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「ウイルスの脅威に立ち向かう(3)」

日本でコレラが最初に流行したのは1822年
(文政5)。西日本で猛威を ふるった。

1858年(安政5)には日本全国で流行し、
江戸で10万人、延べ26万人が死亡した。
死亡率は58%、長崎と横浜は80%と、
「コロリ」のあだ名で恐れられた。



1806 「吉村外喜雄のなんだかんだ」
「ウイルスの脅威に立ち向かう(3)」

世界の各地に新型コロナウイルスの感染が広がる中、
日本がクルーズ船を洋上に留め置いたように、外国からの
侵入を水際で防ぐための「検疫」が大変重要になってくる。

日本で検疫が始まったのは、明治(1868~)になって
直ぐの1879年。過去に、日本にコレラが蔓延した苦い
経験から、明治政府は横須賀や長崎などに検疫所を設け
た。
欧州では14世紀、すでに検疫が行われていた。
鎖国が続いた日本は大きく出遅れたが、ほどなくして
世界から大きく注目を集めることになった。

日清戦争(1894~95)の帰還兵23万人の大規模検疫
を、わずか3カ月でやってのけたのです。
指揮したのは、当時内務省衛生局の官僚だった後藤新平。
後藤が断行した検疫は、壮大で周到だった。

日清戦争当時、中国でコレラが流行していた。
後藤は、兵士らの帰還が決まると、急いで大阪、広島、
山口の瀬戸内の島に、臨時の検疫所を作った。

船で次々帰ってくる兵士の健康状態をチェックした。
コレラ感染の疑いがなければ入浴させ、すべての持ち物を
薬品や蒸気で消毒したうえで上陸させた。

一方、感染の疑いのある兵士は病院に隔離し、近くにいた
兵士も隔離した。帰還兵は日清戦争に勝利した凱旋兵で
す。そんな兵隊たちを1か所に留めて消毒・隔離したことは、
反発が大きかっただろう。

後藤は感染拡大を防ぐため、検疫がいかに大切かを説く
文章を25万枚印刷し、一人ひとり理解を求めて歩いた。

この徹底した検疫作業により、わずか3カ月で687隻、
帰還兵23万人の検疫が実行された。
この間、疑いのある兵4万人を船と島に留め置き、
約700人の感染者を病院に隔離した。

樹立間もない明治政府・・国家財政に余裕はない。
そんな中、23万人の帰還兵の検疫に用した国費は、
莫大な金額だっただろう。

国内の反発を押し切って...、短期間に膨大な人数の検疫を
やり遂げた後藤の手腕は、先進国の欧州にも伝わり、
ドイツ皇帝も感服したという。

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