■鍛えれば強靭になる
    
    
      禅僧・関大徹は子供の頃から近視で、メガネを離せなかった。
    
    
      それが30歳の頃、正眼寺の修行中に、
      否応なしにメガネを外さ
    
    
      れた。
    
    
      かなり残酷な仕打ちである。視界はすべて茫漠とし、
      濃霧の中を
    
    
      歩いているようであり、おぼつかない足許で、
      儀執に厳しい禅堂
    
    
      の生活や作務はこたえた。
    
    
      ところが、そのうちに慣れてきた…霧中の行動に慣れ、人並みに
    
    
      不自由を感じなくなった頃、不思議なことが起こった。
    
    
      徐々にではあったが、霧が晴れてきたのである。ものが見え出し、
    
    
      知らぬ間に近視は治っていたのです。
      
    
    
      体は、鍛えようによって、見えなかったものが、見えるように
    
    
      なったり、歩けなかった人が、
      歩けるようになったりします。
    
    
      反対に身体や脳は、使わなければ、どんどん退化していきます…。
    
    
  794 【心と体の健康情報】
  ~禅僧・関 大徹~ 「入門の儀式・庭詰(2)」
  人生の書、禅僧・関 大徹の「食えなんだら食うな」…前号の続きです。
  日が暮れた。客行が現れ、今夜は宿を許すから、
  明朝早々に立ち去るようにと告げられて”
  旦過寮”に案内され、麦八部の粥をいただいた。その後座禅に入った。
  九時になり、就寝の梵鐘が鳴った。大徹はいつしか気を失って、
  横ざまに倒れていた…失神に近かった。
  
  その頭の上から、物凄い罵声が降ってきた…客行であった…
  
  「この無道心者め!」
  あとは、聞くに耐えない悪罵である。命がけの修行に来ていながら、
  寝てしまうとは何事か…
  ここで弁解すれば、客行と言葉の応酬をしなければならない。
  平ったく言えば、売り言葉に買い言葉である。
  客行は「一刻も置くことはならぬ…即出て行け!」
  と言った。
  言葉で応対するなら…ひたすら許しを乞うか、開き直るか…どちらかであろう。
  「ああ、出て行きますとも」と言うのはたやすい。実際、
  いくら詫びても許しを得られなかったら…そう言うしかないだろう。
  大徹は、返事のかわりにひたすら平身低頭して、沈黙を守った。この沈黙、不貞腐れているのではない…自分を守るためでもない。
  いわば、相手の判断に一切をおまかせしているのである。
  もし客行が、私の襟首をつかんでひきづり出そうとすれば、
   大徹は従うほかなかったであろう。
  しかし、客行はそうしなかった…しなかったことが「許す」
  という意思表示だったのであろう。
  
  朝になった…四時…広い本堂に案内されて、七十人の僧の後に坐って、
  朝のおつとめをした。宗派が違うため、 誦経はまるでわからない。
  朝食が済むと、昨日と同じ日課が待っている。玄関の式台に斜めに低頭して、
  入門の許しを乞うのである。
  それも、いきなり玄関に坐るのではなく、いったん山門を出てから引き返し、案内を乞い、毒づかれるという手順まで、前日と同じことをやるのである。
  この入門の儀式を「庭詰(にわづめ)」という…最も見込みのよいもので二日…
  しからざる者は、限りなし…と言われる。
  大徹は、失敗を重ねながらも、二日間で庭詰を終えたのだから、誠心誠意を認められたのであろう。
  大徹は、和尚さんに感謝すべきである。何も教えられなかったから、
  よかったのである。
  あれこれ教えられて、近道をしても、
  結果は大いに遠回りをしなければならなかったであろう。
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  ゴルフのプレー中に失敗をすると、言わなくてもいい”言い訳”が口をついて出てくる…
  自分の正当性を相手に分かって貰おうとするのでしょうか…
  照れくささを隠すためでしょうか…つい、 ああだから、こうだからと、 言い訳をしている自分がいる。
  「言い訳」は、自分の弱さを相手に教えているようなもの。
  
  「弱い犬ほどよく吠える」
  と言うが、「言い訳」をするのは恥ずかしいことです…慎まなければならない。
                           