2316 少年期、人生のどん底を味わった習近平

2316 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
「少年期、人生のどん底を味わった習近平」

 

習近平、1953年(S28)北京に生まれる。

習主席の父親”習仲勲”(しゅう・ちゅうくん)
は、21歳の時毛沢東共産党政府軍に参加し
、命がけで毛沢東を守った。
その後中国共産党で副首相にまで出世した。


ところが1978年いわれのない嫌疑をかけ

られ、16年間投獄生活。息子の習近平は
恵まれた幼少期を過ごしていたが、父親の
政治抗争で失脚。

15歳の時、地方の貧しい農村に送られる
「下放」を経験した。山肌に掘った横穴住居
で、野犬のような極貧の暮らしが6年間続い
た。
この間に姉は餓死、母親は投獄された。
更に1966~76年まで続いた文化大革命
で、反動分子の子として、習近平は4回も
投獄された。
食べていくためにレンガを焼いて売り歩き、
生き伸びた。

そうした浮き沈みの中で「将来偉くなって
中国を変えてやろう」と志を持つようになっ
た。22歳の時名門清華大学に入学。
卒業後、父親と親しかった国防相の秘書に
なり、軍隊に入隊。

ほどなく共産党員になり、志を実現する
第一歩、河北省の村長になった。
以後20年、地方政治でキャリアを積んだ。

胡錦濤が国家主席だった2007年、次の
指導者として有力視されていた、上海市の
トップが汚職で失脚した。
その後任に、当時隣の浙江省のトップにいた
習近平氏が、横滑りで市長に抜擢された。

以後、出世街道を駆け上がっていく・・
志の道が開けたのです。

2300 西軍の敗将・宇喜多秀家と加賀藩

2300 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ「西軍の敗将・宇喜多秀家と加賀藩」

東京から290km・・太平洋に浮かぶ孤島
八丈島。かって八丈島は罪を犯した者が流さ
れる流刑の島だった。江戸時代までにおよそ
1900人がこの島に流人として流されている

その一人に戦国大名・宇喜多秀家(1572
~1655)がいる。秀家は天下分け目の
関ケ原の戦いで、西軍の主将を務めた武将で
す。
戦いの結果、徳川家康の東軍が勝利した。
捉えられた小西行長、石田三成、安国寺恵瓊
は、反逆の首謀者として斬首された。
ひとり秀家は、逃げ延びることに成功した。
                             
秀家には頼るべき縁者があった。勝者家康に
組みした前田家である。秀家の正室・豪姫は
前田利家の四女。利家の正室芳春院は娘の夫
秀家の身をあんじた。

関ケ原の戦いから1年後の1601年、
前田家の支援を受けた秀家は、堺から船で
薩摩に逃れた。
ところが1603年、薩摩島津家と家康が
和睦すると、その証として秀家の身柄は家康
の元に送られた。
一方で、島津家は秀家の除名嘆願を家康に
訴えている。背後に加賀百万石前田家もいた。

家康は西国大名たちの訴えを無視して、

おいそれと秀家を死罪にできないと、悩みに
悩んだ。3年後の1606年、秀家を八丈島
へ流罪にした。
八丈島は飢饉の島・・死罪より過酷な島流し
に・・家康は、秀家を絶海の孤島に送ること
で社会と完全に遮断したのです。

その年の4月、秀家は二人の息子と家来10
人を伴い、八丈島に上陸した。そこには本土
とはかけ離れた暮らしが待っていた。

折しも前年、八丈島で火山が噴火!
溶岩石や火山灰が地表を覆い、作物が実らず
島は食糧難に陥った。秀家と家臣たちは、
島に生える野草や根まで食べ、かろうじて
命をつないだ。

窮状は義母芳春院にも届いた。前田家から
1年おきに米や金子が届けられた・・
流罪人となった秀家の命は、前田利家の正室
芳春院によって、細々とつなぎとめられてい
たのです。
秀家の島での暮らしを支えた加賀藩は、
2代藩主前田利常(1594~1658)の
時代になっていた。

島流しから20年以上過ぎたある年、加賀藩
は八丈島に使者を派遣し、「幕府の許しを得
て秀家殿を我が加賀藩に迎い入れ、10万石
の所領を与えよう」と御赦免を進言した。

これを聞いた秀家・・待ちに待った本土への
復帰の機会が、ついに訪れたのです。
自らに付き従った家臣や息子たちを、島で命
を終えさせるのは口惜しい。

いや待て!あの関ヶ原で西軍の主将を務め、
敗れた己が、加賀藩や幕府の温情にすがり、
十万石を得たところで何の価値があろうか。
共に戦い斬首された三成たちを思えば、
生き恥をさらすだけではないか・・
流人として島にとどまり、静かに生をまっと
うするのが武士たるものの姿ではないか・・・

悩み抜いたすえ、ありがたい申し出を断った。
島流しの後、修験者のような暮らしをした
秀家。ストレスから開放された八丈島で
1655年83歳まで生きながらえ、人生を
終えた。

2296 21世紀美術館に加賀藩ゆかりの茶室が

2296 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ
「21世紀美術館に加賀藩ゆかりの茶室が」

金沢21世紀美術館の片隅に、約700年の
歴史ある茶室がある。
鎌倉時代に建てられ、その後茶室に整備され
た。加賀藩の歴代藩主は茶の湯を好み、12
代藩主の江戸の隠居所の居室になっていた。

前田家は皇室とも関わりが深く、本郷の前田
邸には明治天皇が行幸している。
鎌倉に別荘として移築してからも、天皇の
ご家族や、大正天皇が皇太子のとき、
この別荘に滞在している。

戦後、元総理の佐藤栄作が夫人と共に数年間
別荘として使用した、由緒ある茶室です。
故に、柱や天井、室内造作、建具など、
隅々に至るまでさりげなく手が加えられ、
職人冥利につきる建物になっている。

建物は、石を並べた上に柱を立て、釘は一切
使われていない。昨年の能登地震の時は、
建物が堅牢なのに驚いたという。

加賀藩のお膝元金沢は茶道が盛んで、
庶民に親しまれてきた。
戦後、金沢の料亭「ごり屋」に移築。
平成13年金沢市が取得して、16年現在の
場所に移された。
           
母屋の名は「松涛庵」。座敷で行う茶会席
と、椅子に腰掛けて茶会を行う「立札席」の
二ケ所がある。

ここで催される茶会、句会、歌会、聞香会、
読書会には、気軽に誰でも参加できる。
                            
入口右手には数寄屋造りの茶室「山宇亭」が
ある。その奥に雪隠処「腰掛待合」があるの
で、覗いてみるといい。
       
「山宇亭」は、加賀藩の重臣長家から直山邸
に移築され使用していたが、平成14年直山
氏から金沢市に寄贈された。
16年、松寿庵とともに現在地に移された。