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野村克也の野球人生(3)

■現役時代
 
昭和30年代後半から60年代にかけて、セントラルリーグでは王・長島、
パシフィックリーグでは野村・張本が、 日本のプロ野球史上に、数々の伝説・記録を残し、 プロ野球を豊かに、楽しいものにしてくれた。
 
野村克也は現役時代、南海ホークス、ロッテオリオンズ、 西部ライオンズで活躍 愛称は「ノムさん」。妻はご存知沙知代さん。
通算の安打・本塁打・打点・塁打数は歴代2位…いずれもパ・リーグ記録で、 球史にそのを残した。
野村は、「俺は、王貞治さえいなければ、三冠王になれたのに…」 ぼやく。
捕手という負担の大きいポジションにありながら、 1980年45まで現役で活躍… 通算3,017試合出場は歴代1位。
 
この6月、監督通算3000試合も達成…選手と監督双方で三千試合達成は、 米大リーグにも無い。
                   フリー百科事典「ウィキペディア」より
 
691 【心と体の健康情報】 
~幸せな人生を歩むために~
「野村克也の野球人生(3)」
 
<阪神の監督を引き受ける>
ヤクルトで役目を終えて退いた野村に、休む間もなく、 阪神から監督要請が入った。当時阪神は、6年連続Bクラス…付いたあだ名は”だめ虎”。
野村は再びユニホームを着る決心をした…ところが、これが困難の始まりだった。
 
監督就任一年目(1999)最下位。二年目も最下位…だめ虎は変わらなかった… 野村野球を受け入れようとしなかった。
さすがの野村も困惑。 「もうこれ以上恥をかきたくない」と、弱音を吐くようになった。
 
三年目も最下位…野村は監督を辞任した。
その時野村は…「変えられるものと、 変えられないものがある…球団によって、合う合わないがある」 と言った…野村のID野球… 阪神の体質には合わなかったのです。 伝統・ 歴史のある球団、環境・ 社風を変えるのは、 並大抵でないことを知った
 
原因を突き詰めれば、原因は選手・球団にはなく、野村自身にあると反省した。 ヤクルトで大きな仕事を為し終え直後の”気の緩み” にあったと…「教え方に手抜があった」と野村省する。 「楽を求めたら、その後にあるのは苦しみだけ…」
 
任期途中で、自分では阪神再建は不可能と悟り、「今の阪神の再建を托せるのは、 西本さんか星野だ」と、後任に中日の監督だった星野を推薦している。
後任監督を受諾した星野は、オーナーに直談判した…
「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、 すべてあなたの責任ですよ!」と、 発言している。
 
野村辞任2年後の2003年と2005年に、阪神はリーグ優勝果たした。
その時躍した主力選手は、 野村が監督時代に積極的にスカウトし、育てた若手だった…赤星、 藤本、沖原、 濱中、上坂達だ。 矢野に捕手として大きな影響を与え、桧山をスランプから脱却させている。 また4番打者補強で、広島からFAで金本を獲得している。
2002年、野村が再出発の道として選んだのは、社会人野球、シダックスの監督。 フロ野球の監督が、社会人野球の監督を引き受けるのは、 過去に前例が無い。
引き受けた理由は簡単…野村には、 野球以外の人生など考えられなかったから…。
「私は野球を誰よりも好きで、愛してもいた。野球をやったり、考えたり、 話したりしている時が一番充実感があり、楽しかった」
                        野村克也著「無形の力」より

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