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生きることすべてが修行

1715 【吉村外喜雄のなんだかんだ】
幸せな人生 「生きることすべてが修行」

以下、正眼寺住職・正眼僧堂師家・山川宗玄師の
若き修行僧時代の体験講和から・・

禅僧は、悟りを得るために厳しい修行を続ける。
それぞれ煩悩に囚われた生き方”小我(自我)”の
自分から、自分の本来の姿、大いなる存在”大我”
に目覚めようと修行する。

中国の「易経」に『窮すれば通ず』という言葉が
ある。
窮して窮して窮し尽くした・・その時どうするか?
行きつくところまで行って、どうにもならなくなっ
て、それでもあきらめない!

すると、何かがフィッと変化する。
思いもかけない活路が開けてくるのです。
禅宗における修行とは、まさにそれです。
論理を超えた世界なのです。

40年前腰を痛め、簡単には治らない状態の中、
修行も限界がきて、これ以上は身体か持たない・・
腰を病み、足がしびれるのをこらえながら、作務や
托鉢を続けてい た。

夜坐が終わるのは夜中の1時半、起床は3時半。
床に入る時間はわずか2時間・・これを毎日やる。
座禅3時間、托鉢に行く。毎日やればいかに若い僧
でも身体がおかしくなってくる。

そんな日々が続き、傷が化膿しても治らなくなっ
た。このままでは身が持たない。
死んでしまえば、修行も何もあったものではないな
い。そこで「何とかしなければ」とあれこれ考えた。
限界まで座禅や作務をして、意識不明になって倒れ
るのはどうか?
救急車で病院に運ばれ、入院することになるだろう。
そうすれば、医師の診断書で堂々と体を休めること
が出来る・・これが、考えた末の結論でした。

翌日から実行に移した。
座禅や作務を、誰よりも熱心にギリギリまで頑張っ
た。托鉢は、与えられた区域に、更に隣の町まで
行った。
こんな苦行を続けたら、早くて3日後、遅くとも
1週間後には倒れて、病院に運びこまれるだろう。

ところが、1週間経っても倒れなかった。
そこで又考えた・・「ガンバリが足りない」と!
作務も托鉢も今以上に頑張り、睡眠時間も短くした。
 
                                                                             次号に続く

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