理」に対する目は厳しくなる一方です。
我が社では、黒酢や冬虫夏草、ローヤルゼリー、ビタミン剤など、約40種類のサプリメントを販売しています。
何れも、賞味期限が残り3か月になったら、売り場から撤去しています。
期限切れ間近の商品を、うっかり販売してしまうのを防ぐためです。
東京では、食品の値上りが相次いだ昨年末から、賞味期限の近づいた商品を、アウトレットの割安価格で、
インターネットや業務用に販売する業者が急増している。
賞味期限間近の商品…「通常の半値以下」という魅力に引かれ、消費者や飲食業に人気があるのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 666】
「捨てるの…ちょっと待って(2)」
食品を購入する時、「賞味期限」や「産地ブラント」に無関心という人は、いないだろう。
消費者を裏切れば、「赤福」や、中国ウナギを国産と偽った「魚秀」のように、営業停止に追い込まれ、企業の屋台骨を揺るがすことになる。
広島銘菓「もみじ饅頭」の老舗・にしき堂…朝作られた饅頭が、その日に観光地の売店に並ぶ。もみじ饅頭…作ってから20日間は、
食べても大丈夫だという。
にしき堂では、賞味期限を"8日間"と定め、店頭では3日を過ぎると、特売に回し、半値で売ってしまう。
一番おいしく食べられるのは、生地とアンがなじむ3~4日目…饅頭は、4日を過ぎると、美味しさのピークを過ぎる。
消費者に新鮮なものを提供し、店の暖簾を守るのが、老舗の条件なのです。
茨城県で「干し芋」を加工販売しているM社…干し芋の賞味期限を偽装したとして、県から改善指導を受けた。「品質は問題がない…」 と、期限が来て返品された、干し芋の賞味期限を書き換えたのだが…製造業者に罪の意識はないだろう…。
私の子どもの頃、干し芋は家庭のおやつだった。
長期保存がきく保存食品で、かきもち同様、陰干しにして保存…干してしばらくすると、白い粉が吹いてくる。粉は糖の一種で、
美味しさを増す働きをする。
昔は、干し芋や味噌は自家製だった。
家庭で造る味噌は、防腐剤が入らない天然醸造。
しばらくすると、表面が白いカビ状のもので覆われる。
今だと、「カビが生えた…気持ち悪い…食べられない」と苦情が出て、返品されるだろう。
干し芋も同様…粉をふいた干し芋を見て、カビと勘違いして、捨ててしまう消費者がいるという。正月のお餅にカビが生えるのは、
安全な食品の証拠…もし、いつまでもピカピカだったら、カビも生えない、毒入りの危険なお餅、ということになる…。
レストランで食事をして、食べ残すことがある。
米国に本社があるステーキチェーンの六本木店…全店で、食べ残した客に「持ち帰り」を勧める運動を展開している。店から渡された、
お持ち帰り専用容器には、早く食べていただくための「日付シール」が張られている。
お隣の福井県でも、昨年「おいしいふくい食べきり運動」と銘打って、地域ぐるみのキャンペーンが展開された。
「量が多ければご相談ください。小盛りも注文できます」
福井県の飲食店…最近メニューに、上記のようなメッセージを添えたお店が急増している。470店のお店が登録していて、
この運動に参加しているのです。
運動に協力している某ホテルの宴会場には、"持ち帰り容器"が置いてある。
日本の食品の廃棄量は、家庭からのものを含め、約1900万トン…減る気配を見せない。
自給率39%の日本…消費者の賞味期限へのこだわりを変えない限り、廃棄量を抑制することは無理だろう。
食用油、マヨネーズは昨年7月から…物価の優等生"タマゴ"も値上げされた。
石油燃料に次いで、食糧品価格が高騰する中、食べきれないほど料理を並べ、食い散らかす飽食文化の日本…そろそろ、
見直す時に来ているようです。
読売新聞「食ショック」より
森 信三 「修身教授録」 Ⅱ第10講「賞味三十年」からの抜粋です。
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人生の賞味期間は、三十年くらいのものです。その大切な歳月を充実して生きたなら、満足して死ねます。 「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」 よく知られる孔子のことばです。人生の真の意義は、時間の長さにはなく、いかに生きたかという、 その深さにあるということです。 |
人によって長短はあるにせよ、一人の人間が世の中のお役に立ち、持てる真価を発揮するのは、
二十代半ばから五十台半ばの三十年間でしょう。
ですから、人生の賞味期限を長くすれば、それだけ世の中へのお役立ち期間も長くなるということです。
平均寿命の短い昔は、元服15歳はもう一人前…大人の仲間入りをした。
現代は平均寿命が大幅に伸び、人生の「賞味期限」も倍くらい長くなった。
人生、50歳を過ぎる頃から充実してくる。60を過ぎると、様々なしがらみから解放され、時間に追われることもなくなり、 好きなだけ仕事をして、空いた時間、今まで出来なかったことがやれるようになる…趣味に、旅行に、日々充実してくる。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 664】
「捨てるの…ちょっと待って」
冷蔵庫の「牛乳」…「賞味期限が過ぎているから…」と、捨てようとする妻。
「飲むから、捨てないで…」と、私。「お腹壊しても知らないから…」と、妻の声…。
妻は「賞味期限を過ぎた食品は口にしてはいけない」と、信じ込んでいるのです。
牛乳…臭いを嗅ぎ、泡立っていないか目で確認し、一口含んで、何でもなければ飲む…もったいない世代の私…何でもないのに、
賞味期限が来たからと、捨てる気にはならない。
賞味期限は、製造した会社が、お客様が美味しくいただく目安の期間として定めたもの。そのうえ多くの企業は、
賞味期限を実際の賞味可能日数より短めに設定している。
だからと、賞味期限を3週間も過ぎた「絹ごし豆腐」を食べる気にはならない。
捨てる前に、臭いをかぎ、大丈夫そうだったら、恐る恐る一口舌に乗せる…個人差があるにせよ、"五感"でおおむね判断できるのです。
違和感がなければ、捨てずに料理などに使えばよい…食品は、賞味期限よりも、保存状態が大事…状態が良ければ、 期限に囚われることなく、無駄なく消費できるのです。
今月下旬、長島温泉へ孫を連れ、家族で一泊旅行する。
ホテルは、夕食も朝食もバイキング形式…和食、洋食、寿司、果物、飲み物、ショートケーキ等々、種類は豊富。好きなものを、
好きなだけ取って食べる…。
若いカップルや家族連れに好評だ。前回宿泊した時、妻は、目の前で握ってくれるトロが美味しいと、三回も席を立っている…。
並べられている料理…無くなると直ぐ追加が出てくる。残った料理…どうするのだろう? 捨てるのはもったいない… 船場吉兆のように、前夜の残りを翌朝また出す?それは困ります。
帰ってから友人と、こんな会話をしていたら…友人曰く。
ビヤガーデンでアルバイトしていた時、客が食べ残した"枝豆"…実の残った枝豆をより分けて、出しなおす。
客が飲み残した生ビールを集めて、ジョッキを満たす。
その時、泡の出し方を習った…割り箸を突っ込んでかき回すと、きれいな泡ができる。泡を作るのは割り箸が一番…そして、
何食わぬ顔でお客様の所へ… こんな事例、珍しくはない…「そう、そう…」と私もうなずく。
私も飲食店でアルバイトをしていた時、似たような経験をしている…。
最近のニュースで…韓国の飲食店の七割が、お客が食べ残した残飯を、そ知らぬ顔で新しい客に出すという。 韓国政府が改善指導をしても、なかなか守られず、対応に苦慮しているという…気持ち悪くて、韓国へ行く気にはなりません。
昨年京大が、京都市内50世帯の家庭ゴミを調べたところ、手つかずの食品が大量に見つかった。包装されたままのパン、うどん、 豆腐…農水省の調査では、家庭生ゴミの約40%が食べ残し…その内6%が、手つかずの食品だった。
ホテルやコンビニ、外食企業からは、弁当や野菜などの売れ残り食品が、毎日大量に廃棄される。農水省の推計では、家庭や企業から、
十分食べられるのに廃棄される食品は、年間600万トン…実に食品総量の4分の1が捨てられる計算になる。
国連は近い将来、穀類、肉、魚類、野菜の価格が1.2~1.8倍になると警告している。
世界人口の増加、温暖化による穀倉地の干ばつ、水害、バイオ燃料への転化、投機などが原因で、食料品が国の戦略品になろうとしている…。
自給率わずか39%の日本は今、飽食に浸りきっている…
大量に食べ、惜しげもなく捨てる…何かが狂っている。
何れ"罰"があたって、北朝鮮のようにひもじい思いをして、餓死者が出る国になるかも…
戦中戦後の食糧難時代を知る、私のひとり言です…。
読売新聞・特集「食ショック」より
「だら」は、北陸地方の方言と思っていたら、山陰地方の一部でも使われているという。
昨年末の大掃除で、書棚を整理していたら、松本清張の「砂の器」が目に入った。
30年くらい前に、清張の作品に夢中になっていた頃、読んでいる。
正月串本へダイビングに出かけた折、行き帰りの車中で読んだが、筋書きはすべて忘れていた。
読み進めると、日本海側の片田舎の方言が、「砂の器」の謎解きにからんでいく。
当初、東北の「かめだ」と思って捜査したが、名前ではなく、島根県の「亀嵩(かめだか)」という地名だった…そんな筋書きで、
山陰と東北に共通のなまり・方言があることに着目…事件解決の糸口を見出していく…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 655】
~かなざわなまり(4)~
「ダラ」「ダラくさい」「ダラブチ」「だらま」
「ダラなこと、しとんなま」…1年前、サッカーワールドカップ、アジア杯予選「日本対バーレーン戦」で、日本は前半致命的ミスで、
ゴールを決められた瞬間である。
試合は「1-0」で負けた。
こうした罵倒の言葉…金沢では「ダラ」「バカ」「アホ」の三つに分けられる。
かなざわ弁を代表する「ダラ」…ミスした時、「え~いダラ!」「アホンダラ」「ダラかいや!」と、罵声が飛んでくる…が、 京都ことばに似て当たりが柔らかく、言うほどに相手を傷つけない。
関東のバカと関西のアホが金沢に入り込んだのは、そんな昔のことではない。
戦後、ラジオやテレビが発達してからである。
思わず失敗したとき、「ダラな…」と舌打ちして、
自らを反省するときに使ったり、自分だけ損するような目に合ったときは、「ダラくさい」と、
独り言を言ったりする。
「ダラ」は「バカ」や「アホ」より、いろんな意味が含まれ、広い言い回しになる。
関東や関西では、相手に「ダラ!」と言っても通用しない。そんな時「アホンダラ」と言うと通じる…金沢から都会へ出た人は、 "ダラ"が付いていると、何となく胸がすっきりするのです。
私が子供の頃、母親に「ダラブチ、何しとんがいね!」と、
よく叱られたものです。
そもそも、「ダラ」には、愛情が込もった言い回しが含まれている。夫が妻のお尻をなでたりして、悪ふざけをした時、「ダラブチ、
いい加減にしまっしま!」と、妻に軽くいなされ…妻の顔は笑っている。
「ダラブチ」の語源は、仏教の「南無阿弥陀羅仏」が変化したものだという。
信仰心厚い金沢にふさわしい解釈だが、これが正しいとすれば、「ダラブチ」が持つ柔らかい響きが理解できるというものです。
「ダラマ」は、「え~いダラマ」と、 相手を軽く叱ったり、相手を見下げた言い回しの時に使ったり、「ありゃ だらまや」と、 知恵遅れの子供を指したりする言葉です。「ダラ」は北陸全域に存在するが、「ダラマ」は金沢にしかない方言です。
「頑張りまっし、金沢ことば」から
■ 不景気風が吹く今…
不景気風が肌で感じられるようになり、先き行に対する不安がつのってきている。
企業の倒産件数も過去最大になった。
入りに見合う出…「商いが少ないい時は、出を抑え、無駄を省き、質素倹約に努めるのが商人」…小さい頃、父親が言っていた言葉です。
子供の頃の食事は粗末だった。白いご飯が食べられるようになったのは、戦後十年くらい後である。御飯のおかずにカレイの煮付け…
今ならステーキだろう。
身をきれいにほぐして食べ、皿に残った骨にお湯をかけ、そのスープをすする…母は、骨を捨てずにこんがり焼いて、炒りゴマを混ぜ、
ご飯のふりかけにした。
茶の間には裸電球が一つ…クーラーも暖房器も、テレビも自家用車もなかった。
中学を出るまで、うどん屋の暖簾をくぐった記憶がない。
贅沢な暮らしにどっぷり浸った今の暮らし…お金がないと、生きていくのが辛い世の中だ。貧しさを知る私たちの世代は、
貧しさに耐えていく自信がある…。
豊かなバブル期に育った世代には、辛く厳しい世の中になっていくことを、覚悟しなければならない。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 651】
~私の昭和~「大家族の幼年時代」
私は昭和16年生まれ。香林坊の小さな商店の、7人兄弟の四番目に生まれた。
私の父…シナ事変で兵隊に取られた。戦地から帰ったら、勤めていた会社「粟ヶ崎遊園(宝塚を模して作った)」が、
戦時閉鎖で無くなっていた。
父は、生活のために、麻紐・ロープの小商いを始めた。どの家庭にも必要で、ライバルのお店も少ない…商いになると考えたようです。
昭和21年…満州から引き揚げてきた叔父家族4人と、私の家族、合わせて13人が一つ屋根の下で暮らした。
父はしつけに厳しく、風邪を引かない体になるからと、冬でも薄着をさせられた。
*「おはようございます」「お休みなさい」を、きちんと手をついて言わされた。
*食事は、最初に父親が箸を取り、全員揃って「いただきます」と言うまで、食べられなかった。
*履物を揃え、脱いだ着物は枕元に畳んで置くよう躾けられた。
食事に好き嫌いをしたり不平を言うと、厳しく叱られた。
こぼしたご飯は拾って食べ、「お百姓さんに感謝して食べなさい、罰があたる」が、お婆ちゃんの口癖だった。人様に迷惑をかける行為には、
とりわけ厳しかった。
どの家も子沢山で貧しかった。私は、身を粉にして働く両親の姿を見て育った。
父母は365日一日も休まず、元旦の午後にはもう算盤をはじいて、帳付けをしていた。
食事中、どこから入ってくるのか、アラレがパラパラ落ちてきた。国道に面した二階の窓は障子張りで、朝、目が覚めると、
枕元に吹き込んだ雪が、積もっていた。
母は、毎朝5時に起きて6人分の弁当を作り、子ども達に持たせた。
給食が始まったのは、小学三年の昭和26年…コッペパンに脱脂粉乳、ほとんど具のない味噌汁…白いウジが何匹も浮いていた。
お婆ちゃんは、朝6時に店を開け、家の周り・隣近所を掃き清め、ジョロで水を撒いた。茶の間と店の間に覗き窓があり、食事中・
客が入って来ると、店に立つのは母だった…夜は、子ども達の着物をつくろい、夜遅くまで身を粉にして働いていた。
兄弟は分担して家事を手伝った。洗濯機も、冷蔵庫も、掃除機も無かった時代です。私は、毎朝かまどに薪をくべ、二升釜のご飯を炊いた。
「初めちょろちょろ、なかパッパ、赤子泣くともフタ取るな」…今も、ご飯を炊くのは上手いと思う。
炭を切ったり、お使いに行くのが私の役割…家族みんな助け合って暮らしを支えた。
寒いのは我慢出来た。しかし夏の夜…蚊帳の中は暑苦しく、眠れなかった。
母親の実家から届けられたスイカを、家の井戸で冷やし、家族みんなで切り分けて食べた…暑い夏には、最高のご馳走だった。
冷蔵庫が無かった時代です。小学五年の夏、夜食べた魚で、家族全員疫痢になった。夜中に医者がやって来た。ただ1人元気だっ私は、
氷を砕いて水枕に入れるなど、看病を手伝わされた。
中学三年、昭和32年まで、朝は、さつま芋が入った芋粥、夜は、麦3分のご飯を食べていた。おやつも芋…芋が、
育ち盛りで食欲旺盛な兄弟のお腹を満たしたのです。
当時は、どの家庭も似たようなもの…それぞれの家庭が…学校が…隣近所が…
小さな社会になって、助け合って暮らした…幸福だった。犯罪もなく、夜、家に鍵を掛ける習慣がなかった…60年前の私たちの暮らしです。
■赤ちゃんの名付け
「字画が悪いから」「名前が気に入らないから」と、親から貰った名前を
変えてしまう人がいます。
赤ちゃんに付けられた名前は、心を込めて両親が最初に贈るプレゼントです。
名前には両親の真心が詰まっています…一生大切にしたいものです。
だから、大人になってからも…自分にふさわしい、好な名前であってほしい…
人から、親しみをもって呼ばれる名前であってほしい…
生まれてきた時代にふさわしい名前であってほしい…
芸能人や流行歌手、スポーツ選手など、その時代の流行に追従した名前は、
周りに同じ名前の友達が何人もいたりして…
名前は一生変わらない…だから、ちゃんと意味があり、誰もが読める、
読み間違いのない、名前であって欲しい…
画数が少なく、書きやすい名前がいい…
字画がどんなに良くても、結婚して名前が変われば、意味がなくなってしまう…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 649】
~私の昭和~「名前ランキング…時代とともに」
仕事も趣味も…家にいるより、山に海に、あちこち飛び回る方が好きな私。
親から貰った名前は「外喜雄」…外を喜ぶ男…アウトドアー好きの私に
ふさわしい名前です。
昨年08年、男の子に付けられた名前で、一番人気は「大翔(ひろと)」でした。
流行演歌のように、名前から生まれた年代が見えてくる。
そこで、戦前から戦後、現在に至るまでの、名前ランキングを追ってみました。
■男子
私の兄弟…昭和12年生まれの長男は「雄一」、次男は「忠雄」、三男の私は「外喜雄」、
四男で、19年生まれの弟は、戦争に勝ちたいとの思いから「勝治」。
戦後間もなく、22年に生まれの末つ子は「昭雄」。
戦前から戦後にかけて、男兄弟5人に父親が付けた名前です。
太平洋戦争真っ只中、昭和16年~20年に生まれた子供には、「勝・勇・進」など、戦勝を願う名前が多かった。
私の兄弟の名前にも「雄・忠・勝」が入っていて、 一億総決起時代の、父の思いが伝わってくる。
戦後間もない22年~24年は、平和であってほしいとの願いから、「博、和夫、清」が上位を占め、昭和30年代は、「誠、浩、茂、隆、
修」などがランキング上位を占めた。
生活にゆとりが出始める昭和40年代になると、「健一、哲也、剛」が上位を占め、昭和53年まで、「誠」が毎年一位になった。
昭和49年~61年の十年間、「大輔」が1位・2位を独占…「直樹、健太」が続く。
昭和63年~平成9年の十年間は「翔太」…「拓也、健太」が続く。
平成10~19年は「大輝」が一位…翔、大翔、翔太など、「翔」の人気は相変わらず。
「拓海、海斗」のような凝った名前が増え、読むのに一苦労する。
「大翔」の場合…ヒロト、ハルト、ヤマト、ダイト、ダイキ、タイト…など、 幾つもの呼び名があり、幼稚園の先生も大変です。
■女子
年号が昭和になった昭和2年、昭和の一字を取った「和子」がランキング1位になった。
この「和子」という名前、よほど気にいられたのでしょう…昭和27年までの26年間、戦前戦後を通して、ランキング1位23回、
2位が3回と、3位以下になったことがない。
「幸子」は27年間に、1位1回、2位16回、3位5回。
「洋子」は1位1回、2位4回、3位6回。
「節子」は昭和5年~14年の十年間、ずっと3位だった。
昭和28~38年は「恵子」がダントツの1位8回。「久美子、由美子」が続く。
その後、「陽子、智子、裕子」などの名前が上位を占めるが、昭和57年を境に、下に"子"が付く名前は姿を消していった。
代わって「愛」ちゃんが、昭和56年~平成7年の15年間、1位8回、2位7回、
「麻衣、美穂、彩」が続く。
平成3年からの6年間は、「美咲」が1位を独占。
平成9年以降ようやく、「明日香、萌、さくら」に取って代わり、
最近5年間は「陽菜」が1位、2位にいる。
■ソマリア自衛隊派遣
「"義"を見て為さざるは"勇"無きなり」 (為政第二)
(そうすることが正義だと知りながら、見て見ぬ振りをして行わないのは、勇気がないからだ)
4~5日前、ラジオのニュース解説で、「ソマリア自衛隊派遣」の是非について、ソマリアで海上自衛隊の護衛艦が、 日本の船舶を護衛することに絡む諸問題を解説していた。
現行法では、「日本船籍の船」と「日本人が乗船している船」に限られ、武器の使用・警告・正当防衛・緊急避難など、
使用と護衛範囲は極めて限られている。
接近したり、逃走する海賊船を射撃したり、強制停船させて捕獲することは出来ず、
不審船の臨検も、立ち入り検査も認められていない。
解説者曰く…外国の船が海賊に襲われているのを、何もせずにただ見ていられるか?
「義を見て為さざるは勇なきなり」と、孔子の言葉を引用して、正義のために、
何があろうと救助するのが人の道であろう…と。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 639】
~かなざわなまり(3)~
「今は使われなくなった、金沢ことば」
「キンカンなまなま」「ゴボる」 「タルキ」「アシタ」「ゴッポ」 「コシキダ」
56豪雪以降、しだいに雪が降らなくなった北陸。
今年も、気象台観測3番目の暖い日が続いて、ネコヤナギも膨らみ、春の気配が感じられるようになりました。
で、今はもう使われなくなった、"冬"のかなざわことばを取り上げてみます。
金沢の方言が話題になった時、「キンカンなまなまってどんな意味?」って聞くことがあります。
「栗きんとん?生菓子?」「生のきんかん?」などと、正しい答えが返ってきません。
冬、路面がツルン・ツルンに凍って、キンキン・ナマナマの状態になったことを言います。
実にリアルに状況を言い当てています。
金沢でも、旧市街の人のみが知る言葉で、数キロ離れた津幡や野々市町では、知らない人が多いのです。
「ごぼるさかいに気をつけまっし!タルキにも気をつけにゃ」・・・この意味は?
「ゴボる」は、積もった柔らかい雪に、
足がズブズブと埋まっていく様を言い、
「タルキ」は「つらら」のことを言います。
子供の頃、このタルキを折って、口の中をうるおしたものです。
近年になって、フッと気付いたことですが、昔は、冬になれば、長くて太いタルキが、あちこち普通に見られました。今は、 温暖化の影響でしょう…見ることがありません。
私が中学生の頃、「アシタ(高下駄)」を履いて学校へ行っていました。
高下駄の歯が磨り減ると、近所の下駄屋さんで、新しい歯に入れ替えてもらったものです。
冬も、学校へアシタを履いて行きました。雪道を歩くと、前歯と後歯の間に雪が詰まって歩けなくなる…当時、それを
「ゴッポが詰まった」と言いました。
このゴッポを取る石が、路端に埋め込んであって、下駄を蹴って、カンカンと石にぶつけて取るのです。その石…今でも、
野町の"広見"や尾張町に残っています。
冬、雪をすかす「コシキダ」が各家庭にありました。五十代以上の年配者なら、
誰でも知っています。先端が羽子板のような形をした、木製のスコップのことです。
これ、今はない…この「コシキダ」、屋根の雪おろしに使われました。
金属製のスコップだと、瓦を傷つけてしまいます。雪がこびり付かないから重宝しました。
豆腐に包丁を入れるように、コシキダを雪の中にスパッと入れて切れ目を作り、雪の下にコシキダを差し入れて持ち上げます。 すくい上げた雪のかたまり…コシキダの上を滑らせ、前方へ投げ、遠くへ飛ばすのです。
今は、使われることが無くなった、みょうに郷愁を誘う「冬のかなざわことば」です。
■私たちに出来る"温暖化への対応"
外国を旅行していて、自販機にお目にかかることはめずらしい…。
日本国内…至る所自販機だらけ(全国の設置台数は550万台)。
メーカーの話しでは、「置けるところは、ほぼ置きつくした」という。
我が社の玄関は自動ドアだが、自動ドアの設置数も、欧米諸国とは比ぶべくもない普及ぶりとか…
歩いて5分の所へ行くのに、日本人のほとんどが「車に乗る」と答えている。
日本に住むフランス人…「わずかの距離…何で歩かないの?自販機だって、自動ドアだって、無くても困らないじゃない…
日本人はもっと我慢しなくちゃ」
冬の暖房も、夏のクーラーも我慢・我慢。 いくら暑くても、どんなに寒くても、日本はしのぎ易い温帯に位置する国…
季節のままに暮らせば、体が慣れてくる…。
私たちの祖先は、夏も冬も、自然をそのまま受け入れて暮らしてきた。
海外を観光していて、朝早く街や公園を歩くと、ウォーキングをする人、体操している人、新聞を読む人…沢山の人が、
早朝のひと時を楽しんでいる。
ところが日本の朝、7時…陽が高く昇っているのに、街も公園もひっそり静まりかえり、眠りから覚めていない。
夜、早く寝て、朝、早く起きる…みんながやれば、エネルギーの節約になる。
健康になる。国に活力が出る。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 633】
「海底異変」
ビーチダイビングをしていて、以前と大きく様変わりしたのは、海藻が減って見晴らしが良くなったこと… 前に進めないくらい群生していた海藻が、水深5mくらいまでの浅瀬にしか見られなくなった。
一昨日…日曜夜のNHK「ダーウインが来た/アオリイカ波乱万丈の生涯」…大変興味深く見た。
海藻を隠れ家に成長する、イカの赤ちゃん。赤ちゃんイカなど、小魚を餌にするメバル・カサゴ・マダイなどが、めっきり減ってきたのです。
温暖化による海水温の上昇で、海藻が消滅する「磯焼け現象」が、日本全域の海辺で、
進行しているのです。
「ダーウイン…」は、その痛々しい海底の様子を映し出していた。
海水温が1℃上昇するだけで、生態系に異変が起き、動植物が生存できない世界になっていく。
藻場が減って、イシダイやヒラメが沿岸から姿を消していく。
夏場に高水温だと、サザエが産卵しなくなる。海藻を餌にする、ウニやアワビも姿を見せなくなった。
世界有数のサンゴ礁、沖縄ケラマ諸島…昨年、台風が少なかった影響で、海水がよどみ、水温が上って、サンゴの"白化"が進行…
壊滅状態になってしまった。
国連の調査で…このままだと、今世紀末までに、熱帯・亜熱帯の美しいサンゴや熱帯魚は、姿を消してしまう…と警告している。
12月30日から正月休みの間、和歌山県の先端、串本沖で、スキューバーダイビングを楽しんだ。
「♪ここは串本、向かいは大島…」
真冬、大島近海に潜るのは2回目。
10年くらい前から、サンゴが根付いて、本来、沖縄にしか生息しない熱帯魚やウミウシが、真冬の串本で見られるようになった。
種類も増えてきた…。
黒潮に乗って、大島近海にたどり着いた亜熱帯のサンゴや熱帯魚…今までは、冬に水温が下がると越年出来なかった。
それが今では、テーブルサンゴや、様々なサンゴが根付き、沖縄で潜らなくても、手軽にサンゴの海を楽しめるのです。
海の中の生態系に、異変が見られるようになって、十数年。
海が死んでいく…海藻が、サンゴ礁が、熱帯魚が消えていく。
私たちが想像する以上の速さで、美しい海が、自然の営みが、かけがえのない地球が…壊れていく。
■J2参戦おめでとう
J2は、来季3クラブ加えて、15から18クラブとなることから、今季下位リーグ(JFL)で3位になつた、 富山県のサッカークラブが、J2に昇格することになった。
日本のサッカー選手の頂点に位置する「Jリーガー」は36クラブ、約千人。
日本サッカー協会に登録する選手は、約89万人…わずか1.1%。
その数字から、レベルの高さがうかがえる。
JFLでの順位や、ホームゲームでの観戦者数といった、数々の条件をクリヤーして、クラブ設立わずか1年で承認された。石川県は、 地元開催が年に数度しかなく…J1もJ2も無縁なだけに、「おめでとう」と言う前に、寂しさが先に立つ…。
J2はJ1に比べ、侮る向きもないではないが、決してそんなことはない。
今季のJ2は、7チームが以前J1を経験していて、元日本代表や五輪代表ら、有力選手が何人もいる。来季、地元「カターレ富山」が、
そんな有力選手と真っ向勝負する姿を、是非見たいものです。
北日本新聞「天地人」
※「カターレ」というチーム名は、「○○せられ」と言う、富山の方言からとった。
勝って欲しい⇒勝たれ⇒カターレになった。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 623】
~私の昭和~ 「ラーメンと私」
お湯を掛けるだけで、はい出来上がり。今年は「即席ラーメン」が誕生して50年になる。
私が初めて即席ラーメンを口にしたのは、昭和35年18歳の時…高校を卒業した年です。
友人の家で、油で揚げた麺の塊りにお湯を掛け、柔らかくなるのを待って食べた。
麺に"ダシ"をしみ込ませ、お湯で緩めるだけの食べ物だったと、記憶している。
主食でもなく、間食でもない?けったいな食べ物で、美味しいとは思わなかった。
昨年は、国内で54億食(世界では979億食)生産された。国民1人当たり41食、食べた計算になる。全国県庁所在地で、
即席麺を一番多く食べているのは、富山市。上位に青森、新潟、仙台市などの寒い地域が並ぶ。
富山市が一番なのは、寒さに加え、共働きの家庭が多いことも、要因の一つだろう。
(北日本新聞・天地人)
初めて即席麺を食べた翌年の昭和36年、小松市粟津と山代温泉のほぼ中間の国道8号線沿いに、八番ラーメン一号店が誕生していて、
評判を聞きつけて、食べに行った。
自家用車の普及は現在のベンツ並みで、まだ金持ちの持ち物だった時代…。
香林坊のスナックのママのクラウンを拝借して、金沢から山代まで食べに行った。
当時、8号線は新道建設中…大聖寺から先はまだ未完成…トンネル工事中だった。
粟津から先は未舗装で、穴ぼこだらけの道を砂埃をたてて1時間…そこまでして出かけるほど、美味しかったのです。
ハチバン一号店は、トタン葺きのバラックでした。カウンターに丸椅子が8脚くらいの、粗末な店。店内は客が列をなし、
椅子が空くのを待っている。
壁に「フランチャイズ募集」と、大きな張り紙…フランチャイズチェーンの先駆けだったのです。
その後しばらくラーメンに凝り、美味しい店があれば、どこへでも出かけた。
当時、金沢でラーメンと言えば「チュー」(現在20店舗)…醤油味の透き通ったスープに、チャーシューが2枚乗った、素朴なラーメンです。
金沢は日本列島の真ん中に位置して、北海道から九州まで、全国のラーメンが食べられる激戦地。そんな中、 さして特徴もないチューが、チェーン店を増やしているのは、何なんだろう?…しいて言えば、出前してくれるから…?。
最近になって、沖縄の食材で沖縄料理を食べさせるお店が、近所に開店して、食べに行った(メニューには、
沖縄名物"海ぶどう"もある)。
嬉しいことに、沖縄ラーメンが食べられるのです。美味しいんですよ!
むしょうに本場の豚骨ラーメンが食べたくて、新幹線で博多へ行ったことがある…。
博多といえば長浜・天神、そして中州の屋台。
タクシーの運転手に教えられ、ラーメン通の地元の人たちに評判の、豚骨ラーメン店へ…。
豚骨スープの強烈な臭みが店内に充満…
初めての人には無理かも…テーブルに供えてある、臭みを消す紅しょうがや高菜を乗せて食べた…鼻をつまんで食べると美味しいんです。
ラーメンだけでなく、シューマイ、モツ鍋など、美味い店を探して、食べ歩いた。
全国にモツ鍋ブームが起きる以前に、既に、通ぶっていたのです。
敦賀のラーメン屋台も、付き合いが長い。JR駅前、8号線沿いの商店街に、夜の8時頃から、10軒くらい屋台が並ぶ。
一番の人気店は"ごんちゃん"。
大坂出張の帰り、夕食抜きで高速を走り、11時頃敦賀を下りて、目指す屋台へ…。
"ごんちゃん"屋台…歩道に並べられた椅子席は、いっぱいの人…。
店に着くや、「親父、ラーメンまだある?」…ネタ切れの日は、早仕舞いしてしまう。
スープは乳色で、甘めの豚骨醤油…麺はちぢれ太麺…豚骨風味だが、見た目よりあっさりして、スープが美味しい。
ボジョレーヌーボー
毎年11月の第3木曜日は、ボジョレーヌーボーの解禁日…季節の風物詩になっている。
ボジョレーは、フランス南東部、リヨンの北に位置するワインの産地。
その年に収穫されたガメ種のブドウを使用し、99%が赤ワイン。
世界各国現地時間で、11月の第3木曜日午前0時に、一般への販売が解禁される。日本は時差の関係で、毎年、
世界の先進国で最も早く解禁の時を向かえる。
パリではこのヌーボー、一瓶20~30フラン(340円~500円)位で買える。
1,000円~4,000円もする日本の市場価格は、高すぎるのでは…ボジョレーの人達には、日本は最高に美味しい市場である。
それでいて、日本でのヌーボーの売上は世界一。ルイヴィトンやエルメス等、パリの有名ブランドの店に群がる日本人同様…
フランス人には、理解しがたい光景である。
近年、日本人が生産量の半分近くを買い漁るため、価格の高騰や品薄を招き、地元民から反発の声が出ている。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 621】
「国産ウイスキーが世界一に…」
忘年会・新年会シーズンになりました。若い頃、一杯呑むと言えば、決まって片町に繰り出した。納会だ、忘年会だと、
人が集まって呑むときは、県内の温泉郷で一泊するのも、当たり前だった。
あれだけにぎわった片町や温泉郷…今は、まばら…馴染みの店もご無沙汰で、キープしたウイスキー、もう無いだろう…。
スナックで呑む酒は、スコットランド産スコッチに限ると、本場の酒にこだわってきた。トリスやニッカなどの国産ウイスキーは、
何十年の間格下に見られてきたのです。
だが今年4月、英国専門誌が主催する国際コンペ「ワールド・ウイスキー・アワード(WAA)」で、ニッカの"余市1987"が、
世界一の「シングルモルト・ウイスキー」に選ばれた。
シングルモルトとは、単一の蒸留所で作られた大麦原料のウイスキーのことで、個性が強く、ウイスキーの中で唯一急成長している商品だ。
英紙サンデー・タイムズは、「本場スコットラントに驚きが広がっている」と報じた。「かっては、 冗談のタネにされていた日本産ウイスキー…歴史的快挙だ」と。
北海道・余市の蒸留所では、酵母の種類や原料、蒸留、発酵法、熟成用の樽を替え、何千種もの原酒を造り分けている。 「余市1987」は、20年熟成の樽から厳選した、8樽の原酒を合わせた、シングルモルトである。
スコットランドの蒸留所は、経営効率が優先され、日本のように造り分けすることをしない。審査では、原酒の多様性から生まれた、
豊かな香りが高く評価された。
日本で最初にウイスキーの生産が始まったのは、1924年…大坂・山崎。
日本のウイスキー造りの技術は、80年の年月をかけて、本場に追いつき、追い越した。
サントリーも、今年の4月WAAで、複数の蒸留所の原酒を混ぜる「ブレンド部門」で、2年連続世界一に輝いている…「響30年」だ。
「響」は、別の2つのワールドコンペでも、最高賞と金賞を受賞している。
今では、英国の植民地だったスリランカのバーにも、「余市」や「響」が置いてあるという。
ヨーロッパにジャパニーズ・ウイスキーが受け入れられる日も、そんなに遠くはなさそうです。
読売新聞「サイエンス・立体交差」から抜粋
近頃は焼酎とビールがよく呑まれる…日本酒とウイスキーの消費は、減り続けている。私はアメリカンウイスキー・バーボン派で、
ターキーのロックにこだわるが、家では350mlの発泡酒を呑み…寒さが増すとともに、焼酎のお湯割りを楽しんでいる。
一頃、ブームになったワイン…リッチな気分を演出し、ナイフとフォークで食事をする時や、誕生会などで栓を抜いていたが、
近頃は手も付かず、棚に淋しく並んでいる。
11月20日(木)、日本で解禁となったボジョレーヌーボーも、消費は最盛期の半分に減ったとか。1本3,000円近くするが、今年は、
1,200、1,300円の品が、店先に多く並んでいるという…。
数年前、発売前夜のカウントダウン・パーティに、夫婦で参加したことがある。
午前0時…景気よく開いたボジョレーヌーボーの樽…日本酒同様、瓶詰めよりずっと香りがよく、美味しかった。
余談だが、新年を迎えるカウントダウンは…東京デズニーリゾートへ家族で…セブ島の五つ星リゾートホテルで…
ラスベガスのシーザース・パレスで、年越しパーティーに参加した。
今年は、和歌山県の串本で、年末の31日からスキューバー・ダイビングを楽しみ、正月を向かえる予定です。
■野口英世の母が息子に宛てた手紙
おまイの しせ(出世)には みなたまけ(驚き)ました
わたしもよろこんでをりまする
なかた(中田)のかんのんさまに さまにねん(毎年)
よこもり(夜篭り)をいたしました
べん京 なぼでも(勉強いくらしても)きりがない
いぼし(鳥帽子…地名) ほわ こまりおりますか
おまいか きたならば もしわけ(申し訳)かてきましよ
はるになるト みなほかいド(北海道)に いてしまいます
わたしも こころぼそくありまする
ドか(どうか)はやく きてくだされ
かねをもろたこト たれにこ(この事は誰にも)きかせません
それをきかせるト みなのれて(飲まれて)しまいます
はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ
はやくきてくたされ いしよ(一生)のたのみて ありまする
にしさ(西を)むいてわ おかみ(拝み)
ひかしさむいてはおかみ しております
きたさむいては おかみおります
みなみ(南)たむいてわ おかんておりまする
ついたち(一日)にわ しおたち(塩絶ち)をしております
ゐ少さま(栄昌様…僧侶の名前)に ついたちにわ
おかんて(拝んで)もろておりまする
なにおわすれても これわすれません
さしん(写真)おみるト いただいておりまする
はやくきてくたされ いつくるトおせて(教えて)くたされ日
これのへんちまちて(返事を待って)わりまする
ねてもねむれません
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 617】
「少年、野口英世の逸話」
「自分が志し、目指したその道を天職と思い、一生やり続け、生き抜く…」
前号で、「天職」について、二つの事例を紹介しました。
世のため人のために"人生をまっとうした人"…といえば、様々な偉人が浮かんできます。
二宮尊徳や野口英世などが、そうでしょう…。
一万円札は福沢諭吉、五千円札は樋口一葉…ところで千円札は?
そう、野口英世です。
以前、猪苗代を観光した時、野口英世の生家を見学した。
玄関土間は薄暗く、馬小屋と粗末な部屋が一緒になった農家だった。
建物を見学していると、一郭に、母が息子に宛てた手紙を、大きく拡大して展示してあった。
「ひと目でいいから、我が子に逢いたい」…そんな思いが痛々しく伝わってくる名文である。
2歳の時囲炉裏に落ち、左手を火傷した。医師にかかるお金がなく、指が癒着してしまった…誰もが知る逸話である。
学校で、「手ん棒」というあだ名を付けられ、イジメられた。
磐梯山のふもと、猪苗代湖のほとりにある、三ツ和小学校。
卒業の口頭試問(面接試験)を行っていた小林先生。「秀才を、このまま埋もれさせるわけにはいかない」と、考え抜いた末、
野口少年を自室に呼び寄せた。
「清作君、たしかそう言ったね」 『はい』
「うん、ところで君は卒業したらどうするつもりかね」
『上の学校へ行きたいです…でも、やはり家を手伝います…。
やる気があれば、勉強はどこででも出来ると思います』
はきはきと答える野口少年の顔には、一抹の寂しさがただよっていた。
「野口君どうだ、猪苗代の高等小学校に来ないかね…私が学費を全部出してあげるよ。だから勉強一筋、一生懸命頑張りなさい」
『本当ですか…ありがとうございます…まるで夢のようです』
「夢じゃないよ、それより早くお母さんに話して、喜んでいただくんだな…」
小林先生に、一切の学費を出してもらった清作少年。
毎日12キロの道のりを歩いて、学校に通った。
ある日、教員室に校長をはじめ、小林先生ほか、職員が集まっていた。
「校長先生、私はこの作文を読んで泣かされました。あの野口が"てんぽう"とからかわれながらも、一途に勉強に励んでいる姿が、
あまりにも…」
『小林君、私も同感だ…ねえ、できることなら手術でもして、元どおりにしてやりたいなあ…先生どうでしょう、 近頃この町にアメリカ帰りの良い外科医が開業している。一つ私たちでお金を作って、診てもらったら…少ないが…』
校長先生がお金を出したことで、職員もこれにならった。生徒たちもお小遣いを出し合った。全校あげての支援に感激した渡辺医師は、
誠心こめて執刀した。
麻酔もかけずに、つながった指を切り開いたこの逸話…あまりにも有名です。
皆の願いが通じて…手術はみごと成功…ゆ着していた指が自由に動くようになった。この時、手術に付き添っていた級友の秋山義次は、
清作の母に一刻も早く手術の成功を知らせたいと、25キロの山道をひた走りに走った。
手術の成功を祈って、神仏を拝んでいた母は、吉報を聞いて涙にくれた…。
長い間屈辱に耐え、悲しい思いをしてきた清作少年。この時、しみじみ人の情けを知ったのです。この手術が動機となって、 「将来医学の道を志そう…」と、強く心に誓った…この時、清作は16歳でした。
※野口英世
アメリカに渡り、「梅毒」の研究で、世界の医学界にその名を知られるようになる。
「小児麻痺」の病原体を特定し、狂犬病の病原体を特定する。
1918年 黄熱病が大流行しているエクアドルへ…黄熱病の病原体を特定。
1928年 アフリカ・ガーナに黄熱病研究施設を建築。間もなく自身が黄熱病に感染。志半ばに51歳の生涯を閉じる。
■映画・レッドクリフ(赤壁)
先週の休日、私の大好きな、三国志"赤壁の戦い"を映画にした「レッドクリフ・前編」を鑑賞した。魏の曹操が、全国制覇を夢見て南下…迎え撃つ劉備と孫権の同盟軍は、"赤壁"に陣を敷く。
上映2時間半…3/2が戦闘シーン。黒澤監督の七人の侍を彷彿させ、趙雲・張飛・関羽そして、中村獅童が演ずる呉の将軍/甘興など、1人ひとりが見せる戦闘シーンは圧巻。
軍師・諸葛孔明の"八卦の陣"など、奇策と知略がふんだんに組み込まれ、スケールの大きさでは、タイタニックに劣らないだろう…先行上映された中国では、タイタニックの興行収入を塗り替えたという。
制作費100億円、アジア映画史上最大のスペクタル巨編。是非見ておきたい映画です。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 615】
~歴史から学ぶ~ 「禅寺に名園」
今年の紅葉は、例年になく美しいという。毎年11月になると、夫婦で京都を散策する。京都の楽しみは何といっても、木々が色づく美しい庭園巡り。
そして、夜には秋の味覚に舌鼓をうつことです。
お寺回りをしていて気がつくのは、美しい庭園があるお寺の、そのほとんどが"禅寺"であることです。
石庭で有名な龍安寺、苔寺として有名な西芳寺、京都三大名園の一つ天龍寺、ねねの大徳寺、金閣寺、銀閣寺など…数えればきりがない。このように禅寺に名園が多いのは、禅と庭園の間には、深い因果関係があるからです。
以下、枡野俊明「夢窓疎石・日本庭園を極めた禅僧」からの抜粋です。
禅は、「心の問題を追及していく教えであり、ものごとの心理を見極めていく訓練の場」である。
そして、禅の修業を重ねる目的は、「本来の自己と出会うこと」にあり、「人間の持つ心の本性を、明らかにすること」にあります。
禅は、心の教えの根本となる"哲学"を説いていく。従って、禅そのものには形がなく、目に見えるものはない…。
鎌倉後期から室町時代の禅僧たちは、この目には見えない自分の境地そのものを象徴化し、何かの形に置き換えて表現しようとした。ここから"禅の芸術"が生まれた。己を"無"にして"美"を極めていく中から、禅文化が育まれたのです。
こうした禅文化を象徴するのが「禅の庭」なのです。
禅僧たちは、自己を表現する場として庭造りに取り組み、自ら修行を重ね、会得した心の状態を、庭園という空間造形芸術に、落とし込んでいったのです。
「禅の庭」の父と呼ばれ、京都における「禅の庭」の原点となる庭園芸術を生み、完成させた"夢窓疎石"(むそうそせき1275~1351)。
室町初期の禅僧"夢窓疎石"の存在は、その後、日本の庭園芸術が開花していく中で、忘れてはならない存在になる。
夢窓疎石は、これまでの庭には見られなかった"石組み"を積極的に行い、庭園に"空間造形"を造り上げた。この作風がその後、京都における西芳寺、天龍寺などの造園の原点となり、やがて「禅の庭」は"枯山水"へと、たどり着くのです。
数ある京都の名園中で、私が好きなのは、大宮御所に隣接する"仙洞御所"庭園…17世紀に造営されたが、"空間造形"をみごとに演出している…。
■「町名…その歴史と由来」
私が生まれ育った香林坊…45年前に住所表示変更で町名変更され、香林坊2丁目になった。元の町名は「石浦町」です。
徳川幕府が発足する直前の1597年7月、金沢の浄土真宗門徒が、本願寺に提出した古文書によれば、当時既に「石浦村」があった。
石浦神社の氏子が住んだことに由来するという。
尾山神社前の「南町」、近江町市場に隣接する「近江町」「西町」「堤町」、武蔵ケ辻に隣接する「安江町」「木の新保村」「尾張町」など、
"尾山八町"を中心に、「大工町」「材木町」「博労町」「鍛冶町」など、様々な職人の住む町があったことが古文書に記されている。「森下町」
「野々市町」も、古文書に記されている。
「香林坊」という俗称は、家柄町人"香林坊家"が居住したことから名付けられた。
越前朝倉家の家臣だったが、没落し、親類の比叡山の僧"香林坊"を家名にして移り住み、"合薬商"を営んだ。
また「野々市」の地名は、守護の館があった野々市から、商工業者が移り住んだことから名付けられた。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 613】
~私の昭和~
「住所表示…旧町名が似合う金沢」
他所から越してきたためか、つい最近まで、自分が住む町内のことには、全く無関心だった。ところが、この春抽選で町会長に選ばれ
(成り手がいないので、已むを得ず)…ようやく、市と地域住民とのつながり、市や校下が行っている行事に関心を持ち、
参加するようになった。
(防犯・防災訓練、夏祭り、運動会、美化清掃etc)
金沢は、加賀百万石城下町。京都に似て、市内至るところ、歴史文化の趣きがただよう。
古くからある地名もその一つで、昔から住む人たちにはとりわけ思い入れ強い。
ところが昭和38年、金沢市が国が新らしく制定した、「住所表示」のモデル都市になったことから、市内ことごとく見直され、
街区に割られ、町名が変更された。
520あった町名が220になり、300近く町名が消えていった。
幾つもの町がひとくくりの"街区"にまとめられ、無味乾燥な町名に変えられてしまったのです。
多くの歴史ある町名が消えてしまったのです。
旧石浦町、仙石町、南町の一部、高岡町上藪の内の4町が、机上で振り分けられた"街区"に呑み込まれ、
香林坊1丁目と2丁目になった。今となっては、国道に向かい合った、旧「石浦町」だけを復活させるわけにはいかないのです。
近年、ようやく旧町名を見直し、"歴史的文化遺産"を残そうという機運が高まってきた。
始まりは早く、昭和54年から…「歴史の町しるべ」として、元、町名があった場所、古くから親しまれてきた坂道などに、
昔の名前を記した石碑が建てられた。現在219基、市内随所に建てられている。
更に、いったん消えた町名を復活させる作業も、少しづつだが進められている。
H11年、金沢市役所裏の「柿木畠」と、観光スポット・お茶屋街の「主計(かぞえ)町」が37年ぶりに復活…H13年には、
築城の際に、石を引いた「下石引町」と「飛梅町」…片町、旧大和デパート裏に直角に伸びる「木倉町」、そして「六枚町」が復活した。
この11月1日には「南町」が復活する。五百年前、後の金沢城、尾山御坊の南に位置することで、名付けられた町名である。
石浦町の旧町内会…私の子どもの頃、約140世帯あったものが、銀行やデパートに取って代わられ、現在住んでいるのは I
さん一世帯のみ…街区に分断され、住民が四散してしまったが、旧町民の結びつきは強く、四十数年経た今も、
生まれ育った故郷を懐かしむ人たちの間で、交流が続いている。
私も、商店街の元・青年部の皆さんと、ゴルフ懇親をしている。
目を外に向けると、富山市は住民が反対して、新住居表示作業は、現在も遅々として進まず、京都市に至っては、完全拒否を貫き、
旧来の表示を大切に守ろうとしている。
今年の春、「歩こう会」の皆さんと、金沢の古い町並みを歩いた…じっくり歩いてみて…気づかなかった金沢の良さが見えてくる…やはり、
旧町名が似合う町です。
■昭和33年日本シリーズ巨人VS西鉄
3連敗の後の4連勝/奇跡の大逆転劇…「神様・仏様・稲尾様」
| [第1戦] | 巨人「9-2」 藤田・○大友 ●稲尾他5投手 本塁打…広岡(3回稲尾)・豊田(5回藤田)・長嶋2ラン(7回河村) |
|---|---|
| [第2戦] |
巨人「7-3」 ○堀内 ●島原他4投手 本塁打…豊田2号(8回堀内) |
| [第3戦] |
巨人「1-0」 ○藤田 ●稲尾 稲尾は4回以後1安打に抑えるが、 1球に泣いた。 |
| [第4戦] |
西鉄「6-4」 ○稲尾 大友・●藤田・義原 本塁打…豊田3号4号(5回藤田・7回義原)、広岡2号(7回稲尾) |
| [第5戦] |
西鉄「4-3」 西村・島原・○稲尾 堀内・藤田・●大友 本塁打…中西2ラン(7回堀内)、稲尾サヨナラ(10回大友) 1点差の9回、表彰式の準備が始められるのを見た西鉄ナイン。 奮起して土壇場で同点、延長戦へ…10回、稲尾がサヨナラホームラン。 |
| [第6戦] |
西鉄「2-0」 ○稲尾 ●藤田 本塁打…中西2号2ラン(1回藤田) |
| [第7戦] |
西鉄「6-1」 ○稲尾 ●堀内・藤田・義原・大友 本塁打…中西3号3ラン(1回堀内)、長嶋ランニング2号(9回稲尾) |
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 609】
~私の昭和~ 「3連敗の後の4連勝の奇跡(2)」
今年のプロ野球…9月21日巨人VS阪神3連戦で、虎を3タテ…32年ぶりの12連勝。
ついに阪神に追いつき並んだ。そして、10日8日の天王山。
阪神と最後の直接対決…3-1で巨人が首位を奪還…10月10日ついに優勝!
7月上旬…13ゲームも離され、誰ひとり巨人が優勝出来ると思っていなかっただけに、今年は久しぶりに、
奇跡の逆転劇を目にすることができた。
思い起こせば96年、長嶋監督の下、11.5ゲーム差を跳ね返して優勝。
「メークドラマ」が流行語になったが、その時を上回る、歴史に残る大逆転劇になった。
明日から、セ・リーグ/クライマックシリーズ。
日本シリーズに勝ち進むのは…今年こそ巨人?
いや、阪神頑張れ! 中日にもわずかにチャンスが残されている。
各球団の監督の戦略は?
ところで、日本シリーズの歴史を振り返ると、3連敗の後4連勝という、ドラマティックに優勝した球団が、3つある。
■一つは、昭和33年(1958)の西鉄VS巨人戦。
当時私は高校3年の17歳。3連敗して後のない西鉄、稲尾が4連投して4連勝という快挙をやってのけ、優勝! 西鉄の優勝は、
稲尾の存在なしには語れない。
このシリーズは「巌流島の決戦」と言われ、三原監督率いる西鉄ライオンズと、水原監督率いる読売ジャイアンツの、3年連続の対決。
過去二度敗れている巨人は、ルーキー長嶋茂雄を4番に据え(王選手は、翌年1959年入団)、厚みを増した打線で臨んだ。
一方の西鉄…オールスター以降、奇跡の17勝1敗…稲尾投手の大活躍で、ペナントレース最大11ゲーム差を逆転。ところが、
日本シリーズ直前、原因不明の高熱に襲われ、フラフラの状態で第1戦に先発…巨人打線に捕まり、第3戦も先発したが、
3連敗を喫して崖っぷちに追い込まれた。
ところが、10月14日夜半からの雨が、シリーズの流れを変えた。
打線では、中軸を担う中西太、豊田泰光に当たりが戻り、何より稲尾の復活が大きかった。
稲尾は第4戦以降、文字通り"獅子奮迅"の活躍を見せ、前例のない3連敗の後の4連勝で、奇跡の大逆転。日本一を達成。
「神様仏様稲尾様」と、ファンから崇め奉られた。
■次は、昭和61年(1986)の西部VS広島戦。
第1戦引き分けの後、西部が3連敗の後、4連勝した。
■その3年後、平成元年(1989)の巨人VS近鉄戦…私は47歳。
この時近鉄が3勝0敗…ヒーローインタビューで、勝ち投手になった"加藤哲郎"。
「今の巨人はロッテより弱い…」と発言。これに、巨人ナインが発奮した。
この後、近鉄を4タテして大逆転勝利。
2度目の日本一の栄冠を、藤田監督にプレゼントした。
※鉄腕・右腕投手/稲尾和久(2007年11月13日、70歳で他界)
56年西鉄に入団。ルーキーで21勝、防御率1.06…新人王に輝き、
その年から3年連続日本一に貢献。入団2年目の57年から、3年連続30勝以上、57年には、20連勝の最多連勝記録を打ち立てる。
61年にはシーズン最多タイの42勝。
69年引退後は、西鉄、太平洋の監督を務める。93年野球殿堂入り。
通算成績…276勝137敗/防御率1.98/2574奪三振
■私の昭和(1976年・34歳)
「シーズン最終戦…4安打したら、首位打者になれる!」
1976(昭和51)年10月19日…最終広島とのダブルヘッダー2試合で、3打数3安打、4打数4安打、 5打数4安打のいずれかを達成したら、首位打者になれる!…注目の選手は、我が愛する球団、中日の4番打者"谷沢健一"である… 彼はやり遂げた!
その時、惜しくも首位打者を逸した選手は?…その年、巨人に鳴り物入りで移籍してきた"張本勲"である。彼は、
わずか"6糸"という超僅差で涙を呑んだ。
張本勲は、この年の6月、2500本安打を達成している。
10月11日には、王貞治が715本の本塁打を放ち、ベーブルースを抜いた。
我が故郷の横綱"輪島大士"はこの年、8度目と9度目…2回優勝している。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 607】
「重圧と戦うイチロー(5)」
新しいバッティングを模索して、2008年春…新たな戦いが始まった。
随分遠回りしたけれど、ようやく"野球を楽しめる"入り口に来た感じはある…。
フアンを圧倒し、選手を圧倒し、圧倒的結果を残すこと…それを自らに課して、今日も挑戦する…。
が、スタートでつまづいた…オープン戦26打席無安打…イチローは平然として、意に介していない様子。記録を知らされたイチロー…
「この時期に、悪いところを出し切っておかないといけないですから…とってもいいことじゃないの…」
開幕から2ヶ月、打率2割6分台と、過去経験したことのないスランプに陥る。
「今年は、200本達成は無理かも…」と、諦めかかった…。
一試合、一試合、夢中で試合に臨んだ。徐々にペースを掴んで、7月29日イチローは対レンジャーズ戦で、
日米通算3000本安打の偉業を達成…
過去メジャーでの達成者はわずか27人。日本では張本勲が1人いるだけ。
ここで注目したいのは、達成した27人で、同じシーズンに200本安打を達成した選手は、1人だけ。また、
34歳8ヶ月のイチローより若く、この記録を達成したのは、通算4189本を記録した、1910年代の名外野手タイ・カップ1人だけ。
4256安打のメジャー歴代最多記録を持つピートローズ(私と同じ1941年生まれ)、1970年代に活躍した内野手で、
あだ名は"安打製造器"。
そのローズ…3000本安打に到達したのは、37歳の時です。
イチローの活躍が続く限り、こうした記録は破られていくだろう…。
次の目標は、メジャー歴代首位に並ぶ、8年連続200本安打達成へ…。
ここまで来たら、何がなんでも達成したい…。
8月26日、残り31試合で28本。8月30日には、3安打の固め打ちをして、今期初の月間40本を超え…残り27試合で22本。
9月11日、5打数1安打(6号ホームラン)…あと9本…残り17試合。
そして9月17日、3安打の固め打ちをして…ついに8年連続200本安打達成…100年間破られなかった、メジャー記録に並んだのです。
更に、10日後の9月27日、イチローは、8年連続100得点の金字塔を打ち立てる。「200安打100得点"8度"」の記録は、 1930年代のヤンキースの強打者ルー・ゲーリッグ以来、史上2人目の快挙になる。
更なる記録達成に向かって…張本勲が持つ、3085安打の日本記録に並ぶまで、残り1試合…5本。イチローは、
メジャー8年の間に、1試合5安打が"7回"ある。メジャー最多記録は、9回…いずれ、この記録を抜き去るでしょう。
最終戦2安打と健闘したが…惜しくも届かなかった。そして、今シーズンを終えた。
日本最多安打記録は、来シーズンにお預けとなったが、来期は、9年連続200安打100得点の大リーグ新記録と、移籍9年目で、
大リーグ通算2000本安打達成がかかっている。
イチローの記録への挑戦が続くかぎり、重圧から逃れることはできないだろう…。
※張本勲
1959年(王貞治巨人入団の年)東映入団。1年目から、20年連続シーズン100安打以上達成。打率3割以上16回、脚も速く、
63年に45盗塁記録…
通算319盗塁。日本球界で、400本塁打以上(張本は通算504本)、300盗塁以上の記録保持者は、"秋山幸二(ダイエー)
"と張本勲の2人だけ。
巨人に移籍後、川上監督のもと、王貞治と「OH砲」コンビを組み、活躍した。
10月8日、ソフトバンクは、王監督の後任に秋山新監督を発表…
■いい男の条件
少し前のNHKの朝の番組で、「いま気になる男は?」をテーマにした番組があり、20~60代の"女性"260名にアンケートをした。
プロ野球選手ではイチロー、松井、古田、新庄。サッカーでは中田。
俳優はキムタク。オリンピック選手では、水泳の北島康介などの名前が挙がっていた。
韓国俳優では、「冬ソナ/大王四神器」のぺ・ヨンジュンが変わらぬ人気。
さて、この中にダントツ1位がいます…誰でしょうか?
5人に1人が"イチロー"の名前を挙げた。
目的に向かって努力する姿、前向きに生きる姿がカッコいい。
「自分のやりたいことを遣り通す」「意志が強い」「仕事の出来る男」「セクシー」
「誠実」「強くたくましい」etc…
そなん条件をすべて満たすイチローに…女性は憧れるのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 605】
「重圧と戦うイチロー(4)」
日本球界とメジャーで、歴史に残る偉業を達成しながら尚、先を追及することが出来るだろうか? 球界で、
右に並ぶ者のいないイチロー…
しかし、いまだに"達成感"がないという。先が見えないから頑張れる…
目指す目標はイメージしているが、"お先真っ暗"だと言う。
もがき苦しんでいると…光が見えてくる…そのうちに光がさすだろう…。
何もしなければ、一生何も見えないだろう…。
自ら"重圧"に向き合う。その中から、新たなバッティングフォームを掴んでいく。既に身に付けている目に見える技術から、
更に目に見えない何かを…?
目に見えない部分が、今の自分には、かなり大きな部分を占めている。
その目に見えない部分に、目を向けるのが、これからの課題なのです…。
ホームランは、ここ!という時に、ねらったら打てる。それがイチローの中では、ちょっとした遊びになる。日々真剣勝負の中にも、
遊びの部分は大事だ!
この遊びの部分に目を向けることも、目に見えないものの一つだろう…。
2007年9月19日、イチローはこの日ついに打率首位に立った。
残り試合は11…翌日、4打数ノーヒット…トップを争うオルドニェスに首位を明け渡した。
その日の夜イチローは、応援に来た友人達に「首位打者を狙う」と断言した。
残り10試合…16本ヒットを打てば、間違いなく獲れるでしょう…その上を行かれたら…これはどうしようもない。
だから10試合で16本打つことへのプレッシャーを感じる。
「首位打者を獲る!」と言い切ることなど、これまで無かったイチロー。
自ら、重圧の中に飛び込もうとしていた…"弱い自分と決別する"ために…。
9月26日、残り5試合…首位打者争いは、近年まれに見るハイレベルの戦いへと突入した。イチローは5打数3安打の固め打ちで、
打率3割5分をキープ。
2001年以降、3割5分で首位打者を逃した例はない…。
しかし、オルドニェスはその上を行った…ヒットを量産して打率3割6分に上げた。
追い詰められたイチロー。絶望の中イチローは、最終試合になってもあきらめない"覚悟"があった。「自分の生活の一部を捧げて、
見に来てくれるお客さまを、背くことなんて出来ないですよね…だって、そういったフアンがいなかったら、僕らの存在価値…無いんだから…
」
最終戦、最低ヒット3本は欲しい…可能性に掛けた…結果は3打数1安打。
ついにオルドニェスは逃げ切った。イチローの戦いは終わった。守備についたイチローの目には、涙が浮かんでいた。
過去の自分を捨て、新たな境地に挑んだこの半年…イチローは何を掴んだのか? 全試合を終えて、掴みかかっていたものとは…
「それは、具体的技術ではない…と、僕は思う。自分が打席の中で感じている感覚…見えている景色…これは、
過去のものとは全く違ったものだと、僕は感じた。ようやくスタートが切れたな…という感じです」と、イチロー。
~つづく~
■イチローのこだわり
イチローもゲンを担ぐ。ダックアウトからグラウンドに上る階段…5段ある。
ヒットが出るようにと、最初の一歩は、必ず"左足"から…数打席ヒットが出ないと、今度は"右足"から上る…。
走塁に賭けるイチロー…特別仕立ての、ものすごく軽いスパイクシューズを履いている。
その分痛みも早く、次々と履き着替えるので、ロッカーはシューズの山…。
イチロー専用の、とても高価な特殊トレーニングマシーンを、球場内のトレーニングルームに備え付けている。
弾力性のある柔らかい筋肉と、しなやかな身体をつくるマシーンで、作動中、全身への酸素の供給をスムーズにし、乳酸の発生を抑えてくれる、
優れものである…。
大リーガーは"体の大きな人"というイメージが強い。イチローに限っては、それはむしろ致命傷になる…肥大させずに、筋力だけアップさせる。
イチロー身体…いつも神経が隅々に行き届いた状態でなければならない。
頭でイメージしたことを即、身体で表現する…それがイチローの武器になる。
身体が肥大したら、イチローがイチローでなくなってしまう…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 603】
「重圧と戦うイチロー(3)」
2007年、イチローは一つの決意を固める。重圧にただ耐えるのではなく、「正面から重圧と向き合う」。「プレッシャーはかかる。
どうしたってかかる…逃げられない…だから向き合おう」…今年、そこをテーマにした。
「プレッシャーが来たら、そこから逃げない…俺は…」
2006年までは、重圧に耐え切れず、脈が変わり、試合中に気持ち悪くなり、吐き気をもよおし、重圧を家に持ち帰った。 重圧から逃れることで、結果を出してきたのです。メジャーに来て、同じ重圧でも、結果を残すことに集中すればよかった… 重圧に耐えることができたのです。
2007年、重圧を受け入れて、立ち向かって行っても、やれる自信があった。
技術の裏づけが、それを可能にした…ならば、プレッシャーを受け入れるべきだと思った。
重圧を避けて達成した200本と、重圧に向かっていって、常に緊迫した試合で達成する200本とでは、重みが全く違ってくる。
今、イチローは"目には見えない何か?"を掴みかけている。
「ストライクゾーンだけで、もし打つことが出来たら、僕よりヒットを打てる人はいないと思う。ところが、
訳のわからないボールに手を出したり、手を出してはいけないボールに手を出す…それがいけないんです」
イチローは、とんでもない悪球に手を出すことが少なくない。人並み外れた技術と、反射神経を持つがゆえに、悪球でも、
思わず反応してしまうのだ。
重圧がかかれば、よりその制御が効かなくなってくる…。
"これを無くせるんじゃないか"と思うんです。この感覚を得れば、今までの技術なんか必要ない…
無駄な技術を駆使する必要がなくなってくる。
"普通に打てる"って思った球を打ちにいけば、ヒットが出るんです。
自分を制御し、ストライクだけを打つ…その感覚を掴もうとしている。
バッターボックスでしか感じられない…あそこでしか生まれないものがある。
だから厄介なんです。 ~つづく~
今シーズン208本、メジャー1800安打達成まで、あと1本というところで、昨日の試合…5打数ノーヒット。
残り4試合で8本打てば、張本勲が持つ日本記録3.085安打に並ぶが、今シーズンの達成は、難しくなってきた。
守備の名手イチロー
北京オリンピックでG・G佐藤…なんでもない外野フライを、一度ならず二度までも、捕りぞこねて落球した。
イチロー…外野フライを背面キャッチして、観客からヤンヤの喝采を浴びる。
そんな名手イチローを何度か見た。
背面キャッチ…遊びでやっているわけではない。しかしながら、ボールから目を離し、消えたボールを、 背中にグラブを回してキャッチするのですから、難しい…難度の高い行為には変わりない。
なんでもない凡フライをキャッチする時、走者の方に目がいって、ついボールから目を離し、油断してしまう… そんな気の緩みを防ぐための動作だと、イチローは言う。「結果、お客さんに喜んでもらえるからね…」そんなさりげない言葉を聞くと、 やっぱり天才です…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 602】
「重圧と戦うイチロー(2)」
メジャーに移籍して8年。イチローは毎年200本以上のヒットを打ち続けた。
その間、首位打者2回、年間262安打のメジャーリーグ記録樹立。
輝かしい記録の数々は、「過去のイチローを捨てる」という、イチローならではの"流儀"から生まれた。
その言葉通り、イチローは毎年、自らのバッティングフォームを変えてきた。
2007年春、これまでとは違う何かを見つけようとしていた…。
自分が過去持っていた"形"を思い返してみると、「よく、あれで打てたな…」って…思う。
「今のところ、終わりがないんですよ…今やっていることが、もしかしたら…
そうじゃないかな…」って、淡い期待を抱きながら…。
2007年のイチローは、何かが違っていた。6月には、25試合連続安打で、自己記録を更新。オールスターでは、
史上初のランニングホームランを記録して、MVPを獲得。
明らかに変わったのは、バッターボックスでの立ち位置…これまでよりも30センチ、ベースから離れて立つようになった。
きっかけは、妻の由美子さんの一言…「ちょっと離れてみたら? 景色変わるんじゃないの…」…素人だから言えること。
そして迎えた9月3日、ニューヨークでのヤンキース戦…マウンドにはメジャーきっての豪腕、ロジャー・クレメンス投手… ライトスタンドに飛び込むホームランで、7年連続200本安打を達成した。
2007年のイチローに、何が起こっていたのか?
時折、プレッシャーに押しつぶされそうになることがある…それを技術で乗り越えてきた。
精神には限界があると思う…もう限界だと思った時もある。
幾度となく、精神的に追い込まれた。重い十字架を背負って、プレーしてきた。
それでも、毎年200本達成してきた…日本では、首位打者を取り続けてきた。
「超えているように見えるよね…でも、超えてないんだよね…」とイチロー。
イチローは、「これまで重圧を乗越えられなかった」と、繰り返す。
だから今年、それを課題にした…かかってくる重圧から逃げないと、プレッシャーがかかる…どうしたってかかる重圧…逃げられない。
だから170安打になった時点で…来た来た来た!みたいな感じなんだよ…
いくぞ…明日から…重圧から逃げずに、自ら仕掛けていく…そんな中から新しいバッティングを見つける…。今、
イチローはかってない大きな挑戦の最中にある。
観客席から見ると、野球は簡単に見える。「こんなにヒット打てるところあるじゃない」…ところがバッターボックスに立つと、穴がない…
グラウンド全部守られているように見える。
自分のタイミングで打てたボールは、間を抜けていく。でも、詰まらされた打球は、捕られてしまう。
塁間の距離…絶妙の距離なんだよね…ギリギリ・アウトになるようになっている…信じられない…誰が考えたんだろう…感心します。
~つづく~
9月17日3安打を放ち、大リーグ記録に並ぶ8年連続200安打をついに達成。
100年以上破られることのなかった、メジャー記録に並んだのです。
~達成した感想は~
「メチャメチャしんどかった。190本になるまでは恐怖だった。今年200本
越えたのは大きい。次は、メジャー1800安打達成の…208本。
そして、張本勲が持つ日本記録、3085安打にチャレンジ…残り11試合で
15本打って、今シーズン中に達成したい…やりたいし、やるつもり。
絶対超えてやる…」
中日新聞
守備の名手イチロー
北京オリンピックでG・G佐藤…なんでもない外野フライを、一度ならず二度までも、捕りぞこねて落球した。
イチロー…外野フライを背面キャッチして、観客からヤンヤの喝采を浴びる。
そんな名手イチローを何度か見た。
背面キャッチ…遊びでやっているわけではない。しかしながら、ボールから目を離し、消えたボールを、 背中にグラブを回してキャッチするのですから、難しい…難度の高い行為には変わりない。
なんでもない凡フライをキャッチする時、走者の方に目がいって、ついボールから目を離し、油断してしまう… そんな気の緩みを防ぐための動作だと、イチローは言う。「結果、お客さんに喜んでもらえるからね…」そんなさりげない言葉を聞くと、 やっぱり天才です…。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 602】
「重圧と戦うイチロー(2)」
メジャーに移籍して8年。イチローは毎年200本以上のヒットを打ち続けた。
その間、首位打者2回、年間262安打のメジャーリーグ記録樹立。
輝かしい記録の数々は、「過去のイチローを捨てる」という、イチローならではの"流儀"から生まれた。
その言葉通り、イチローは毎年、自らのバッティングフォームを変えてきた。
2007年春、これまでとは違う何かを見つけようとしていた…。
自分が過去持っていた"形"を思い返してみると、「よく、あれで打てたな…」って…思う。
「今のところ、終わりがないんですよ…今やっていることが、もしかしたら…
そうじゃないかな…」って、淡い期待を抱きながら…。
2007年のイチローは、何かが違っていた。6月には、25試合連続安打で、自己記録を更新。オールスターでは、
史上初のランニングホームランを記録して、MVPを獲得。
明らかに変わったのは、バッターボックスでの立ち位置…これまでよりも30センチ、ベースから離れて立つようになった。
きっかけは、妻の由美子さんの一言…「ちょっと離れてみたら? 景色変わるんじゃないの…」…素人だから言えること。
そして迎えた9月3日、ニューヨークでのヤンキース戦…マウンドにはメジャーきっての豪腕、ロジャー・クレメンス投手… ライトスタンドに飛び込むホームランで、7年連続200本安打を達成した。
2007年のイチローに、何が起こっていたのか?
時折、プレッシャーに押しつぶされそうになることがある…それを技術で乗り越えてきた。
精神には限界があると思う…もう限界だと思った時もある。
幾度となく、精神的に追い込まれた。重い十字架を背負って、プレーしてきた。
それでも、毎年200本達成してきた…日本では、首位打者を取り続けてきた。
「超えているように見えるよね…でも、超えてないんだよね…」とイチロー。
イチローは、「これまで重圧を乗越えられなかった」と、繰り返す。
だから今年、それを課題にした…かかってくる重圧から逃げないと、プレッシャーがかかる…どうしたってかかる重圧…逃げられない。
だから170安打になった時点で…来た来た来た!みたいな感じなんだよ…
いくぞ…明日から…重圧から逃げずに、自ら仕掛けていく…そんな中から新しいバッティングを見つける…。今、
イチローはかってない大きな挑戦の最中にある。
観客席から見ると、野球は簡単に見える。「こんなにヒット打てるところあるじゃない」…ところがバッターボックスに立つと、穴がない…
グラウンド全部守られているように見える。
自分のタイミングで打てたボールは、間を抜けていく。でも、詰まらされた打球は、捕られてしまう。
塁間の距離…絶妙の距離なんだよね…ギリギリ・アウトになるようになっている…信じられない…誰が考えたんだろう…感心します。
~つづく~
9月17日3安打を放ち、大リーグ記録に並ぶ8年連続200安打をついに達成。
100年以上破られることのなかった、メジャー記録に並んだのです。
~達成した感想は~
「メチャメチャしんどかった。190本になるまでは恐怖だった。今年200本
越えたのは大きい。次は、メジャー1800安打達成の…208本。
そして、張本勲が持つ日本記録、3085安打にチャレンジ…残り11試合で
15本打って、今シーズン中に達成したい…やりたいし、やるつもり。
絶対超えてやる…」
中日新聞
■一朗からイチローへの、スイッチの切り替え…
書道家は、正座をして、硯に水を入れ、静かに墨を磨る動作から始まる。
無心に硯に向かって墨を磨る…心が静まり、雑念が消え、気力が満ちてくる…。
相撲でも剣道でも、試合に入る前の一定の動作の中で、試合に挑む心の切り替えが出来てくる…。
イチローも、自宅から球場に入るまでの間に、スイッチが切り替えられ、表情が全く変わってしまう。毎日、
家を出てからクラウンドに立つまでの時間が、分刻みできっちり決まっている。試合の前の動き出す時間、ストレッチに入る時間、準備の時間…。
それをこなしていく過程で、心の切り替えが出来てくる…特に意識しなくても…
自然と気が入ってくる。
私がゴルフをするときも、自分の番になったら、まず、クラブを正眼に構えて目標を定め、毎回同じ動作、
同じアライメント動作でアドレスに入る…。
そうすることで集中力が高まり、心と身体がリラックスし、緊張が和らいでいく。
ショットを打つ前のこうした一連の動作が、無意識に出来るようになったら…一人前だろう。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 600】
「重圧と戦うイチロー」
鈴木一朗は、高校卒業後ドラフト4位で、オリックスに入団した。
3年目、仰木監督に見出され、登録名を"イチロー"と変えた。
レギュラーを掴むや、いきなり大記録を打ち立てた…前人未到のシーズン210安打。
イチローの名は、またたく間に全国に広がった。
だが、この頃からある違和感を抱き始めていた。"イチロー"が一人歩きし、自分ではない。 マスコミが描く天才バッター"イチロー"のイメージは、21歳の鈴木一朗にとって、あまりにも重かった。
その苦しさから逃れようと、常軌を逸する厳しいトレーニングに明け暮れた。
ヒットを量産し続けるイチロー…更にヒートアップする世間の目。
イチローの名前だけが、どんどん巨大化していく。しだいにイチローは人目を避け、引きこもることが多くなった。帽子を深くかぶって、
人が通るとフッと下を向いてしまう自分がいた。
首位打者になって当然…その期待が重圧となって、イチローにのしかかった。
「来年も頑張って~」と言われるたびに、背筋が寒くなった。追い立てられるように、打撃の改良に取り組んだ…
毎年バッティングフォームを変えた。
あれだけ好きだった野球が、全く楽しめなくなっていた。
次の年へのプレッシャー…その責任と重圧。純粋に、野球をしている感じが全くなかった。
やって当たり前…やらないと驚かれる自分…成績を残すことだけの使命感に縛られて、面白くない毎日が続いた。
このままでは、自分は駄目になってしまう。イチローは、大きな決断を下した。
野球の本場アメリカに渡った。2001年、イチローはメジャーリーガーとして、再スタートした。
いきなり首位打者。そしてMVPの大活躍。4年目には、メジャーリーガー、シーズン最多安打記録達成。
だが、結果を求められる重圧は変わらなかった。重圧に苦しむ生活も変わらなかった。自らに課した200本安打という目標…
毎年170本を超えると、途端に打てなくなった。精神的に追い込まれ、食事の最中…突然呼吸が苦しくなることもあった。
結果を出し続けるために、イチローは毎年新たなバッティングフォームに挑んだ。外から見れば、
軽々とヒットを量産するスーパースターに見える。しかし、イチローは、ずっともがき続けていた…。 ~つづく~
■一朗からイチローへの、スイッチの切り替え…
書道家は、正座をして、硯に水を入れ、静かに墨を磨る動作から始まる。
無心に硯に向かって墨を磨る…心が静まり、雑念が消え、気力が満ちてくる…。
相撲でも剣道でも、試合に入る前の一定の動作の中で、試合に挑む心の切り替えが出来てくる…。
イチローも、自宅から球場に入るまでの間に、スイッチが切り替えられ、表情が全く変わってしまう。毎日、
家を出てからクラウンドに立つまでの時間が、分刻みできっちり決まっている。試合の前の動き出す時間、ストレッチに入る時間、準備の時間…。
それをこなしていく過程で、心の切り替えが出来てくる…特に意識しなくても…
自然と気が入ってくる。
私がゴルフをするときも、自分の番になったら、まず、クラブを正眼に構えて目標を定め、毎回同じ動作、
同じアライメント動作でアドレスに入る…。
そうすることで集中力が高まり、心と身体がリラックスし、緊張が和らいでいく。
ショットを打つ前のこうした一連の動作が、無意識に出来るようになったら…一人前だろう。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 600】
「重圧と戦うイチロー」
鈴木一朗は、高校卒業後ドラフト4位で、オリックスに入団した。
3年目、仰木監督に見出され、登録名を"イチロー"と変えた。
レギュラーを掴むや、いきなり大記録を打ち立てた…前人未到のシーズン210安打。
イチローの名は、またたく間に全国に広がった。
だが、この頃からある違和感を抱き始めていた。"イチロー"が一人歩きし、自分ではない。 マスコミが描く天才バッター"イチロー"のイメージは、21歳の鈴木一朗にとって、あまりにも重かった。
その苦しさから逃れようと、常軌を逸する厳しいトレーニングに明け暮れた。
ヒットを量産し続けるイチロー…更にヒートアップする世間の目。
イチローの名前だけが、どんどん巨大化していく。しだいにイチローは人目を避け、引きこもることが多くなった。帽子を深くかぶって、
人が通るとフッと下を向いてしまう自分がいた。
首位打者になって当然…その期待が重圧となって、イチローにのしかかった。
「来年も頑張って~」と言われるたびに、背筋が寒くなった。追い立てられるように、打撃の改良に取り組んだ…
毎年バッティングフォームを変えた。
あれだけ好きだった野球が、全く楽しめなくなっていた。
次の年へのプレッシャー…その責任と重圧。純粋に、野球をしている感じが全くなかった。
やって当たり前…やらないと驚かれる自分…成績を残すことだけの使命感に縛られて、面白くない毎日が続いた。
このままでは、自分は駄目になってしまう。イチローは、大きな決断を下した。
野球の本場アメリカに渡った。2001年、イチローはメジャーリーガーとして、再スタートした。
いきなり首位打者。そしてMVPの大活躍。4年目には、メジャーリーガー、シーズン最多安打記録達成。
だが、結果を求められる重圧は変わらなかった。重圧に苦しむ生活も変わらなかった。自らに課した200本安打という目標…
毎年170本を超えると、途端に打てなくなった。精神的に追い込まれ、食事の最中…突然呼吸が苦しくなることもあった。
結果を出し続けるために、イチローは毎年新たなバッティングフォームに挑んだ。外から見れば、
軽々とヒットを量産するスーパースターに見える。しかし、イチローは、ずっともがき続けていた…。 ~つづく~
■参りました
9月2日、滋賀県信楽カントリーでゴルフを楽しんだ。その後、大阪の権藤さん夫妻、川人さん夫妻、私たち夫婦、
揃って東大阪で会食した。地元の一部の人のみが知る"穴場"だそうで、夜の会席は予約のみ…しかも取るのは一組のみ。
「エェッ!今どき、そんな料理屋さんあるの?」…驚きはそれだけではなかった。
まず、玄関脇の囲炉裏を囲んだ場所(写真)へ案内された。
ビールで乾杯して前菜をつまむ。
出されたメイン料理は、自家製もめん豆腐。豆腐を小皿に取って、オリジナルの"岩塩"をふり掛け、口に運ぶ…これが美味。
小一時間談笑した頃、玄関脇の部屋に案内された。ここでのメインは"手打ちそば"…板長がソバを打つ前の粉を一つまみ、 1人ひとりに味わってもらい、ソバ談義…運ばれてくる小鉢を味わい、語らっていると、薬味を添えた、 今打ち上がったばかりの"ざるソバ"が出される…最後はソバ湯で人心地…。
3度目、今度は座敷に案内される。メインは"湯葉と蟹料理"。1人づつ、前に置かれたアルミ箱に豆乳が流し込まれ、 温められて出来る上皮に、手元に並べられた様々な食材を乗せ、風呂敷で包むようにして、薬味を付けて頂く。
最後に"沢蟹ご飯"が出て…デザート…もうお腹いっぱい…こんな贅沢で楽しい会食は初めて。感激の一夜でした。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 598】
「不思議の国、中国」
■世界のジョーク/何年教育しても、身に付かないもの?
○ 日本人の英語教育 ○ アメリカ人の銃規制
○ ロシア人の道徳教育 ○ イタリア人の性教育
○ 中国人のマナー教育 ○ ベトナム人の汚職追放
○ 韓国人のコピー商品撲滅 ○ アラブ人の民族統一
○ 北朝鮮人の反戦教育 ○ アフガニスタン人の麻薬撲滅
○ ミヤンマー人の民主教育
中国政府は、五輪に向けてマナー向上を呼びかけてきたが、急にお行儀よくなるわけがない。中国人は、ルールや約束を守る意識が、
根本的に欠けているようです。
自分のことが第一で、他人とコミュニケーションを取るような教育を受けていない。長年に渡り根付いた習慣・文化は、簡単には変わらない…
。
中国人の海外旅行者が年々増加する中、マナーの悪さに、旅行会社への苦情が絶えない。業を煮やした中国政府、
「国民海外旅行文明行為指針」を発表した。
<海外でやっていけない行為>
「人前で痰を吐く、鼻水をかむ、列に割り込む、公共の場所で靴や靴下を脱ぐ、
腹を出す…」
●中国に長年駐在しているビジネスマンに聞いた…
「トイレ一つとっても、都会は洋式、地方は今でも"穴だけ"が主流」
「北京、上海など都会に住む三億人と、田舎に住む十億人はまったく別の国民」
「だから中国のことは、何を言っても本当だし、何を言ってもウソになる…」
「北京と上海は犬猿の仲。北京人は首都のプライドから、上海人をバカにし、
上海人は北京人を田舎者扱いする…」
「ところが、両者ともチベットやウイグルには、まったく興味を示さない」
「中国人はメンツがすべて。ほかの社員の前で叱ったり、注意すると大変なことに…叱る時は、一対一が鉄則。メンツを潰したら、
復讐されると思った方がいい」
「中国人は『人に使われる人はバカ』という感覚だから、一旗揚げて社長になることしか考えない…どうしても、
儲かる商売に集中してしまう」
中国人は奥が深く、したたか。郷に入れば郷に従い、一度会ったら親友…
家族ぐるみで付き合え…奥さんや家族へのお土産を忘れないこと。
ご主人に贈り物をすると、ワイロとみなされるので、ご家族に贈り物をして、ご機嫌を取り結ぶようにする…。
中国人が、日本の友人を紹介する時、「私の生涯の親友です…」と言ってくれる。
NHKの連続ドラマ、「北京のバイオリン」を見るとわかるのですが、中国の女性は強い…家庭で夫を平手打ちする光景…日常茶飯事です。
1人っ子政策を徹底する中国…ところが、香港は2人目OK。香港で産めば、香港の戸籍が取れる。そこで「香港出産ツアー」 なる企画が生まれてくる…。
金メダルの獲得が、国家高揚の威信にかかわる中国…今回のオリンピックでは、アメリカを大きく上回る51個の金メダルを獲得した
(アメリカは31個)。
ところで、中国のスポーツ選手の待遇は…?
選手たちは、人生を政府に買われ、服従しているようなもの…政府の許可なく広告に出られず、広告収入の多くは政府の懐に…。
貧しい地方出身者を、政府が丸抱えで英才教育を施し、メダリストに育て上げる。引退後、手に職がなく、
何もできない人が多いという。用済みになったら、捨てられる運命なのです。
中でも、歴史のない認知度の低い野球選手は、サラリーマンより低収入とか…
引退後、日本のように解説者やTVタレントになって活躍するのは、まだまだ先のことでしょう…。
読売新聞「こちら報道部・今も不思議の"隣人"」より
■参りました
9月2日、滋賀県信楽カントリーでゴルフを楽しんだ。その後、大阪の権藤さん夫妻、川人さん夫妻、私たち夫婦、
揃って東大阪で会食した。地元の一部の人のみが知る"穴場"だそうで、夜の会席は予約のみ…しかも取るのは一組のみ。
「エェッ!今どき、そんな料理屋さんあるの?」…驚きはそれだけではなかった。
まず、玄関脇の囲炉裏を囲んだ場所(写真)へ案内された。
ビールで乾杯して前菜をつまむ。
出されたメイン料理は、自家製もめん豆腐。豆腐を小皿に取って、オリジナルの"岩塩"をふり掛け、口に運ぶ…これが美味。
小一時間談笑した頃、玄関脇の部屋に案内された。ここでのメインは"手打ちそば"…板長がソバを打つ前の粉を一つまみ、 1人ひとりに味わってもらい、ソバ談義…運ばれてくる小鉢を味わい、語らっていると、薬味を添えた、 今打ち上がったばかりの"ざるソバ"が出される…最後はソバ湯で人心地…。
3度目、今度は座敷に案内される。メインは"湯葉と蟹料理"。1人づつ、前に置かれたアルミ箱に豆乳が流し込まれ、 温められて出来る上皮に、手元に並べられた様々な食材を乗せ、風呂敷で包むようにして、薬味を付けて頂く。
最後に"沢蟹ご飯"が出て…デザート…もうお腹いっぱい…こんな贅沢で楽しい会食は初めて。感激の一夜でした。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 598】
「不思議の国、中国」
■世界のジョーク/何年教育しても、身に付かないもの?
○ 日本人の英語教育 ○ アメリカ人の銃規制
○ ロシア人の道徳教育 ○ イタリア人の性教育
○ 中国人のマナー教育 ○ ベトナム人の汚職追放
○ 韓国人のコピー商品撲滅 ○ アラブ人の民族統一
○ 北朝鮮人の反戦教育 ○ アフガニスタン人の麻薬撲滅
○ ミヤンマー人の民主教育
中国政府は、五輪に向けてマナー向上を呼びかけてきたが、急にお行儀よくなるわけがない。中国人は、ルールや約束を守る意識が、
根本的に欠けているようです。
自分のことが第一で、他人とコミュニケーションを取るような教育を受けていない。長年に渡り根付いた習慣・文化は、簡単には変わらない…
。
中国人の海外旅行者が年々増加する中、マナーの悪さに、旅行会社への苦情が絶えない。業を煮やした中国政府、
「国民海外旅行文明行為指針」を発表した。
<海外でやっていけない行為>
「人前で痰を吐く、鼻水をかむ、列に割り込む、公共の場所で靴や靴下を脱ぐ、
腹を出す…」
●中国に長年駐在しているビジネスマンに聞いた…
「トイレ一つとっても、都会は洋式、地方は今でも"穴だけ"が主流」
「北京、上海など都会に住む三億人と、田舎に住む十億人はまったく別の国民」
「だから中国のことは、何を言っても本当だし、何を言ってもウソになる…」
「北京と上海は犬猿の仲。北京人は首都のプライドから、上海人をバカにし、
上海人は北京人を田舎者扱いする…」
「ところが、両者ともチベットやウイグルには、まったく興味を示さない」
「中国人はメンツがすべて。ほかの社員の前で叱ったり、注意すると大変なことに…叱る時は、一対一が鉄則。メンツを潰したら、
復讐されると思った方がいい」
「中国人は『人に使われる人はバカ』という感覚だから、一旗揚げて社長になることしか考えない…どうしても、
儲かる商売に集中してしまう」
中国人は奥が深く、したたか。郷に入れば郷に従い、一度会ったら親友…
家族ぐるみで付き合え…奥さんや家族へのお土産を忘れないこと。
ご主人に贈り物をすると、ワイロとみなされるので、ご家族に贈り物をして、ご機嫌を取り結ぶようにする…。
中国人が、日本の友人を紹介する時、「私の生涯の親友です…」と言ってくれる。
NHKの連続ドラマ、「北京のバイオリン」を見るとわかるのですが、中国の女性は強い…家庭で夫を平手打ちする光景…日常茶飯事です。
1人っ子政策を徹底する中国…ところが、香港は2人目OK。香港で産めば、香港の戸籍が取れる。そこで「香港出産ツアー」 なる企画が生まれてくる…。
金メダルの獲得が、国家高揚の威信にかかわる中国…今回のオリンピックでは、アメリカを大きく上回る51個の金メダルを獲得した
(アメリカは31個)。
ところで、中国のスポーツ選手の待遇は…?
選手たちは、人生を政府に買われ、服従しているようなもの…政府の許可なく広告に出られず、広告収入の多くは政府の懐に…。
貧しい地方出身者を、政府が丸抱えで英才教育を施し、メダリストに育て上げる。引退後、手に職がなく、
何もできない人が多いという。用済みになったら、捨てられる運命なのです。
中でも、歴史のない認知度の低い野球選手は、サラリーマンより低収入とか…
引退後、日本のように解説者やTVタレントになって活躍するのは、まだまだ先のことでしょう…。
読売新聞「こちら報道部・今も不思議の"隣人"」より
■ことば遊び ことばの由来 『正々堂々』
熱戦を繰り広げる全国高校野球、いよいよ8月2日開幕。
勝っても負けても、球児たちの「正々堂々」としたプレーはさわやかだ。
態度や手段が正しく立派なことを「正々堂々」と言う。
この言葉は、孫子の兵法 「正正の旗を迎うるなかれ、堂堂の陣を撃つなかれ」から採った言葉です。
「正正の旗」とは、
攻撃態勢が整っている様。
遠望する敵陣の旗が、一切の乱れもなく、整然とはためいている。
攻撃態勢が完璧に出来ている組織は、外から見てもわかるものです。
「堂堂の陣」とは、
守りが完璧な状態。これも外から見てわかります。
だから、「正々堂々」とは、「攻めと守りが完璧な陣容で、軍隊が訓練され、
整っており、士気盛んに整然とたなびき進む様」を言います。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 588】
「あと1勝…頑張れ!山本マサ」
この8月、43歳の誕生日を迎える中日ドラゴンズの"山本昌"投手。
一昨日の7月27日、じっとしているだけでも汗が滴る猛暑の中で、
猛虎打線を相手に199勝目を挙げた…200勝まであと1つ!
達成すれば、ドラゴンズでは伝説の名投手"杉下茂"以来…2人目となる。
以下、7月28日中日スポーツ「あと1勝、頑張れマサ」の記事を転載します。
山本昌を思うとき、いつも"運命"という言葉が浮かぶ。
忘れもしない1988年8月、半年間の米国武者修行を終えて帰国した山本昌が、
二軍戦にテスト登板するというので、ナゴヤ球場に取材に行った。
試合前、山本昌がキャッチボールを始めた瞬間、目を見張った。
4ヶ月前まで大きな体を持て余し、手先だけで投げていたはずのフォームが、
別人のように変わっていた。腕が上り、スムーズに投げているではないか。
この5年間、何人もの指導者が、変えようとして変えられなかったフォームが、
わずか半年の留学で、変わってしまった。
気になって山本昌に聞くと、答えの代わりに一枚の小さなメモを見せた。
そこには、4行の文字が書かれていた。
(1)野球をやれることに感謝しながら投げること
(2)低めに投げること
(3)ボールは、前で離すこと
(4)常にストライクを先行させること
米国で面倒を見てくれた、アイク生原さんが書いたメモだった。
米国の育成法は…育てるために、中4日でキッチリ投げさせる。
日本ではほとんど登板することのなかった山本昌…。
米国での投球数は、わずか4カ月で150イニングを超えていた。
「登板前には必ずメモを見ました。腕が上ったのは、上げなきゃ疲れて、低めに投げられなかったからです」
メモの教えを守っているうちに、無意識のうちにフォームが身に付いた。
4年間で、わずか2イニングしか投げていなかった山本昌。この年5勝して、優勝に貢献した。
私の記憶では、期待されての"留学"ではなかったと思う。当時の星野監督が、ドジャースとの縁をつくった関係で、
数人の若手が送り込まれた。
人のいい山本昌は"付け足し"でしかなく、球団の期待も低かった。
解雇されてもおかしくなかった入団5年目の留学。
そして、アイク生原さんとの出会いがなかったら…。運命を感じてしまうのです。
今年セ・リーグが始まるとき、42歳を考えると、7勝するのは大変…と思った。
5月にトントンと3勝した後、6試合登板して3敗…3勝3敗…やたら200勝が遠く感じられた。
7月15日、ようやく巨人から1勝もぎ取り、21日広島、そして一昨日阪神と3連勝して、ようやく200勝に大手が掛かった。
昨年と今、落合監督には、その違いが見えるようだ。
「去年なら勝てなかったと思う。まだ来年があった。今年勝てなきゃ来年はないわけだし、 土俵際にいるということで、
甘い考えを捨てたんじないかな」
当初、プロに入るつもりはなかったし、ここまでやれるとは思っていなかった。
高校の恩師に背中を押されてプロに入り…25年。
次回の登板で歓喜の瞬間を味わってほしいものです。
「とにかく一つ勝つことが大変…1試合1試合頑張っていきたい」と山本昌。
野茂英雄は201勝で引退…その時「悔いが残る」と言った言葉が残る。
「いつか辞める日は来るけど、満足して終わることはないでしょう。
でも、ここまでやってこれた…チームのために頑張りたい」と、何処までも謙虚な山本昌…。
■ヨーロッパ時間
定刻になっても人が集まらない、「金沢時間」というのがどの地方にもあります。
日本人は一般的に"せっかち"で、定刻に遅れることにはうるさいようです。
「時間を守る」ことについて、ヨーロッパ各国を見ると、
ドイツ人は…定刻きっかりに集まってくる。
英国人とアメリカ人は…10分くらいの遅れは許容範囲。
フランス人は…30分、イタリア人は1時間くらいまでなら待てる。
スペイン人は、定刻に電話したら、まだ寝ていた…。
ドイツなどの北欧の寒い国は…全員揃うまで待っていられない。
時間を守り、定刻に遅れないようにすることが、気配りになる。
一方、温かい南の国…温暖な気候が、のんびりとした風土を育む。
少しくらい待たされても、苦にならないのです。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 580】
~ことば遊び~ 「かなざわなまり(2)」
「かっこいいジー」「うェ」「おいね」「ほうや」
「そうけ」 「な~ん」「…がやわいね」
交通網が整備され、一時間もあれば、富山や福井へ行けるというのに、
金沢の北部、競馬場の近くには、早口ことばの八田弁?があり、
金沢の中心部だけに通じる方言(例…キンカンなまなま)があったりと、
わずか数キロ離れただけで、意味が相手に伝わらない方言がある…不思議ですよね…。
※「キンカンなまなま」…真冬、道路が凍ってツルン・ツルンになった状態のこと
「昨日、春スキーに行ってきたうェ。これ、そん時の写真ながヤ!」
『そんながけ、そりゃよかったわいね…あら~!かっこいいジー』
「な~ん、たいしたことないわいね…でも、昨日は天気やったさかいに、良かったわいね」
『おいね…ほやとこと、いい天気で…よかったわいね』
「ほやけど、天気良すぎて…雪質悪て、ダメやったわいね…」
日常、こんなやり取りが交わされている。
転勤してきた男性、女子社員から「かっこいいジー」と言われて苦笑する。
「かっこいいね」と素直に言われると喜べる…が、語尾に付く「ジー」が分らない?
この「ジー」、金沢弁独特の文末詞である。
東京でうっかり「そのスーツ、いいジー」なんて言おうものなら、「イージーオーダー」のスーツのことと、勘違いされてしまう。
北陸三県には、それぞれ味わいのある文末詞がある。
富山県は、「新聞きとったゼ」と、「ゼ」を多用する。
福井県では、「ほんなことしたら、あかんザ」と、「ザ」を多用する。
「おいね」
は、相手の話に同感し、相づちを打つ「ハイ」「そうだ」の意味になる。
同じ相づちでも「ほうや」
は、「その通り」「まったく同感」と、相手の話題を励ます。
そうだそうだと相づちを打つ時、「ほや、ほや」と重ねる。
更に強調すると、「ほうながや~」「ほうながかいね~」と語尾を伸ばす。
そこには、相手に対して、いささかの不信感も存在しない…。
「でもねー」という意味の、「ほぅやけど…」もよく出てくる言葉です。
「そうけ」
もよく使われる。「そうですか」といった意味で、「ほうや」よりも消極的肯定となる。
お婆ちゃんことば、「そうけ、そうけ…そうかいね」となると、今度は相手の話に深い関心を示す言い方になり、その使い分けは、
よそから来た人には難しい。
妻「映画面白かった?」 夫『なーん』…金沢で、こんな会話がひん繁に交わされる。
県外の人が聞くと、「日本語じゃないみたい」と言う。
「なーん」
は否定する「いいえ」の言葉だが、そんなに強いニュアンスはない。
さりげなく、気を抜いたように、あいまいに発音する。
又、「別に…」という意味に、「なーん」を使うことも多い。
夫「近頃、元気ないジー」 妻『なーん…』
相手を思いやってか、その後の言葉がない…その先は察するしかない。
それ以上聞かないで欲しい…という意味が「な~ん」に含まれる。
十年ほど前の裏話だが、米露首脳会談で、当時のクリントン大統領が、エリツィン大統領に注意を促した。「日本人のYESは、
NOである」と…。
金沢ことばの「なーん」は、必ずしも「NO」を意味しないのです。
「頑張りまっし、金沢ことば」より
■ダーウィン展(6/22日まで)
日曜夜のNHK・TV「ダーウィンが来た!」を、毎週楽しく見ている。
5月末、東京出張の折、上野の国立科学博物館で「ダーウィン展」を見学した。
アメリカで好評を博し、日本初公開。ダーウインの生い立ち・人生をたどりながら、
「種の起源」(1859年出版)を世に出した、時代背景を追っていく。
当時は、「地上のあらゆる生命は、主イエスキリストが創造した」と、固く信じられ、
生命の起源に異を唱えようものなら、捕らえられて絞首刑にされかねない時代だった。
20代に進化論を完成…その後様子を見ること20年。
四十半ばになり、他の生物学者が、類似の理論を発表するに及んで、ようやく世間に発表。進化論は、それまでの世界観を大きく変えていった。
ダーウインは進化論で、
「最も強いものが生き残るのではなく、
最も賢いものが生き延びるのでもない。
唯一生き残るのは、環境に変化しうる能力を持ったものだけである」
と言っている。「何代も永続する企業」の絶対条件でもある…。
会場は、進化論の着想をもたらした、ガラパゴス諸島の生物のはく製、地球一周の航海に乗船した「ビーグル号」の模型、航海日誌、 身の回り品など、日本では見られない展示品の数々…。生きているゾウガメと、ガラパゴストカゲも見た。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 576】
「コモンズの悲劇」
米国の生物学者ハーディンが1968年、「コモンズの悲劇」というエピソードを学会に問題提起した。 コモンズというのは、 イギリスの農民が慣習的に共用利用してきた、「共有地と、その運営仕組み」のことです。
たとえば、羊を飼う放牧地があります。その放牧地は、村人達が共同利用しています。
そこで、一人の農民が、自分の羊を一頭増やしました。
すると、本人の財産が増え、得をします。
それを見た農民たちがみんな得をしようと、次々と羊を一頭、また一頭と増やしていったら、どうなるでしょうか?
餌となる牧草がどんどん減っていって、ついには、その牧草地は滅んでしまいます。
日本にも、古くから「コモンズ」があります。山や川などの資源を村の人々で共有する「入会権」、漁師の「漁業権」などがそうです。
山には所有権者がいます。主に山に生える樹木を所有します。
でも、山に入れば、枯れ木が落ちていたり、キノコが生えていたり、動物が生息しています。それらを、村人が自由に採って、
自分のものにできるという慣習が、「入会権」です。
村人たちが共同で山を管理し、森がもたらす様々な恵みを、村人みんなで享受するのです。山は「みんなのモノ」であり、「自分のモノ」
でもあるのです。
ところが車社会になり、「入会権」を持たないよそ者…町に住む人たちが、休日ともなると、大勢山に押しかけて、村人の共有財産…
山菜やキノコを採って、山を荒らすようになったのです。
村人がキノコを採るときは、来年また生えるようにと菌糸を残し、キノコの土壌を荒らさないよう注意しますが、
町からやってきた人たちは、採った後のことなど考えようともしません。
山は荒れ、山菜もキノコも採れない山になってしまうのです。
海もまた、漁師たちは「漁業権」を大切に守り、海の恵みをむやみに乱獲したりしません。
お互をい守り合う、暗黙のルールがあったのです。
それは、漁村の人々が、海の資源維持を何よりも大切にしてきたからです。
ところが、魚群探知機や捕獲技術の発達、漁船の大型化などで、年々魚が採れなくなり、
暗闇に紛れて禁漁区域に密漁船が入ったり、漁業権に拘束されない外国の船がやってきたりして、資源が枯渇。
漁業が成り立たなくなったのです。
今、中国は、なりふり構わず世界の「燃料資源」「穀物」などを買いあさっている。
6月初め、ローマで開かれた食糧サミット…アメリカは、日本やフランスの反対を押し切って、食料になるトウモロコシから、
バイオ燃料を更に増産すると発表した。
穀物価格が高騰して、世界に餓死者が増える心配よりも、自国の利益を優先したのです。
地球温暖化や食糧危機が叫ばれる今世紀。資源には限りがあります。
奪い合いが争いを呼び、そして滅亡が待っている。
国の利益の枠を超えた、国際的「入会権」の概念を構築していかなければならないでしょう。
自国の利益ばかりに囚われていると、ハーディンが警告する「コモンズの悲劇」を迎えることになります。
■ことば遊び/ジョーク「犬」
~見栄~
「お肉屋さん、ステーキにするの、最高のところ1キロ2枚に切ってちょうだい」
隣の奥さん
『犬の餌にするので、一番安いところ100グラム、コマ切れにしてちょうだい』
すると、連れていた子ども…
「ママ、うちに犬なんかいないよ、いつから飼うの?」
~心配ごと~
「あら奥さん、心配そうな顔して…どうしたのよ?」
『主人が犬を捨てに行ったきり、帰ってこないの…』
「遠くへ捨てに行ったんでしょう、心配することないわ」
『でも…』
「何なの?」
『犬はとっくに帰ってきているのよ』
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 213】
「ヘブン・ありがとう」
我が家のビーグル犬、名前はヘブン。家族の一員に加わったのは13年前。
それまで妻は"犬"恐怖症…見た目におとなしい犬でも、恐くて近寄れなかった。
カナリヤを飼ったときも、餌の交換が怖い…。ゴキブリを見つけたら大騒動…。
生き物は何であれ、恐かったのです。
当時娘は、アメリカに留学していた。生後間もないビーグル犬を、アパートの一室で飼い始めた。子犬は、娘が学校に行っている間、
キャンキャン泣き、隣人から苦情が出た。

動物を飼うのは契約違反…と、大家から立ち退きを命ぜられた。
「飼えなくなったので…」と、処置に困った娘…国際電話で泣きついてきた。それが縁で、はるばるアメリカから、
我が家にやって来たのです。
10日間検閲に留め置かれた後、小松空港へ引き取りに行った。狭いゲージに押し込められ、痩せておしっこまみれ…
哀れな姿での初対面となった。
犬が怖いはずの妻…愛くるしくシッポを振る子犬を見て、思わず抱きしめていた…(つい今しがたまで犬嫌いだった妻)…
わからないものです。
その日から、ヘブンが家族の一員になった。
毎日が癒される日々…ヘブンがいると、家族みんなが和む。
一緒に散歩するのが楽しくて、ヘブンを連れて、夫婦で出かけることが多くなった。
夫婦喧嘩をすると、ヘブン、自分が叱られたと勘違いし、妻の足元で「クゥン…クゥン…」と摩り寄り、ご機嫌を取る…いつしか、
夫婦喧嘩もしなくなった。
そのヘブンも…寄る歳には勝てず、昨年の1月中旬、突然ケイレンを起こし、口から泡を出して倒れた。
医師に見せたら、「数日持つかどうか…このまま入院させ、預かりましょう」
どうせダメなら…家で死なせてやろうと、連れて帰った。
妻と交代で、寝ずの看病が十日あまり続いた。
しょっちゅう外れる点滴の管を付け直し、アガリクスを混ぜた餌を与え、看病した。
お陰で、家の中を歩き回り、階段を上り下りできるまでに、回復した。
それから一年、何度も倒れながら、ヘブンは頑張った。
"生きよう"とする執念はすごかった。
倒れた後の一年間、大好きな散歩をやめていたヘブン。12月下旬の暖かい日、八日市の公園へ散歩に連れ出した。
あっち…こっち…と、嬉しそうに臭いをかぎ、30分くらい歩きまわって、大きなウンコをした。
それがへブンとの最後の、楽しい思い出になった。
いよいよ、お別れの時がやって来た。
正月の二日、家族に看取られ、眠るように天国へ行った。
ヘブンと過ごした十数年…長野や岐阜での一泊旅行、松本城や善光寺を歩いた思い出。
小布施にも行った。嬉しそうに足を踏ん張り、首紐を引っ張るヘブン。
思い出をいっぱい残して、天国へ行った。ありがとう…ありがとう…ありがとう
■志賀高原スキー
16~17の土・日、スキー同好メンバー4人で、志賀高原へ遠出した。
初日は青く晴れ上がり、最高のコンディション。
聞くと、昨日までの3日間に、新雪が3メートルも積もったという。
今年初滑り。存分に滑って、焼額山スキー場からリフトを乗り継いでの帰路、
ゴンドラが故障して動かない。思わぬハプニングで5時を回ってしまい、リフトもストップ。
仕方なく、シャトルバスで発哺へ…旅館に迎えに来てもらった。
[パノラマ・アウトコース]
土曜の夜も30センチの積雪。
ゲレンデの圧雪が間に合わない。
2日目は、フカフカの新雪に加え、 横殴りの 雪が降り止まない…。
視界はさえぎられ、顔や手はかじかむ、
スキー板は雪に引っかかる…で、
予定を1時間繰り上げ、温泉に浸かって帰路についた。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 212】
「私とスキー」
カービンスキーの時代になって、スキーは、中高年から始めても、楽しめるスポーツ
になった。長くて直線的な従来の板だと、向きを変える際に、脚の特殊な動きや、
難しい姿勢が必要でした。
カービンスキーは短く、両端が太く膨らみ、中央がくびれていて、しなりや、ねじりが生まれ、体の向きを変えるだけで板の方向が変わり、
無理なくターンできる。
スキーは、重力を利用して滑るため、強い筋力を必要としません。
長時間の屈伸運動がほどよい運動になり、俊敏性を養う。
丸一日自然と戯れながら、楽しく体を鍛えることが出来る…運動不足になりがちな
中高年に、もってこいのスポーツである。
晴れ渡ったゲレンデを、真っ白に輝く北アルプスの山々を遠望しながら、
薄っすらと汗ばみ、美味しい空気を一杯吸って、右に左に滑降を楽しむ…
浮世のストレスから解き放たれ、身も心もすがすがしい。
毎年出かける志賀高原…夕暮れホテルに戻り、露天風呂に首までつかり、
ほどよい疲れを癒す…その後のビールの美味いこと。
今は昔と違ってリフト待ちがなく、1日たっぷり、心地よく滑れる。
私のもう一つの趣味、スキューバーダイビングはハードだ。
若い人とバディを 組み、一日に4本潜ることもよくある。
海のアウトドアーは疲れる。潜っていて、途中で疲れたから、トイレに行きたくなったからと、グループを抜け出すわけにはいかない。
海中にいて、トイレが近いのも困るが、運動不足で足がケイレンしたら、尚大変。
一緒に潜っている仲間に、迷惑はかけられない。足腰を鍛えておかなければ出来ないスポーツである。
本格的にスキーを楽しむようになったのは、50に届く歳になってから。
スキューバを続けるには、冬の間に足腰を鍛えておく必要がある。
スキューバ仲間が冬にスキーをやる…一里野や新穂高へ、仲間とよく出かけた。
54歳の春、上越アライへ春スキーに出かけ、コブに足を取られて転倒…骨折。
翌々日、入院を断って、ギブスで固めた足をひきずり、松葉杖で大坂出張という
無茶をやった。
ギブスを外した後も何故か、足首は引きずったまま…8月初め、業を煮やして県立中央病院へ行った。
「歩いてきたの?」と先生 … 『ハイ』 … 「アキレス腱が切れています。よく歩いて来られましたね…4ケ月も…
気づかなかったのですか?」
切れたアキレス腱が、モモの上部に団子になって丸まり、癒着していた。
直ちに入院・手術。手遅れなら、肩から"腱"を移植する予定だったという。
町医者のヤブめ!何ヶ月も通院したのに、気づかなかったとは…。
遠赤外線を照射し、歩行練習を繰り返す毎日。
入院を断ったため、先生に見放されたのでは…と、やっかむ。
スキー下手が原因で起きた事故。50半ばの年齢を思えば、スキーは止めるべきだった… が、11月、スキー同好会に入会…
まだ治りきらない翌年の1月下旬、同好の皆さんと
八方尾根へ。スキー教室にも入った。
今年もスキューバーをやりたい…足腰を鍛えなくてはと、恥ずかしくもなく、 下手なスキーに出かけている…。
■バレンタインに、カードを交換するようになったわけ…
バレンチノとは(英語ではバレンタイン)、キリスト教の司祭の名前です。
西暦3世紀、戦争に行きたがらない若者に手を焼いたローマの皇帝は、
心が浮わつくのが原因と、兵士の結婚を禁止してしまった。
かわいそうな兵士たち…見かねた司祭のバレンチノは、内緒で結婚させたのです。
これが皇帝の耳に入り、投獄されてしまった。
当時のローマは、キリスト教が迫害されていた。
バレンチノは獄中にあっても恐れず、看守たちへ"神の愛"を説いた。
ある看守に、目の不自由な娘がいた。
バレンチノが彼女のために祈ると、奇跡が起きて、目が見えるようになった。
このことで、バレンチノは処刑されてしまった。
死ぬ直前に、「あなたのバレンチノより」と表書きした手紙を、彼女に残していった。
その言い伝えから2月14日、男性が好きな女性に、愛をつづった手紙を出すようになった。そして、世界中に広がっていった。
【吉村外喜雄のなんだかんだ - 211】
「バレンタインデー」
2月14日はバレンタインデー。
ローマでは毎年2月14日に、豊穣を祈る祭りが行われていた。
約二百年前、お祭りが開かれる頃に殉教したバレンタインを、このお祭りの守護聖人に据えることにした。
その後次第に、この日に恋人たちが、贈り物やカードの交換をするようになったのです。
女性から男