歴史から学ぶ「西軍の敗将・宇喜多秀家と加賀藩」
東京から290km・・太平洋に浮かぶ孤島
八丈島。かって八丈島は罪を犯した者が流さ
れる流刑の島だった。江戸時代までにおよそ
1900人がこの島に流人として流されている

その一人に戦国大名・宇喜多秀家(1572
~1655)がいる。秀家は天下分け目の
関ケ原の戦いで、西軍の主将を務めた武将で
す。
戦いの結果、徳川家康の東軍が勝利した。
捉えられた小西行長、石田三成、安国寺恵瓊
は、反逆の首謀者として斬首された。
ひとり秀家は、逃げ延びることに成功した。

秀家には頼るべき縁者があった。勝者家康に
組みした前田家である。秀家の正室・豪姫は
前田利家の四女。利家の正室芳春院は娘の夫
秀家の身をあんじた。 関ケ原の戦いから1年後の1601年、
前田家の支援を受けた秀家は、堺から船で
薩摩に逃れた。
ところが1603年、薩摩島津家と家康が
和睦すると、その証として秀家の身柄は家康
の元に送られた。
一方で、島津家は秀家の除名嘆願を家康に
訴えている。背後に加賀百万石前田家もいた。 家康は西国大名たちの訴えを無視して、
おいそれと秀家を死罪にできないと、悩みに
悩んだ。3年後の1606年、秀家を八丈島
へ流罪にした。
八丈島は飢饉の島・・死罪より過酷な島流し
に・・家康は、秀家を絶海の孤島に送ること
で社会と完全に遮断したのです。
その年の4月、秀家は二人の息子と家来10
人を伴い、八丈島に上陸した。そこには本土
とはかけ離れた暮らしが待っていた。
折しも前年、八丈島で火山が噴火!
溶岩石や火山灰が地表を覆い、作物が実らず
島は食糧難に陥った。秀家と家臣たちは、
島に生える野草や根まで食べ、かろうじて
命をつないだ。
窮状は義母芳春院にも届いた。前田家から
1年おきに米や金子が届けられた・・
流罪人となった秀家の命は、前田利家の正室
芳春院によって、細々とつなぎとめられてい
たのです。
秀家の島での暮らしを支えた加賀藩は、
2代藩主前田利常(1594~1658)の
時代になっていた。
島流しから20年以上過ぎたある年、加賀藩
は八丈島に使者を派遣し、「幕府の許しを得
て秀家殿を我が加賀藩に迎い入れ、10万石
の所領を与えよう」と御赦免を進言した。
これを聞いた秀家・・待ちに待った本土への
復帰の機会が、ついに訪れたのです。
自らに付き従った家臣や息子たちを、島で命
を終えさせるのは口惜しい。
いや待て!あの関ヶ原で西軍の主将を務め、
敗れた己が、加賀藩や幕府の温情にすがり、
十万石を得たところで何の価値があろうか。
共に戦い斬首された三成たちを思えば、
生き恥をさらすだけではないか・・
流人として島にとどまり、静かに生をまっと
うするのが武士たるものの姿ではないか・・・
悩み抜いたすえ、ありがたい申し出を断った。
島流しの後、修験者のような暮らしをした
秀家。ストレスから開放された八丈島で
1655年83歳まで生きながらえ、人生を
終えた。