« 啓発録・交友を択ぶ(2) | メイン | 青息吐息 »

四代将軍・徳川家綱

■いま出世する者、しない者

大久保彦左衛門(1560~1639)が著した「三河物語」の中に、「いま出世する者としない者」という記述がある。

[いま出世する者]
・主君を裏切り、主君に弓を引く者  ・ 口先だけうまい者  ・算盤勘定のうまい者
・ひきょうな振る舞いをして、人から笑われる者  ・前歴がよくわからない者

※今でいえば、社長の片腕でありながら、自らの野心のために、密かに部下の
  引き抜き、お得意様の横取りを企むなどして、独立の期をうかがう幹部社員。

[いま出世しない者]
・絶対に主人を裏切らない者  ・ 合戦一途に生きる者  ・算盤勘定の下手な者
・お世辞が言えず、世渡りが下手な者  ・最後まで主人に仕え続ける者

※今でいえば、現場一筋、身を粉にして会社に仕え、現在の地位・境遇に甘んじて、
  生涯宮仕えしようと心に決める、実直な社員。

当時幕府は、武断政治から文治政治へと移行しつつあり、武家も、武功派より文治派が重用されるようになった。


【吉村外喜雄のなんだかんだ - 641】
~歴史から学ぶ~ 「四代将軍・徳川家綱」

家康から265年、15代続いた徳川幕府…家光や吉宗は、よく知られる将軍です。
が、その他の将軍についてはよく分からない?
そこで、歴代将軍にまつわるエピソードを取り上げて、その時代を見ていきます。

今回は、「四代将軍・家綱」です。
徳川家綱…三代将軍家光の嫡男。家光が48歳で死去(1651)したため、11歳で四代目将軍の座に…幼少で将軍家を継承したため、 政情不安になり、由比正雪の倒幕事件が起きた。

叔父の保科正之や、家光時代からの大老・酒井忠勝、老中の松平信綱など、優臣の補佐により危機を乗り越え、 以後29年の間安定政権をみた。
家綱は、関が原以降武力に頼った武断政治から、文治政治へと政策の切り替えを行った。
温厚な人柄の家綱は、絵画や魚釣りを趣味とし、政務を重臣たちに任せ、「左様せい」の一言で決済を済ませていたことから、「左様せい様」 という異名を付けられた。

エピソード(1)
将軍就任間もない少年の頃、天守閣に登った。
その際、近習の者が遠眼鏡をすすめたが、家綱はそれを受け取ろうとしなかった。
「自分は少年ながら将軍である。もし将軍が天守閣から、遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、恐らく世人は、 嫌な思いをするに違いない」と…。

エピソード(2)
ある時、島流しになり、流人となった者の話を聞き、「彼らは一体何を食べているのか?」と側近に尋ねたが、誰も答えられなかった。
家綱は「死罪を免れ、流刑に処せられたのに、なぜ食糧を与えないのか?」といぶかった。それを聞いた父・家光は喜んで、「これを竹千代 (家綱)の仕置きはじめにせよ」と家臣に命じ、それ以降、流人に食糧を与えるようになった。

エピソード(3)
家綱、食事中に汁物をすすろうとしたところ、髪の毛が入っていた。
家綱、何事もなかったように髪の毛をつまみ、取り除いた。
慌てた小姓、替えの汁物を用意しようとした。
家綱「その汁は途中で捨て、椀を空にして下げるように」と、小姓に命じた。
お椀を空にして下げれば、普段のお代わりと同じ扱いになる…咎められる者が出ない。
家綱の優しい心配りがうかがえる逸話です。

フリー百科事典「ウィキペディア」

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.noevir-hk.co.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1046

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

ひとつ前の投稿は「啓発録・交友を択ぶ(2)」です。

次の投稿は「青息吐息」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.36