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文禄・慶長の役・西生浦倭城

■ 順天倭城

二度目の朝鮮出兵・慶長の役の1599年に
は、全羅南道順天の三方を海に囲まれた
天然の要害に、小西行長、浮田秀家などに
よって「順天倭城」が築かれた。

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城郭の規模・堅固さは「西生浦倭城」より
はるかに勝り、現在倭城遺跡として当時を
忍ぶことができる。

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1416 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「文禄・慶長の役・西生浦倭城」

今回の韓国訪問の目的の一つに、「文禄・慶長の役」に
ついて、韓国の人たちはどのように受け止め評価してい
るのか・・知ることがあった。

突然、朝鮮の軍隊が九州に攻め寄せ、住民を拉致して
城を築き、食料を強奪しながら、イナゴの大群のごとく
京から江戸へと攻め上ってきたとしたら・・

その道すがら、宝物や仏像、経典や医学書を持ち去り、
腕のいい職人を拉致し、朝鮮に連れ帰ったとしたら・・
数百年を経た今も、民族が受けた恥辱は忘れないだ
ろう。
文禄・慶長の役で秀吉軍が朝鮮に築いた城は、100を
越える。その内約20の城が現在遺跡となって残っている。

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今回訪れた「西生浦倭城(せいせいほわじょう)」は、
1953年加藤清正によって、釜山から北東へ車で
40分ほどの、海に面した小高い山の上に築かれた。

山城は入江に面して築かれ、城郭の広さは4万6千坪。
北側は川で、自然の擁壁になっている。周りを5~8
メートルの城壁で囲み、総延長は2.5キロになる。

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海は遠浅で、敵の軍船は近寄れず、山麓から城に攻め
上っても、城壁の外には二重、三重に堀が巡らされ、
三の丸、二の丸、山頂には本丸が配置され、天守も築か
れた。
城郭は安土桃山時代の面影を残す。日本にはこの時代の
実戦型遺跡は少なく、学問上価値の高い遺跡です。

現在は山頂と山腹に石垣を残すのみだが、三の丸門と
崩れた石垣などが復元修復中で、11月に完成するとい
う。
1594年、文禄の役の休戦和平交渉が、この西生浦
倭城で4回行われた。
明が提示した和平案に秀吉は激怒し、1597年の
慶長の役で、朝鮮に再度兵を進めたとき、西生浦倭城に
加藤清正軍が入り、ここから全羅道や忠清道に向けて
出撃した。
城は毛利軍、そして黒田長政へと受け継がれ、秀吉の
死去で撤収・放棄された後、1895年までの300年
間、朝鮮水軍の駐屯基地になった。

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