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死生観

■お 盆
 
お盆のことを「盂蘭盆(うらぼん)」といいます。
梵語の”ウランバナ”を音写したもので、日本語に訳すと、「倒懸(とうけん)」
(木に逆さに吊るされたような苦しみ)になります。
 
お盆の行事は、釈尊の弟子"目連尊者"の故事に由来します。
『神通力第一と呼ばれた目連尊者は、亡き母を案じて、母の姿を探し求め
ますが、母は餓鬼の世界に落ちて、苦しんでいました。
 
目連は悲しみ、何とかして母を助けたいと、食物を母のもとへ運びます。
ところが、母のもとに届く前に、すべて地獄の炎に変わってしまいます。
どうすることもできず、思い悩んだ目連は、釈尊のもとを尋ね、救いを請い
ます。
「安居(あんご)の最後の日に、三世の諸仏方に百味の飲食を供えなさい」
と教えられた目連…その功徳によって、母は餓鬼道から救われます 』
 
この故事から、お盆に先祖を追憶し、孝養を尽くし、供養する行事として、
今に伝えられているのです。
 
 
889 [心と体の健康情報] 
「死生観」
 
人は死を迎えた後、どうなるのだろう?
宗教の世界では、死後への問い「死生観」には、様々な答えを提示している。 核心に問えば、「死後の世界があるのか?ないのか?」、そして、それを 「信じるのかどうか」いうことになる。
 
「死後、肉体は失われるが、 その人の霊魂は目に見えない世界で存続し続ける」…仏教の教えである。
 
金沢には、お盆に墓参りする時、 紙を張った四角い箱に薄板の屋根を乗せた「きりこ」を墓前に吊るし、 ロウソクを灯す習慣がある。また、百万石りの賛行事として、浅野川で 「灯篭流し」が行われている
 
これらは、「迎え火」をたいて、他界から帰ってきた死者の魂を迎え入れる目印に、 行なわれる行事です…死者が住む他界は、 この世で焚かれる火が見えるくらい、近いあるということになる。
 
我が家は「浄土真宗」です。葬儀や四十九日の法要で、 お坊さんがお経をあげ後に、 参列者に「白骨の御文(おふみ)」が拝読される…蓮如が、 切々と門徒に聞かもので、
5帳80通の文章のあらましは、以下のような内容になる。
 
『人生ははかなく幻のようなもの…死はいつ襲ってくるかわからない。 自分の死は遠い先だろうなどと、 油断してはいけない。 顔や身体が若々しく、それが自慢のあなたでも、 いつ死を迎え、白骨の身となるやしれぬ。
極楽往生のための信心をして、阿弥のもとに行くのか、 地獄に堕ちるのか…その分かれ目が、 もうすぐそこまで来ているのです』
 
仏教だけでなく、キリスト教もイスラム教も、世界の様々な宗教で「来世信仰」 が根強く生きている。
信者の中には、「天国があるとは思っていない」人がいたり、 「極楽浄の有無は、 一人一人の心の中にある」とする人がいたり…様々です。
 
「死んだら何もない…灰になるだけ」とか、「死によってすべてが終わる」 と考える人が大多数です
信心する人は、「死んで神のみもとに行く」 とか、「永遠の平安、 仏の境地に行く」と、安らぎを宗教に求めて祈る
 
日本では「来世」を信じる人は少数派…2004年の世論調査では、「来世が存在する」 と答えた人は、16%にすぎない。
仏教の「輪廻転生」…日本人には、抵抗なく受け入れられる教えです。
                                     しまぞの・ すすむ「現代日本人の死生観」
 
死線をさまよって、今まさに三途の川を渡ろうとしていたら、呼び戻す声にハッと我に返り、 引き返して九死に一生を得た人に、「三途の川の向こうはどんなだった?」 と尋ねると、 「一面お花畑が続いていて、とても美しかった」「渡って行く向こうで、父や母が手招きしていた…」 と、誰もが似たような話をする。
 
私の従兄が内灘の海水浴場で溺れ、意識不明のまま病院に担ぎ込まれた。 目が覚めたのは病棟のベッドの上…その時家族に、同様の臨死体験を語っている。

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