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富山大空襲

戦後60年、富山や福井が空襲されたことを知る人は、だんだん少なくなってきた。
私の叔父家族は、満州から命からがら引き上げている。
そういった人たちの戦争体験を聴くことによって、私たちの父や母、お爺さん、
お婆さんが、どのような時代を、どのように生き抜いてきたのかを、知ることが
できる。
そして、無念のうちに死んでいった人たちへの思いをはせ、今の「平和な世の
中を大切に守っていく」。それが、戦争を知らない私たちの使命ではないでしょうか。
昭和20年、私は金沢の山手にある母親の実家に疎開していた。その時、富山の
空襲を見た。当時四歳だつた。焼夷弾がボコン、ボコンと、医王山の山向こうで
破裂するのを見た。まるで打ち上げ花火のよう…。
その時、地獄絵さながら、修羅場を必死に逃げ回っている人たちがいたことを、
知る由もなかった。

【吉村外喜雄のなんだかんだ - 89】
~歴史から学ぶ~
「富山大空襲」

金沢に生まれながら、現在まで、富山や福井が空襲で焼け野原になった話を
聞く機会はなかった。また、語る人もいなかった。ただ一度だけ、富山市で建
設業を営んでいる友人が、幼い頃に自らが体験した富山の空襲を語ってくれ
たことがある。

あまりにも惨く辛い「あの日」の体験。その体験を人に話すこともなく、胸の内
の奥底深くに仕舞い込んで、現在まで生きてきたという。それを私に語ってく
れたのです。
その話と、8/1の北陸中日新聞に掲載された「伝えたい60年前の戦争」の
記事を重ね合わせて、当時の惨状をお伝えしたいと思います。

昭和45年8月2日未明、市中心部を襲った富山大空襲。本人の記憶と母親か
ら聞いたことを交えて、友人はポツリポツリ語り始めた。
午前零時36分、その2時間ほど前に一度は解除された空襲警報のサイレンが
再び街に響いた。防空頭巾をすっぽりかぶせられ、母親に抱かれて、近所の人
たちと防空壕に逃げ込んだ。
(一度来襲すると見せかけ、市民を油断させた後再来襲するのは、米軍の戦術)

焼夷弾が破裂する音がどんどん近づいてくる。視界がぱっと赤く染まった。
痛いほどの熱風とともに迫りくる炎。15人くらいだろうか、防空壕の中で
みな身をかがめ、息をころして震えていた。
と、その時、壕の入口の方から、「こんな所にいると、蒸し焼きになるぞ!
出てこんかァ、逃げろ~!」と、男の声。母は私を抱きしめて、身を潜めてい
た壕を飛び出した。

空襲は2時間、とぎれることなく続き、170機余りのB29から、焼夷弾が
ばら撒かれた。火の手に追われ逃げまどう人々。母は壕から出たみんなの
後にくっついて、神通川の方へ走った。
(パニックに陥ると、独自の判断が出来なくなり、皆が行く後にくっついて
  いこうとする)

その時、顔見知りの自警団のおじさんが駆け寄ってきて、「ダラ!そっちへ行
ったら駄目だ! 私の後について来なさい…」と、母の手を引いて、皆とは反
対の方向へ、嵐のように熱風が舞う中、田んぼの土手沿いに、必死になって
逃れた。
火の手に追われ、逃げまどう人々。生きながらに炎に焼かれる人、焼夷弾に
直撃され、吹き飛ばされ、押しつぶされる人…。母親は、わが子を助けたい
一心で、必死に逃げまどったという。

どれほど走っただろうか…。田んぼのくぼみに飛び込み、振り返ると、街は炎
の渦に包まれていた。まさに地獄絵そのもの。あまりにもむごたらしい光景。
母は、助かったわが身も忘れて、呆然と燃え上がる富山の市街を眺めていた
という。
街に戻ったのは空襲から二日後。焼け野原となった市中心部の防水桶や、
お寺の池は、焼け焦げた死体で埋まっていた。大和百貨店のコンクリートの
建物だけが廃墟となって残り、木造家屋の町並みは、なめるように焼き尽くさ
れ、一面原っぱのようになっていた。
ドロドロに溶けたアスファルトには、腸をさらけ出した人が死んでいた。
自宅近くの別の防空壕では、町内の人たちが蒸し焼きになって、折り重なって
死んでいた。

もしあの時、壕の外から「逃げろ!」と誰かが叫ばなかったら、私は生きてこの
世にいることは無かっただろう。また、壕から出て、神通川の方へ逃げた人た
ちは皆、川辺で炎に巻かれ、焼け死んだという。
(東京でも、隅田川に逃れようとした人たちが沢山焼け死んでいる)

私は、空襲から逃れるとき二度も助けられたのです。九死に一生を二度も味わ
った。この幸運を感謝せずにはいられない。人の運・不運は紙一重、結果が良
かったからいいものの、十中八・九は助からなかったと思うのです。

当時の光景を思い出すと、震えが出るくらい怖い。あの空襲の夜の光景が、
脳裏に焼きついて離れない。大勢の人たちの無残な死、炎の渦に包まれた町並
み。あの地獄絵が、夜中に何度よみがえり、うなされたことだろう。
そのたびに涙がこみ上げてくる。

福井市が空襲されたのは7月20日。富山は8月2日である。そのわずか二・
三週間後に終戦を迎えるのです。あとわずかで戦争が終わるというのに…。

このような惨事「二度と繰り返してはならない」。空襲による市民の犠牲者は
3千人を超え、8千人の負傷者が出た。今も詳細は分からないまま。
罪もない人たちが、いわれなき死を強いられた。そういった人達の、死にたく
ないという心の叫び、恐怖、苦しみ、無念さを、無駄にすることなく、後世に伝
え残していかなければならない。

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