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壱岐・対馬と元寇の役

元寇

 

1424 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
歴史から学ぶ  「壱岐・対馬と元寇の役」

鎌倉時代、隣国と国境を接する壱岐・対馬の先祖が
元寇の襲来によって、島民が皆殺しにされるという、
過去にもそれ以降も日本人が体験したことのない、
悲しい歴史があるのです。

元が高麗に命じて造らせた、900隻の船と4万の兵が
対馬を攻略。対馬を全滅させた10日後に、こんどは
壱岐に上陸してきた。

朝鮮人と中国人の混成部隊・・その軍隊にわずか30名
の蒙古兵が指揮する軍隊が押し寄せてきたのです。
対する壱岐の守備兵は、わずか100名たらず・・

当時の戦い方は、「矢合わせをした後、互いに名乗り出
て一騎打ち」が一般的・・重いよろい、かぶとで長弓と
日本刀を持ち、一人敵陣に突っ込んでいく。

 文永の役 

元の兵士のいでたちは、短刀と刀、長槍を持ち、服装は
身軽なよろい・かぶと。集団で戦い、破裂すると大きな
音がする強烈な爆弾を武器にした。

日本軍の矢は100メートル、対する元軍の矢は倍の
200メートル飛び、矢先には毒が塗ってあった。

残虐な元の軍隊・・住民はすべて切り殺し、赤子は股裂
き、妊婦のお腹を切り裂き、胎児まで殺した。

女性は集められ乱暴された後、手に穴を開けて縄を通し
、舟原に数珠つなぎに吊るして、盾の代りにされた。
家は焼き払われ、穀物や家畜はすべて持ち去った。

壱岐を攻め落とした後、元の軍隊は博多を目指した・・
文永の役である。

その7年後の1281年(弘安4年・弘安の役という)
再び蒙古軍が来襲・・トタンの苦しみを味わう。
兵力14万人、4400隻・・ノルマンディ上陸作戦の
ようだ。 
         041 

壱岐・対馬には、当時住民が隠れ潜んだ穴や、戦いで
亡くなった人の冥福を祈る「千人塚」が、あちこち残っ
ている。

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