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東京大空襲(1)

■東京大空襲

63年前の3月10日未明、東京に352機のB29爆撃機が来襲。
36万発の焼夷弾を下町の密集地帯に投下…犠牲者約10万人、罹災者100万人、焼失家屋27万戸という、広島の原爆を上回る、 悲惨きわまりない大災害に見舞われたのです。
今の中・高生の中には、東京大空襲はおろか、日本とアメリカが戦争したことも知らない生徒がいるという…学校で何を学んでいるのでしょうか?

60数年前の、終戦前後の出来事を、語れる人が少なくなってきている。
66歳になる私、終戦当時は3歳…富山の空襲や、戦時中のことを記憶する、最年少の世代になるでしょうね…。

2005年8月12日には、「富山大空襲」 を、2006年3月10日には「大坂大空襲」 を、そして、2007年7月27日には「宇部市の空襲」 を、私のメルマガで配信しました。
合わせて、当時私が記憶していたことも書き添えました。
お読みになりたい方は、私のブログの「歴史から学ぶ」 カテゴリーをご覧ください。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 215】
~歴史から学ぶ~「東京大空襲(1)」

以下、当時中学1年の少女だった"滝 保清"さんの、地獄の体験記です。

明治時代から桐タンスの製造と、家具の販売をしていた父は、数年前に病死。
家族は、私に母と祖父母、妹三人の7人暮らし…母は万一のため、家財道具を埼玉の実家に預け、2人の妹をそこに疎開させた。 私と5歳の四女を、母の手許に残した。
昭和20年3月9日、運命の夜がきた。
その夜は強い北風が吹き、レーダーが揺れて、 低空で迫り来る敵機編隊を補足出来ず、 空襲警報が発令されたのは、 爆撃が始まった後だった…。

0時過ぎに隅田川方面から火の手が上った。
火の手はみるみる広がり、大火の模様なので、近所の人たちと、私の家の前にある神明神社の境内へ、避難し始めた。
私は、足の不自由な祖父を背負い、家族全員避難。
「ここにいれば大丈夫」と思ったのも束の間、風はますます強く、火の手は北の空を真赤に焦し、神社の裏門近くまで迫ってきた… 更に西門の裏も燃え始めた。

火の粉は、きらきらと強風にあおられ、夜空を舞い、頭上に降りかかってくる。
母は危険を感じ、「ここにいては危ない!もっと広い所へ…」と言ったのですが、叔父は「自分の家が焼けるのを見届けてから…」 と言うので、「じゃ、由美子(末の妹5才)を安全な所に預けてくるから…保清はお爺ちゃんと一緒にいるように…」と言って、 祖父母と私の三人を置いて行ってしまった。

それから間もなく、神社裏門の火は東側にも移り、境内は三方火に囲まれ、火の粉が激しく振りかかってきました。そのうち、 火の粉ではなく、焼トタンや板切れが火の玉となって、ぼんぼん飛んでくるようになりました。

「母さんは何処へ行ったんだろう…」と祖母と話していると、「逃げろ~、こんな所にいると焼け死ぬぞ~」という男の声に、皆、 神社の正門から逃げ始めました。
そうこうしているうちに西門からの火は、南側の私の家にも延焼し、四方炎に囲まれ、真昼のように明るくなった。 境内は火の粉と煙が渦巻き、母を待っていたのでは逃げ場を失うと、足の不自由な祖父の手を肩にかけ、引きずるように逃げ出した…。
神社の鳥居まで出たときです。火のついた雨戸が風に舞って落ちてきた。
フェン現象の熱風となって、煙と炎の渦が迫ってきた。一刻の猶予もありません…。
鳥居の階段を、 祖父を引きずって下りた時、 「保清、 待って!」と叫ぶ祖母の声に振り向くと、背負っていた祖父のドテラが燃え出し、 祖母が叩き消そうとしているのです。
夢中で揉み消したが、今度は私のオーバーの裾が燃え出した。
慌てて揉み消していると、さらに、祖父の足の包帯に火が付き、燃え出したのです。
祖母も、自分の衣服の火の粉を払うのが精一杯で、燃えている祖父のドテラにまで、手が回りません。

突然、目の前が見えなくなり、むせるように息が詰まり、熱風の渦に巻き込まれた。
防空頭巾で口を覆い、息を止めた。目は熱風で開けられない…。
この場にいては窒息してしまう…。
「もうこれまで!」と、燃えている祖父をそのままに、夢中で暗い方に走った。
後ろ髪もなにも…生きたいという本能と、窒息の苦しさから逃れたい一心で、祖父を置き去りにしてしまったのです。

炎の渦を振り切って振り向くと、もうもうたるオレンジ色の炎が、地面を這い迫ってくる。
その中から、二人三人と飛び出してくる黒い人影。時折明るい人影は背に火が付いたり、防空頭巾が燃えているのに気づかず、 夢中で走る人たちです。
その逃げ惑う様は、人の世の生と死…恐怖の狭間を…地獄絵を見る思いでした。

気付くと、祖母とはぐれてしまった。逃げ惑う大勢の人波の中では、祖母を探す術もない。
祖母も、自身の判断で、どちらかに逃げ延びているに違いないと信じ、電車路の大通りに出た。そこは、人と自転車、リヤカーでごった返し、 一人になった不安から、恐怖がこみ上げてきた。

母さんに逢いたい…「母さん~、母さん~」と叫びながら駆け出した。
森下の交差点に差しかかった時です。人混みの中から「保清…」の声が…。
振り向くと、目の前に母がいた…全くの奇跡です。
炎の照り返しだけの、暗い人混みの中で、出会えるなんて…。

(次号に続く)

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