■星野哲郎の代表作
   ・アンコ椿は恋の花   ・いつでも君は      
   ・いっぽんどっこの唄   ・異母姉妹       
   ・男はつらいよ   ・加賀の女   ・山
   ・黄色いさくらんぼ   ・北の台地      
   ・兄弟仁義     ・風雪ながれ旅   
   ・三百六十五歩のマーチ   
   
   ・なみだ船   ・函館の女   ・兄弟船       
   ・船酒場   ・みだれ髪     ・夫婦坂      
   ・昔の名前で出ています     ・雪椿
     
         
1938 「吉村外喜雄のなんだかんだ」            
幸せな人生             
「七転び八起/詩人・星野哲郎の人生(3)」            
          
詩人となり、身を立てる決意をした星野。         
昭和32年横浜開港100周年で、新聞社が募集した         
”横浜の唄”に応募して1位を獲得・・美空ひばりの         
「浜っ子マドロス」でレコード化。         
        
この時審査員を務めた作曲家・船村徹の強い勧めで上京。         
プロを目指すことになった。         
当時星野には有近朱實という恋人がいた。         
        
島に帰って療養していた星野をいつも励まし、作詞を始め         
てからはその才能を真っ先に認め、応援してくれた幼馴染         
の大切な女性。昭和33年、周囲の反対を押し切って結婚。         
        
”夫唱婦随”とよく言うが、僕らの場合は、朱實が「こうしま         
しょう」と提案し、僕がそれに同意する”婦唱夫随”のほう         
が、何事もうまく運んだ・・僕らは貧しかったが幸せだった。         
        
上京したものの、星野の詩はほとんど採用されなかった。         
妻の時計や着物は質屋に入れられ、生活費に消えた。         
そんなどん底生活夫婦に、やっと報われる時が来た。         
        
昭和33年、御大・古賀政男作曲、島倉千代子の「思い出         
さん今日わ」・・この曲で星野はようやく作詞家として認め         
られ、日本コロンビアと専属契約を結んだ。         
        
そして浜口庫之助と出会い、昭和34年スリー・キャッツの         
「黄色いさくらんぼ」をヒットさせた。         
ここから星野は、水を得た魚のようにヒット曲を重ねて         
いき、作詞家人生を歩むことになるのです。
