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わずか数家族の過疎の町に・・

1713 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
「わずか数家族の過疎の町に・・」

昭和16年、旧石浦町(現在香林坊2丁目)の商店
街に生まれた私・・
昭和30年当時、私が中学生の頃の香林坊は、
商店や飲食店、映画館などが軒を連ね、約140
世帯の住民が住む町内は 活気にあふれていた。

私と兄弟が通った小学校は、武家屋敷の一郭にあっ
た長町小学校。放課後運動場は、大勢の子どもたち
が暗くなるまで遊んでい た。

子どもの頃、石浦神社の春と秋のお祭り、6月の
百万石
祭りには、子どもたちが、町内の軒先に
しめ縄を張って歩いた。
市のお祭りには市内の各町会から「子供太鼓行列」
が繰り出し、太鼓を叩き、提灯を掲げ、青年部と
婦人部が付き添って、市内を練り歩いた。

昭和38年、国道の拡張に伴う商店街の再開発で、
私の家は前半分が道路に取られ、4階建のビルに
生まれ変わった。
その時の再開発で、町内約4
分の1の世帯が郊外に
引っ越していった。
昭和40年頃から、市の郊外に大規模住宅団地が
出来始め、市の中心部の人口が減少して、櫛の歯が
抜けたようになった・・ドーナツ現象である。

昭和50年頃から、香林坊に都市銀行や生保の会社
が次々進出し、町会から住人が消えていった。

昭和61年には、大和デパート本店が香林坊に移転
してきた。 真向いに東急109と、東急ホテルが建った。
香林坊の住人は、土地と店を売り渡し、郊外に
引っ越 していった。住人のいない町になった。

最後まで残ったのは私の家と、お隣の傘屋さんの
Tさん、曾祖父が明治に、石川県で最初に自転車店
を開業したIさん、そしてお多福香林坊店の3階に
一人住むお爺ちゃんの、3家族と1人のみの過疎の
町になった。
市中心部の過疎化が進み、90年の歴史ある長町
小学校は、
近隣の小学校3校まとめて廃校になり、
新設の 「中央
小学校」に統合された。

町会が消滅した後、取り残された私の家族は、
2人の子供の将来を考え、郊外に移転することにし
た。その後Tさん、Iさん家族も郊外に移転して
いった。
旧石浦町と四校記念公園に面した旧仙石町、2町
合わせて155世帯の故郷が消滅してしまったのです。

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