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会津藩始末記

韓国や中国の日本への覇権的・挑発的行為

には いら立ちを覚えます。

日本は、今後どう対応すればよいのか・・
明治維新当時の歴史を振りかえると、
そこに学ぶべき、内政・外交のヒントが、
隠されている ような気がするのです。


1132 【吉村外喜雄のなんだかんだ 】

~歴史から学ぶ~ 「会津藩始末記」


NHK大河ドラマ「八重の桜」が終了した。

明治元年、会津藩が頼みにした仙台藩は、会津城落城以前に官軍に恭順してしまい、奥羽越列藩同盟は瓦解してしまった。


これに不満の仙台藩士や、奥羽の脱藩者、他藩の佐幕派を含む
反政府軍2500名は、榎本率いる旧幕府海軍の松島湾に集結。

数隻の軍船に分乗して、函館の五稜郭に立て籠もった。


翌明治2年2月、新政府は東京への遷都を決定・・江戸城が皇居になった。
5月には、函館五稜郭を攻め落とし、全国平定を果した。


軍事参謀を務めた土方歳三は戦死したが、首領格の榎本武揚は、
後に新政府に迎えられ、諸大臣を歴任した。

副首領の大島圭介は学習院長、駐清公使を務めた。

他にも旧幕臣の有能な人材が、新政府の重要な地位に、どしどし登用されている。

最後の将軍徳川慶喜は、罪を問われず、朝廷から従一位を贈られた。


明治維新といえば、薩長のクーデーターで幕藩体制を崩壊させ、天皇制国家を樹立した革命・政変だが、当時の明治政府が偉かったのは、
賊軍の罪を問うよりも、恩讐を超えた「和合政策を優先」したことです。
明治政府の真の功績は、心ひろく征服者と被征服者を同列に扱い、
平民にも名字を与えた「四民平等政策」にある。


会津藩士のその後は「八重の桜」で語られているが、ドラマの脇役を務めた会津藩家老・西郷頼母は、会津降伏後、函館五稜郭の合戦に加わって捕縛され、投獄されたが、釈放されて会津に戻った。

晩年、元会津藩主・容保が、日光東照宮の宮司になると、頼母はその下で禰宜(ねぎ)を務めている。                                                       
                             ジェームス三木「西郷頼母・会津藩始末記」より


フランス革命や、韓国李朝時代の政変に見られるように、世界の歴史で悲惨な流血を伴うことなく、無血革命を成し遂げたのは、たった一例、
徳川から明治政府への政権移行のみです。


会津藩に、時代が読めて、政治が分かる人がいたら・・官軍の参謀・
大村益次郎のような戦略家がいたら・・このような無残な結末にはなら
なかっただろう。

歴史を創るのは人であり、その歴史の逸材を育てるのもまた人てある。

再来年の平成27年の大河ドラマは、吉田松陰をめぐるドラマに決まった・・いまから楽しみである。

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