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野村克也の野球人生(4)

■野村語録
 
王や長嶋がヒマワリなら、俺はひっそりと日本海に咲く月見草
1975年、600号ホームランを達成した時の談話。
600号は、前年王貞治が達成していて、パ・リーグ南海の野村が世間から
騒がれることは少なかった。この言葉は、以後野村の代名詞になった。
 
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし
この言葉は、松浦静山の剣術書「剣談」から、野村監督が流用したものです。
 
戦いに勝つは易し、勝ちを守るは難し
1993年、セ・リーグ優勝を決めた直後の監督インタビューで…。
人生最大の敵、それは”鈍感”である… ヤクルト監督時代
 
先入観は罪、偏見は悪」「初めての勝ちは、 嘘の勝ち
西部との日本シリーズで
これが楽天野球です。安打多くして得点少なし
2008年4月オリックス戦の後
 
お前、クビになって悔しかったやろ…じゃあ見返してみろ…
  心が変われば、 人生変わるで!
他球団をクビになって、入団してくる選手に投げかけた言葉。
 
 
693 【心と体の健康情報】  
~幸せな人生を歩むために~
「野村克也の野球人生(4)」
 
2002年秋、野村は社会人野球シダックス監督に就任。
当時は弱小チームで、凡プレーの連続。野村は、持ち前の理論で、徹底的にチーム改革に臨んだ。 キューバ選手を補強し、就任数ヶ月で社会人野球全国制覇を達成…。 野村は、プロ、アマ両方で日本一という、史上初の監督になった。
 
その後、都市対抗野球で準優勝するなど、快進撃を続け、 またたく間に社会人を代表するチームを作り上げた。2003年の都市対抗では、 野村の采配を見ようと、社会人野球では異例の4万人のフアンが押しかけ、 東京ドームが満員止めになった。
2004年には、五輪金メダル・キューバとの練習試合で完勝。
それまで一度も勝てなかった日本…「シダックスこそ世界最強」と言わせた。
 
2005年秋、楽天の監督要請を受けて、 輝かしい成績を続けてきたシダックス監督を退任。5年ぶりにプロ野球界に復帰。故仰木・オリックス監督に次いで、二人目の70歳代監督が誕生1年後、仰木が持つ「最年長監督記録」を更た。
監督就任時、「このおじいちゃんに監督を要請すること自体、 プロ野球に後継育っていないことを意味している…」と、野村らしいコメントをしている。
 
野村の毒舌は相変わらずで、記者の質問に「マー君、神の子、不思議な子」 など、ジョークやユーモアを込めたコメントが、スポーツ紙等を通じて、フアを喜
監督就任の抱負として、「作る年、戦う年、勝つ年」と、 チーム作り3年計画を公にしたが、2006年、シーズン終了後のフアン感謝祭で、 来季の成績に自分の退を賭ける旨、決意を表明した。
2007年、新人・若手を積極的に起用…投手陣では、一場、岩隈、 田中を先発、ーテーションに、永井、小山をリリーフエースに起用…西部ライオンズを抜いて、 4位でシーズンを終えた。
契約最終年の2008年は、投手ではエース岩隈が21勝をあげ、 4番山崎の活躍などで、前半戦パリーグ単独首位になるなど、話題をさらったが、後半息切れ… 貯金使果たし、5位に終わった。
 
3年契約が終了して、去就が注目されたが、野村への球団評価が高く、 2009年、もう1年楽天の指揮を取ることになった。
が、開幕から投手陣や新人怪我人続出。野手では、昨年の選手会長高須と首位打者リック・ ショートが戦力離脱。
 
開幕から連勝を続けていたが、 交流戦で失速…シーズン前半は4位で通過…在プレーオフの権利、 3位の座を巡って西部と争ってる。
                                             NHK「死に場所はグランド」から

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