« 学校に行きたくない-2 | メイン | 進学率の高い学校がいい学校? »

植木等とクレージーキャッツ

■クレージーキャッツのヒット曲 「ウンジャラゲ」

♪サラリーマンは ウンジャラゲ   お役人は ハンジャラゲ
 国会議員は スイスイスイ    お百姓さんは モーリモリ
 お巡りさんは キンキラキン
 大学生は ギンギラギンのギンギラ  ギンのギンギラギンのギン

 みんなそろって ランラ ランラ ランラン
 ウンジャラゲのハンジャラゲ   スイスイスイのモーリモリ
 キンキラキンの ギンギラギン   ランラ ランラ ランで一週間♪


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 172】
「植木等とクレージーキャッツ」

「クレージーキャッツ」は、私が25歳の頃、1960年から70年代の初め(昭和三十年代後半)、 日本が高度成長の時代を迎えた頃に、大活躍したグループです。
「♪スーダラ節」 「♪ドント節」 「♪五万節」 「♪だまって俺について来い」
「♪ゴマスリ行進曲」 「♪ハイ、それまでよ」など、
当時、クレージーキャッツの曲が日本中に流れていて、よく歌われた。
その多くは、青島幸男が作詞している。

昭和の最もよき時代のシンボル、植木等。
俳優でコメディアン・歌手・ギタリストと、何をやっても天才肌…。
その植木等が、美空ひばり、ハナ肇、渥美清、いかりや長助など、昭和を演じた人たちの後を追って、天国に行ってしまった。
葬儀には、クレージーの一員だった谷啓、犬塚弘、桜井センリ、そして植木の付き人だつた、小松正夫が参列している。

4月8日日曜の「波乱万丈」は、植木等を忍ぶ特別追悼番組だった。
父親は住職。後を継ぐため、東京の仏教系大学へ進学。
ところが、趣味がこうじてジャズ演奏者に…。ずばぬけた歌唱力、学生時代陸上競技で鍛えた卓越した運動神経に、リズム感覚。 ジヤズギタリストとしての腕も並み外れていた。

植木等がお寺を継がずに、芸能界入りを決意した時、父親の許しを得ようと考え出した屁理屈…
「坊主は死んだ人間を供養する。芸能人は生きた人間を楽しませる。この俺は、生きた人間のために芸能界に入る」と…
父親は、理屈をこねる息子を激しく一喝した。
当時の映画やヒット曲から、植木等には「無責任男」のイメージが強烈に焼きついている。が、実際の植木等は、 自他共に認める真面目な性格…。
「スーダラ節」の楽譜を渡された時、「こんな曲は歌えない」と悩み、父親に相談した。
僧侶の父は、「人類が生きている限り、この"わかっちゃいるけどやめられない"という生活はなくならない。それを"真理"というんだ。 上出来だ!頑張ってこい」と諭されて、歌う決心がついたという。

「歌えば歌うほど腹が立ってくる」と言いながら、「♪スイスイスーダララッタ、スラスラスイスイスイ…」。 平泳ぎのように手をかき、がに股で陽気に歌う植木等。
当時の人気番組「シャボン玉ホリデー」。
或る時植木は出番を先走り、違うコントに出てしまった。で、「あ、お呼びでない?こりゃまた失礼いたしました!」と言って引っ込んだ… これがウケた。
その後、カンカン帽にステテコ、ちょび髭、腹巻に下駄という姿が定着した。

「タイムスリップグリコ」より

映画「無責任シリーズ」。
当時流行語にもなった"猛烈社員"さながら、がむしゃらに働いていた私。
組織に縛られず、自由な男を演じる植木等とクレージーキャッツの面々を見て、日頃のストレスを発散するには十分…。 なんとも楽しい映画だった。

植木等は18年11月、我が故郷金沢で、東宝映画「舞妓Haaaan!!」のワンシーンにゲスト出演したのが、 最後の役者仕事となった。
日本がどんどん元気になり、豊かになっていった時代に、老若男女を問わず、すべての国民を虜にした、植木等とクレージーキャッツの面々。
私の中からまた一つ、懐かしい昭和が消えていった…。

 

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)